昭和二十五年三月『月と狂言師』 昭和二十一年十月號「人間」 ( 熱海・魚崎・東京 ) 昭和二十二年二月號「新文學」 ( 西山日記 ) 昭和二十一一年三月號「新潮」 ( 西行東行 ) 昭和二十二年三月號「花」 ( 飛行機雲 ) 昭和二十二年四月「新世間」創刊號 ( 熱海ゆき ) 昭和一一十四年九月號「婦人公論」 ( 終戦日記〈熱海より勝山まで〉 )
天台座主記に據ると、大師に座主の宜命が下ったのは康保三年八月廿七日で、その同じ年の十月廿八日の 夜に火災があり、講堂、四王院、延命院、法華堂、常行堂、文殊樓等の堂宇が燒失したが、「印日ョリ始 メテ造立ノ計ヲ企テ」たとある。そして同四年四月のうちに法華堂を造り畢り、八月以前に常行堂を造り 畢り、安和二年に文殊樓を虚空藏の峻嶺に造立した。ついで天祿元年四月廿一日に再び火を失して惣持院 が燒亡したが、直ちに寶塔並びに門樓の假屋を作營して翌年の四月には恒例の舍利會の事を行ひ、以後年 を逐うて灌頂眞言の兩堂、四面の廻廊等を造り、同二年には講堂の檜皮葺を葺き畢って新造の佛像を安置 し、以前は五間四面の堂であったのを新たに七間四面にした。天延三年には慈覺大師の法界房を改造し、 閣梨の房、並びに雜舍、寶藏、大衆の屋等を造り、その年から始めて正月十四日大師供の事を行ふやう かいげん にし、又横川の中堂を改造して等身の不動明王の像を造り、大會を設けてこれを開眼した。貞元二年四月 の舍利會には七寶の塔二基並びに輿等を營作し、八部衆の裝東三十餘襲、堂莊嚴の具を新調し、ついで神 樂が岡の西、吉田社の北に重閣の講堂を建立し、雜舍數宇を結構したが、これは山に登ることを許されな い女人たちをして如來の舍利を禮拜し、佛綠を結ばしめんがためであった。天元二年四月には地主三聖の 祭事を莊嚴するために唐崎の神殿一宇、鳥居一基、廻廊二宇、雜舍四宇等を新造し、かねて又寶輿一基と りようとうげきす それに附屬する帷帳、障子、赤綱、駕輿、裝東二十具を營作し、供奉の伶人二十餘人をして龍頭鷁首の船 とっ 語に乘って富津の濱より唐崎に至り歌舞の妙曲を竭さしめ、終日樂を奏せしめた。 野又同じ年に西塔の常行堂で不斷の念佛を勸修し、寶塔並びに寶幢院の經藏鐘堂を造り、釋迦堂の禮堂、縁 まごびさし 橋等を造った。又根本中堂は天元々年から孫庇、廻廊、中門等を造り加 ~ つ、、あったが、同三年には先づ しやりゑ
昭和二十四年十一月ー昭和二十五年二月「毎日新聞」
と云ふことになってゐる。そこで筆者が想像するのに、もと / \ 此の婦人は本院の館に仕へてゐた女房な のであるから、恐らくは早くから時平が手を着けてゐなかった筈はなく、平中はそれを知らずにか、或は 2 知りつ、か、三角關係を結んだのであらう。されば、お虎子の一件を始めとして侍從の君の彼に對するさ まる、な惡戯の數々は、ひょっとすると背後で此の女を操ってゐた左大臣の入れ智慧であったかも知れな さうだとすれば、平中を殺したのは時平であると云ふことにもなる。 その七 筆者は前に、平中の歿年は延長元年とも六年とも云はれてゐて、確かでないと云ふことを記した。今、侍 從の君のことが原因で病死したと云ふ今昔の記事に從へば、何となく平中の方が時平より先に死んだやう な感じを受けるが、前掲の後撰集の詞書などを讀むと、矢張平中は後まで生きてゐたのであらうか。だが まあそれも孰方でもよいとして、北 の方奪取事件があってから四五年の後、延喜九年四月四日に、時平が 三十九歳の若さを以て卒去したことははっきりしてゐる。 はやじに 此の左大臣が有爲の材を抱いて早死をしたのは、積る惡業の報いであるやうに當時の人々は見たのである なかんづく が、就中その報いの最たるものは、菅公の怨靈の祟りであるとされたのであった。これより先、菅公が筑 ざんそう 紫の配所で薨じたのは延喜三年二月二十五日であるが、同六年の七月二日には、時平と共に菅公讒奏の謀 議に加はった右大將大納一言定國が四十一歳を以て卒し、同八年十月七日には、これも時平の一味であった 參議式部大輔菅根が五十三歳を以て卒した。而も菅根の場合は、雷神と化した菅公の靈に蹴殺されたこと いうゐ
