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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第16巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第16巻

と私を夫婦にして下さい」と云ふ漢文の歎願書を車の中の大臣に獻じ、首尾よく望みを遂げたこと、等が 記されてゐるのである。 〇 此の篁の日記は、最近、と云っても昭和二十三年に宮田和一郎氏が注釋を加へ、平中日記、成尋母日記と 併せて王朝三日記新釋と題して刊行されたのを、私は始めて讀んだのであるが、卷頭の解題に依ると、此 の書は從來三部の寫本があったのみで、宮田氏が昭和十一年に「篁物語」として公けにする迄は、世に活 しげもと 字本は行はれてゐなかったやうである。私は實は、去年「少將滋幹の母」を書く時に平中日記を讀む必要 が起り、ちゃうど折よく此の三日記新釋が出たのを廣告で知って取り寄せたのであったが、私の興味は平 中日記よりも却って篁日記の方に多く惹き付けられた。なぜかなら、此の日記は中に記されてゐる事柄が いかにも奇異であって、且一貫した一つの物語、今日で云ふ短篇小説になってゐるところが、王朝時代の 日記としてはちょっと型破りなのである。われノ ( 、の知ってゐるあの頃の日記と云ふものは、その日 / , \ ことばがき の平板な出來事や感想などを書き留めて行った普通の意味の日記であるか、少し丁寧な詞書のついた自選 事 す歌集であるか、でなければ旅行記などが多いのに、これは原稿用紙にして二十枚に足らぬ短かいものだけ いはゆる れども、兎も角も一つの筋のある物語で、而も作者自身の戀愛を扱ってゐる點、今日の所謂「純文學物」 こきんしんこぎん によく似てゐる。作者は漢詩入である一面に、古今新古今以下の勅撰に多くの和歌を殘してゐる歌人であ るから、日記中に和歌も二三十首載ってゐるけれども、その間をつなぐ地の文は單なる詞書ではなく、最 へいちゅう じゃうじん 445

2. 谷崎潤一郎全集 第16巻

とある下に、細字を以て、 九月廿六日悲母長逝シ、十月五堂一樓焼失ス、喪ニ遭フノ間彌心勞ヲ增ス と割注を加へてあるのが眼に留まった。此れで見ると母が亡くなったのは康保三年九月廿六日、大師五十 五歳、母八十歳の時であって、九十餘歳まで生きたと云ふ傳説は怪しくなる。私が此の事を光圓師に質す と、師はちょっと驚きながら、割注は後入の書き人れであって、天台座主記の本文ではないから信ずるに 當らないと云はれたが、しかし九月廿六日とはっきり日まで記してあるし、他に此の記事を覆すに足る文 獻がないとすると、私としては證據のない傳説よりは寧ろ此の方を信じたい氣がするのである。たゞさう なっても、大師が座主に補せられたのが八月廿七日で、母の死んだのが翌月の廿六日であるから、母は兎 も角も我が子の立身を見屆けて行ったことにはなる。 なほもう一つ、前掲の近江輿地志略志賀郡千野村の項に、「安養院」とあって、 同村にあり、天台宗。界内に妙見堂あり。土俗云ふ元三大師の母也と誤なるべし。「叡岳要記」「山門 記」「日吉記」「山家要略記」等を考ふるに傳敎大師の母を妙見といふと、然らばもし是にや、又妙見と 號せる佛あり共佛にや未詳。 ひたすら とある。もしさうであるなら、私は此の稿に限って珍しく自分の室想や創意を交へないやうに努め、只管 古書の教へるところと光圓師から傳聞したところとを、正直に書いたのであったが、矢張結局は一つの作 り話であったと云ふことになる。 擱筆に臨み、私は光圓師に約東を果たしたとは云ふもの、、その實師の気に入らないことを多く書き、却 438

