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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第15巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第15巻

あるが、その傾向が近頃妙なエ合に變貌して、不作法な柄の惡い言語動作をちらっかせるやうになった。 人に肌を見せることは可なり平莱で、女中達のゐる所でも、帶ひろ裸の浴衣がけで扇風機にか、ったり、 湯から上って長屋のおかみさんのやうな恰好でゐたりすることは珍しくない。すわるのにも横っ倒しにす わったり、ひどい時は胡坐を掻くやうな形をして前をはだけさせたりする。長幼の順序を守らないで、姉 達より先に物を食べたり、出這人りをしたり、上座に就いたりすることは始終なので、來客のある時、外 出した時など、 幸子はハラ / \ させられることが多かった。今年の四月、南禪寺の瓢亭へ行った時にも、 一番先に座敷へ通って雪子より上にすわってしまひ、お膳が出ると誰よりも先に箸をつけたので、後で幸 子は、こいさんと一緖にお料理屋へ行くのは御免やと、雪子に囁いたことがあったが、夏に北野劇場へ行 った時にも、食堂で、雪子がお茶を入れて皆の前へ配ってゐるのに、妙子は見ながら手傳はうとせず、默 ってそのお茶を飮んでゐた。そんな風な行儀の惡さは、前から幾らかあったけれども、最近に至って特に 甚しく眼につくやうになった。此の間の晩も、幸子が何気なしに臺所の前の廊下を通ると、そこの障子が 半開きになってをり、風呂の焚き口から風呂場へ通じる潜り戸が又五六寸開いてゐて、湯に漬かってゐる 妙子の肩から上の姿が、隙間からちら / \ 見えるので、 「ちょっとお春どん、風呂場の彼處締めなさい」 と命じたが、 お春がそこを締めに行くと、 「いかん / \ 、締めたらいかん」 ゅぶね と、妙子が湯槽の中から怒鳴った。 さち 436

2. 谷崎潤一郎全集 第15巻

ふのが、親爺は東京で修業したもの、、生れは神戸の人間なので、握り鮨ではあるけれども、彼の握るの は上方趣味の頗る顯著なものであった。たとへば酢は東京流の黄色いのを使はないで、白いのを使った。 醤油も、東京人は決して使はない關西の溜を使ひ、蝦、鳥賊、鮑等の鮨には食鹽を振りかけて食べるやう にす、めた。そして種は、つい眼の前の獺戸内海で獲れる魚なら何でも握った。彼の説だと、指にならな い魚はない、昔の與兵衞の主人などもさう云ふ意見だったと云ふので、その點で彼は東京の與兵衞の流れ ひらめ あかを 上目魚の綠側、赤 を汲んでゐるのであった。彼の握るものは、鱧、河豚、赤魚、つばす、牡蠣、生うに、ヒ 、、こ。、、鮪は虐侍して餘り用ひず、小鰭、 貝の膓、鯨の赤身、等々を始め、椎茸、松茸、筍、柿などに迄及んオカ はしら、青柳、玉子燒等は全く店頭に影を見せなかった。種は煮焼きしたものも盛に用ひたが、蝦と鮑は 必ず生きて動いてゐるものを眼の前で料理して握り、物に依っては山葵の代りに靑紫蘇や木の芽や山椒の 佃煮などを飯の間へ挾んで出した。 妙子は此の親爺とは可なり前からの馴染で、或ほ與兵の發見者の一人であったかも知れない。外で食事す ることの多い彼女は、神戸も元町から三宮界隈に至る腰掛のうまいもの屋の消息には實によく通じてゐて、 まだ此の店が今の所に移る前、取引所の筋向うの細い路次の、今よりもっと小さな所で商賣を始めた頃に 早くも此處を見付け出して、貞之助や幸子達にも紹介したのであった。彼女に云はせると、此處の親爺は さいづちあたま あれに感じが 中「新青年」の探偵小説の挿繪などにある、矮小な體軅に巨大な木槌頭をした畸形兒、 似てゐると云ふことで、貞之助達は前に彼女から屡 ~ その描寫を聞かされ、彼がお客を斷る時のぶつきら 細 ばうな物言ひ、庖丁を取る時の一種興奮したやうな表情、眼つきや手つき、等々を仕方話で委しく説明さ たまり 483