前唐院を造り、根本經藏寶藏を移築した。これは中堂の廻廊や中門を造るのに平地が少かったので、南岸 の土を以て北谷を埋めるためにさうしたのであった。猶その年に九間四面の食堂、七間二面の雜舍を造っ た。同四年には東塔の常行堂を改造し、本堂を八部院堂の地に移し、勅使房、政所屋、浴室等を造った。 永觀元年には前右大臣師輔の子、時の右大臣兼家が父の志を繼いで大師を尊崇し、横川に伽藍を建立して 惠心院と名づけた。その翌年、印ち大師人滅の年の前年にあたる永観二年には西塔に寶嶂院を造ったが、 僧正傳はその時の逸話を記して日く、 もち 永觀一一年西塔ノ寶幢始メテ土木ノ功ヲ營ム、爰ニ露盤寶鐸ニ須フルトコロノ黄金共ノ足ラザルトコロ卅 ふじはらのためなが 二兩ナリ、和尚素ョリ資貯ナシ、唯佛カヲ仰グ、然ル間奥州ノ刺史藤爲長書信ヲ送ッテ日ク、近曾テ ひら 更ニ野外ニ於イテ經ヲ燒イテ金ヲ取ル、寺主コレヲ認メ 賊國分寺ヲ闢イテ金泥ノ大般若經ヲ掠メトリ、 テ追捕シテ、黄金卅二兩ヲ得タリ、畢竟ノ文畢空ニ歸スト雖、殘ルト「ロノ金ヲ佛事 = 充テント欲ス、 すなは 造塔不足ノ金自ラ此ノ數ニ叶フ、千里ノ合信ニ 仍チ行李ヲ差シテ敢テ以テコレヲ進送スルモノナリト、 滿山驚歎ス、便チ件ノ金ヲ以テ塔婆ヲ莊嚴ス と。先には戒壇を築くために箸豆の曲藝を演じて淺井郡の郡司から入夫の寄進を受け、今度は露盤や寶鐸 の黄金が足らなかったのを、陸奥の國司の贈與に依って成し遂げたりしてゐるが、大師が座主として叡山 を總攬してゐた十九年の間と云ふものは、殆ど絶えず土木工事や建築工事を起してゐた譯で、それは座主 になった年から死ぬ前年まで績けられた。されば承和五年以來たび / \ の失火で數十の堂宇が壞滅し、全 山荒廢を極めてゐたのが、大師に依って着々と昔日の盛觀を取り戻すやうになったので、信正傳は、「造 つかは くだん こゝろばんはうたく おのづか コノゴロ 422
送らせらるとて今にいとまごひ之橋と申候」と。此れに依ると、此の時大師が母を見舞ひに來た場所は故 鄕の三川村のやうであり、近江輿地志略三河村玉泉寺の項にも、その「いとまごひの橋」と云ふものが今 も同地に殘ってゐることを記してゐる。ところで光圓師の慈惠大師年譜に依れば、母が乳野に居を移した のは大師が四十歳で覺惠の跡を襲うて阿閣梨に補せられた年、天暦五年七月上旬であって、それは出家を した延長六年から二十四年を經てゐるが、その間、母は一旦滋賀の里から三川村に戻って暮してゐたので あらうか。猶こ、に云ふ「禁裏より御八講の勅」があったと云ふのが、應和三年の宗論の時を指すのだと 里にゐたことになるの すれば、それは大師が五十二歳の年に當り、その時分にも母はまだ乳野でなく、鄕 である。 ついでながら、出家した大師が始めて母を訪れた時、母が大豆を炒って大師をもてなしたと云ふ話は、矢 張三川村の家での出來事ではないのであらうか。又光圓師の談話にある「箸豆」の話、 大師が母の 供する豆を遠くから箸で受け留めて食べたと云ふ逸話は、何かの書物に載ってゐるのか、或は民間の云ひ 傳へに過ぎないのか、私は出所を詳かにしないのであるが、たヾそれと非常によく似た逸話が、字治拾遺 物語と古事談とに載ってゐるので、或はそれの聞き誤りか作り替へではないであらうかと思ふのである。 字治拾遺のは卷四の最後の項、「慈惠信正戒壇築たる事」と云ふ條にあって、次の如くである。 これも今はむかし、慈惠僧正は近江國淺井郡の人なり、ゑい山の戒壇を人夫かなはざりければ、えっか ざりける比、淺井の郡司はしたしき上に師壇にて佛事を修する間、この僧正を請じ奉りて、僧膳のれう に前にて大豆をいりて酢をかけ、るを、なにしに酢をばかくるぞととはれければ、郡司いはく、あたゝ ころ つまびら 416
四月九日 靜子様 ・仰、も」に 此の短篇は昭和廿一年の夏に書いた舊稿で、予が終戦後の最初の創作であるが、或る事情があって今日まで發表を見 合せてゐたものである。何卒そのつもりで讀んで戴きたい。 ( 昭和廿四年十二月記 ) 300