3. 谷崎潤一郎全集 第16巻

いました」など、云ひ、名殘を惜しみて涙ぐむ、そして興奮して咳き込む様子なので十五分程で先づ予辭 して階下に降りる、家人は病人にまりて降りることを得ず後藤夫人が迎びに行きて辛うじて出て來る、 後で聞けば予が出たる後、病人はわっと泣き出し痰が喉につまり苦しみし由なり、次に隣家兒山氏を訪ふ、 主人不在にて實家 ~ 養生に戻って來てゐる娘が玄關へ出て來る、此の若夫人も肺病らしく、細帶に銘仙の 衣類の上に羽織を引かけて出て來、語りながら時々息ぐるしさうに言葉を控へる、予等は此の夫人の出て 來るのを待っ間一寸庭の方へ廻って見る、昔予が此家に住みし頃は庭に一面に芝を植ゑ、種々植木などを 入れたるに今芝生を全部掘り返してあるのは畑を作るためか防空壕を掘るためならん、松の大木も殆ど伐 り倒され、百日紅、青桐、セレンガ、ライラック、樫、竹、山吹等も何處か ~ 運び去られて見るかげもな し、わづかに栴檀の樹と櫻の若樹 ( 此の櫻は予が池邊に植ゑさせたるものにてもと / \ 發育不良なりしが 本年は肥料も與 ~ ざりしものと見え實にみすばらしき花が一つ二つチラホラ咲いてゐるのみ ) が殘ってゐ るに過ぎず、嘗ては予の愛したる庭なりしかどこれを見てはもはや何の愛着もなし、ついで楢崎家に至り 内玄關にて母堂と夫人に挨拶し一旦晝食のために歸宅す、食後又、酒井家、川崎男爵家、黒瀨家、藤井家、 庄司家 ~ 廻る、此のうち川崎家にては一寸上って男爵に會ひ、庄司家にても上って老夫人に會ふ、辭して 出でんとする時門前にて外出先より歸り來れる庄司乙吉氏に邂逅挨拶す、斯くて二時過歸宅、今タは家人 等神戸越石方に行く用事あれば予も後より行き東亞樓にて最後の晩餐會をすることにきめる、ヱミ子は寫 開眞を撮るため重子さんと一と足先に行き、信子、次に家人が出かける、予と淸ちゃんとは少しおくれて御 飯とお酒を持って行く、今日の東亞樓は越石氏夫人より特に賴んでもらひたる結果、魚翅、肉と野菜の焚 一三ロ 331

4. 谷崎潤一郎全集 第16巻

なく、われ / 、に對しても寸毫も藝人らしい氣取がない。かと云って、別にお世辭や追從を云ふのでもな 、全くわれ / \ と同じ莱分に浸り込んでゐるのである。本來ならば千作翁や千五郎氏の如き一流の人は、 1 もう少し重々しく構へてゐてもよい筈であるが、招けばかう云ふ座敷へでも親子揃って、孫や門人までも 連れて出て來ると云ふのは、いかにも無雜作で莱さくである。これが東京あたりだと、俳優は勿論講釋師 や落語家などでもなか / \ かうは行かないやうに思へるけれども、その點、狂言師と云ふものは一帶にか う云ふ氣風なのか、それとも茂山一門に限ったことなのか。或は上田氏や山内氏と特別な關係があるのか も知れないが、山内さんの母堂に聞くと、さう云ふ譯でもないらしく、平素から此の人々はこんなエ合で、 千作翁も千五郎氏もちっとも偉がらない、呼べば何處へでも喜んで出て來てくれる、そして親子兄弟が睦 しいところから、何かと云ふと一家擧って集るのだと云ふ。それに又、藝人はとかく藝の出し惜しみをし て、めったに「おしろうと衆」と一緖に馬鹿騷ぎなんぞしないものだが、さう云ふ點も此の人たちは捌け てゐて、興に乘ずれば隱し藝などもさらけ出す。就中千之丞氏は、下戸の父親達に似ず行けるロと見えて、 もうさっきから上機嫌で、ときる \ 廣間のまん中へ躍り出して、權兵衞が種蒔きをやったり、一人相撲を やったり、口上役を買って出たり、一手に餘興を引き受けてゐるのであるが、何しろ日頃咽喉を鍛へてゐ る入であるから、破れ鐘のやうな聲が滿堂に響き渡る。千作翁は孫どもの騷ぐのをさも樂しさうにニコニ コ笑って眺めてゐるだけであったが、千五郎氏はやをら立ち上って「ヒー 丹」を踊った。此れは山内母堂が お師匠さんだと云ふことであるが、まだ習ひたてゞあるらしく、母堂が蔭で振をするのをチラと横眼で見 ながら踊るのが此の人だけに面白かった。

