職は乳野安養院妙見菩薩御廟縁起と云ふやうなものを取り出して見せてくれたけれども、内容は既にわれ / ( 、の知ってゐる月子姫の傳記であって、文章も拙く、德川時代にあまり敎養のない入が筆を執ったやう な書きざまで、これもそんなに信を措く気にはなりかねる。われノ \ は又、床の間に妙見菩薩像として、 尼姿の月子姫の繪像が懸けてあるのを見た。此の繪も非常に新しく、明治時代頃に此の邊の田舍の繪師が 描いたもの、やうにしか思はれないが、 でも此の繪像は此の寺の本尊であって、此れと同じものがお堂の 中にも安置してあるのだと云ふから、恐らく此の圖は嘗時の繪師が室想で描いたのではなくて、何か基づ くところがあるのかも知れない。つまり、此のお堂が創建された遠い古い時代に、その頃の佛師に依って 生前の尼の面影に似せた繪像が描かれ、それが煤けたり損じたりする度毎に、原畫を摸寫した新しいもの に懸け換へられつ、何遍か描き繼がれて來たのではあるまいか。さうだとすれば、畫技は拙くても、白衣 觀音のやうに頭から衣を被った此の尼の姿も、多少據り所があるかも知れない。だがそれにしても、此れ は尼の何歳の時の姿を寫したものであらうか、一見したエ合ではせい 五六十歳ぐらゐで、到底九十幾 歳と云ふ高齡の人のやうには思へず、且容貌が老媼と云ふよりは老翁臭く描かれてゐるのである。 しかし此の地に對する私の興味はもと / \ そんなことにあるのではない。私は此處へ來て、此の地の實際 の地勢を知り、一千年前と變らない筈の自然の風物に、 風の匂や土の色や空の光に親しく觸れて見、 昔の母が住んでゐた趾に立って、そこから仰がれる横川の峰が果してどのくらゐの距離に眺められるかを 試して見、昔の母の心持を自分で味はって見たかったのである。幸ひ當日は此の邊の地理や風俗習慣に通 じてゐる村の古老なども見えて、住職や << 君など、交よ説明の勞を取ってくれ、質問に答へてくれたので 434
幹は、以前は誰の住まひであったのかしらんと思ひ、或はこ、、が亡き中納言の山莊ではなかったらうか と云ふことに心づいたいかさま、中納言が逝去してからは誰も住む人がなくて、朽ちるにまかせてある かっ のであらうか。さうだとすれば、嘗て中納言と共に此の山莊に起き臥し、、中納言の死後も何處か此の近 くに庵を結んでゐたと云ふ母も、今は恐らく此の地に住んでゐないのではあるまいか。いかに世を捨てた : 滋幹はそんなこ からと云って、女の身で此のやうな淋しい所に暮らしてゐられはしないであらう。 とを考へながら、耳の奧がじーんとするやうな靜かさの中になほ暫く憩うてゐた。その間にも四邊の暗さ と寂寥さとはひし / ( \ と加はって來るのであったが、一度は母が住んでゐた跡かと思へば、矢張直ぐには 立ち去りかねるのであった。 と、その時、梟の啼く聲に交って、徴かにせ、らぎの音が聞えるやうなので、その音をたよりに、彼は漸 く身を起して遣り水の流れに沿ひながら、池を廻り、築山を越え、植込みの間をくゞって行くと、果して 崖に一條の瀧が懸ってゐた。崖の高さは七八尺もあるであらうか、急な斷崖ではなくて、なだらかな勾配 のところる \ に形の面白い石を配置し、落ちて來る水がそれらの間を屈曲しつ、白泡立って流れるやうに しんし 作られてゐ、崖の上からは楓と松が參差と枝をさしかはしながら瀧の面へ蔽ひかぶさってゐるのであるカ 蓋し此の瀧は、さっきの音羽川の水を導いて來て、こ、ヘ堰き人れたのであらう。滋幹はさう心づくと、 母 のあの、「音羽川せき人れておとす」と云ふ伊勢の歌が胸に浮かんだ。なるほど、此の歌にある「瀧っせ」 滋 は、此の流れを詠んだものであることは明かで、此の山莊が亡き中納言の別業の跡であることは、今は疑 將 少 ひを人れないのであった。 ふくろふ おほ 一う」はい 277
