「何を云ふのだねお前、そんなお金があるものかね」 私が切り出すと、案の定母は取り合はなかった。 「それんばかり内にないことはないでせう。どうしても入る金なんだから、出しておくれよおッ母さん」 「ありやしないってば、そんなお金。今日はお祖母さんもいらっしやるのに、今そんなことを云ひ出さな いでもい、ぢゃないか」 「だって、ほんとに入るんだからようおッ母さん、 い、ちゃないかそのくらゐ出してくれたって ! よ う ! 出しておくれッたら」 二た言三言云ひ爭ってゐるうちに、早くも母はハラハラと涙を落した。そして、袂でそれを拂ひ除けなが 「潤一の奴はどうしてこんななんでせうか、 と、聲を詰まらせて祖母に云った。 「ーー、、・ー精二はやさしいんですけれど、此奴はどうしてこんななのか、大學生だなんて云ひながら何を勉 強してるのか、毎日々々方々ほッつき歩いてゐて十日も二十日も家へ歸って來なかったり、たまに歸って 出來たかと思ふと親泣かせのことを云ひ出したり、 ・ : 此奴のお蔭でお父ッつあんだってどんなに苦勞し てゐなさるか : この頃は此奴のことが気に懸って寢る眼も寢られないッて云ってるんです。 の 孝 「この子は庄七によく似てゐるよ」 じゅんいち こ 445
ラに保管して置いたのを、全部取り纒めて長會社の京橋倉庫に委託することになり、他の家財道具類も それと一赭に少しは運び込んだので、明朝整理のため該倉庫に赴くのであって、今日一日はさしたる用事 もない。家人と珠子さんはかねてよりストリップショウと云ふものを見せてほしいと云ってをり、本日午 後予を促して日劇小劇場ミュウジックホール ~ 行くことにきめてゐる様子なり。これは去年あたりから、 女だけでは這人りにくいから一度連れて行けと頻りに促してゐたのだが、此の春河原町の京劇で「裸の女 禪」 ( 原名 Ah! Les Be11es Bacchantes!) と云ふ。 ( リで評判のバレスクの映畫を見てから、急に日本の ハンが外人同伴で ミュウジックホ 1 ルの實演が見たくなったものと察せられる。予は女の觀客は稀に。 ( ン。 來てゐる程度で、夫人令嬢はめったに見かけたことがないからまあ止した方が宜しからん、たって行きた いなら誰か他の人と行くがよし、一家の主人が妻や妻の妹を案内することは餘りよい趣味ではないと思ふ と云って、今日まで自分一人では行くけれども家族との同行は御免蒙ってゐた次第。然るに先月北白川の みをり 美津子 ( 珠子嫁 ) が今年ばかりは京都の炎熱に閉ロして美袁利同伴伊豆山 ~ 避暑に來、或る日美袁利を珠 子さんに預けて東京 ~ 出かけたついでに勇敢にも小劇場を見に這人り、東鄕靑兒、村松稍風、三島由紀夫 と云ったところが作者陣に名を連ねてゐる「戀には七つの鍵がある」を見て歸ってから、ストリップとは 云ふけれども踊り兒たちが案外可愛らしい女ぞろひでそんなにイヤらしいものではないこと、女性の觀客 1 ロ 1 ズと云ふ娘が殊にきれいであったことなどを語り「あれなら伯母さんや も數人はゐたこと、ジプシ お母さんが見にいらしってもをかしいことはないわ」と焚きつけたので、「それ御覽なさい、あたしたち だって連れてって頂戴よ」と、遂に今日の仕儀となりたり。 258
