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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第17巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第17巻

四月十六日に至るまでの私の日記は、もし求められ、ば、私はいつでも彼の前に取り出して見せるであら う。しかし十七日以後の日記があることは、決して彼に知らせてはならない。私は彼に云ふであらう、 「此の帳面は始終あなたが盜み讀みしてゐたのですから、隱しても仕方がありませんが、今更見せる 迄もありますまい。それでも見たいと云ふのならいくらでも見て貰ひますが、見れば分る通り、十六日で 日記は終ってゐるのです。あなたが病氣になってからは、私は看護に忙しくて日記どころではなかったし、 書くやうな材料もありませんでした」と。 で、私は彼に十七日以後空白になってゐる日記帳を開け て見せ、彼を安心させなければならない。私が雁皮を買って來たのは、十六日迄の分と、十七日以後の分 と、日記帳を二册に分けて製本し直すためなのである。 ・ : 晝寢の時間に外出したので、歸宅後五時から一時間半ほど二階に上る。六時半に下りて來る時に、 日記帳を持って下り、茶の間の用箪笥の抽出に人れて置く。敏子、夕食後八時に去る。十時小池さんを二 階へ行かせる。十一時、庭に音が聞える。 四月廿五日。 ・ : 午前零時、送り出して勝手口の戸締りをする。それから約一時間、病室にゐて鼾ごゑ に耳を澄ます。熟睡してゐるのを見屆けて茶の間に人り、日記帳の製本に取りか、る。二册に分けて、十 六日迄の分は用箪笥の抽出に收め、十七日以後の分は二階へ持って行って書棚に隱す。此の仕事に一時間 を費す。二時過ぎ頃から病室に戻る。病入はずっと眠りつゞけてゐる。 午後一時、兒玉さん來診。格別の變化なし。此のところ血壓も一八〇より一九〇内外を上下してゐる。も 381

2. 谷崎潤一郎全集 第17巻

直ちに平安神宮に至り撮影開始。今にも本降りになりさうなので大急ぎである。家人は見に出かけたが私 は出かけず、午後九時頃から祇園一カに撮影が移り、井上流の名手である春勇が袖香爐を舞ふ場面がある と聞いて、夕食後その方へ出かける。豪酒の春勇は他のお座敷を濟ませて十時過ぎに大虎で現はれたが、 いざとなるとシャンとなって見事に袖香爐を舞ひ終ったのは流石であった。十二時を過ぎても撮影は容易 に終りさうもないので、義妹と私とは辭去したが、家入は惠美子に附き添ってその夜は麩屋町柊家に泊っ た。終了したのは夜半の三時であったと云ふ。 廿日雨、廿一日雨、廿二日雨、廿三日雨。花は完全に散ってしまった。廿四日わづかに睛れて廿五日又雨、 廿六日雨、廿七日雨。 大阪の菅楯彦氏から、例年今月の廿五日に催すことになってゐた天紳様のお祭を今年は止めることにした について、熱海宅宛に斷りを云って來たのを、或る日此方へ囘送して來た。その刷り物の文に日く、 郊南の暮雨紅粧を洗ひ一年の愁は春を送る時にありとは申せども新柳淡綠百鳥間閑としてげんげわらび めぐ の野となりました薫風高堂を匝り益々御淸適の事と存ます 年々うちの天紳さんと名づけ私に家の祭をも加へさしてもらひこれに事寄せて貧老も久しからざれば今 の内に御目にか、り度う思ひ御存じの粗雜極る催を致ましたが何分にも狹うて狹うて世話人の方々がい ろいろ工夫して被下ても動がとれずこれでは濟まぬと思ふうち昨年は雨となりそばふりしきり散々の有 様で陋屋に押合ふてもらひ所々の朱傘の下に瓶子を運ぶやら苫もる雫佳人の襟を驚し奉り庭た水に裳を 汚し給へるもありほんとうに半山が雨中三十石の画のやうになってしまひゑらい目に御逢せ申御気の毒 くだされ さすが おほとら 430

