工合にブチになったのだと云ってゐたが、半年もすると皮膚は元に戻ったけれども、花柳病は完全には拔 けてゐなかった。「お蔭で淋病は根だやしになったが、梅毒の方は直り切らねえ、冬になると出て來やが る」と、よくさう云っては痒がってゐることがあった。 私にはこの庄七叔父と令の伯父の外に、父方に一人と母方に三人と、私の知る限りでは六人の伯父叔父が あったが、私はこの「道樂者の叔父」がいろ / \ の意味で甚だ私に近似してゐる人間であったやうに思ふ。 私はこの叔父には幼い時から特別な親しみを持ってゐた。个の伯父は私に學費を出してくれた恩人ではあ るが、孰方かと云へば恐い伯父であった。他の伯父叔父たちは、年齡の相違があるのでそんなに接近した ことはないし、又相手にもされなかったが、気さくな庄七叔父は子供の私に冗談を云って笑はせたり、團 十郎や菊五郎の藝の面白さを理解し得ない時分から、私を誘って方々の芝居へ連れて行ってくれたりした。 この叔父が妻を追ひ出して柳橋のお壽美を家に引き入れた時にも、私には子供ながらお壽美の美しさが分 ったので、叔父にひそかなる同情を寄せてゐた。私は叔父がひとかどの男前で、所謂「好男子」の部類に 屬してゐることも知ってゐた。私の母には二人の姉と四人の弟があったが、それら六入の兄弟姉妹のうち で、母の顏だちによく似てゐるのはこの叔父一人だけであった。叔父は又、前から新小説や文藝倶樂部の 出購讀者であったが、私が物を書くやうになってからは、「新思潮」時代から始めて私の物をよく讀んでく 思れた。これは明治三四十年代の、文化の程度の低かった下町の町人育ちとしては、珍しいと云ふほどでは 不ないにしても、先づは奇特と云ってよかった。町人の子は富裕な家の總領息子でも、小學校を出るか出な 9 いかで丁稚奉公に行かされるのが習はしであったから、叔父もそれ以上の敎育を受けた筈はないのだが、 どちら
這ふのを見るやうに見るだけで直ぐべ 1 ヂを伏せる。が、今日はべ 1 ヂ面に何か猥褻な寫眞らしいものが 何枚も貼ってあるのに氣がついた。私は慌て、眼を閉ぢ、いつもより一脣急いでペ 1 ヂを伏せた。一體あ : 私に見せる れは何だったのだらう。あんな寫眞を何處から持って來、何の目的で貼ったのだらう。 のが目的なのではあるまいか。あの寫眞に寫されてゐる人物は誰なのだらう。突然私に、或る甚た厭はし ゝこ。、ツと明るくなったやうな感じ い想像が浮かんだ。此の間ぢゅう、夜中私は夢の中で、時々室内が俄力。ノ を抱いたことが一二度あった。當時私は、誰かゞフラッシ一一を用ひて私を撮影しつ、あるやうな幻影を見 てゐるのだと思ってゐた。その「誰か」は、夫であるやうな氣もしたし、木村さんであるやうな気もした まさ こともあった。しかし今考へると、あれは夢や幻影ではなかったのかも知れない。事實は夫が さう云へばいっぞや、「お前はお前 か木村さんである筈はない、 私を寫してゐたのかも知れない。 自身の體がどんなに立派で美しいかと云ふことを知らずにゐる。一度寫眞に撮って見せてやりたいね」と 云ってゐたことがあったのを思ひ出す。さうだ、きっとあの寫眞は私を撮ったものなのだ。 : 私はときる、昏睡中に、自分が裸體にされることをボンヤリ感じてゐる。今まではそれも自分の妄 想ではないかと思ってゐたけれども、もしあの寫眞が私のものであるとすれば、矢張事實だったのである。 しかし私は、自分が眼覺めてゐる時には許す譯に行かないけれども、知らないうちに寫されるのなら許し ても差支へないと思ふ。淺ましい趣味ではあるけれども、夫は私の裸體を見ることが好きなのであるから、 せめて夫に忠實な妻の動めとして、知らないうちにハダカにされることぐらゐは忍耐しなければいけない と思ふ。これが封建時代の貞淑な女房であったら、妻が夫の命に服するのである以上、どんなに忌まはし 318
