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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第16巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第16巻

乳野物語 じた。色の白い、小太りに太った、まだ四十臺と見える人の好さ、うな坊さんであるが、どう云ふ病気な のか、絶えずぶる / \ と首や手足を顫はす癖があって、われ / ( \ の前に茶を運ぶのに、茶碗をかち / \ と 打ちつけたり茶をこばしさうにしたりするのが、見てゐてまことに気の毒である。尤もわれ / ( 、、は前にち よっと此の事を知らされてはゐた。「あの住職は物を云ふたびに首を振るので、話がしにくいから、君が 來て説明して下さる方がよいと思って」と、さっきホテルで光圓師が君に云ってゐたのを、傍でわれ / 、 \ は聞いてゐたのであったが、 君は此の首を振る住職の前に、 こ、で住職をしてゐたのであっ 妙見菩薩と云ふのは、印ち元三大 師の母、月子姫その人のことなの で、彼女の本地が妙見菩薩であっ たところから、死後その菩薩の名 を以て此處に祀られ、安産の御利 益があるとして信仰されてゐるら しいのであるが、左様なことはわ れ / 、には格別の興味もない。住 固院養安 ーン ・叩碑 ! 物、 . イ 433

2. 谷崎潤一郎全集 第16巻

て一日一梅の間に退きお煙草二箱づ、をお土産に戴いて退出、正門内新聞記者の溜りにて記者連の質問に答 へ ( 主として新村博士より ) 北門より出で府立醫大の前にて新村川田二老に別れ吉井氏と予とはタキシー を拾ひ河原町四條上ル春日に至り茶菓を喫し入洛中の春日豐に會ひ ( 吉井氏と春日豐とは十年目の邂逅の 由 ) こ、にて吉井氏は三條京阪に予は輪タクにて歸宅す、時に七時頃なり、此の少し前より察睛れ薄日も れたり、本日暑からず寒からず誠によき天気都合なりき ( 日記より抄出 ) 470

3. 谷崎潤一郎全集 第16巻

しざ つまり、「頭陀の法を學ばざれば、前よりの心安んぞ忘るべけん」と云ふ白詩の示唆に從った譯なので、 それは父の死ぬ一年ほど前、滋幹が七つぐらゐの時のことであった。その時分になると、父はもう狂暴性 ふけ がないやうになり、終日佛間にゐて、冥想に耽るとか、看經するとか、何處かの貴い大德を招いて佛法の 講義を聽聞するとか、云ふやうな日が多くなったので、乳人や女房たちは愁眉を開いて、どうやら殿も落 ちついておいでになった、あの御様子なら安心ですと云って喜んでゐたのであったが、しかし滋幹には、 、薄莱味の惡い父であることに變りはなかった。 さうなってからでも矢張何となく近づきにく、 乳人はよく、佛間が餘りひっそりしてゐることがあると、 のぞ 「若様、お父さまの所へいらしって、何をなすっていらっしゃいますか、そうっと覗いて御覽遊ばせ」 しきゐぎは と、さう云ったので、滋幹が恐る / \ 佛間の前へ行って、閾際に跪いて、音を立てぬゃうに障子に手をか ふげんぼさっゑざう いっすん けて、一寸ばかりする / \ と開けて見ると、正面に普賢菩薩の繪像を懸け、父はそれに向ひ合って寂然と 端坐してゐた。滋幹の方には後姿しか見えないのだけれども、暫くじっと窺ってゐても、父は經を讀むの でも、書を繙くのでも、香を薫くのでもなく、たゞ默然と坐ってゐるだけなので、 「お父さまはあ、して何をしていらっしやるの ? 」 と、或る時乳人に尋ねると、 「あれは、不淨観と云ふことをなすっていらっしやるのです」 と、乳人が云った。 その不淨觀と云ふのは大變むづかしい理窟のあることなので、乳人にも委しい説明は出來ないのであった かんきん 254