3. 谷崎潤一郎全集 第17巻

ヾゝ、 と云 生じ、多忙であったからでもあるが、彼の死の結果として、さしあたり先を書き繼ぐ興味カ なくなったからでもある。その「張り合ひがなくなった」と云ふ事 ふか、張り合ひが、と云ふか、 少くと 府は、今日と云へども變ってゐない。だから私は今後も日記をつけることをしないかも知れない。、 い。が、今年の正月一日 も、再び日記を始めることにするかどうかは、今のところ未定であると云ってよ 以來百二十一日の間毎日書きっゞけて來た日記が、あんな風にポツリと切れてしまったま、になってゐる ので、あれに一往の結末をつけて置く方がよいとは思ふ。日記の體裁の上から云ってもそれが必要である と思ふし、亡くなった人と私との性生活の鬪爭についても、こ、らでもう一度振り返って見て、そのいき 分けても此の正月以來の日 さつを追想して見るのも徒爾ではない。故人が書き遺して行った日記、 記と、私のそれとを仔細に讀み比べて見るならば、鬪爭の跡は歴々と分るのであるが、なほ私としては、 故人の生前には書き記すことを憚ってゐた事柄が可なりあるので、最後にそれの幾分を書き加へて、過去 の日記帳に締めく、りをつけたいのである。 病人の死が突然であったことは今も書いた通りである。後に記すやうな事情で、正確な時間は分らないの ではなかったかと思ふ。當時看護婦の小池さんは二 であるが、死んだのは五月二日の午前三時前後 階で寢てをり、敏子は關田町に去ってをり、病室には私だけが附き添ってゐた。しかし私も、午前二時頃 病人がいつものやうに安らかに鼾を掻いてゐるのを見て、密かに病室を拔け出して茶の間に行き、四月卅 日の夕刻以後五月一日にかけての出來事を書き留めつ、あった。と云ふのは、私はその前々日、つまり夫 の發病以後四月卅日までは、毎日午後の午睡の時間を利用して、二階でそっと、その前日の午後からその 387

4. 谷崎潤一郎全集 第17巻

幼少時代 わ 形 よ 明 だ 妻 け と で 1 と と り 治 : 書 の 日寺 れ 用 っ 此 ス は は 辭ノ 。角だ し 鷄 は 年・ ン 硯 ん 暫 た ど の と け 却 チ 箱 な 肉 イ弋 く も て ン・ ノ、 さ 考 食 ン し く の の に ふ つ の 工 多 キ て 西 女 店 と 示 な カゝ つ と : 黄 か 稱 な 純 洋 中 者に ス 出 つ た だ て カゝ を か 粹 つ し 西 の た ら に 理 渡 で 洋 取 た オこ か た つ し 玉 し と ら わ 秀 理 寄 わ イ た の ふ 洋 カ 少 紙 は と と カゝ ハ は 呼 字 は 活 半斗 何 フ し を て ン 全 版 王掣 . ム 出 が は ん で と く 月斤 ム 以 あ 日 し ム た で て タト 別 つ 本 日 の ゐ て な 直 に た 化 の る 趣 ぐ が あ さ つ る の 隣 り 活 け 時 は ツ た れ り 關 版 か 叔 あ ペ と て か 東 羽 所 り : 父 . る へ な ノ、 で で 毛 ば ン な ひ や の ソ か 軒 黄 も な ク 1 に 置 私 褐 ス し ロ の 色 ワ ば も ネ 東 た ヂ サ つ に 只 隣 少 風 り 日寺 し 洲 は ン あ 代 て に 又 と ま だ も は を ム ふ 傳 は 、模 り つ の さ 等 は は ほ し さ に の ヨミ り あ つ ん た っ ン っ 呼 鷄 秀 し て た ん 肉 の 兩 た た ゐ っ の か 端 す、 で と の の : 柔 ゐ し し を で わ 結 専 國 た て た カゝ で 近 ら け あ ん で の で イ い れ る あ の で 日 っ 捻ギ せ ど い ウ ゐ つリ 日 / こス ス 日 あ ム つ も やパ タ の 關 で 1 洋 っン は 西 の た し な 193 ・ : え、と、あれが食べたいんだが、何とか云ふ名前

