ことを報告す、 (. 品川驛にてトランクを一時預けせんとしたるに、驛前電車の向う側に荷物預り所あり、 驛にはなしと云ふ、よんどころなく驛前に提げて行けば本日は休みなり、京濱電車の二階へ持って行けと 云ふ、依って又電車通りを引返し二階へ行くまでにヘトノ \ になる ) ついで主人夫婦を送り出し後に殘り て熱海より持參の辨當を使はして貰ひ、再び驛前に引返してトランクを受取り省線にて新橋驛まで行き、 又トランクをそこに一時預けして、地下鐵にて上野廣小路に行き、都電に乘らんとしたれども恐ろしき行 列なので徒歩にて大學裏門まで行き、柿沼内科隔離室を門番に問ふと、構内の大分先の方なので、暫くべ ンチに腰かけて休息する、トランクは預けたれども土産物や見舞品や、辨嘗の提げ重ゃいろ / \ のものを 入れたる風呂敷包や籠など數箇あり、その内容はざっと左の如し、 イチゴ一一箱 ( 渡邊氏見舞品 ) 絹紬。ハジャマ ( 笹沼宗一郎夫人への贈物 ) もん。へ ( われら夫婦のもの、 いっ警戒警報があるか分らぬからなり ) 雪駄一足 ( 帝國ホテルにて今夜穿くためなり、電車では足を踏まれるので下駄ならざるべからず ) カイロ灰、旅行案内、家人の化粧品、藥品、注射器等々 此の外に驛に預けたトランクの中にライファン入り鹽ブリ一包、米イワシ干物二包等アリ べンチにて家人携へ來りしポッケット用小罎を出しプランデ 1 を一杯のむ、予も一杯のむ、美味極りなし、 やっと少々疲勞恢復したるを覺ゅ、 ( べンチの側に胸像を供出したる臺石あり ) それより殆ど構内の反對 側の端にある隔離室に行く、階下八號が渡邊氏の室なり、渡邊氏は髯がボウ / 、、と生え、左の眼が少し張 314
き合せ、牛肉のいためもの、海參、鷄肉のテンプラ、鰡等々皆相當に美味にてマヤカシにあらず、酒はわ づかに六合しかなく不足せしところ越石氏方より又少々屆けてくれたり、此の外に持參の飯を炒飯にして 3 ハンドバッグ、衣裳等々を分け 貰び皆滿腹し愉快に談笑す、宴終って越石氏方を訪間 ( 予は初對面なり ) てもらひ此處にても愉快に談笑して十時頃歸る、信子は「今夜は語り明かすのだ」など、云ってゐたが間 もなく自分だけ床に人る、予も二階に上り就寢、家入と重子さんのみ荷造りを徹夜でしてゐるらし。一枝 女も亦今夜から泊り込みに來る 四月十五日、睛 六時起床、本日も風ありて寒し、平松の小母ちゃん、おみきさん、平井さん、山本のおっさん等手傳ひに 來る、黑瀬夫人も挨拶旁よ出發を見送りに來、風邪を引いてゐる雅子孃も熱を冒して來る、八時半家入と 予とは人力車で、山本のおっさんは自轉車に荷物を積んで、他は皆徒歩で出る、住吉驛に山口夫人、庄司 若夫人、山口氏令息令嬢 ( 悅ちゃん ) 庄司氏の武雄ちゃん等見送に來て待ってゐる、山口氏の女中も來て 蔭にかくれて激しく泣いてゐるのを、家人は何事とも分らずに頻に慰め、山口夫人に「女中さんどうした んでせう、泣いてはるわ」と云ふと「何を仰っしやるのよ、あなたにお別れするのが悲しくて泣いてるの よ」と云はれる。魚崎の家は平井さんが留守番をし、他は皆送って來たが、信子と山口家の女中とは驛よ り引返し、他は大阪驛まで附いて來る、橋詰氏夫妻も住吉驛に早くより來て待ってゐたが主人は他に約東 あればとて去り夫人のみ予等について大阪驛に來る ふるさとの花に心を殘しつ、