4. 谷崎潤一郎全集 第16巻

むつごともまだいひ出でヾ別れにし 人のかたみはあづまなりけり こ出家をしたことは、前に記した通りである。 此のあづまの佐理が後。 その八 平中、時平、及びその子孫たちの後日譚はあらまし以上の如くであるが、あの可哀さうな老大納言と、彼 まう が夫人在原氏の腹に儲けた子の滋幹は、その後どうなったことであらうか。 國經には滋幹の外に三人の男子があって、奪卑分脈所載の順序に從へば、長男が滋幹、次男が世光、三男 が忠幹、四男が保命となってゐる。此のうち、忠幹の母は在原氏ではなく、伊豫守未並と云ふ者の女子と してあって、此の後裔は後まで長くっゞいたらしいが、世光と保命には後がなく、且その母は誰であると も記してない。しかし滋幹は、あの事件の時に五歳ぐらゐであったとすれば、老大納言が七十二三歳頃の 更に三人もの子を生ませたり、他の 子でなければならないが、それ以後國經は八十一歳で死ぬ迄の間に、 でたらめ 婦人と契ったりしたのであらうか。それとも尊卑分脈所載の順序は出鱈目で、世光以下三人の男子は滋幹 より前か、同時ぐらゐに生れた庶子でゞもあるのだらうか。さう云 ~ ば國經は、五十歳も年の違ふ在原氏 のを妻にする前には、誰かを妻にしてゐたのであらうが、その人には子がなかったのであらうか。それらの いろノ \ な不審については、今は何事をも明かにする手が、りがない。なほ、滋幹は、奪卑分脈に從五位 上左近少將と肩書がしてあって、亮明、正明、忠明と云ふ三人の男子を儲けたことになってゐるが、此の 233

5. 谷崎潤一郎全集 第16巻

さう云ふことを尋ねないで、何も彼も分ってゐるらしいのが不思議であったが、ふと、眼の前をきらりと 落ちたものがあるので、訝しみながら振り仰ぐと、母が涙を一杯ためてあらぬ方角を視詰めてゐた。母の 容貌を心から美しいと思ったのは、その一瞬のことであったが、それはちゃうどその時に、春の日ざしの ヾゝ、 照り返しが、まともに母の顏の上にたゞよってゐて、 いつも奧深い暗いところでばかり見てゐた輪郭カ くつきり浮き出してゐたせゐであった。母は子供に莱付かれたと思ふと、慌て、顏を子供の顏にびったり と擦りつけたので、却って何も見えなくなってしまったが、その代り睫毛にたまってゐた涙の玉が子供の 頬に冷めたく觸れた。滋幹は、後にも先にも母の顏をまざ / \ と見たのはその一瞬間だけであったが、而 もその時の目鼻立の印象と、その美しさの感銘とが、長く腦裡に燒きつけられて、生涯消えずにゐたので あった。 母がさうして顏を押しつけてゐたのは、どのくらゐの時間であったか、その間母は泣いてゐたのか、考へ ごとをしてゐたのか、等々のことも滋幹には思び出せないのであるが、やがて母は女房に半挿を持って來 させて、滋幹の腕にある文字を拭った。女房が拭ひ取らうとするのを制して、母が自分で拭ったのであっ たが、拭ひ取る時にいかにも惜しさうに、一字々々、頭へ刻みつけるやうに視すゑつ、消した。それから 母は、さっき平中がしたやうに我が子の袂をまくり上げて、左の手で彼の手を握り、前の文字を消したあ とへ、前と同じくらゐの長さに文字を走らした。 初めに滋幹が腕をまくって見せた時は、母のほかには誰もゐなかったのであるが、知らぬ間にそこへ女房 にかゝったが、でもその人たちは母に信賴されて が二三入來てゐたので、滋幹は平中に云はれたことが気 あや まっげ はんざふ 242

6. 谷崎潤一郎全集 第16巻

ことばがき 古今集卷十八雜歌の下、「家を賣りてよめる」と云ふ詞書のある伊勢の歌に、 あすか川淵にもあらぬわが宿も せに變りゆくものにぞありける と云ふのがあるが、此の伊勢の家は京のどの邊にあったのだらうか。伊勢は宇多帝の寵愛を受け、帝が退 位なさった時に自分も退いて五條のあたりに住んだと云ふことであるから、或はその家のことであらうか。 尤も同じく卷十八のその少し前のところに、「かつらに侍りける時に七條の中宮とはせ給へりける御返り ごとに奉れりける」とあって、同じ作者の歌に、 久方のなかにおひたる里なれば 他 の ひかりをのみぞ賴むべらなる そ と云ふのが載ってゐるところを見ると、彼女は桂の里にも住んでゐたことがあるらしいので、賣ったのは の その家の方でもあらうか。さう云ふことはつい近くにをられる川田順大人にでも聞いて見たらば分るかも 黻知れないが、今は左様な穿鑿は止めるとして、兎に角此の歌で見ると、伊勢の生きてゐた時代、今から千 年も前の上代にも家を賣ったり買ったりすることが行はれてゐたのである。そして、「せに變りゆくもの