これほどの寶物を獨り占めにしてゐること、世にこれほどの美女がゐることを知ってゐるのは自分だけで、 當人さ ~ もそれをはっきりとは知ってゐないらしいことを思ふと、何となく得意の念の禁じ難いものがあ り、どうかすると、此のやうな妻を持ってゐるのを誰かに見せて、自慢してやりたい衝動をさ ~ 感じるの であった。又飜って思ふのに、もし此の人がロで云ふ通りのことを考 ~ てゐるのであったら、 からの性的不滿などは意に介せず、ひたすらに老いたる夫の命長かれとのみ願ってゐるのが本心であるな ら、 その有難い志に對して自分は何を報いたらよいのか、自分は此の後、たヾ此の顏を眺めるだけ で滿足しつ、死んで行きもしようけれども、此の若い人の肉體を、自分と共に朽ち果てさせてしまふのは 餘りにも不憫であり惜しくもある。で、兩手の間にその寶物をしつかりと挾んで視つめてゐると、いっそ 自分のやうなものは一日も早く消えてなくなって、此の人を自由にさせてやりたいと云ふ怪しい気持にも なるのであった。 「どうなさいましたの」 老人の眼に浮かんだ涙が、自分の睫毛に傳はって來たのを感じると、北の方ははっとして眼を開けたが、 「いや、何でもない、 と、老人はひとりごとのやうに云って口を噤ん / 母 の そんなことがあってから數日後、はやその年も殘り少なになった十二月の二十日頃に、又しても時平の許 から數々の贈物が屆けられた。「大納言殿も來年は更に齡を加 ~ られ、いよ / \ 八十路に近くなられると これは些かながら、そのおよろこびのしる 承るにつけても、縁につながるわれノ \ 共は慶賀に堪へない。 まっげ ミ ) 0 185
今もあるかどうか、當時一高には辯論部と云ふものがあって、私の時代には芦田均、鶴見祐輔、後の住友 重役の三村起一、吉野信次 ( 此の人は私より一二級下であった ) 等の諸君がしばノ \ 雄辯を振ったもので、 就中芦田君や鶴見君の如き、他日議會に雄飛する下地を此の時代に作ったのであったが、私はどうも此の 々 辯論部の學生達の演説と云ふものを好かなかった。なぜと云って、彼等の演説は皆型に篏まったやうに漢 窓文口調の美辭麗句を羅列するので、恰も七五調の朗讀を聽いてゐるやうに上すべりがして實感が作はず、 同 迫力がなく、 いかにも幼稚な莱がしたからであるが、しかし嫌でも彼等學生の演説を聽かなければならな ころがあると思った」と云ってゐたが、私もそれを聞いた時は辰野にもさう云ふ半面があるかと思ひ、何 ひとこま か劇的な感じを受けた。そして、此の純朴な二青年の會話はそのま、小説の一齣になると思ったことであ った。尤もそんなことはあったけれども、此の二靑年はもちろん實際には絶交なんかしたのではない。二 人はその後も親交をつゞけ、藤井がチェッコから歸朝してからは一時辰野の家を借りて住んでゐたことも あったと記憶する。私は此の藤井の人物にも蔭ながら尊敬を拂ってゐるが、中學時代の同級生で彼の外に 後に梶田半古畫伯の夫人 もう一人外交官になった人に北田正元君がある。此の人は北田薄氷女史、 になったあの閨秀作家の弟だったので、その意味で皆から注目されてゐたし、英語が殊によく出來たが、 私とは餘り交際がなく、高等學校以後は一居疎遠になってしまったので、彼がその後南米や中央亞細亞方 面へ大使になって行ったことだけは知ってゐるけれども、最近の消息は何も聞かない。 〇
