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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第17巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第17巻

に乳母に雇ひ入れたのであった。そして、私の次には弟の精二の乳母を勤め、私の家が女中を置けなくな ってからは下女の役をしてくれて、私の十二三歳の時に六十何歳かで亡くなった。私はびよっとすると、 此のばあやに對する記憶の方が、母のそれよりも古いのではないかとさ ~ 思ふ。少くともあの柳原の時の 出來事を除けば、多分私が五つの折の或る日、母が大磯から歸って來たと云ふので、ばあやに抱かれて廊 下の所まで迎 ~ に出たのが、最も古い記憶のやうに感じるのである。父もその時母と一緖であった筈だけ れども、不思議に父の顏には覺えがなくて、母の顏だけを覺えてゐる。 その日は、「今日はおッ母さんがお歸りになるんですよ」とばあやに云はれて、私は朝から待ちかまへて ゐたのであった。母は活版所の方から這入って、奥の間へ通ふ狹い小さい格子戸のくゞりをガラガラと開 けて、一段低くなってゐる廊下の方 ~ 降りかけると、私がばあやの手を離れて、 「おッ母さん」 と云って走り寄った。此の瞬間の印象は柳原の時よりもずっとはっきりしてゐて、今も鮮かに浮かぶので ある。それはもう日が暮れてからで、格子戸を跨いで降りて來た母は、ランプの明りをうしろに浴びてゐ せたけ た。私は兩手をひろげて母の腰のまはりに縋り着いた。私の背丈はちゃうどそのくらゐしかなかったので あった。母は汽車や人力車に搖られて來たせゐか、油気の拔けた、そ、けた髮が、逆光線の中でばうッと けばだ 毳立って見えた。母は 「潤一」 と云って、 いや、もっと正確に云 ~ ば、その頃の東京人は「じゅん」と云ふ音を「じん」と發音し

2. 谷崎潤一郎全集 第17巻

過度の房事には堪へられないのに、父が無理やりに云ふことを聽かせ、常軌を逸した、餘程不思議な、ア クドイ遊戯に耽るので、心にもなく母はそれに引きずられてゐるのだと思ってゐるらしい。 ( ほんたうを 云ふと、私が彼女にさう思はせるやうに仕向けたのである ) 昨日彼女は最後の荷物を取りに來て寢室へ挨 拶に見えた時に、「ママは。ハ。 ( に殺されるわよ」とたった一言警告を發して行った。私同様沈默主義の彼 女にしては珍しいことだ。彼女は私の胸部疾患が、こんな事から惡化して本物になりはしないかを、ひそ かに心配してゐるらしくもあるのだが、さうしてそれ故に父を憎んでゐるらしいのだが、でもその警告の 云ひ方が妙に私には意地の惡い、毒と嘲りを含んだ語のやうに聞えた。娘の身として母を案じる暖かい気 持から云ってゐるやうには受け取れなかった。彼女の心の奧底には、自分の方が母より二十年も若いに拘 はらず、容貌姿態の點に於いて自分が母に劣ってゐると云ふコンプレックスがあるのではないか。彼女は し J ジェームス・スチュアー 木村さん 最初から木村さんは嫌ひだと云ってゐたが、母 云ふ風に気を廻して、ことさら彼を嫌ってゐるらしく裝ってゐるので、本心は反對なのではないか。そし て内々私に敵意を抱きつ、あるのではないか。 : 私は出來るだけ家を空けないことにしてゐるけれども、いつどんな事情で外出の必要に迫られるこ とがあるかも知れず、夫も授業中であるべき時刻に突然歸宅することがないとも限らず、いかに日記帳を 處置しておくべきかについて種々考へた。隱しても無駄であるとすれば、私の留守に夫が果してあの内容 を盜み讀みしたかどうかを、せめて確かめる方法だけは講じておきたい。せめて私は、夫が内證で私の日 記帳に眼を通したかどうかを、知るだけは知りたい。私は何か日記帳に目印をつけて置く。夫が内證で中 308