下の河合さんの所にゐる京湖ちゃんが仲好しであった。京湖ちゃんはたをりより四つも年上で、小學校の 一年生であったが、學校が終ると毎日のやうにたをりの相手をしに來てくれた。京湖ちゃんの弟の昭ちゃ ん、淙々園の上のみっちゃん、倉持さんの何とかちゃん、興亞觀音の何とかちゃん等々もお友逹であった が、京湖ちゃんが一番たをりとウマが合った。二人が始めて知り合ったのは一二年前、たをりがまだ餘り ぐわんぜ にも頑是なくて相手にならない時分であったにも拘らず、京湖ちゃんは幼いたをりを可愛がっていたはっ てくれた。毎年夏と冬とには京都を避けて熱海へ來、気候がよくなると歸って行くたをりであったが、京 湖ちゃんは名殘を惜しんで驛のホ 1 ムまで見送りに來たりもした。たをりは熱海にゐる時は私の感化で半 分以上東京辯になるのであるが、子供同士でま、ごとなどをする時は自然京都辯が出る。「あかん」「ある ゃんか」「ようする」「ようせん」「しやはる」など、云ふのを京湖ちゃんが聞き咎めてゐるのを、私たちは 傍で聞いて面白がったものであったが、しまひには京湖ちゃんまでがときる \ 「しやはる」など、云ふや うになった。此の間のハ トの時は、京湖ちゃんは學校があるので見送る譯に行かないので、前の日に別れ の挨拶をしたやうであったが、京都には京都のお友逹があって、遊ぶには不自由をしないらしい。ふと私 は、こちらではどんな風に遊んでゐるのであらうと、門の外へ出て見た。このところ連日の好天気で、鳴 澤で高畠さん等と花見をしたあの日のうら、かさが、こちらへ來てもなほ績いてゐる。花畑の周圍に植わ 春ってゐる桃、白桃、連翹が眞っ盛りで、櫻も平安神宮は少し早、。、、 カ圓山は今日あたりが滿開だらうと云 後ふ。熱海はことしはどう云ふ譯か一向鶯の聲を聞かなかったが、こちらは朝から一日ちゅう啼きしきって 老 ゐる。たをりは何處にゐるのかと見ると、門の前を二三十間北へ行ったところが丁字路になってゐて、そ れんげう 415
が暮れさうもない。醉つばらひや自動車の噪音が跡を絶って、この海と丘との天地を領するものは私たち ばかり、ほかには鵯がときみ \ 飛んで來て花の間に見え隱れするだけである。あの鵯は大方櫻の蜜を吸ひ に來るんですなと高畠氏が云ふ。かうしてゐる氣分は全く平安朝的である。心に浮かぶものは雅樂の旋律 いまやうさいばら と朗詠や今様や催馬樂の文句である。さう云へば漱石の草枕の一節にもこんな気分のところがあったやう な氣がする。あまり暖かいので、もう蠅が二三匹出て來て杯盤の上をうろノ \ してゐる。ユキが蠅叩きを 取って來て叩かうとするが、部屋の中と違ってなか / \ まらない。 この花見を濟ました翌日、下りのハ トで一と足先に義妹の重子とその孫娘のたをりが立ち、十一日に私と 家人とが京都に向ふ。高畠夫人、森山さん、井さん、阿部さん等が見送ってくれる。義妹は七年前に夫 を失った淋しさに、一年の大部分を私たちと一緒に暮らしてゐるけれども、自分の家は京都の北白川の奥 にある。ことし滿四つになるたをりカ 。、、久しく伊豆へ遊びに來てゐたのであるが、今度幼稚園へ人れるこ とになり、九日に入園式があるからと嫁の千萬子から知らせて來たので、若夫婦に孫を引き渡すべく北白 川へ歸るのである。私たちはたをりの顏をあさゆふ見ることが出來るやうに、義妹の家から程遠くない所 に恰好な隱れ家を見つけ出して、そこに宿を取るのである。宿の名は人に聞かれても教へてはならぬ、教 へたら叱られますと云へと、留守の誰彼に固く云ひ含めて出て來る。それと云ふのが、正月以來あまりに 春訪客の絶え間がないのに辟易して、一つはそれの煩はしさから逃れたいための旅なのである。潺湲亭があ 後る時分には、折角京都へ戻って來ても、久しぶりに挨拶に來る土地の人々に加へて東京からも追手が懸る 老 始末であったが、ことしは家のない心やすさ。この機會にせめてゆっくり足腰を伸ばして、一日ちゅう人 ひょどり へきえき 409