3. 谷崎潤一郎全集 第15巻

から、時間が懸るのは嘗り前で、六時七時になったとしても不思議はないやうなもの、、幸子には最善か 一番有りさうなこと ら最惡に至るあらゆる情景が想像される中で、や、ともすると惡い方の場面ばかりが のやうに考へられるのであった。で、そんなことがある筈はございませぬけれども、それほどお案じなさ / 、ら いますなら、私が行って見て參りませうと庄吉が云ふので、巧く行き遭ふかどうか分らない迄も、い ・ : と、早速身支度をして出かける庄吉 かでも莱休めになると思って、そんなら御苦勞さんですけど、 を、裏門のところまで送って行ったのが五時ちょっと前頃であった。 此の家は表門と裏門とが別の街路に面してゐるので、幸子はその足で運動かたる、裏から表へ一と廻りし て、今日はベルが利かないために開け放しにしてある表門を這人り、玄關の前から直ぐ庭の方へ歩いて行 「奥さん、 と、その時又シ「一トルツ夫人が金網の垣から首を出した。 「エッコさんの學校、大丈夫でした。あなた安心ですね」 「ありがとございます。悅子の方は無事でしたけれど、妹の方がえらい心配なのです。わたしの旦那さん、 今迎へに行ってゐるのですけれど、 幸子はそこでシ「一トルツ夫人に分るやうな云ひ方で、もう一遍庄吉に語ったと同じことを語った。 「お、、さう シ「一トルツ夫人は眉を顰めてチ「一ツ、チ「一ッと舌打ちをしながら、 298

4. 谷崎潤一郎全集 第15巻

れを告げて、前に一度見たことのある「望鄕」と云ふ佛蘭西映畫が新開地に懸ってゐるのを見に行ったの おもて であったが、五時半にその映畫が濟んで戸外へ出た時、今から行って與兵の近所をうろついてゐれば、ち ゃうど妙子とその男とに行き合はす時間であるがと思ひながらも、ことさらにその考を打ち消すやうにし て眞っ直ぐ歸宅したのであった。すると、それから又一箇月過ぎて、八月の中旬に、菊五郎が紳戸へ來た ので、貞之助、幸子、悅子、お春の四人で松竹劇場へ出かけたことがあった。 ( 妙子はその時分、幸子が 映畫や芝居見物に誘ってもめったに附き合ったことがなかった。自分も見に行くことは行くけれども今日 は止めると云って、別箇行動を取ることが多かった ) 四人は多聞通八丁目の電車道でタキシ 1 を下り、新 開地の交叉點を聚樂館の側へ渡らうとするところで、貞之助と悅子だけが先に渡り、幸子とお春とがスト ップを食って立ち止まってゐると、二人の眼の前を、楠公前の方から來てあっと云ふ間に通り過ぎた自動 車があったが、中に乘ってゐたのが奥畑と妙子であったことは、夏の眞っ晝間のことなので疑ひやうがな かった。但し、中の二人は何か話し合ってゐて氣が付かなかった様子であったが、 「お春どん、日一那さんにも悅子にも云うたらいかんよ」 と、幸子は直ぐに口止めをした。お春は幸子の顏色が急に變ったのを看て取ると、自分もひどく眞劍な表 情をして、 下「は」 と答へたきり俯向きながら歩いてゐたが、幸子は動悸を靜めるために、一丁程先を行く貞之助と悅子の後 細 影に眼を遣りながら、わざと歩調をゆるめつ、歩いた。そして、さう云ふ時によく指の先が冷えて來るの さち 611

5. 谷崎潤一郎全集 第15巻

トのせゐかどうか分りませんわ」 「とまあ、わたくしも一度ならさう思ふところでございますが、前にもさう云ふ經驗がございまして、そ の時が二度目なんでして」 「あ、、それほんたうでございます」 と、幸子が云った。 わたし、電車の中でコム。ハクトを開けて、隣の人に曉されたことが二三度ございます。わたしの 經驗を申しますと、上等の匂のするお白粉ほどさう云ふことが起りますの」 「は、あ、して見るとやつばりさうなんですな。 いや、此の間の御婦人は違ってましたが、その前 の時は、事に依ると奥さんぢやございませんでしたかな」 「ほんに、さうだったかも知れません。どうもあの時はえらい失禮を」 「わたくし、そんなこと始めて伺びますけど、 と、房次郎夫人が云った。 「それでは一遍、なるべく上等のお白粉を人れて試してみることに致しますわ」 「冗談ちゃあない、そんなことを流行らしちゃ困りますよ。今後御婦人は、電車の中で風下の席に人がゐ 上る場合、決してコム。 ( クトを使はないことに願ひたいもんですな。蒔岡さんの奥さんは只今御挨拶をなす ったからい、が、此の間の婦人なんぞ、わたくしに二つも三つも曉をさして置きながら知らん顏をしてゐ 細 るんだから怪しからんですよ」