ってゐたのであった。如才のない平中はかねてからそれに眼をつけ、巧く此の兒に取人ってゐて、或る日 たいのや 此の兒が本院の館 ~ 來、母が住んでゐる寢殿の、西の對屋で遊んでゐるところ ~ 行き遇はして、すかさず 取次を賴んだのであらう。それにつけても、彼が何とかしてその人に近づかうと思ひ、暇があれば此のあ たりをうろ / \ してゐた情況が察しられるが、少年の腕に歌を書いたとは、急の場合で紙などの持ち合は せがなかったのか、紙では却って落ち散る恐れがあったからであらうか。北の方は、我が子の腕に書いて ある昔の男の歌を讀んで、ひどく泣いたが、やがてその文字を拭ひ取って、「うつ、にて」の返歌を、同 じゃうに腕に書き記し、「これをその方にお見せ」と云って我が子を突き遣ると、自分は慌て、儿帳のか げに身を隱した。 今を時めく左大臣の北の方に、こんなエ合にして平中が取次を賴んだのは一度や二度ではなかったと見え て、大和物語には又別な歌が傳はってゐる。 すくせ ゆくすゑの宿世も知らず我がむかし 契りしことはおもほゅや君 北の方はこれにも返歌を與 ~ たらしいのであるが、生憎その歌は殘ってゐない。が、文を通はすことは出 來ても逢ふことは許されなかったので、さしもの平中も次第に望みを失って匙をなげたらしく、やがて此 のの夫人との關係は果敢ない終りを告げたのであったが、さうなると自然、此の好色漢の心は、再び嘗ての もう一人の戀人、あの侍從の君の方 ~ と傾いて行った。それと云ふのが、此の人も左大臣家の女房として、 同じ本院の館のうちにゐるのであるから、夫人の方が脈がないと極まれば、平中としては手ぶらですご あいにく かっ 219
が卒塔婆を携へて代參をしたのが、遂に一つの行事となって今に至るまで繰り返されてゐるのである。當 日は、横川の大師堂の執事がお姿のお身代りと稱して一文字笠を被り、脇差を一本差し、大師の御影を背 負うて卒塔婆を捧持し、大勢の僧侶たちを從へて、午前十時頃までに先づ此の里の古老の家に到着して休 息する。と、土地の善男善女共が手に / \ 鈴を持ち、御詠歌を唄ひながら迎へに行くのであるが、その御 詠歌の文句は次の如くである。 うきことも世に住む程のならひぞと おもひもよらず何なげくらん 此れは元三大師御詠歌と云ふものださうであるが、何分土地の人々はめい / \ がたゞ耳で聞いたやうにし か覺えてゐないので、正確なことはよく分らない。最初の五文字も、或る人は「うきことを」と云ひ、或 る人は「うきことの」と云ひ、「も」と云った人はゐない。次の七文字も「よねすむほどの」と訛って云 力、つもあ ) り ひ、「何なげくらん」も「なぜなげくらん」と云ったりしてゐるが、上に掲げたのは私が假に うかと訂正して見たのである。鈴には撞木が附いてゐて、それで叩いて鳴らしながら行く。此の御詠歌の 行列がお供をして正午頃迄に安養院に着き、妙見堂にある大師の木像の厨子の前に ( 本奪の向って左側の 脇厨子である。右側には不動が安置してあって、此れは終日護摩を焚く ) 此の御影を懸け、一行は庫裡で ちな 晝食をした、める。因みに云ふが、叡山の結界は此の附近は湖岸迄になってゐるけれども、淨結界は飯室 おきて 谷から山上へかけてゞあって、乳野一帶は俗結界と云ふことになってをり、女人禁制の掟はなかったもの であると云ふ。 いひむろ