5. 谷崎潤一郎全集 第16巻

月と狂言師 ゐたところだったのが、思ひがけなく山内さんの招待に接したのであった。たゞさうなると心配なのはお 天気で、去年のやうに曇らねばよいがと案じてゐると、折あしく十四五日からアイオン颱風とやらの警報 が出、十六日から十七日へかけて近畿地方に上陸するかも知れないと云ふことだったので、ことしも月に は縁がないのかと半ば諦めてゐたところ、どうやら關東へ外れたらしく、埼玉方面が又してもひどく荒ら されたと云ふことであったが、京都は運よく十七日の朝から睛れて爽やかな秋空が覗き始め、後にはだん / 、ちぎれ雲の影も消えて行った。ほんたうに今年の颱風ももう此の邊がおしまひであらう。これから一 二箇月の間の京都は日本ぢゅうの何處よりも美しい天國と化し、月によろしく、茸狩によろしく、紅葉に よろしく、一年ぢゅうで一番行樂に適する季節となるであらう。私も實は四月の花が散ってから、此の季 節の到來するのを待ちこがれてゐたのであった。で、その日は午後早々からと云ふことであったが、皆さ んがお待ちかねですからと、催促の使があったので、私は妻をうながして三時頃に出かけた。 金地院と云ふのは、瓢亭の方からインクラインに架してある橋を渡り、上田秋成の墓のある西寺の前を 通って眞っ直ぐに行くと、南禪寺の勅使門に突き當る、その門の外の、蓮の生えてゐる拳龍池の南側に又 一つ門があって、「東照宮、金地院、けあげ大津行電車近道」と刻した石が立ってゐる、それを潜ると右 側に上塀がっヾいてゐて、東に面した正門があり、そこにも石標が立ってゐて、「史蹟及名勝、金地院」 と刻してある。此の寺の本堂は伏見城の書院から移したもので、小堀遠州作茶室八窓軒と共に國寶になっ てをり、外に鶴龜の庭と呼ばれてゐる庭園も遠州の意匠と傳へられ、天正年中に明智光秀が建てた明智門 9 など、云ふものもある。上田氏の邸は此の院内にあるのだけれども、入口は別に、その正門の少し手前ー

6. 谷崎潤一郎全集 第16巻

適嘗な浴泉地に惠まれてゐないので、冷泉とは云へ京都の傍の琵琶湖を見睛らす形勝の地に雄琴のやうな 所があるのは珍重されてよく、温泉好きの私は前から一遊を試みたいと思ってゐたのであるが、なか / \ さう云ふことにも明るい光圓師の話だと、近頃外人にも日本入にも向くやうな氣の利いたホテルなどが出 來、料理その他の設備萬端も行き屆いてゐると云ふことなので、實は此の機會にそのホテルへも寄ってみ たかったのであった。で、私達は三條大橋から電車で濱大津に出、そこから雄琴までハイアを飛ばした。 此の邊の景色は昔何囘か遊んだ記憶があり、眼に馴染んでゐる筈だけれども、それはもう遠い既往のこと に屬し、その間に大戦爭があったりしたので、可なり様子が變ってゐる。私たちが今車を走らしてゐるド もすそ ライプウ = イなども以前はなかったやうであるが、その左側に、ゆったりと大きな裳裾をひろげた比叡山 麓のスロ 1 プには、點々と進駐軍の住宅が建ち並んでゐて、ちょっと箱根の仙石原の別莊地帶に似た洋風 の部落を形作ってをり、坂本を出はづれて少し行ったあたりには、競技場のスタンドが出來、折柄競輪だ か競馬だかの催しで賑はってゐる。たゞ變らないのは右手の方の湖上の眺めで、遙かに唐崎から堅田の方 えりゑん / 、、 へかけ、さゞ波立った水の面に釞が蜿々とっヾいてゐるさまは、昔ながらの景色である。車は江若線の雄 琴驛の少し手前から、左の方の坂路を上ってホテルの玄關に横づけになった。私はいつも江若線で此處を 通る時に、どんな旅館があるのかと思って窓から此のあたりを見渡したものだが、その時分にはもっと山 五ロ 一一二ロ の上の方に下宿屋じみた温泉宿が一軒建ってゐたゞけで、かう云ふ堂々たる構への家はなかったのであっ 物 野た。 光圓師から豫め手配してあったものか、ホテルでは私たちの來るのを待ち受けてゐたらしく、直ぐ三階の 429