戦爭後京都に住み出してから足かけ十一年になり、舊都の春秋を遺憾なく樂しんだ筈だったので、去年の せんくわんてい 暮に下鴨の潺湲亭を人に讓って熱海鳴澤の興亞觀音の下にある草庵に蟄居し、伊豆半島の東海岸の七つの 浦が眺められると云ふ相模灣を前に、天城山や大嶋初嶋の日々の變化をよろこびながら日を送ってゐたの であったが、季節になるとやはり平安訷宮や嵯峨野あたりが戀ひしくならずにはゐない。去年までは京都 の住人として京都の花を見たのであるが、旅の人として見る心持はどうであらうかと云ふ気が湧いた。 熱海のさくらは毎年三月の末から四月の初めにかけてが見頃で、錦が浦の花のさかりを見終ってから京都 へ出かけてちゃうど平安神宮の紅枝垂し こ間に合ふ。ことしは梅が一ヶ月ほどおくれ、櫻も一週間ぐらゐは おくれた。四月四日の午後にユキをつれて熱海銀座へ散歩に出た時、伊豆山のバス道の崖下に八分通り咲 き揃った枝が見えたので、もしやに釣られて錦が浦までドライプして見たが、「まだほんのチラホラして ゐるだけです」と運轉手が云った通り、そこは五分咲きにも達してゐなかった。それでもいつもの所に掛 け茶屋が出てゐるので、ちょっと下りて一と休みし、寫眞屋がす、めるま、にまばらに咲いた花を背景に ゅひなふ 二三枚撮らせた。ユキはすでに去年國へ歸った時に土地の人と結納を取り交して來たとやらで、今年の秋 春には故鄕の滋賀で式を擧げるのださうであるが、その土産にと云ふつもりであらう、自分一人のと、私と 後二人で立ってゐるのと、二種類撮らせて欲しいと云ふので、その望みの通りにした。 老 越えて七日の日曜には何處もかしこも滿開となった。咲いたとなると一度にばっと開くものではあるけれ みやげ 407
も大變遠廻しに洩らしてゐたヾけであった。 だが、十三日に、「木村ニ對スル嫉妬ヲ利用シテ妻ヲ喜バスコニ成功シタ」、 「サウ云フ風ニシテ努 メテ僕ヲ刺戟シテクレルコハ、彼女自身ノ幸ノタメデモアルト思ッテ貰ヒタイ」と云ふ語、「僕ハ僕ヲ、 気ガ狂フホド嫉妬サセテ欲シイ」、 「妻ハ隨分キハドイ所マデ行ッテョイ。キハドケレパキハドイ 程ョイ」、 「多少疑ヒヲ抱カセルクラヰデアッテモョイ。ソノクラヰマデ行クコヲ望ム」と云ふ語が 出て來るのを讀んでから、私は急角度を持って木村のことを考へるやうになった。「少クトモ妻ハ ・ : 自分デハ若イ二人ヲ監督シテヰルツモリカモ知レナイガ、實際ハ木村ヲ愛シテヰルャウニ思へテナラナ イ」と、七日に夫がそんな風に書いてゐるあたりでは、私はむしろ「イヤらしい」と云ふやうに感じ、 くら夫に嗾けられてもさう云ふ道に外れたことが出來るものかと、反撥を感じてゐたのであったが、「キ ハドケレパキハドイ程ョイ」と云はれるに及んで、私の心に急囘轉が起った。私が意識するより前に、私 に木村を好む様子があるのを見て夫が嗾けたのか、嗾けられたので無から有が生じたのか、そこのところ はよく分らない。が、私は自分の好奇心が木村の方へ傾いたのを明瞭に意識し出してからも、なほ暫くは、 夫のために「心ならず」もそのやうに「努めて」ゐるのであると、自らを欺いてゐた。 さ、つ、私」は 今「好奇心」と云ふ語を使ったが、嘗時は夫を喜ばすために夫以外の人間にちょっとした好奇心を持って 見るのだ、と云ふ風に自分に云ひ聽かせてゐた。一月廿八日に、始めて人事不省になった時の心理状態を 云へば、木村に對する自分の氣持が夫のためのものであるのか、自分自身のためのものであるのか、その 邊の境界があの晩あたりから自分にも分らなくなって來たので、その苦しさを胡麻化さうとしてゐたので 396