谷崎潤一郎全集第十六卷 定價一三〇〇圓 昭和四十三年二月二十四日初版發行 昭和四十九年一月十日普及版發行 著者谷崎潤一郎 發行者高梨茂 印刷者白井倉之助 發行所中央公論社 東京都中央區京橋一一ー 電話 ( 五六一 ) 五九二一 振替東京三四
ものであらうか。戦災で家財道具の大半を焼いてしまった私は、殘りの僅かな書類や書物などをも熱海や 作州に置いたま、、殆ど身一つで出て來てゐるので、手もとに何も參考にするものを持ち合はしてゐないが、 又一郎氏藏するところの俳句の雜誌「澁柿」の大正六年二月發行漱石先生追悼號に寄稿してゐる多佳女の 漱石に關する日記「洛にてお目にか、るの記」を見ると、その年の三月二十日頃から四月十六日まで京都 に逗留してゐた漱石は、初めて會った多佳女が氣に人ったものと見えて滯在中たび / \ 彼女と往來し、持 病の胃痛を起した時は彼女の家で二日も病臥したりしてゐる。彼女の日記も亦そのことを記して、「我が 一生の内病気なればこそぎおんのお茶屋で二夜もとまるとは思ひもよらぬこととお笑ひになる、私のうち も先生のやうなお方を病莱のおかげでとまって貰ひました、一生の語り草とみな / \ してしみ \ 語る」 など、云ってゐるので、多分その時分に書いたものであらうと思 ~ るけれども、なほ委しくは往年の漱石 門下の人々、豐隆氏や草平氏などに尋ねたらよく分るに違ひない。私は此の二つの掛軸を前にして、自分 が初めて多佳女に會った當時のこと それは漱石と彼女が會ったよりも數年ま ~ 、明治四十五年の春 に溯る、 を憶ひ出して懷舊の情に堪 ~ なかったが、當日多佳女と關係の深い三條の旅館萬家の主入 金子竹次郎氏に三十數年ぶりで再會することが出來たのは、まことになっかしい限りであった。そのほか 坂東三津五郎、同簔助、山村流の家元山村わか、大阪の播半の女將などの顏も見えたが、來會者はあまり 多からず少からず、雨の日にふさはしいしんみりした會であった。たゞ私よりも舊く多佳女を識ってゐた 筈の吉井勇を始め、文學方面の交友の會する者が少かったのは物足りない心地がした。
既に法皇の胤を宿してゐたと云ふことになる。但し光圓師は、月子姫は單に重賴の許に預けられたのみで、 夫婦關係はなかったかのやうに云はれるけれども、先祖代々之覺では、彼女は饗場家に嫁した後、後の元 三大師である日吉丸の外に、今一人童名彌世丸、後の饗場重房と云ふ子を生んでゐるらしいので、大師の 實父が法皇であるか重賴であるかは別間題とするも、彼女が實際に重賴の妻であった時代があるものと見 ねばなるまい。猶又前記「乍恐慈惠大師」の口上書には、「重賴一子彌世丸家相續二子日吉丸大吉寺ニ而 出家後叡山ニ登リ云々」とあって、彌世丸が長男、日吉丸が次男の如くに記してあるので、さうなるとい よ / \ 落胤説は怪しくなる。たゞわれ / \ が考へて奇異に感じられるのは、大師の日吉丸が十歳か十一歳 母が日吉丸と共に三川村の夫重賴の許を出て滋賀の里に移り住 の時、延喜二十一二年の頃でもあらうか、 んだことで、此のことは、慈慧大僧正傳や大師傳等にも記載があるので、疑ふべくもない。印ち月子姫は 約十年間重賴と同棲してから、夫と別居したのであって、その、ち重賴は四五年を經て、延長三年に死ん でゐるが、月子姫の方は、やがて日吉丸が叡山に登って出家するに及んで、滋賀の里よりも一脣叡山に近 い乳野の里に住み、そこで一生を終ったのであった。これは彼女が饗場の「家」よりも、夫重賴よりも、 又もう一人の子重房よりも、何よりも日吉丸を大切にし、日吉丸のためには他のあらゆるものを捨て、顧 みなかったことを證するもので、饗場家のやうな由緖ある舊家の妻たる者がかう云ふ行爲をし、それを世 語間も敢て咎めなかったとすれば、矢張日吉丸を特別扱ひにすべき理由があったのかとも思はれる。 野字多法皇は承平元年六十五歳で崩御されたので、竹生嶋行幸の時は三十四歳、月子姫は十三歳 ( 前に十二 歳或は十四歳とあったが、天元三年九十三歳で逝去したのなら昌泰三年は十三歳でなければならない ) で、 413