の書物がペ 1 ヂを開けて置いてあり、それに眼を曝してゐるやうな姿勢を取ってゐるけれども、 際には何も讀んでゐるのではあるまい。多分夫の頭の中は、私が出かけてから歸って來る迄の數時間の間、 私の行動を知らうと思ふ好奇心で一杯で、他事を考へる餘裕なんかないであらうと想像される。尤もその 間に、夫は必ず茶の間へ下りて用箪笥の抽出から私の日記帳を取り出して盗み讀みすることは間違ない。 だが生憎と、夫は私の日記帳がそのことに關して何も語るところがないのを發見するであらう。私はわざ とこ、數日間の行動を瞹味にし、「午後より外出、夕刻歸宅」とのみ記してゐる。私は出かける時、二階 の書齋に上って行って障子を細目に開け、「ちょっと出かけて來ます」と挨拶してコソコソと逃げるやう に階段を下りる。どうかすれば階段の途中から聲をかけてそのま、出て行く。夫も決して私の方を振り返 らない。「うん」と微かに頷くこともあり、その返辭も聞えないこともある。しかし私は、夫に私の日記 帳を盜み讀む時間を與へるのが目的で外出するのでは、勿論ない。私は或る會合の場所で木村さんと逢っ てゐるのである。どうしてさう云ふ方法を取るやうになったかと云ふと、私は白晝健康な太陽光線の照っ てゐるところで、些かもブランデーの酒氣を帶びない時に、木村さんの裸體に觸れて見たかったからであ る。私は關田町の家で、夫や敏子のゐない所であの人に會ってはゐるけれども、いつも最も肝要な瞬間、 肌と肌とを擦り着けて相抱き合ふ時になると、たわいなく泥醉してしまふのである。嘗て一月卅日 の日記に書いたこと、「私が幻覺で見たものは、果して實際の木村さんなのであらうか」と云ふ疑問、又 三月十九日の條に書いたこと、「木村さんかと思ふと夫であったり、夫かと思ふと木村さんであったりす るあの裸體を、一度夫に邪魔されない時に、此の眼で見けてみたい」と云ふ好奇心が、いまだに滿たさ 343
覆ひを被せた。 寢室に螢光燈などが置いてある譯はないのだが、夫は書齋のデスクにあるのを持っ て來たのだ。夫は螢光燈の光の下で、私の體のデティルを仔細に點瞼することに限りない愉悅を味はった 3 のであらうと思ふと、 私は私自身でさへそんなに細かく見たことのない部分々々を夫に見られたの かと思ふと、顏が赧くなるのを覺える。夫は餘程長時間私を裸體にしておいたのに違ひなく、その證據に は、私に風邪を引かせまいために、 さうして又眼を覺まさせまいために、 ストーブを眞赤に 燃やして部屋を異常に煖めてあった。私は夫に弄ばれたことを、今になって考へると腹立たしくも恥かし カ く感じるけれども、その時はそんなことよりも頭がガンガン疼くのに堪へられなかった。夫が、 ドロノックスかルミナ 1 ルかイソミタールか、何か睡眠劑だったのだらう、 水と一緖にタブレット を噛み碎いたものを口うっしに飮ましたが、頭の痛みを忘れたいので私は素直にそれを飮んだ。と、間も なく私は又意識を失ひかけ、半醒半睡の状態に入ったのだった。私が、夫ではなくて木村さんを抱いて寢 てゐるやうな幻覺を見たのはそれからであった。幻覺 ? と云ふと、何かばうっと今にも消えてなくなり さうに空に浮かんでゐるもの、やうだけれども、私が見たのはそんな生やさしいものではない。私は「抱 いて寢てゐるやうな幻覺」と云ったが、「やうな」ではなく、ほんたうに「抱いて寢てゐ」た實感が今も なほ腕や腿の肌にハッキリ殘ってゐるのである。それは夫の肌に觸れたのとは全く違ふ感覺である。私は シカと此の手を以て木村さんの若々しい腕の肉をみ、その彈力のある胸板に壓しつけられた。何よりも 木村さんの皮膚は非常に色白で、日本人の皮膚ではないやうな気がした。それに、 二の、、・耳・カ ことだが、 : よもやよもや夫は此の日記の存在を知る筈はないし、まして内容を讀む譯はないと思ふ
