「い、え、さうばかりでも : と、幸子が云った。 : 子供の時分にお琴を習はせられましたので、又此の頃浚ってみたくなってをりますの。それと云 ふのが、近頃下の妹が山村の舞を稽古し始めましたので、お琴や地唄に親しむ機會が多いものでございま すから」 「まあ、こいさんが舞をなさいますの」 御承知の 「はあ、ハイカラなやうでもだん / \ 子供の時の趣味が復活して來るものと見えまして。 ゃうにあの妹は器用なたちだものですから、なか / \ 上手に舞ふのですの、小さい時分に習ったことがあ るせゐかも知れませんけれど」 わたくし 「私、專門のことはよく分りませんが、山村の舞と云ふものは、あれは實に結構なものですな。何でも彼 んでも東京の眞似をしますのはよくないことでございますよ、あ、云ふ鄕土藝術は大いに盛にしなければ、 「あ、さう / \ 、かう見えてもうちの常務さん ちゃあない五十嵐さんですか、 と、房次郎が頭を掻きながら、 上「五十嵐さんは歌澤がお上手なんですよ、もう何年來稽古をしてをられましてね」 「ですが、あ、云ふものをお習ひになると、 細 と、貞之助が云った。
「あの時隣に腰掛けてたら、中姉ちゃんが息するとその袋帶がお腹のところでキュウ、キュウ、云うて鳴 るねんが」 「そやったか知らん」 たび 「それが、徴かな音やねんけど、キュウ、キュウ、云うて、息する度に耳について難儀したことがあるね んわ、そんで、その帶、音樂會にはあかん思うたわ」 「そんなら、どれにせう。 さう云ふと又簟笥の開きをあけて、幾つかの疊紙を引き出してはそこら邊へ一杯に並べて解き始めたが、 「これにしなさい」 と、妙子が觀世水の模樣のを選び出した。 「それ、似合ふやろか」 「此れでえ、、此れでえ、。 もう此れにしとき」 雪子と妙子とは先に着附を終ってゐて、幸子だけが後れてゐるので、妙子は子供を賺すやうに云ひながら、 又その帶を持って姉のうしろへ廻ったが、漸く着附が出來たところで、幸子はもう一度鏡の前に坐ったか と思ふと、 上「あかん」 と、頓狂な聲を出した。 細 此の帶もあかん」 さち へん
「姉ちゃん等、不都合な妹やったら追ひ出してしまうたら事が濟むと、簡單に考へてるのんやろか」 「しかしどうせう。とてもこいさん東京へ行く気イないやらう思ふけど」 「そんなこと、聞いて見る迄もあれへん」 「そんなら、どうせう」 「もうちょっと放って置いたら、 「今度はそんな譯に行けへん、貞之助兄さんも本家に賛成らしいよってに」 幸子は、兎に角云うて見るよって雪子ちゃんも立ち會うて、と云って、その明くる朝二階の妙子の居間を 締め切って、三人の姉妹だけで話した。 「なあ、こいさん、長い間でなうても、暫く東京へ行ってくれへん ? 」 さう云はれると妙子は、子供のやうに首を振って「いや / \ 」をした。 「うち、本家と一緖に暮すぐらゐなら死んだ方が優しや」 「そんなら、どない云うとかう」 「どないなと、云うといて欲しい」 「さうかて、今度は貞之助兄さん迄本家に附いてはるよって、有耶無耶にしとく譯に行かんねんわ」 「そんなら、當分獨りでア。ハ 1 ト住まひでもするわ」 「こいさん、啓坊の所へは行けへんの ? 」 「交際はするけど、一赭に住むのんは御免やわ」 とこ 636