3. 谷崎潤一郎全集 第17巻

改めたりした。 私たちは毎日のやうに、主筆格の野村を筆頭に、偕樂園の編輯所に集って文章のよしあしを論じ、め、 / \ が作品を持ち寄って批評し合った。野村は私たちより六七歳の年長であったが、彼が編輯所の机に向 って記事を作ったり挿繪を畫いたりする時は、私たちは息を凝らしてその机の前に坐り、一心に彼のなす ところを見守りつ、それを手本にしようとした。野村は頗る得意の様子で、ときる \ 筆の先を舐め、上眼 でぢろりと私たちを睨んだりしながら筆を運んだ。私たちは皆、野村のやうに繪や文章が上手に書けたら どんなに幸であらうかと思ひ、彼の才能を羨望しない者はなかった。尤も偕樂園の女中たちは、彼の上 眼で人の顏を見る癖のあるのを気味惡がり、あの若者は今が一番大切な年頃だのに、中學校を罷めたきり 學問も修めず、奉公にも出ず、毎日子供たちを相手にのらりくらりしてゐてどうする料簡なのであらう、 今にろくな者になりはしない、など、蔭口を利いたが、私たちに取っては彼はさしあたり缺くべからざる せんだっ 文藝方面の先達であった。私たちは「學生倶樂部」を「學びの園」など、改題し、高等科に移って稻葉先 生の教を受けるやうになってからも、なほ暫くは發行しつ、あったが、稻葉先生も此の仕事に助力を與へ、 毎號寄稿してくれたので、たしかあの雨月物語の白峰の注釋なども、此れに載ったのではなかったかと思 ふ。先生は又懇切丁寧に私たちの作品を讀み、欄外に細評を加へなどしたので、雜誌は次第に向上して、 内容が豊富になって行った。 しかし、稻葉先生の働きかけが私たちの上に強く作用するに從ひ、漸く野村靑年の影が薄くなって行った のは、自然の勢で已むを得ないことであった。野村は、最初に私たちが買ひ被ってゐたやうな才能の所有 242

4. 谷崎潤一郎全集 第17巻

「私は ( 夫の日記帳を ) 決して讀みはしない。私は自分でこ、までと極めてゐる限界を越えて、夫の心理 の中にまで這入り込んで行きたくない。私は自分の心の中を人に知らせることを好まないやうに、 人の心 の奧底を根掘り葉掘りすることを好まない」と云ってゐるが、ほんたうを云へばそれは虚言である。「私 は自分の心の中を入に知らせることを好まない」けれども、「入の心の奧底を根掘り葉掘りすること」は 好きなのである。私は、彼と結婚したその翌日あたりから、ときみ \ 彼の日記帳を盜み讀む習慣を持ち始 めてゐた。私は彼が「その日記帳をあの小机の抽出に入れて鍵をかけてゐることも、そしてその鍵を時と しては書棚のいろ / ( 、な書物の間に、時としては床の絨緞の下に隱してゐることも、とうの昔から知って ゐ」たのであり、決して「日記帳の中を開けて見たりなんかしたことはない」どころではない。たゞ今ま では、われイ、夫婦の性生活につながりのある問題は餘り扱はれてゐたことがなく、私には無味乾燥な學 問的な事柄が多かったところから、めったに身を入れて見たことはなかった。時折ばら / \ とペ 1 ヂをめ くって見る程度で、纔かに「夫のものを盜み讀んでゐる」と云ふことだけに、或る滿足を覺えてゐたに過 ぎなかったのであるが、彼がそのことを記すことを「恐レヌコニシタ」今年の正月一日の記から、私は當 然の結果として彼の記述に惹き付けられた。私は早くも正月二日の午後、彼が散歩に出かけた留守中に、 彼の日記の書き方が今年から變化してゐることを發見した。但し私が盗み讀みをしてゐることを夫に秘し てゐたのは、生來「知ッテヰルコデモ知ラナイ風ヲ裝」ふのが好きであるためばかりではない。盜み讀ん では貰びたいのだが、讀んでも讀まない風をしてゐてくれるやうにと云ふのが、恐らくは夫の注文である らしいことをも、察してゐたからである。 392