養不足の結果にて鄕里へ歸らば恢復するならんと思ひゐたるところ聞けば歸國の汽車の中より一脣弱りは じめたるなりといふ。そして昨今は、當地の醫師も全部出征したるを以て近時神戸より疎開したる久世町 の醫師に來診を乞ひ本日午後にその人が來る筈なりといふ。予は此の从態にて出京以來いまだ一度も醫師 の診察を受けずと云ふを聞きて再度吃驚。夫人は生長の家の信者にて醫藥を信用せずとの事なりしがそれ にしても良人の容態を左程重くは考へてをらざるが如し。夫人の話に病人もつい先達迄は起きたり寢たり の从態にて左程にてはなかりしが、數日前より下痢し始め何を食べても身につかぬゃうになりて急に痩せ 衰へたるなりといふ。病人は折々激しく咳き入り物を云ふのも苦しげに見ゅ。東京にて營養不足の生活を せしあまり肺病にでもなりしか、下痢すと云へば或は腸結核などにやとも思ふ。熱はありますかと云へば 本人はなしと云ふ。夫人は何を聞きてもよく分らぬゃうにて明瞭には答へず。ナニこんな病気は一時の事 にてもう直ぐ直りますと本人は云へども予が見ては恐らく再起困難ならんと思はる。それにしてもか、る 妝態にゐることを今日まで何等予に知らせざりしは何故にや。谷崎さんの來ることを千秋の思ひで待って ゐましたと云ふところを見れば予に會ひたくてわざと病気のことを祕しゐたるにや。予は作州には此の人 以外に知人なく此の人を賴りて疎開せしに此の状態にては如何ともし難し。津山には片岡鐵兵の親戚もあ り自分の親戚もあり、勝山にても住宅ぐらゐは何とかすべければ是非予が故鄕へ來られよとのことなりし が今日聞けば鐵兵の親戚と云ひても最早や孫や子の代になり關係うすく此の邊にも適當な家なしと云ふ。 開さうかと思へば谷崎さんよい所を紹介しますよ、私の母の鄕里のこれ / \ とか日蓮宗の寺のこれ / \ とか 9 突然そんなことを云ひ出せども突きつめて聞けば一向取りとめもなきことなり。又此の家の二階二た間が
月と狂言師 考へれば早いもので、わたしたちが終戦を迎へてからことしは既に三年になる。わたしがあの疎開先、作 州の山の奥から京都へ出て來、此の洛東の白川のほとりに家らしいものを構へてからでもまる二年になん / \ とするくらゐである。昔から京都は他國の者には住みにくい土地とされてをり、私もそれは承知の上 で來たのであるが、さう云っても二年近くになるうちにはいっか町内にも顏馴染が出來、話のうまが合ふ 人などもぼつぼっ此の邊に見つかるやうになった。その第一は永觀堂の前の方に住む奥村富久子さん、そ 富久子さんは鈴鹿野風呂氏の門人で俳句をよく こへよく見える藥屋さんで狂言師の武藤達三さん、 する一方、梅若猶義氏について能を學び、去年の秋は室町の金剛の舞臺で羽衣を、今年の春は舟辨慶を演 じた人で、此の秋には觀世流の師範を許され、その披露として菊慈童と葵の上を演ずると云ふことである が、まだ三十にも足らない若さで京都には珍しい女能樂師になる此の佳人のことについては他日改めて書 く折があらう。それから南禪寺の塔頭聽松院にゐる山内さん、その夫人の京子さん、母堂の榮子さんなど の人々。此の一家の人たちは、今二條大橋の西詰に竹葉が旅館料理屋をしてゐる家、あの公卿屋敷か何ぞ のやうな御殿造りの邸宅に數年前まで住んでゐたのださうであるが、戦爭中そこを人に譲って此方へ移っ たのであると云ふ。それと云ふのが、先代の主人が相場師として全盛を極めてゐた頃、今のお寺に庫裡を 建て、寄進したと云ふ線故があるからで、現に部屋借りをしてゐる座敷が昔寄進した建物の一部なのであ った。私たちは、家に飼ってゐた熊と云ふ大が聽松院へ紛れ込んで一箇月ほど山内さんの厄介になってゐ 115