流れつゞけてゐた。 「姉ちゃん、泣いてはったわな」 と、道玄坂を過ぎた時分に、雪子が云った。 「何でやらう、不思議やわ、井谷さんのことで泣くなんて」 「何か、外のことやわきっと。井谷さんの話は照れ隱しやわ」 「芝居に誘うて欲しかったんと違ふか知らん」 「さうや、芝居が見たかったんやわ」 幸子は姉が、芝居が見られないで泣くなど、云ふ子供らしさを内心耻かしく思びながら、最初のうちは一 生懸命に怺へてゐて、しまひに怺へきれなくなって泣いたのであると云ふことが、今になるとはっきり分 って來たのであった。 「姉ちゃん、あたしに歸るやうに云うてはれへなんだ ? 」 「え、鹽梅に、その話は出えへなんだ。芝居のことで胸が一杯やったらしいわ」 「さ、つか」 と、雪子は心からほっとしたやうに云った。 下歌舞伎座ではお互の席が離れてゐるために懇親を深める機會はなかったが、それでも食堂では一緖であっ たし、五分か十分の幕間にも、どうです、廊下へお出になりませんかと、御牧がわざ / 、 \ 連れ出しに來る 細 と云ふ風であった。そして、ハイカラなことにかけては趣味の廣い彼であるが、歌舞伎の知識は皆無です、 827
ん」の影を見送りながら云った。 「あのお婆ちゃん、又カタリナと會へる時節があるやろか」 と、幸子が云った。 ; なんぼしつかりしてるみたいでも、歳やさかいにな」 「そんでも、涙一つこぼさはれへなんだわ」 と、雪子が云った。 「ほんに、あたし等の方が泣いてるのんで、却って極まり惡かったわ」 「今にも戦爭が始まりさうな歐羅巴へ獨りで出かけて行く娘もえらいが、出してやるお婆ちゃんもえらい もんやな。尤もあの人等は、革命で散々苦勞しぬいてるよって、案外平気かも知れんけど」 「露西亞で生れて、上海で育って、日本へ流れて來た思うたら、今度は獨逸から英吉利へ渡るねんな」 「英吉利嫌ひのお婆ちゃん、又御機嫌が惡かったやらうな」 「『わたし、カタリナ、いつも / \ 宣嘩します。カタリナ行ってしまひます、わたし悲しごぜえませんで ごぜえます。わたし、ウレシごぜえます』云うてはったわ」 久しく出なかった妙子の「お婆ちゃん」の眞似が出たので、今しがた聞いた本物と思ひ合せて皆が街上で 腹を抱へた。 480
と、幸子は云って、 、、に、晩は何ぞ奢りなさい」 「あんた、今日は雪子ちゃんも來たことやし、こいさん何遍も舞はしたさカ 「僕が御祝儀出すのんか」 「さうやわ、それぐらゐな義務ありまっせ。今夜はそのつもりで何も支度してあれしません」 「うち、何でも御馳走になりまっせ」 「何がえ、、こいさん。與兵か、オリエンタルのグリルゝ きあん 「うちは孰方でもえ、わ、雪姉ちゃんに聞いて見て、 「長いこと東京に行てたよってに、鯛の新しいのんが食べたいやらうで」 「そんなら、雪子ちゃんのために白葡萄酒を一本提げて、與兵へ行くか」 と、貞之助が云った。 「さあ、御祝儀が出るのんやったら、一生懸命舞はんならん。 懷爐を持ってお春が戻って來たのを見ると、妙子は口紅の痕の着いた吸ひかけを灰皿の綠に置いて、小褄 を取った。 二十八 貞之助は、今月は或る會社の整理の仕事が忙しく、二十一日には行けさうもないと云ってゐたが、嘗日の 朝事務所から電話で、こいさんの「雪」だけでも見たいと思ふから、「雪」が始まる少し前に知らせてく 466
ら、いっそ各方面との摩擦を覺悟の上で、一日も早く結婚してしまはう、と云ふ方へ、だん / \ 考が傾い て來てゐる、たゞ目下のところ、妙子にも板倉にも、まだ經濟上の準備が十分出來てゐないのと、それか ら、彼等自身はどんな社會的制裁でも受けるが、雪子が飛ばっちりを浴びてます / \ 綠遠くなっては氣の 毒であるから、どうしても雪子の綠づく迄待たなければならないのと、それだけの理由で躊躇してゐる、 と云ふのが實状なのであった。 「そしたら、 : こいさん板倉とそんな口約東したゞけで、それ以上何もないのんやろか ? 」 「ふん。 「きっとさうに違ひないのん ? 」 「ふん。 : それ以上のこと、何もあれへん」 「それやったら、その約東實行する云ふこと、もう一遍よう考へてみてくれへん ? 」 「なあ、こいさん、 : こいさんにそんなことされたら、本家にも世間にも、あたしが顏向け出來んや うになるよってに。 幸子は俄然眼の前に陷穽が開いたやうな莱がした。今では却って妙子は度胸を据ゑてしまひ、幸子の方が すっかり興奮させられて、上ずった聲を出してゐた。 おとしあな 450