5. 谷崎潤一郎全集 第17巻

を連れて日光見物に出かけたことがあった。多分ばあやが生きてゐた時分で、父と母と私と、當時十歳足 らずであった精二も一緖であったと思ふ。今から考へると、兩親が私たち兄弟を伴って、親子四人でそん な旅行をしたことは、後にも先にも此の一度だけであった。たしか暑中休暇の終り頃の、熱い盛りの時で、 前の晩から私は嬉しくて寢られなかったことを記憶してゐる。が、その折も亦嬉しい半面に、私の胸には 一抹の悲しみが宿ってゐないでもなかった。それと云ふのは、父はその時は例になく相場が當り、大分工 面がよかったらしいので、私は嘗然泊りがけで行くことを豫期してゐると、「泊るなんて譯にゃあ行かね ひぐらし えよ、日歸りで行って來るんだよ」と云はれたからである。折角の日光見物も、日歸りでは東照宮の日暮 もん 門や眠り猫が見られるぐらゐが關の山で、華嚴の瀧や中禪寺湖は見るよしもないのだと分ると、私の喜び は半減した。私は又父からも母からも、「今日私たちが日光へ行ったことは、誰にも内證にして置くんだ よ、活版所や米店へ行っても、しゃべってはいけないよ」と、念を押された。出かけたのは睛れた日曜の 朝早くであったが、日曜にはよく令の伯父が訪ねて來ることがあったので、「今日あたりは實つあんが來 ゃあしねえかな」と、父は氣にして、「ひょっとすると米店の旦那が來るかも知れねえが、來たら子供た ちと上野へ遊びにいらっしゃいましたと云っときな」と、ばあやに云ひ置いたりした。私は、父が久し振 ひたかく に錢儲けをしたのを、本家はもとより「實つあん」にまで直隱しにしなければならないのは、親類ぢゅう 代に不義理が溜ってゐるからであらう、何年ぶりかの物見遊山に泊りがけて行くことが出來ないのも、泊っ 少たりすれば自然親類に知れ易いからであらうと思ふと、それほどにして母や私たちに盡してくれる父の親 切が、有難くもあったし哀れでもあった。 こめだな 203

6. 谷崎潤一郎全集 第17巻

友達の境遇を羨み、貧家に生れた身の不幸を悲しんだことも、私には一再ならずある。 嘗て私は「幼少時代」と云ふ著書の中で、十二三歳の折に煩雜な家事の手傳ひを命ぜられ、いつもタ方に ランプ掃除をさせるのが嫌で / 、、溜らなかったことを述べてゐるが、それにも增して嫌だったのは、追ひ ええう イ、家計が苦しくなるに從って、女中の役までもさせたことであった。「父は母に昔のやうな榮曜は兎も 角も、水仕事や御飯炊きまでさせるには忍びないと云ふ気持があり、母もさう云ふ仕事には馴れ」ないの で、「暮らしが困難になって來ても、やはり女中を一人だけは置く必要があった」が、私たち一家の生活 程度では分に過ぎたことだったので、「桂庵から來た女も始終變って、臺所の用をしてくれる者がゐなく な」ることもしば / ( 、であった。 で、女中のゐない日は、父が母より先に起きて、火をおこしたり、竈を焚きつけたりしたが、私もとき る \ 父の代りを仰せつけられた。冬の朝など、まだ蔵座敷に行燈がともってゐて、兩親が寢床にゐる時 分に、私一人だけ早起きをして、臺所の用をするのであったが、夕方のランプ掃除や折々の使ひ走りに も增して、此のことが何よりも味気なかった。私はそんな時によく、二宮金次郎の幼時の話を思ひ浮か べたりしたが、それに依って奮起させられるどころではなく、どう考へても貧乏はつくみ \ 嫌なもので 出あると、云ふ風にばかり感じさせられた。 思私はあの頃のいたいけな自分の姿を思ひ浮かべると、今日でもなほ、あんな風に素直に働いた自分と云ふ 不ものが、可哀さうにもいぢらしくてならないことがある。精二はまだ十にもなってゐなかったから、私が 7 臺所で用をさせられてゐた時分には何も知らずに寢てゐたことであらう。當時私の小さな胸の中には、私 へつつひ