び、鎬を削り合ひ、どうにもならない勢に驅られて夢中でこ、まで來てしまったのである。 こ、で私はこんなことを書いてよいか惡いか、夫がこれを讀んだ場合にどんな結果になるか分らないが、 體のエ合が寒心すべき状態にあるのは夫ばかりでなく、實は私もほゞ同様であることを書きとめて置かう と思ふ。私がそれを感じたのは今年の正月末頃からであった。尤も前に、敏子が十ぐらゐの時に二三度喀 血した經驗があり、肺結核の症状が二期に及んでゐると云はれ、醫師に注意を促がされたことがあったが、 さ、つだ、 案ずるほどのこともなく自然に治癒してしまったので、今度もそんなに気にしてはゐない。 あの時も私は醫師の忠告を無視して不養生の限りを盡したのであった。私は死を恐れない譯ではなかった が、私の淫蕩の血はそんなことを顧慮する隙を與 ~ なかったのであった。私は死の恐怖に眼を閉ちて一途 に性の衝動の赴くま、に身を委せた。夫も私の大膽さと無鐵砲さに呆れ、今にどうなるであらうかと案じ ながらも結局私に引き擦られて行った。運が惡ければもうあの時に私は死んでゐたのかも知れないのだが、 今度も私は、正月の末に豫感があり、時々胸 どう云ふ譯かあんな亂暴をしながら直ってしまった。 がむず痒いやうな生温いやうな感じを覺えたことがあるので、變だと思ってゐたのであったが、二月の或 る日、此の前の時と全く同じ泡を交へた鮮紅色の血液が痰と共に出た。分量は多くないのだけれども、さ う云ふことが二三囘っゞいた。今は一時的に治まってゐるやうだけれども、いつまたあれが始まるかも知 れない。體がだるくて手のひらや顏が妙に火照るところを見ると、熱があるに違ひないと思ふけれども、 私は測って見ようとはしない。 ( 一度測ったら七度六分あったので、それきり測らないのである ) 醫者に も診て貰はないことにしてゐる。盜汗を掻くことも始終である。此の前の經驗に徴して今度も大したこと 350
「僕ハ嫉妬ヲ感ジルトアノ方ノ衝動ガ起ル」、 とは、「僕ハソノ嫉妬ヲ密カニ享樂シッ、アッタ」、 ー等々とあるの 「ダカラ嫉妬ハ或ル意味ニ於イテ必要デモアリ快感デモアル」 ( 一月十三日 ) で明かであるが、もうそのことは一月一日の日記の中でうす / \ 私には想像出來たのであった。 「私は夫を半分は激しく嫌ひ、半分は激しく愛して 六月十日。 : 八日に私はかう書いてゐる。 「だからと云 : 」と。さうして亦かうも書いてゐる。 ゐる。私は夫とほんたうは性が合はない : って他の人を愛する気にはなれない。私には古い貞操観念がこびり着いてゐるので、それに背くことは生 れつき出來ない」、 「私は夫のあの : ・ : : : 愛撫の仕方にはホトホト當惑するけれども、さう云って も彼が熱狂的に私を愛してゐてくれることは明かなので、それに對して何とか私も報いるところがなけれ ば濟まない」と。亡くなった父母に嚴しい儒教的躾を受けた私が、假にも夫の悪口を筆にするやうな心境 に引き人れられたのは、二十年來古い道德觀念に縛りつけられて、夫に對する不滿の情を無理に抑壓して ゐたせゐもあるけれども、何よりも、夫を嫉妬せしめるやうに仕向けることが結局彼を喜ばせる所以であ り、それが「貞女」の道に通ずるのであることを、おばろげながら理解しか、ってゐたからである。しか し私はまだ、夫を「激しく嫌」ふと云ひ、「性が合はない」と云ってゐるに過ぎず、すぐそのあとから 「他の人を愛する気にはなれない」、夫に「背くことは生れつき出來ない」と、弱音を吐いてゐるのである。 私は既にその時分から、潜在的には木村を戀しつ、あったのかも知れないが、自分ではそれを意識してゐ なかった。自分は夫に貞節を盡さんがために、心ならずも彼の嫉妬を煽るやうな言葉を、恐る / \ 、それ 395