から」と、野川先生は稻葉先生に云ったさうだが、果して私は翌年の三月には首席になって二年級に進ん だ。そして修業式の嘗日には男子一年級の總代として全體の生徒の修業證書を授けられ、優等生の褒状だ の賞品だのを貰って、去年に引きかへて意氣揚々と家に歸った。母は早速私を連れて本家や米店へ出かけ て行き、祖母や令の伯母や久右衞門叔父に褒状や賞品を見せて廻った。 私は野川先生のお蔭で、自分が一般の生徒よりも優れた子供であることを知り、今まで抱いてゐた劣等感 から脱却することが出來たので、それからはもうばあやの後を追びかけてばかりはゐなかった。さればと 云ってそんなに勝手に遠走りはしなかったけれども、人形町、芳町、大坂町、龜嶋町、八丁堀、箱崎町、 せ、 る \ そのくらゐな範圍内はひとりで出歩いて、方々の縁日へも遊びに行った。母は、「危い所 へ行くんぢゃあないよ、餘所の知らない小父さんが話しかけても相手になったりするんぢゃあないよ」と てんぼうせん 注意をして、「お小遣ひをおくれ」と云ふと、大概二錢銅貨を一つ渡した。まだその頃は天保錢が八文で 通用してゐたし、二錢の下に一錢銅貨も五厘銅貨もあったので、よく / \ の場合でなければ五錢白銅や十 錢銀貨を貰ったことはなかった。 「餘所の知らない小父さん」に勾引かされることも、當時は稀な出來事ではなかったと見えて、「子供が ひとさら 人浚ひに浚はれた」と云ふ話はしば / ( 、聞いた。私は濱町にゐる時分に、眞っ晝間怪しい男が私と同い年 さるぐっわ ぐらゐの子供を、猿轡を篏めて背中に縛り着けて走って行くのを、チラと見かけたことがあった。それは 或は私の思ひ違ひで、人浚ひではなかったやうな気もするけれども、その後私自身が、確かに怪しいと思 ふ男に聲をかけられたことが二度あった。二度とも水天宮の線日の日の、やはり晝間、學校から歸って蠣 かどは 0 ノ
私の父が覺えてゐるのは、その惡玉の後見人に年中いちめられたこと、兄の實之介と二人で小さくいちけ て暮らしてゐたこと、などであった。私は子供の時分に、「雪の日やあれも人の子樽拾ひ」と云ふ句を聞 くと、何となく父の幼かりし日の哀れな姿を想像するのが常であった。と云ふのは、和助時代の父は丁稚 と同様に追ひ使はれてゐたのであらう、或る時麹町の屋敷町へ雪の降る日に酒を屆けに行かされたところ、 途中で凍えて歩けなくなり、ときる、足へ小便をかけながら歩いたと云ふ話を、父の古い思ひ出話として 聞かされたことがあったからである。 實之介と和助とは、そんな事情で互にしつかりと結び合ひ、助け合ひっ、育った仲であったのが、揃って 養子に貰はれて來たのであるから、その兄弟愛のこまやかだったことは幼い私たちの眼にも留まるほどで あった。伯父は私の父のことを「和助さん / \ 」と云って庇ひ、父は伯父のことを「實つあん / \ 」と賴 りにして、生涯變るところがなかった。殊に弟の倉五郎は、養父久右衞門に死なれた以後は他に相談相手 もなかったし、商賣には失敗するしで、事があると「實つあん」のところへ泣きついて行ったが、「實っ あん」はそのつど嫌な顏もせず面倒を見てやった。伯父久兵衞としては、弟の倉五郎が甲斐性がなくて何 はがゆ をやらせても成功せず、祖母や私の母を失望させてばかりゐるのが、申譯なくも齒痒くも感じられたこと であらう。「實之介はい、が和助は駄目だ。あれは飛んだ眼がね違ひだった」と、祖母は蔭ではよくさう 云ってゐたらしかった。私の母關は元治元年生れ、父倉五郎は安政六年生れであるから五つ違ひの夫婦で、 結婚したのは私の生れる二三年前のことであった。祖父の久右衞門は私の二三歳の頃、倉五郎夫婦のため に日本橋靑物町 ( 此の町名は今はないが、海運橋の通りと昭和通りとが交叉してゐる地點あたり ) に一戸 あくだま