7. 谷崎潤一郎全集 第17巻

此の、小岸幼稚園時代であったか、阪本小學校 ~ 這人ってからであったか、或る晩靈岸嶋に火事があって、 眞鶴館の娘が二人私の家 ~ 避難して來た。大した火事ではなかったと見えて間もなく靜まり、娘たちはや がて歸って行ったが、姉が十ぐらゐ、妹が六つか七つぐらゐで、大人のやうに手拭を姐さん被りにして、 長い袂を振りながら逃げ込んで來た恰好が、何となくなまめかしくて可憐だったので、せめて今夜一晩は 泊って行ったらい、のになあと、そんな風なことを思ったりした。 私が日本橋區坂本町廿八番地の阪本尋常高等小學校へ人學したのは、明治廿五年の九月、第二學期の學期 始めからであるが、それについては説明を加 ~ る必要がある。いったい私は遲生れであるから、今日の規 則で云へば廿六年に入學すべき筈だけれども、當時はさう云ふ規則がなかったのか、あってもそれほどや かましく勵行されてゐなかったかであらう。私以外にも遲生れで入學した者が大勢あったし、中には六歳 の者さ ~ あった。次に、第二學期から這人ったのは、私自身が學校 ~ 行くのを嫌がった、めであった。私 が非常に我が儘な廿ったれ小僧で、總領の甚六であったことは前に述べたが、兩親は早くから私を一學期 の時に人學させようと頻りに説き付けてゐたのだけれども、何と云っても私は承知しなかった。母やばあ やは私のことを、 「う 1 ちのなあかの蛤ッ貝、外へ出ちゃ蜆ッ貝」 と、さう云ってからかったものだが、私は事實その通り、家庭では手に負 ~ ない腕白坊主の徒ら者の癖に、 一歩家の外 ~ 出ると、全く意気地なしであった。さう云 ~ ば、その時分はときる、街の中を、 「徒ら者はゐないかな」 そ 1 と しゞみ

8. 谷崎潤一郎全集 第17巻

三月七日。 ・ : 今日又書齋の書棚の前に鍵が落ちてゐた。今年になって二度目である。この前は正月四 日の朝であった。夫の留守に掃除に這人ったら、水仙の活けてある一輪插しの前に落ちてゐた。今朝は臘 わびすけつばき 梅の花が萎んでゐるのに心づいて、侘助椿に活けかへようと思って行ったら、あの時と同じ所にあの鍵が 落ちてゐた。これは譯があるなと思って抽出を開け、夫の日記帳を取り出して見たら、何と、私がしたの と同じゃうにテ 1 プで封がしてあった。これは夫が、「是非開けて見ろ」と云ふことをわざと反對に云っ てゐるのだ。夫の日記帳は普通に學生が使ふノートブックで、表紙はツルツルの厚い西洋紙であるから、 私のよりは剥がし易いやうに見えた。私は此のテープを、巧く痕跡を留めないやうに剥がすことが出來る 剥がして見た。 全くたゞその好奇心のみで、 かどうかを試してみたい好奇心だけに驅られて、 ところが、 、くら上手に剥がしても矢張倣かながら痕跡が殘る。あんなツルツルの硬い紙でも、どうして も多少の疵がつく。テ 1 プの貼られた所だけに型が殘るのならよいが、剥がす拍子に周圍に疵がひろがる ので、誰かが開けたことは蔽ひ隱しゃうもない。私は新しいテープを又貼っておいたけれども、夫は嘗然 それに心づいて、私が中を盜み讀みしたと思ふことは疑ひない。しかし私は幾度も云ふ通り、内容は一字 も讀んでゐないことを神かけて誓ふ。夫は私が猥談を聽くのを嫌がるので、あ、云ふ形で私に話しかけた いのが本意なのかも知れないと思ふが、それ故にこそ尚更私は讀むのを厭はしく、汚らはしくさへ思ふ。 私は夫の日記帳を急いでさっと開けて見て、厚みがどのくらゐに逹したかを測る。それも勿論好奇心から である。私は眼を以て、夫のあの非常に線の細い、神經質なペン字が性急に走ってゐるべ 1 ヂ面を、蟻が 317