5. 谷崎潤一郎全集 第17巻

ぶらをすることがあって、父まで臺所に出張に及び、一家總動員の大騒ぎをしたが、そんな場合はめった になかった。 夏になると、ときみ \ 飯が腐ることがあったが、つい炊き過ぎて前の日のが殘ると、父が勿體ないと云っ て無理にそれを食べさせるのには、何よりも參った。あまり臭い時は握り飯にして、醤油をつけて燒御飯 にしたが、それでも臭くて溜らなかった。反對に、一番嬉しかったのは毎月十日の、祖父の命日の日であ った。詳月命日は六月十日だったけれども、毎月その日は土藏の座敷に一閑張の机を据ゑ、その上に大き ノイカラなお く引き伸ばしたお祖父さんの寫眞を飾り、西洋料理を一皿供へる。西洋料理を選んだのは、、 祖父さんが晩年洋食を好んだからであるけれども、御佛前のお下りを狙ってゐる私や精二を喜ばすためで もあったらう。品數も、最初は一皿と限ってはゐなかったのに、だん / \ 一皿ときまってしまひ、いつも ハムオムレツに。ハセリを添へたものが、彌生軒か保米樓から屆けられた。オムレツにきまってゐたのは、 それも兄弟が仲よく等分に切って食べるのに都合のよいものをと、考へたのであらう。私はその日は學校 から歸って來ると、何度も / \ 一閑張の机の前に行って、お祖父さんを拜むと同時にオムレツの皿を横眼 で睨んで、夕飯の時間の來るのを待った。そしてお膳の前にすわると、自分の分と精二の分とを見比べな がら、その僅かばかりの張らんだ卵のかたまりを、惜しみ / ( 、味はって食べた。 洋食で思ひ出すのだが、當時は勿論「西洋料理」で、洋食と云ふ名はなかった。私の家ではお祖父さんの 日を除いては、店屋物を取ることなどは殆どなかったが、活版所の夕食に招かれて、叔父の御馳走になる ことはあった。叔父も祖父の感化で西洋料理が好きだったらしく、小網町三丁目の、鎧橋通りにあった吾 てんやもの 192

6. 谷崎潤一郎全集 第17巻

ロの午後に至る出來事を記すことにしてゐたのであるが、五月一日の日曜に、圖らずも秘密にしてゐた第 二册目の日記帳が病人や敏子に盜み讀まれてゐる事實を知り、當日はいつもの時間に二階で記すことを止 め、以後は深夜の時刻を選んで筆を執り、日記帳の隱匿場所を變更することに極めたのであった。 ( 變更 する場所を何處にしたらよいかについては、直ぐには思ひ嘗らなかったので、私は一と先づ日記帳を以前 の場所に收めて置いて、その時は二階を下りた。そしてその夜、敏子や婆やが去るのを待って、小池さん が寢に行く少し前に取りに上り、それをふところに入れて下りて來た。その直ぐあとで小池さんが上って 行った。私はまだその時も適嘗な隱し場所を考へつかないで困ってゐた。今夜ちゅうに考へつけばよいの であるが、已むを得なければ茶の間の押入の天井板を一枚剥がして、その上に插し込むことにしようか、 など、思案してゐた ) で、五月二日の午前二時過ぎ、茶の間に這入って懷中してゐた帳面を取り出し、四 月卅日の夕刻以後の出來事を記してゐると、ふと、つい先刻まで聞えてゐた病人の鼾ごゑが、いっからか 聞えなくなってゐるのに心づいた。病室と茶の間とは壁一と重しか隔たってゐないのであるが、私は書く ・ : 今日から私は、晝寢の時間 方に気を取られてゐたので、それまで知らずにゐたのである。私は、「 : に二階で書くことを止めにする。そして深夜、病人と小池さんの寢るのを待ってした、め、某所に隱して 置くことにする。 : 」と、こ、まで書き終った時に気がついて筆を止め、暫く隣室に耳を傾けてゐた。 が、それきり聲が聞えて來る様子がないので、書きさしの日記帳を卓の上に置き、立って病室に行って見 た。病入は靜かに仰向いて、顏を眞正面に天井に向けて寢てゐるやうであった。 ( 發病の日に私が眼鏡を 外してやってから、病人は一度も眼鏡を掛けたことがなかった。彼の寢てゐる時の姿勢は、大體に於いて まとも 388