一つ空席が出來、予はそれを占めたり。今タ山縣別莊へ電話をかけに行きたる際左の足を捻挫したりしが 今に至りて次第に疼き始めその苦痛のため眠る能はず。濱松邊にて又一つ室き家人とヱミ子と交代でかけ る。予は家人に賴み足に濕布してもらふ。又ドルマルギンを飮む。試みに便所に立ちて見るに歩行頗る困 難にて物にまらざれば歩を運び難し。名古屋驛にて空席でき重子さんも皆腰かける。予は妙布を持參せ しことを思ひ出し濕布に代へる。それより少しづ、ゝ樂になる。名古屋驛にて窓外を望むに上弦の月室に沈 みかけ、驛附近は眞に一物も止めず燒野原となりをれり。それより少しトロ / 、とす 五月七日、靑 關ヶ原附近にて眼覺むれば既に夜明け午前四時頃なり。米原を過ぎて近江路に人れば新綠の察美しく睛れ て眞になっかしき關西の景色なり。木々の枝ぶり若葉の色等到底關東邊のものならず矢張此方へ逃げて來 てよき事をしたりと思ふ。熱海の小庵の柿若葉も美しかりしが此處のは一脣鮮かなり。熱海を立っ時は流 石に後髮を引かる、思ひもせしが此れにて未練なく關東を思ひ切るを得たり。大津より京都に人る。沿道 の風物も街衢も東山西山も、昔の通りなり。たゞ僅かに建物疎開をせるところが二三ありしのみ。東西本 願寺、東寺の塔、賀茂川桂川の流れ等昨年九月以來のなっかしき景色なり。山崎高槻邊も全く變りなく素 睛らしき初夏の景色なり。八時大阪驛に着。幸にして警戒警報だにも遇はず、大阪驛頭より見たる街上も 何等變りなし。こ、にて漸く赤帽をとらへ省線電車にのりかへて住吉に下車。荷物は乘合の産業戦士に助 開けてもらっておろす。予の足もや、痛みを減じたり。人力車一一臺を得、一臺に荷物、一臺に予が乘り家人 以下は徒歩にて魚崎宅に至る。布谷の章ちゃん、信子、宗像さん、平松のをばちゃん、おみきさんの良人 一三い 371
着て行く、甲子園はところる \ に水溢れたり、和田氏方に至れば、弟は骨と皮ばかりになり臥床し居れり、 一時間程話し これで六囘目の出血 ( 胃潰瘍 ) ありし・由なり、和田氏の方はわりに元気にて起きてゐたり、 辭去す、十二時一寸過ぎなり、夕刻一寸散歩せるところ庄司次郎夫人、和辻氏夫入に會ふ、夜はビフテキ に數の子、ビ 1 ルなり、食後和辻氏を訪問九時歸宅す 九月十四日、靑 午前中津田氏來訪、明日一枝女をセファランチン注射のため、津田氏か、りつけの藪内と云ふ醫師に紹介 してもらふやう賴む、尤もその前にレントゲンを取っておく必要ある由に付これも津田氏に賴む、明午後 二時三宮驛にて落合ふ約東なり 九月十五日、曇 十時頃一枝女來る、昨日速達を出したるところそれは見ず、酒とウイスキ 1 を持參せるなり、酒は東自慢 の七年を持參、公定 の藏出し一升にてこれは米四升と交換にて信子に約東せるもの、由、予はサントリ 1 三五圓のところ何と二百圓の由なり、尤も十五圓だけは引かせ百八十五圓にてよろしとなり。 ( 中略 ) ア サ病気、信子配給にて多忙に付、夜食は東亞樓にて取ることにし、予は一枝女を伴ひて二時三宮驛に至り 津田氏に會ふ、ところでレントゲンは午前中でなければ駄目なことが分り、今日は六時に靑年會館 ~ 出張 する藪内氏の診察を受けるだけであると云ふ、依ってその前に東亞樓 ~ 行くことにし、四時半津田氏と生 開田藥局で落合ふことにして一旦別れる、予は一枝女を驛に待たしておいて、一寸扇港共和に行き靑谷の家 ~ 戰時保險をつけることを賴んで驛に引き返し、一枝女を伴ひて生田藥局に至る、一枝女此處より尼崎の 347