7. 谷崎潤一郎全集 第16巻

ことを報告す、 (. 品川驛にてトランクを一時預けせんとしたるに、驛前電車の向う側に荷物預り所あり、 驛にはなしと云ふ、よんどころなく驛前に提げて行けば本日は休みなり、京濱電車の二階へ持って行けと 云ふ、依って又電車通りを引返し二階へ行くまでにヘトノ \ になる ) ついで主人夫婦を送り出し後に殘り て熱海より持參の辨當を使はして貰ひ、再び驛前に引返してトランクを受取り省線にて新橋驛まで行き、 又トランクをそこに一時預けして、地下鐵にて上野廣小路に行き、都電に乘らんとしたれども恐ろしき行 列なので徒歩にて大學裏門まで行き、柿沼内科隔離室を門番に問ふと、構内の大分先の方なので、暫くべ ンチに腰かけて休息する、トランクは預けたれども土産物や見舞品や、辨嘗の提げ重ゃいろ / \ のものを 入れたる風呂敷包や籠など數箇あり、その内容はざっと左の如し、 イチゴ一一箱 ( 渡邊氏見舞品 ) 絹紬。ハジャマ ( 笹沼宗一郎夫人への贈物 ) もん。へ ( われら夫婦のもの、 いっ警戒警報があるか分らぬからなり ) 雪駄一足 ( 帝國ホテルにて今夜穿くためなり、電車では足を踏まれるので下駄ならざるべからず ) カイロ灰、旅行案内、家人の化粧品、藥品、注射器等々 此の外に驛に預けたトランクの中にライファン入り鹽ブリ一包、米イワシ干物二包等アリ べンチにて家人携へ來りしポッケット用小罎を出しプランデ 1 を一杯のむ、予も一杯のむ、美味極りなし、 やっと少々疲勞恢復したるを覺ゅ、 ( べンチの側に胸像を供出したる臺石あり ) それより殆ど構内の反對 側の端にある隔離室に行く、階下八號が渡邊氏の室なり、渡邊氏は髯がボウ / 、、と生え、左の眼が少し張 314

8. 谷崎潤一郎全集 第16巻

れば、父は逃げ去った母を鶴になぞらへ、 悶々の情を此の詩に托してゐた譯であるが、父がこれを吟ずる 時の悲痛な聲の調子を聞けば、子供心にも父の胸にある斷膓の思ひが自分に傳はって來るのを感じた。前 2 しはが にも云ふやうに、父の聲は皺嗄れてゐて高い音が出せなかったし、息切れがするので聲を長く引くことも 出來なかったので、その吟じ方は技巧的には拙劣であったが、「九霄應に侶を得たるなるべし」と云ふ句、 「聲は碧の雲の外に斷え、影は明けき月の中に沈む」と云ふ句、「誰か白頭の翁に伴はん」と云ふ句など を誦する時は、技巧を超絶した凄愴な實感が籠って、そゞろに人を動かさないでは措かないものがあっ 父は滋幹がその詩を暗誦し得るやうになったのを見て、 「それが覺えられたら、もっと長いのを敎へて上げよう」 われおも と云って、もう一つ、ほんたうに前のよりはずっと長いのを授けてくれたが、それは「我念ふ所の人あ り」と云ふ「夜雨」の詩であった。 我念ふ所の人あり さと 隔たりて遠き / ( \ 鄕にあり 我感ずる所の事あり はらわた 結ばれて探き / 、腸にあり 鄕は遠くして去くことを得ざれども あふ 日として瞻ぎ望まざることなし こ 0 ゅ