た。で、幸子と妙子とは會が終ってから、有馬方面 ~ ( イキングに出かけた貞之助と落ち合って、神戸で 晩飯をたべる約束になってゐたのであるが、雪子はその方だけを棄權して先に歸ることにしたのであった。 七 「ちょっと、中姉ちゃんまだやろか。 二人はさっきから門のところに待ってゐるのに、幸子がなか / ( \ 出て來さうもないので、 もう一一時になるがな」 と、妙子は運轉手が扉を開けて立ってゐる方へ寄って行った。 「えらい長い電話やなあ」 「まだよう切らんのんかいな」 「切らう思うても切らしてくれはれへんのんで、氣が莱ゃないねん」 雪子は又しても他人事のやうに可笑しがりながら、 「悅ちゃん、お母ちゃんに云うといで。 電話え、加減にして早よいらっしゃいて」 「乘ってよか、雪姉ちゃん」 と、妙子は扉に手をかけながら云ったが、さう云ふ禮儀は正しく守ることにしてゐる雪子力 「待ってよう」 と云ったきり應じないので、自分も仕方なく車の前に止った。そして悅子が奥へ駈け込んで行ったのを見 なかあん きあん ヾゝ、
うてくれへんねん」 「そんなら、井谷さんにどない云ふのん」 「どない云はう。 何とかちゃんとした理由云はなんだら、何處までも追究されるにきまったあるし、 : 今度のことはどうなるにしても、あの人怒らしてしもて、此の先世話して貰へんやうになったら難 : なあ、こいさん、今日明日でなうても、四五日うちに行ってくれるやうに、 儀やし、 一遍こいさん からも云うてみてえな」 きあん 「云うてみることはみるけれど、雪姉ちゃんそない云ひ出したら、あかんやろ思ふわ」 「いや、さうやないて。 今度のんはあんまり急なこと云はれたのんが氣に入らんのんで、お腹の中 あんちょ は滿更いや、ないらしいねん。味善う云うたら承知するやろと、あたしは見てる」 襖が開いて、雪子が廊下から這入って來たので、ひょっと聞かれたかも知れないと思ひながら、幸子はそ れきり口を噤んオ 「中姉ちゃん、その帶締めて行くのん」 と、姉のうしろで妙子が帶を結んでやってゐるのを見ると、雪子は云った。 「その帶、 あれ、いつやったか、此の前ピアノの會の時にも締めて行ったやろ」 「ふん、締めて行った」 なかあん 、よ ) 0
と云って、貞之助はちょっと眉を曇らしたが、でも直ぐ睛れやかな顏をして、 「行ってもえ、けど、 傳染病やよってに、 : お醫者さんの許可がある迄はいかん」 貞之助が、悅子の前でこんなエ合に妙子の噂を持ち出したり、悅子が妙子に會ふことを必ずしも禁じない かの如きロぶりを見せると云ふのは、今日は特別に機嫌が良いせゐなのでもあらうが、それにしても全く 豫想の外のことで、何かしら妙子の扱ひ方について考へ直すところがあったのではないかと、幸子たちに は思へた。 「お醫者さんと云へば、櫛田先生が診てくれてはるのやてな」 と、貞之助は又雪子に聞いた。 「はあ、 : けど此の頃は、もう大丈夫や云やはって、さつばり來てくれはれしません。何せ忙しいお 醫者さんですよってに、少し病人がようなった思うたら、いつもあれですねんわ」 「雪子ちゃんも、う行かんかてえ、のんやらう」 「はあ、もう構めしません」 と、幸子が云った。 『水戸ちゃん』が附いて、くれますし、お春どんが毎日手傳ひに行ってますよってに。 「菊五郎いつにする、お父ちゃん」 と、悅子が云った。 「いつでもえ、、姉ちゃんが歸って來やはるのん待ってたんや」 758