7. 谷崎潤一郎全集 第16巻

腸は深くして解くことを得ざれども タとして思ひ量らざることなし 況んや此の殘燈の夜に 獨り宿りて空堂にあるをや 秋の天殊に未だ曉けず 風と雨と正に蒼々 頭陀の法を學ばざれば 前よりの心安んぞ忘る可けん 此の終りの句の、「頭陀の法を學ばざれば、前よりの心安んぞ忘る可けん」と云ふ言葉を、父はや、もす れば獨語のやうに詠じてゐたが、それから間もなく佛道に心を傾けるやうになったのは、恐らく此の句な まさ どに影響されたせゐであらう。なほ滋幹は、何と云ふ題の詩か不明であるが、「夜深うして方に獨り臥し つか たり、誰が爲めにか塵の牀を拂はん」「形羸れて朝餐の減ずるを覺ゅ、睡り少うして偏 ~ に夜漏の長きを ものう くしけづ 知る」「一一毛曉に落ちて頭を梳ること懶し、兩眼春昏くして藥を點ずること頻りなり」「須く酒を傾けて 腸に人るべし、醉うて倒る、も亦何ぞ妨げん」等々、いろ / \ とそれに似たやうな句があったことを、 た、す のきれ \ に覺えてゐるのである。父はそれらの句を、悄然として庭の片隅に彳みながらこっそり吟誦して ゐることもあり、人を遠ざけて獨りで酒杯を擧げながら、感極まった聲を放って泣いて謠ってゐることも あったが、そんな折には父の兩頬に涙が縷々と絲を引いてゐた。 そら とこ 251

8. 谷崎潤一郎全集 第16巻

部屋が樂屋に充てられてゐるらしく、樂屋口から舞臺の方へ簡單ながら橋掛なども設けてある。なるほど こ、は斯様な種類の催し物にはまことに恰好な會場であって、かう云ふ特殊な建物であるからこそこんな 風なしつらへが出來たので、普通の邸宅ではちょっとかう云ふ譯には行くまい。それに又、此の見物席の 床張りは、今夜の明月を賞するのにも打って付けの場所であることを、私は一と眼で理解した。いったい こ、は町名で云へば左京區南禪寺地町であって、私の家は南禪寺下河原町であるから、昔は共に閑寂な 寺の山内だったのであらうが、私の家のある下河原町が今では民家の立ちならぶ一種の高級住宅街に變貌 してしまったのに反し、此のあたりは今日もなほ昔日の寺域そのま、で、現にこ、から見渡すと、林泉の 向うに東山の一環を成す南禪寺の背後の山、所謂瑞龍山が逶進として連なってゐる。山内さんの借りてゐ る聽松院の庭も矢張かう云ふ風趣ではあるが、彼處は惜しいことに北向きになってゐるのに、 こ、は東向 れんえん きなので、恐らく月はあの山の頂上から昇るのであらう。とすると、此の池の水はその影を捉へて瀲漣と きらめくであらう。床張りの上に座を占めて勾欄に凭りか、ってゐる私たちは、恰も池の中にゐるやうな もので、山上の月は遠くとも水面の月は手を以て掬することが出來るかも知れない。池には多くの睡蓮や 菖蒲や河骨が生えてゐ、汀にはす、きその他の秋草が茂ってゐて、水を隔てた向うの岸には一と叢の見事 な白萩が人の背よりも高く伸びてゐる。家も相當に廣いらしく、池のあなたにも座敷のあるのが木立を透 かして見えてゐる。遠州作の庭と云ふのは大方本坊の方にあるので、此處のことではないらしいけれども、 とかう云ふ思ひがけないところにかう云ふ泉石の構へがあるのは、さすがに古いお寺だからである。いくら 月 京都であるからと云って、もしも市中でこれだけの庭園のある邸宅に住まうとならば、餘程の富豪か新興 121