9. 谷崎潤一郎全集 第16巻

全面降服調印を以て終了せる由なり。夕刻森田詮三氏定はんをつれて來訪。江良の歸りなりと云ふ。今夜 兩人こ、に一泊、明早朝大阪方面を見舞ひ、詮三氏は今度赴任することになりし名古屋に立ち寄り歸京、 定はんは姫路へ歸る由。予は十三日定はんに同行してもらひ津山へ行くことになる。おみきさん、嫁の美 代女、孫の男の兄も松永より歸る。今夜は十六人の主客なり。美代女と孫とは隣家川田氏方に泊る。夜食 はおみきさん持參のかしはのスキ燒に詮三氏持參の銘酒櫻山なり。予は九時過就寢詮三氏は家人たちと猶 談じっゝあり 五月十日、曇後睛 寒し。予は又懷爐を用ふ。詮三氏と北川氏早朝出發。正午頃襟宗來る。昨今は襟屋を止めて主として衣類 賣買のプローカーをなす由なり。本日も、モミ銀光琳杜若の丸帶、明月櫻の丸帶、りんず羽織、銀通し絽 ちりめん振袖等を托されたりとて示す。大體一點百圓乃至百五十圓の價なり。 ( 襟宗が二割を儲ける。も ちろん切符も不用税金も不用なり ) 予は足部の痛みや、うすらぎたれば午後三時より紳戸に出づ。阪急の 理髪店にて頭を刈り生田藥局に寄る。此の邊は建物疎開の跡を除きては前と變りなし。生田神社の如きは 境内のコマ / \ した商店を取り除けたるため新綠の森の姿美しく莊嚴さ奥深さ前にまされり藥局夫人の紹 介にて隣の書店より漫畫の繪本數册を賣ってもらふ。他に大東亞戦記録畫集一册を買ふ。これは爆彈を弄 びて怪我したる山口氏の長男明さんの人院中なるを見舞はんがための品なり。五時少し前歸宅 開五月十一日、曇 午前九時頃警戒警報ついで察襲警報となる。紀州南部に集結せる四の編隊北上して魚崎上空を通過。高 373

10. 谷崎潤一郎全集 第16巻

すイ \ 艶なり住吉川沿岸の花を見るには前の反高林の家より今の家の方はるかによろし、一枝女今朝生詰 の酒一升持參、片づけの手傳ひをして夜歸る 四月十四日、靑 午前中山口氏夫妻庄司若夫人來訪、淸ちゃん住吉驛に至り明十五日大阪午前十時發急行券と切符を得來る、 予は晝食前家人と後藤楢崎兒山の三軒へ挨拶に廻る、後藤方にては靱雄氏井へ旅行中にて不在、夫人に 面會、又二階の病室に病臥中の母堂を見舞ふ、母堂は昨年東京麻布の前の夫の子平野零兒氏夫人方にて肺 を病み重態に陷りそのま、本年まで持ち越したるところ帝都察襲の恐れあるを以て先般靱雄氏上京、母を 背負ひ湯たんぼをか、へて汽車に乘り辛うじて住吉へ歸宅したる由なり、彼女は前の夫と別れたる後白耳 義人に嫁し靱雄氏を生みたるものにて今も亡夫の遺産なる土地に住す、尤も本邸を人に賣り隣りの借家の つもりで建てたる洋館の方に住みつ、あるものなれども、二階の病室は四疊半の疊敷にて貼り交ぜ二枚折 の屏風をかこひ、床に楠公筆蹟の拓本をかけ流石にゆかしく住みなしたり今迄は左様に感じたることなか りしが病氣に窶れた顏を見れば甚だ西洋人臭き容貌になり居り殆ど白人のお婆さんのやうにて奇異の思ひ をなしたり、睛れたれども風強く、寒き日にて、爆風避けの紙を貼りたる西と南の高窓より午後の日光キ ラ / \ と射し込み風に搖ぐ松の葉かげなども老婆の顏に搖曳す、母堂は床を後ろに半身を起し西日に眞向 ひになりて予等に對面す、多分後藤夫人が氣を利かしたるものらしく、西の窓ガラスを一尺ばかり開けて ありしが「お寒いやうですからお締め下さい」と母堂が云ふので予一寸ばかり殘して締めたり病人は「東 京へ參り孫の世話などをし過勞の結果病気になりました、もはや癈入でございます」「よくお見舞ひ下さ 1 1 一口 330