ず且二枚にては如何ともせん方なし。そのうちアサ又熱海驛に行き昨日申告したる分神戸行三等二枚を得 て歸る。これにて漸く五枚と、のひたる譯なれども生憎雨降り出したり。やがて田岡典夫氏挨拶に來、 ろ / \ 小包など手傳ってくれる。結局今夜準急大阪行午後九時三九分熱海發にて立っことにしようかとの 案が出る。幸びにして雨止み時々薄日照り出したり。夜行の方昨今は室襲に對し ( 殊に小型機の機銃掃射 に對し ) 安全にてもあり昨夜東海道來襲の直後なれば今夜は大丈夫ならんとの説も出づ。依って大體これ にきめる。田岡氏の盡力にてタキシ 1 が一臺七時に來宮神社前まで迎へに來ることになる。網代よりおろ くさん土産のシラスポシと鯖干物二十尾持參、手傳ひに來る。梅園のをばさんさゞえの見事なるものを持 參、これも手傳ふ。山縣別莊のをばさんより倉出しの酒二合餘もらふ。夜食は戀月莊よりヒラマサ刺身サ ハタ燒を取りこれにサザ工なり。おろくさん一足先に迎への自動車に荷物をのせ熱海驛に至る。和子孃 東京より七時過來着す。八時半頃松平家の女中おしげさんに跡を賴み出發。和子さん、戀月莊のマアちゃ ん、梅園、山縣のをばさん、アサ等見送りて熱海驛迄徒歩す。 ( アサは二三日後に殘りてあと片附けをし て來ることになる ) 室よく睛れたり。驛に至れば、田岡氏も見えたり。予等四人にて荷物十三四個あり。 萬一あまり滿員の節は一日一引返し明日再出發のこと、す。入場券を賣らざるを以て來宮及び網代の切符を 所有する和子さんおろくさん山縣のをばさんアサのみフォ 1 ムに人る。幸にして汽車は左程込んでをらず ( 此の汽車はたった一つしかない準急夜行にて東京にては指定券が入用なるため非常に込むとの話なりし が却ってそれ程にてはなかりし ) 空席はなけれども便所に行けないと云ふ程ではなし。予と家人とは通路 に腰かけたりすわったりする。予は下駄の上に防室頭巾を敷きてかけ家人は風呂敷包にかける。靜岡にて 370
九月四日、肖 予は六日に岐阜と關西へ出發することにきめ、その準備をする、あゆ子より來書、また東京にゐる由なり、 3 疎開の荷まとめ中々出來ず困ってゐるところへ c 子さんより來書、小田原の方が都合が惡くなりたる由、 又東京はいよ / \ 何もなくゴマ味と御飯に醤油をかけてたべてゐる由なり、依って重子さんの歸京さる 、に托し、ムツの乾物、ニシン、ワカメ、野菜など少々屆ける、又今度熱海に別に家を借りるにつき、疎 開するなら當地に來るやう手紙を書いて托す、重子さん二時三十九分にて立っ 九月六日、睛後雨 一番にて出發、家人來宮驛まで送り來る、二食分辨當持參、十時頃車中にて朝食を喫す、白米、玉子燒、 栗、金平牛蒡等、栗は初物なり、リンゴ一個つきたり、濱名湖邊より雨降り出したれど車の中は少しも涼 しくならず、十三時四十分岐阜下車、驛に四十近き奥様風の人水野柳入氏より賴まれたりとて迎へに出て ゐる、昨今岐阜八幡間の切符入手困難と考へ、豫め水野氏に賴み置きたるなり、八幡行連絡にはまた二時 間以上もありとの事にてその人にす、められ、その人の家に人力車にて至る、 ( 驛前旅館は書は休みなり ) 予は昔一二囘淺野屋に來たことあり、どうも町があの時の遊廓のやうに思へたりしが話すうちにその婦人 は藝者なりしと知れたり ( 婦入自ら云ひ出したるなり ) 、違ひ棚に英靈の寫眞あり、聞けば婦人の弟なり と云ふ、柳人氏筆の鮎の色紙兩陛下を中心に明治大帝を始め、竹の園生のおん方々の省像を集めたるもの 額になりてか、り居れ り、うどんを御馳走になりたれば、遂に書の辨當は開けるに至らず、三時四十分頃 同家を辭し、更生車にて驛に至り四時十六分發に乘る、郡上八幡に着きしは七時過ぎなり、水野氏迎へに