9. 谷崎潤一郎全集 第16巻

格子造りのくヾりが附いてゐて、そこに表札が上ってゐる。くゞりを這人るとびとすぢの細徑が杉の植込 の間を奥の方へ曲って行って漸く玄關に達する。下駄がたくさん脱いであるのでこ、に違ひないと思って 案内を乞うたが、誰も出て來る樣子がないので、私たちは中へ上って行った。と、左の方へ廊下がっゞい てをり、その邊の部屋には人気がないので、なほ構はずに奥へ進むと幕の張ってあるところへ出た。途端 に髮を平べったくリボンで頭へく、りつけた、露芝の模樣のある絽の單衣を着た夫人が幕をか、げて私た ちの方を見、山内さん、谷崎先生がお見えになりましたと云ふ。それから直ぐに山内さんの母堂の榮子さ んが見え、只今ちゃうど京子の小舞が濟んだところでございます、是非見て戴きたうございましたのに殘 念でございますと云ひながら、幕の向うの會場とおばしい廣間へ導いてくれた。 此の廣間は疊數十疊ぐらゐであらうか。後で聞いたところに依ると、此の家は金地院の所有に屬するもの で、嘗て橋本關雪が銀閣寺のほとりへ移る前に住んでゐたことがあり、その、ち上田氏が、もう十年餘も 借りてゐるのであると云ふ。そして此の廣間の建物は、もと桃山城内の毘沙門堂であったとも云はれてを り、それを金地院が此處に移して座敷風に造りかへたのであると云ふ。だから正面の、もと内陣であった ぐわとうまど らしいところに床の間や違ひ棚が出來てゐるけれども、太い角柱、高い天井、大きな瓦燈窓等々のエ合が どうしてもお堂の感じであり、縁側の一部には今も上げ格子が附いてゐるのである。そして、昔階段が設 はしがくし けられてゐたであらう階隱の間に、勾欄のついた露臺のやうな床張りが出來てゐて、それが庭の池の中へ 突き出てをり、その床の上に毛氈を敷いて見物の人々が坐ってゐた。つまりそこが観客席になってゐて、 お堂の内部に當るところ、廣間の方が舞臺になってゐるのであるが、廣間につゞく月 、座敷のもう一つ隣の 120

10. 谷崎潤一郎全集 第16巻

こと ばんかうけい は故人の傳記や逸話を集めたもので名所圖會とは撰を異にしてゐるけれども、著者の伴蒿蹊を始めとして 書中に取扱はれてゐる人物の多くが京の地に住み、京の地を愛する風雅人であるのと、三熊花顛の挿繪が 又甚だ飄逸で風韻に富むのとで、此の書に依っても私は隨分佗びしさを忘れることが出來た。例へばあの 中に池大雅が江戸に下ってさる大名の邸内の知人の許に宿ってゐた時、六月十八日が來たので京の祇園の 祭禮のことを思ひ出して、矢も楯もたまらなくなった話が出てゐる。「今日は故鄕の祇園の社のお祭で御 こしあらひ 輿洗の神事がある日だ、どれその眞似をして見よう」と云って、大雅は急に人形を作って燈明をともし、 祇園囃を囃しながら邸の中を浮かれ歩いた。するとそのことをその大名の世子が聞いて、自分も見物した いから此方へ廻って參るやうにと、使を以て云ってやったが、大雅はわざと聞えないふりをしてます / \ 大聲で祇園囃を眞似ながら勝手な所を彼方此方歩き廻った。世子が機嫌を惡くして、なぜ早く參らぬと再 三の使者に及ぶと、人形を故意に燒いてしまひ、「えらい粗相を致しましたが御勘辨を願ひます、尤もこ れは祇園の紳様に差上げるつもりのものですから、人間に見せることを神様がお喜びにならないのでござ いませう」と云ったので、世子は腹を立て、早々に大雅を邸の内から追ひ出してしまったが、「いや、怒 るのが當り前だ」と云って大雅は笑ってゐたと云ふ。此の話なんぞは大雅の面目が躍如としてをり、 きっすゐ に大雅が生粹の京都人であったかを語るものであるが、私は京の生れではないけれども京好きの點では京 つの日にか 都人に劣らないので、これを讀むと自分も亦あの暑い日盛りの豪華な鉾のことを想起して、 再びあ、云ふ泰平を樂しむことが出來るであらうと、懷舊の情に堪へ難くなったりした。そのほか遊女大 橋が尼になってから「都の四方にて景物のよき所々」を人に語ってゐる中に、「月を見るには聖護院殿の