℃ ( オもカら厚着を 日である。出がけに千萬子から電話で、「走井へ來て見たら大分寒い。風邪を引くと、ナよ、ゝ していらっしやるやうに」と私に注意がある。去年までは、京都での冠婚葬祭には大概羽織袴で出席して ゐたのであるが、ことしは旅先のことであるから、紺のダブルに鼠地のヅポンで堪忍して貰ふことにして、 はくきんくわいろ ダブルの下に薄いスウェ 1 タ 1 を着込み、白金懷爐を忍ばせる。關雪翁は翁と云っても物故した年が六十 三歳であるが、私は既にそれより九年も年長であるから、若い嫁の云ふことに從ふ方が賢明である。櫻が 険いてゐると云ふのに懷爐を背負ふとは情ないやうだけれども、京都では花の時分にうすら寒い日がしば はなびより / \ ある。京都がほんたうに暖かになるのは花が散ってからである。そして、そのうすら寒い花日和の感 じが私は好きなのである。懷爐がなくても凌げないことはないが、あった方が心丈夫だと云ふ程度の、風 の肌觸りが何となく冷え / \ とする日に、櫻がぼうっと霞んで見える風情を私は愛するのである。今日は 法事を濟ました歸りに、山科の毘沙門堂の花を見ることにきめる。御殿橋から鹿ヶ谷、南禪寺、蹴上ゲを 經て、自動車は二十數分で走井に着く。私は此の邊 ~ 來ることはめったにない。戦後に一度八新 ~ 食事に 來たことがあったが、道を隔て、その八新と直ぐ向ひ合った崖の中段へかけて月心寺が建ってゐた。町名 は大谷町で、大津市に屬してゐるけれども、大津の市街まではまだ一里くらゐあるであらう。ひとすぢの 街道が走ってゐる兩側は山が間近に迫ってゐて、北側には八新のほかに家はなく、南側には山の裾に沿う ひとかは 春て人家がばら / \ と一側っゞいてゐるばかり。月心寺の門は土塀の東の端にあるらしかったが、私たちは の 後土塀の手前で車を下り、直ちに墓所へ通ずる崖路に案内される。全くこのあたりは街道の際から山が屹っ 老 ノし登ると、山の間を僅かばかり切り開いたところに五輪の塔が二 立ってゐて、平らな土地は殆どない。小 ふぜい ぶつこ 423
ことで、やがて二人は平安神宮で式を擧げ、ホテル・ラクヨーで賀宴を張った。二人の間にたをりが生れ たのはそれから二年後であった。 今になって私は、こんなことになるのであったら生前故翁に會っておけばよかった、い くらでもその機會 はあったのにと思ふ。たをりを見ると、歳に似合はず機鋒の鏡いところがあるのは、多少故翁の片鱗を傳 へてゐるのかも知れない氣がして、ひとしほ往年の翁の風羊を想察するのであるが、ことしの年會に私は 始めて線者の一人として墓前に禮拜するのである。翁が亡くなったのは前記の如く京都では大雪の降った ほふゑ けだぼ 二十年の二月廿六日であるが、廿六年の七囘忌にも橋本家では二月を避けて四月に法會を催した。蓋し菩 提所である走井の月心寺は、昔の逢坂山に近く、寺と云ふよりは水淸く苔滑かな山莊のやうな地で、嚴冬 おもんばか の寒さの思ひやられる場所なので、或は參會者の便を慮ったのではなかったであらうか。清治と千萬子 とはその七囘忌の年の初夏に結婚した譯で、法會の折は寒がりの私は出席せず、淸治が私たちを代表して めいしょづゑ 參列したのであった。そんな次第で、名所圖會にも載ってゐる名高い走井のことはたび / \ 節哉氏や妙子 氏から聞いてゐながら、今日まで私は行って見たことがなかったのである。 翁が書き遺した「逢坂走井由縁記」に依ると、去る大正三年頃のこと、或る日翁の許へ知合ひの者が來て、 「舊走井の遺蹟に、運慶の作と云ふ小野小町の百歳の像があるが、賣ってもい、と云ふことだから一度見 春に行ってはどうかと云ふことであった」ので、翁は「一日その入と家内と三人でその小町の像、俗に云ふ の 後關寺小町の像と云ふを見に出かけた。像は大して宜いものではなかった」が、翁の心を動かしたのは、 老 「こうした古い由緖のあるもの」が「後世の心ない人の手によって故なく散逸されることで」あった。且 ふうぼう 419