れて松井氏の桃山の別莊に行く、 ( 惠美子は外出ぎらひにて行かず ) 菅氏の宿所小林別莊は熱海ホテルへ 降りて行く坂の中途にあり、海を見おろして日あたりよき三階だての家なり、表札には「小林長兵衞」と してなく「何某療養所」と記しあり、徴用避けのためなりと云ふ、菅氏は大阪朝日の注文にて菊池千本槍 の大作を揮毫中なり、まだほんの下繪ができかけた程度なり、夕刻辭して歸らんとすれば伊豆山相模屋の 坂の途中なる「大濱」と云ふ小料理屋に案内されこ、にて一時間程酒を酌む、熱海驛まで七日頃の月を蹈 んで歸る、菅氏も送って來、驛にて別る、温かにて關西ならばお水取が濟んだ時分の春の夜の気分なり、 ( 畫伯月下を歩しながら、こんな時にも戦爭をしてゐるんでせうな、こんな日もいくさをするか芳野山と 云ふ、中々よき所ある畫人也 ) 來宮行の汽車まで一時間程ありしかば更生車とやらにて來宮訷社のほとり まで來、そこより歩いて歸る、七時過頃なり、渡邊明氏は夫人を殘して一足先に予の留守中歸京す、大野 家より借り來りしタマと云ふ猫が鼠を二匹取りしとて大騷ぎなり 正月六日、睛 午前十時寒暖計四十六度にして寒し、此の日の朝家入、渡邊夫人、淸ちゃん、惠美子歌舞伎座見物のため 上京、午前八時一六分の汽車の豫定なりしが間に合はず九時一五分に乘る、間もなく熱海驛より電話あり 芝居の切符を忘れたからナツに來宮訷社前まで持って來てくれ、重子夫人が驛より自動車にて取りに引返 すからと云って來る、あはれそれでは十時五五分熱海發の汽車に乘ることになり歌舞伎座へ着くのは二時 頃ならん、晝の部は正午より四時頃までの筈なれば既に大半濟みたる後へ行くことになるべし、折角樂し みにしてゐたのにと気の毒に思ふ、 ( 歌舞伎晝の部は道明寺、鏡獅子、人噺小判一兩ナリ、鏡獅子は間に 304
御飯を炊いてもらひ罐づめをあけ、得能家心づくしの吸物と漬物と辨嘗の菜の殘りにてタ食す。食後人浴。 英國製ウイスキーを開けて飮み、到着の寢具を出して十疊の間に眠る。池におつる雨の音佗びし。因に云 ふ此の御殿は明治初年に城より此處に移し建てしもの、由にて愛山宕々庵と號す。床の間に松平康倫公の 書「愛山」の軸をかけその上に確堂公書宕々庵の額あり。六疊の間に愼由公夫人靜儀の和歌松上の霞「山 は今朝霞のきぬにつ、まれて千代の色そふ松の村立」の額あり。彦根の八景亭に似た感じなり 五月十六日、靑 朝食前愼由公及び靜儀夫人の墓に參り食後東照宮を得能氏案内にて參拜す。得能氏はこれらの廟や祠の番 をしつ、暮すもの、如し。それより得能氏案内にて予と家人と兩人少しく街を見物す。德守禪就に詣で平 沼邸の前などを通る。午後北川氏來着。荷を解き配給米驛留荷物の取寄せなど自轉車を借りて手傳ってく れる。 ( 下略 ) 五月十七日、曇 予と家入と北川氏三人午前七時二十七分發にて月田に行く。岡氏訪問のためなり。氏は月田の町會議員に て夫人の弟に當る土井曻氏方に疎開せるなり。本日は曇りて寒かりしが月田驛に下車せるところ津山より 又寒く風さへ添ひて殆ど冬の如し。土井氏宅は驛より見ゆる所にて直ぐ知れたり。岡夫人出で來り予等を 案内す。通されたるは意外にも岡氏の病室なり。氏は炬燵に脚を人れ枕を堆くして薄暗き部屋に仰臥しつ 、あり。衰弱甚しく息づかひ激しく瞳据わりて全く今日明日を知れぬ重態の容貌なり。先月熱海に見えし 時にも殆ど見違へる程に痩せたるに吃驚したりしが當入は不足にて心臟脚莱になりたりと云ひ、予も營 378