いイヤらしいことであっても、進んで云びつけに從ったであらうし、從はなければならなかったであらう。 まして私の夫は、さう云ふ気狂ひじみた遊戯に依って刺戟を受けるのでなければ、私を滿足させるやうな 一面私は、貞淑 行爲をなし得ないのであるとすれば尚更である。私は義務を果たしてゐるのみではない。 で柔順なる妻であることの代償として、私の限りなく旺盛なる淫慾を充たさして貰ってゐるのである。そ れにしても夫は、何故私を裸體にするだけで足れりとせず、それを寫眞に撮った上、恐らくは私に示すの が目的で、その寫眞を引き伸ばして帳面に貼ったりするのであらうか。極度の淫亂と極度のハニカミとが 一つ心に同居してゐる私であることを、最もよく承知してゐる夫ではないか。さうして又、夫はあの引き 伸ばしを誰に依賴したのであるか。あ、云ふものを他人の眼に觸れさせてまで、そんなことをする必要が 何處にあったのであるか。それは私に對する單なるイタヅラか、それとも何か意味のあることなのか。い ニカミ癖を矯正してやらうと云ふ つも私の「お上品趣味」を冷やかしてゐる夫として、私のつまらないハ 意圖なのか。 三月十日。 ・コンナコヲコ、ニ書イテョイカ惡イカ、妻ガコレヲ讀ンダ場合ニドンナ結果ニナルカ疑 ャウナ気ガシテヰル。 止ノⅢカラ心身ニ或ル種ノ異从ヲ來タシッ、アル 問ダガ、僕ハ白状スルト、ヒリ ハ、ソレガソンナニ大シタコデモナイノイロ 1 ゼニ過ギナイヤゥニモ思ヘルカ ラダ。本來僕ハ必ズシモアノ方ノ精力が常人ニ劣ッテヰタ譯デハナイ。ダガ中年以後、妻ノ度ハヅレテ旺 盛ナ請求ニ應ズル必要ガアッタタメニ、早期ニ精力ヲ消耗シ盡シ、今日デハアノ方面ノ慾望ガ甚ダ微弱ニ 「気ガシテヰル」ト云フノ 319
云ふ。 どうやら私の疑心暗鬼が嘗ってをり、思ひ過しが思ひ過しでなかったことが分りかけて來たのであるカ それでも私にはまだ腑に落ちかねることがあった。こ、で一往敏子の今日の行動を順に並べて見ると、 午後三時、ロ實を設けて私を外へ出してしまふ。次に小池さんを風呂へ行かせる。次に病人が自ら眼 を覺まして敏子に告げたか、敏子から病人に働きかけたか、そこのところは不明であるが、彼女は私の日 記帳が茶の間の用箪笥に入れてあることを知り、それを捜し出して病人の枕元へ持って來る。病人が、此 の帳面は四月十六日で終ってゐるが、十七日以後の分も必ず何處かに秘してあるに違ひない、己が讀みた いのはその方であるから捜してくれと云ふ。そこで彼女は二階の書棚を探って見つけ出す。次にそれを病 室へ持參して病人に見せる。或は讀んで聞かせる。次に二階へ持って上って元の場所に收めて來る。小池 さんが戻って來る。病人が再び安眠を裝ふ。五時過ぎ、私が歸って來る。 と、かう云ふ風になるの であるが、これだけのことが私の外出中の二三時間に、かうすら / 、と運ぶと云ふことは、ちょっと普通 には考へられない。そこで、思ひ出したのは、私は此の前の日曜 ( 四月廿四日 ) にも、敏子にす、められ て午後に外出したのであった。とすると、敏子の此の仕事は、多分あの日曜日から取りか、ってゐたので はないか。既に病人は廿三日の土曜の朝、私と二人きりでゐる時に、「に 1 き、にーき」とロ走って、私 の日記を讀みたがってゐる意を明かにした。それなら、廿四日の午後、私がゐなくなった留守に、敏子と 小池さんのゐる前 ( その時も小池さんは錢湯へ行ってゐたのかも知れないが、婆やは確かな記憶がないと 云ふ ) でも、同じ言葉を口走らなかったと誰が云へよう。病人は、私に訴へても取り合ってくれないので、 385