6. 谷崎潤一郎全集 第15巻

何でも最初に來た時はまだあの離れが建ってゐなかったので、姉夫婦に幸子達五人が廣い座敷に枕を並べ て寢たのであったが、それがどうも此の部屋であったらしい。幸子は外のことは忘れてしまったが、妙な ことに、鉢前の木賊を覺えてゐた。なぜと云って、その木賊はそこの綠先に非常に夥しく蕃殖し、靑い細 い莖が雨の脚のやうに一面にすく / \ と群生してゐるのがちょっと奇異な見物なので、珍しいなあと思っ た當時の印象が、今も消えずにゐたのであらう。二人が這人って行くと、客は未亡人と初對面の挨拶を取 り交してゐるところであったが、幸子達の紹介が濟んだあとで、正面の床の間を背にして澤崎、側面の襖 を背に、庭の明りを前にして幸子と雪子、末座の、澤崎と向ひ合ふ席に未亡人が坐った。澤崎は席に就く うすばた 前に、薄端に未生流らしい矯め方をした葉蘭が活けてある床の間を向いて跪き、掛軸の書を丹念に打ち眺 めてゐる様子であったが、幸子と雪子とはその隙に彼の後姿へ眼を遣った。四十四五と云ふことであった が、外見も先づそのくらゐで、痩せた、小柄な、腺病質らしい血色をした紳士である。物の云ひ方、頭の 下げ方、體の取りなし、等も尋常で、金持ぶってゐる風はなく、型は崩れてゐないけれども角々のや & 擦 り切れた茶の背廣服、たび / \ 水を潜ったものらしく黄色くなった富士絹のワイシャツ、縞模様の消えか 、った絹の靴下、等々を身に着けてゐるところは、幸子達の裝ひに比べて少しお粗末過ぎ、今日の見合ひ を如何に手輕に考へてゐるかと云ふ證據にもなるが、なか / 、、儉しい生活の人であることをも語ってゐる。 と、澤崎は、掛軸の詩が滿足に讀み下せたのかどうか、 「此の星巖はまことに結構でございますな」 と云ひながら座に直って、 はらん つま

7. 谷崎潤一郎全集 第15巻

「頭が重うて、 : 嘔き気がして、 「何云うてるねん、そら神經や」 そして、突然貞之助は、 「あ、、もう止めとこ」 と、ほっとしたやうな大聲を出して、竹の葉をガサガサ云はせて立ち上ると、車前の根を掘るために持っ てゐた切り出しを放り出して、手袋を脱いで、蚊に螫された痕のある手の甲で額の汗を拭き / \ 、ぐっと 腰の蝶番を伸ばしながら身を反らした。それから、花壇の傍の水道の栓を開けて、手を洗って、 「モスキトンないか」 と、手頸の赤く張れたところを掻きながらテラスへ上って來たが、 「お春どん、モスキトン持って來て」 と、幸子が奧へ怒鳴ってゐる暇に、又庭へ降りて行って、今度は平戸の花の萎んだのを摘みはじめた。此 處の平戸は四五日前に眞っ盛りであったのが、今は六分通り萎んで、見苦しくよごれてゐるのであったが、 をしべ 分けても白い花の、紙屑のやうに黄色く汚らしくなったのを、莱にして一つ / \ 取って捨て、あとに雄蘂 が髯のやうに殘ったのをも、丹念にむしって行くのであった。 「ちょっと ! モスキトン來てまっせ」 「ふん」 てふつがひ : 手足がだるうて、 : 何や、重い病気になる前兆みたい 148