し人力車も來らず。今日のは四六七機にて大阪灣上空を高々度にて美しき飛行機雲を曳きつ、いっ迄も 旋囘す。何の目的にや不明なり。爆彈は此の附近には投下せず。警報いまだ解除にならざる様子なれども 餘り長ければ出て家に戻り朝食を取る。庄司春子夫人ミネちゃんを抱きて來訪、昨今は寶塚佐渡島氏方に 疎開中のところ一寸歸宅せる由、美しき綠のスヱ 1 タ 1 にヅボンなり。人力車來り荷物を送り出す。晝食 後山口夫入來訪、これは平結城の防察服裝なり。そのうち迎への俥來り一時半出發住吉驛に行く。予は足 部いまだ不自由に付俥にて他は徒歩なり。章ちゃん、信子、伊ちゃん、 ( 章ちゃんの長男伊ちゃんは本年 國民學校の一年生なり。此の兒快活にて甚だ愛らしく予と仲好しになりたり。予は久振にて此の兒をから かひっ、此の兒の語る大阪辯に快感を覺えたり。予を慕ひて一絡に津山へ行かうなど、云ふ。本名は伊 忠 ) 平松のをばちゃん等皆送り來る。おみきさんは予等と同行。松田老人は三宮まで見送る。住吉驛のラ ヂオにて小型機高知方面に展開中なるを知る。三宮二時四十八分發姫路行に乘る豫定なりしに二時五分發 廣嶋行を捉へ得たるを以てそれに乘る。幸に皆腰かけたり。神戸は元町西部より兵庫にかけ焼けたれども なほ市の半ば以上は無事なり。明石も鐵道の沿線に多少の被害を見る。四時頃姫路着。俥二臺を捉へて北 川氏方に至る。驛前の家屋少々疎開したれども流石にこ、は昔ながらの城下町なり。姫路は今一流の旅館 なき由にて西鹽町吉野屋といふに泊る。夕食は持參の辨當なり。二階座敷六疊と八疊の間を使ふ。廊下に 出づれば舊幕時代の家並が見え、寺の丸瓦の甍に銀杏の樹など見ゅ。風呂も何もなければ持參のブランデ 1 を飮みて眠る 五月十五日、雨 376
今朝も京都へ行かんかと思ひ居る折しも種さんより電話、浸水以來電話も不通なりしため失禮せり、今日 午後參上すべしと云ふ、午後三時頃種さん見え勸銀借り出しに必要なる權利書三通その他書類と認め印を 渡す、普通は二週間ぐらゐかゝるが一週間にてやって貰ふやうに賴みたりと云ひて歸る 九月二十一日、睛 一昨日嵐山にて求めたる繪葉書に嵯峨行のことを書きて家人に送る、七時過ぎ住吉驛より京都に行く、十 時半頃北白川吉井氏宅に至れば昨日轉居したる由にて岡崎圓勝寺町とやら、仁王門停留場の近くなる由、 隣家の冩眞屋にて聞く、ついでに小倉町五〇川田順氏を訪ひたれどもこれも不在、此の邊鋪裝道路の路端 仁王門に至り下車、吉井 にソバの畑ありソ。ハの花が咲いてゐる、銀閣寺終點まで歩いてくたノ ( 、になり、 氏新宅は疏水の岸を一寸南へ入りたるところにあり、今度の方が大分出人りに便利なり、夫入いで來り只 今そこまで出かけましたが二三十分のうちに必ず歸りますからと云はれ、餘りくたびれたればまだ荷物の 散らかってゐる座敷に通り休ませてもらひ、その間に辨當を使ふ、十二時前なれども早起きして歩きたる せゐか室腹を感じつ、ありしなり、夫人手製の柴漬と云ふものを出してくれる、本日は彼岸にて途中省線 電車にても驛々より辨當持ちの老女たちが參々伍々打ち連れて乘れり、市中も常より相當人出あり、予は 今日のやうな日には西本願寺へでも參詣人の群衆に交りて行ってみようかと思ってゐたところ、本日は西 、間もなく歸宅せる吉 本願寺にて動王僧の法要及び菊池寬氏等の講演ある旨ところる、に貼り出してあり 開井氏も二時より西本願寺へ招かれてゐると聞き、誘はる、ま、に同道す、七條鳥丸より歩いて行く、太閤 の伏見城の遺構の一棟なる雁菊の間に通されて暫く休憩す、隣室は鴻の間にて上段秀吉の座席は今もその 一三ロ 351