ず何處かで晩飯を奢ってくれた。越中嶋や佃嶋へ行って蝗虫を採ったりして、京橋の南傳馬町の河合や、 元大坂町の今用へ上って牛鍋を食べたこともあった。 ( 「すき燒」と云ふ名稱を東京でも使ふやうになった 2 のは後年のことで、當時は牛鍋としか云はなかった ) 大森海岸の海水浴場へ行った時は、伯父と父と私た ちの外に、活版所の叔父も加はってゐた。令の伯父は泳げないので、淺いところで私たちを相手にヂャブ ヂャブやってゐたが、父と活版所の叔父は達者に泳いだ。叔父は私に泳ぎを教へてやると云って、わざと 水を澤山飮ませたりして燥ぎ廻った。考へると、その頃はもう商業會議所の副會頭か何かになってゐた筈 の令の伯父が、甥の私たちにまでそんなに気を配ってくれたのは、勿論私たちへの愛情からでもあったで あらうが、實はそれ以上に、弟の「和助」に對する憐れみからではなかったかと思ふ。自分が出世をする につれて、ます / \ 地位が隔たって行く不運な弟を、時には玉川屋時代の昔に返って、抱きしめてやりた ゝ。ムこはどうもさう云ふ風に思へるのであるが、それ故になほ、伯父のやさ かったのではないであらう力不。 しい心づかひが未だに忘れられないのである。 私の父に取っては二重の意味で義理の姉、母 ところで、こ、らで私は令の伯父の妻であったお花、 に取っては眞實の姉、私に取っては二重の意味で血縁の伯母であった人のことに、是非觸れて置かなけれ ばならない。 初代谷崎久右衞門の三人娘の長女であるお花は、安政五年戊午の生れであるから、三女である私の母のお 後の谷崎久兵衞を聟に迎へて分家 關よりは六つ年上になる譯だが、彼女が一つ年上の江澤實之介、 したのは、何年のことであるか私は知らない。私の父母の結婚したのが明治十六七年の交であったとする はしゃ っちのえうま
私たちは此の家にも長くはゐず、一年たっかたゝないうちにいよ / \ 本嘗に沒落して、南茅場町の第二の 同町五十六番地の、明德稻荷の路次の奥に引っ込むやうになるのであるが、米屋町時代の出來 事のうちでは、先づ何よりもその年の夏、廿四年の濃尾の時より遙かに大きな地震に遭遇したことを擧げ なければならない。それは明治年間の東京に於ける最大の地震と云はれたもので、廿七年の六月二十日の ことであるから、日淸戦爭の一ヶ月程前、淸國の軍隊が仁川に上陸したり、大鳥圭介が京城へ出發したり、 半島の風雲たゞならぬ折柄であった。地震が起ったのは午後二時頃、取引所は後場が立ってゐる最中で、 米屋町に軒を並べた商店の土間にも往來にも相場師の群集が溢れてゐる時であった。私はちゃうど學校か ら歸って、臺所の板の間で氷あづきを食べてゐた。そして地震と気がついた瞬間には、早くも街頭に飛び べると裏通りは道幅が狹かったので、私は兩側から家が崩れ落ちて 出してゐた。令商店のある表通りに比 來るのを恐れつ、、無我夢中で一丁目と二丁目の境界の大通りへ出、活版所の方へ曲る廣い四つ角の中央 に立った。と、前から私と一緒だったのか、その時私に追ひ着いたのか、私は始めて、母が私をぎゅっと 抱きしめてゐるのに心づいた。最初の急激な上下動は既に止んでゐたけれども、地面は大きくゆるやかに 搖れつ、あった。私たちが抱き合って立ってゐる地點から、一丁程先の突き嘗りにある人形町の大通りが、 高く上ったり低く沈んだりするやうに見えた。私の顏は母の肩よりなほ下にあったので、襟をはだけた、 あら 白く露はな彼女の胸が私の眼の前を塞いでゐた。見ると私は、さっきは確かに氷あづきを食べてゐて、地 つの間に何處でどうしたのか、右手にしつかり 震と同時にそれを投げ捨て、戸外へ走り出た筈だのに、、 と習字用の毛筆を握ってゐた。そして四つ角のまん中で相抱きっゝよろめき合ってゐる間に、私は母の胸 110