9. 谷崎潤一郎全集 第17巻

ドを點じた。 ( 夫は昨今、あの時以外は餘り寢室を明るくすることを好まなくなってゐた。それは動脈硬 化の結果が眼にも來てゐて、周圍の物象がキラキラと二重にも三重にも瞳に映り、視覺を強く刺戟して眼 を開けてゐられないらしいのである。で、用のない時は薄暗くしておいて、あの時だけ螢光燈を一杯にと もす。螢光燈の數は前より殖えてゐるので、その時の明るさは可なりである ) 夫は急に明るくなった光の 下に私を見出して、驚きの眼をしばだたいた。なぜかと云ふのに、私は風呂から出ると、ふと思ひ付いて、 イヤリングを着けてべッドに上り、わざと夫の方へ背中を向けて、耳朶の裏側を見せるやうにして寢たか らである。さう云ふほんのちょっとした行爲で、今までして見せなかったことをして見せると、夫は直ぐ 、簡單に興奮するのである。 ( 夫は私を世にも稀なる淫婦であるやうに云ふけれども、私に云はせれば、 夫ぐらゐ絶えず慾望に渇ゑ切ってゐる男はゐない。朝から晩まで、どんな時でも夫はいつもあのことばか り考へてゐて、私の極めて僅かばかりの暗示にも忽ち反應を呈せずにはゐない。隙を見せれば印座に切り 返して來るのである ) 間もなく私は夫が私のべッドの方へ上って來、うしろから私を抱きすくめて耳の裏 : 私はそんなエ合にして、 側へ激しい接吻をつゞけざまに注ぐのを、眼をつぶったま、許してゐた。 今ではどんな意味でゞも愛してゐるとは云ひ得ない此の「夫」と云ふ人に、自分の耳朶をいちくらせるこ とを、決して不愉快には感じなかった。木村に比べると、何と云ふ不器用な接吻の仕方であらうと思ひな まあ云って見れ がら、此の「夫」の變にくすぐったい舌の感觸を、さう一概に気味惡くは感ぜずに、 ば、その気味の惡いところにも自ら一種の甘みがあると云ふ風に思ひながら、味はふことが出來たのであ った。私は「夫」を心から嫌ってゐるには違ひないが、でも此の男が私のためにこんなにも夢中になって 363

10. 谷崎潤一郎全集 第17巻

よく分らない。しかし壯年時代の叔父は、私の記憶を辿って見ても、今日殘ってゐる彼の二十三歳の時の 寫眞を見ても、なか / \ の好男子で、女に生れてゐたら私の母に劣らない器量よしだったであらうから、 或はお壽美も滿更ではなかったかも知れない。 さうかうするうちに、叔父はどう云ふ風に説きつけて私の 母を納得させたのか、父には内證で、晝間こっそりと私の家で逢ひ引きすることを考へ出した。時刻は大 概午後の二三時頃、叔父の方が一と足先に來て、落ち着かない様子で待ってゐることもあり、お壽美の方 が先に來て、私たちに間の惡さうな挨拶をして手土産を出し、暫く母と世間話をしてゐることもあった。 二人が揃ふと、母は默って彼等を藏座敷へ案内し、私たちは六疊の間でひっそりとしてゐたり、母に眼顏 で知らされて、外へ遊びに出たりした。私は母と心を併せて父に此のことを隱してゐたのを、そんなによ からぬ事であるとは思ってゐなかった。母が彼女の弟の戀愛に同情を寄せ、意氣な計らひをしてやる気持 うしろぐら には何も後暗いところはないのだし、ちょっと任侠な、芝居じみたところもあるのが、私には却って嬉し かった。私は自分が頑是ない時から並々ならぬ恩義を受けてゐる叔父が、今落魄しか、ってゐるのを見れ ば、自分も何とかして此の人を慰めてやりたかったので、 ' こんなむさくろしい路次の奧まで叔父に逢ひに 來てくれるお壽美の實意にも、好感を持たずにはゐられなかった。 その時分、令の伯父はいよ / \ 順風に帆を上げてゐる最中だったので、本家が賴りにならなくなるにつれ、 代私たちの一家は一脣米店に縋って行ったが、久兵衞伯父の方でも、「庄ちゃん」のふしだらに愛憎をつか 少す一方、貧乏で働きはないが律義で正直な弟の「和助」に、びとしほ不憫がか、ったのであらう、日曜に はよく訪ねて來て、父と一緖に私や精二まで誘ひ出して、子供の喜びさうな所へ連れて行った歸りに、必 209