8. 谷崎潤一郎全集 第15巻

と、「お婆ちゃん」が俄に表情を嚴肅にして云った。 「白系露西亞人は誰でもさう思ってゐるんですよ、共産主義に對して最後まで鬪ふものは日本であると。 キリレンコはさう云ってから言葉を繼いで、 「あなた方、支那はどうなると思ひますか。あの國は今に共産主義になってしまふんではないでせうか」 「さあ、私達には政治のことはよく分りませんけれども、何にしても日本と支那とが仲が惡いのは困った ことですよ」 「あなた方、蒋介石をどう思ひますか」 と、さっきから、空のコップを掌で弄びながら聞いてゐたウロンスキ 1 が云った。 チャンシュエリャン 「去年の十二月、西安であったこと、どう思ひますか。張學良、蒋介石を捕虜にしましたね。けれども、 ほど近い所をその馬車がお通りになったと云ふんですね。何しろわたし達の家はあの宮殿の直ぐ傍にあっ たんですよ。わたしは子供の時のことで、ばんやりとしか覺えてゐないんですが」 「カタリナさんは」 「わたし、まだ小學校へ行く前、何も覺えありませんね」 「彼方の部屋に、日本の兩陛下のお寫眞が飾ってありましたが、あれはどう云ふお心持ですか」 「お、、それ、當り前のことごぜえます。わたし達、白系露西亞人の生活します、天皇陛下のお蔭。 チャンカイシー 126

9. 谷崎潤一郎全集 第15巻

れて來るのであった。彼女の獨語は有名で、映畫などを見に行っても、あ、え、、なあとか、あの人どない するのんやろとか、ひとりで感心したり訝しんだり手を叩いたりする癖があるので、お春どんと映畫館へ 行くのは閉ロやと云はれてゐるのであるが、今此の際どい流れの中でその癖を出してゐるのかと思ふと、 貞之助は可笑しくなった。 幸子は夫が出て行ったあと、自分も何かじっとしてはゐられなくなって、 いくらか雨が小降りになったの を幸ひに門の前まで出て見ると、そこ ~ 蘆屋川驛前のガレーヂの運轉手が通りか、って挨拶をしたので、 小學校の様子を先づ尋ねた。すると、自分は行って見ないけれども、あの小學校は恐らく一番安全であっ たらしい、彼處へ行く迄の間には水の出た區域があるけれども、あの小學校の所は位置が高いので浸水し てゐないと云ふ話であるから、多分大丈夫でせうと云ふ答であった。幸子はさう聞いて少しほっとしたが、 運轉手はそれに附け加 ~ て、蘆屋川もひどいけれども、住吉川の氾濫の方が遙かにひどいと云ふ噂が專ら である、電車は阪急も省線も國道も皆不通なので、はっきりしたことは分らないが、西の方から歩いて來 る人達に聞いてみると、此處から省線の本山驛あたりまでは、出水もそれ程ではなく、線路の上を傳はっ て行けば水に漬からずに行けるけれども、あれから先は、西 ~ 行くほど一面に茫々たる濁流の海で、山の 方から大きな波が逆捲きつ、折り重なって寄せて來て、いろ / 、、な物を下流 ~ 押し流してゐる、人が疊の 中上に乘ったり木の枝にまったりして助けを呼びながら流れて行くけれども、どうすることも出來ない有 様だと云ふことです、と云ふ話に、今度は寧ろ妙子の安否が気遣はれて來た。 , 彼女の通ってゐる本山村野 細 寄の洋裁學院と云ふのは、國道の甲南女學校前の停留所の邊を少し北 ~ 這人った所にあって、住吉川の岸 281

10. 谷崎潤一郎全集 第15巻

午少し前に澁谷から電話で、明日の歌舞伎の切符が取れたことを知らして來たが、今日は一日することが ないので、午後から銀座に出てお茶を飮み、尾張町でタキシーを拾って、靖國訷社から永田町、三宅坂邊 を一と周りして日比谷映畫劇場へ着けた。妙子は日比谷の交叉點を横切る時に、窓の外の通行入を眺めな がら、 「東京はえらい矢絣が流行るねんなあ。今ジャアマンべーカリーを出てから日劇の前へ來る迄に七人も着 てたわ」 「こいさん、數へてたのん」 「ほら、見て御覽、彼處にも一人、彼處にも一人、 など、云ったが、 暫くすると何と思ったか、 「中學生が兩手をポッケットに人れたま、歩くのん危いなあ。 など、も云った。 「ーー・・一」・・・一 - ー何處やったか、關西の中學校で、制服のヅポンに示ッケット附けさせないとこがあったけど、あ れ、え、ことやわな」 幸子は此の妹が、小娘の時から老せたことを云ふ癖があるのを知ってゐたが、もう實際にそんな云ひ方が 中似合ふ年頃になってゐるのだなと感じながら、 「ほんになあ」 細 と、合槌を打ったりした。 ひる 505