〇 多佳女の情的生活の方面については、私は多く知るところはないし、格別深く立ち入って書き記す興味も 持たない。「績風流懺法」の「おとよ」は「お藤さん」の噂をして、「今はもうよその旦那のおもひもので、 燒物の店を出してやはります」と云ひ、その燒物は「此間お歿れやした畫の先生」の「淺田先生がお書き やした畫が多い」と云ってゐるので、「よその旦那」なる者が淺井忠氏でないことは分るが、それならそ の時分は誰の「おもひもの」だったのであらうか。又一郎氏の話では、最初彼女を落籍したのは中島某と 云ふ人で、多佳女も此の人とは並々ならぬ仲であった。そして一時は實家の大友にも斷りなしに、此の人 我こそは春一ばんのぬすとかな 夫からはもふぬす人のこぬ様に淺井先生のぬす人のかけ物をかけておいた 風流ぬす入のいはれいんねんおもひ出したま & 此の短篇は淺井氏の物故した翌年、即ち明治四十一年の春のことを書いてゐるのであるが、當時の祇園町 あたりの長閑な有様、物靜かな四條通りの陶器店にさまみ \ な風流人が若い女主人を嬲りかたみ \ 立ち寄 った情景ーーー殊に岡本橘仙氏の面目が躍如としてゐて、私などには云びやうのない懷しさを覺えさせる。 こんなエ合で、九雲堂には隨分いろ / —な有名無名の粹客が出人りしたらしいが、私が靑春物語に書いた 大阪の加賀正太郎氏、岸本吉左衞門氏なども、まだ部屋住みの坊々であったその頃からちょいど、此の店 にやって來たと云ふ。
愛情がいかに獻身的なものであったかと云ふことを、理解するであらう。その曉にこそ、彼女は此の老人 あたか に向って無限の感謝と萬斛の涙をそ、ぐであらう。彼女は恰も、故人の墓に額づくやうな気持で、あ、あ の人は私のためにこんなに親切にしてくれた、ほんたうに可哀さうな老人であったと、泣いて禮を云って くれるであらう。自分は何處か、彼女からは見えない所に身を隱して、餘所ながら彼女のその涙を見、そ 、としい人から恨まれたり呪はれたりして暮すよりは、自分として の聲を聞いて餘生を送る。その方が、 もどんなに幸であるか知れない。 自分は昨夜、左大臣のあのしつッこい所作を見てゐるうちに、平素胸中にわだかまってゐたさう云ふいろ / 、、なもや / \ が、醉ひが發するのと共に次第に湧き上って來るのを覺えた。いったい此の人が、そんな にも自分の妻に気があるのだらうか。もしさうならば、自分が日頃夢見てゐたことが、或は實現されるか も知れない。自分が本気で、その計畫を實行に移すつもりなら、今こそ無二の機會であり、此の人こそそ の資格のある人物である。官位、才能、容貌、年齡、あらゆる點から云って、此の人こそ、自分の妻にふ さはしい相手である。此の人ならば、ほんたうにあの人を幸疆にしてやることが出來るのである、と、自 分はさう思ったのであった。 自分の心にさう云ふ考が萌してゐたところ ~ 、左大臣があんなエ合に積極的に出て來たので、自分は一も の二もなかった。自分の念願と左大臣の念願とが圖らず合致したことに、自分はひどく感激した。一つには 降左大臣の恩に報い、一つにはいとしい人 ~ の罪のつぐなひが出來ると思ふと、自分は有頂天になった。そ : あの瞬間にも、お前はそんなことをしてよいのか、いく して咄嗟にあ、云ふ行動に出てしまった。 とっさ ばんこく きざ しぐさ 211