7. 谷崎潤一郎全集 第17巻

四月二日。午後より外出。夕刻歸宅。 四月三日。朝十時外出。河原町 e 。Ⅱ靴店で靴を買ふ。夕刻歸宅。 四月四日。午後より外出。夕刻歸宅。 四月五日。午後より外出。夕刻歸宅。 四月五日。 : 妻ノ様子ガ日々變ッテ來テヰル。此ノトコロ殆ド毎日午後ニナルト ( 朝カラノコモア ル ) 一入デ出力ケテ行キ、四五時間ヲ費シテ夕飯前ニ戻ルノデアル。夕飯ハ僕ト二人デシタ、メル。ブラ ンデーハ飮ミタガラナイ。大概シラフデアル。今ハ木村ガ暇ナノデ、ソレト關聯ガアルコハ察セラレル。 何處へ行クノ力分ラナイ。今日午後二時過ギ敏子ガヒョッコリ顏ヲ出シテ、「ママハ」ト尋ネタ。「今時分 ハイツモ田守ダ。オ剥ノ所デハナイノカネ」ト云フト 、「ママモ木村サンモサツ。ハリ見エナイ。何處へ行 クノカシラ」ト首ヲヒネッタ。ソノ實彼女モグルデアルコハ察スルニ難クナイ。 四月六日。 : 午後より外出。夕刻歸宅。 : 此のところ私は連日外出してゐる。私が出かける時、 机の上には可ゝ 夫は大概在宅してゐる。いつも書齋に引き籠って机に向ってゐるらしいけれども、 342

8. 谷崎潤一郎全集 第17巻

はそれは想像出來ないけれども、實は私はもう一二ヶ月前から、彼の様子が變調を來たしてゐることに気 がついてゐた」と。夫自身が此のことを自白したのは、三月十日の記事からであるが、實際は、彼が自分 で気がつくより先に、私の方が知ってゐたのではないかと思ふ。私はしかし、いろ / \ の理由から、最初 のうちはわざとそれに気がっかない振りをしてゐた。それは夫を徒らに神經過敏にさせることを恐れたか らでもあるが、それ以上に、禪經過敏の結果として、彼が房事を愼しむやうになることを一居恐れたので あった。私は夫の生命を心配しない譯ではなかったが、 飽くことを知らぬ性的行爲の滿足の方がもっと切 實な問題であった。私は何とかして彼に死の恐怖を忘れさせ、「木村ト云フ刺戟劑」を利用して嫉妬を煽 り立てることに懸命になってゐた。 : が、私の此の気持は、四月に這人ってから次第に變った。三月 中、私はたび / \ 、自分が未だに「最後の一線」を固守してゐる旨を日記に書き、夫に私の貞節を信じさ せるやうに努めたのであったが、「紙一重のところまで」接着してゐた私と木村の最後の壁がほんたうに 除かれたのは、正直に云ふと三月廿五日であった。翌廿六日の日記に、私と木村のそらみ \ しい問答が記 されてゐるが、あれは夫を欺くための拵へ事であった。そして、私の心に重大な決意が出來上るやうにな ったのは四月上旬、四日、五日、六日、あたりであったと思ふ。夫に誘導されて一歩々々墮落の淵に沈み つ、あった私であるが、まだそれまでは、夫の要請默し難く苦痛を忍んで不倫を犯してゐるかのやうに、 さうしてそれは舊式な道德觀から見ても、婦人の龜鑑と仰がれてもよい模範的行爲であるかのやう に、自分を欺いてゐたのであったが、その時あたりから、私は全く虚僞の假面を投げ捨て、しまった。私 はきつばりと、自分の愛が木村の上にあって夫の上にはないことを、自ら認めるやうになった。四月十日 402

9. 谷崎潤一郎全集 第17巻

で堪へられず又折もわるく共の數日前だんばしから滑り落ち嘗日屏風のかげに隱れてゐましたら枕もと に集って一杯やってゐられるもあり ( 中略 ) 囘顧早くも一年けふは其二十五日朝より瀟々として雨脚止む事なし又去年のやうに御迷惑をかけずによ かったなと今も話てゐるところ 次に催します時こそこんな御不礼のないやうに致します程にとちょっとカんで今から御たのみやら此度 の御わびやら延引ながら 早々百拝 雨廂淋瀝默滴を聞き 菅楯彦 謹で こうなると何やらさびしい気が致します此由申上げんならんと思ひっ、も日を過し御尋ね被下し方々 もすくなからず山川夫れ捨んや難有事に存じます 雨が睛れたら中河内の天台院に近頃返り咲きの東光和尚を訪ね旁々、阿倍野に楯彦老人を驚かして久濶を 春敍さうなど、考へる。 の 後 ( 昭和丁酉五月記 ) 老 431

10. 谷崎潤一郎全集 第17巻

云ふ。 どうやら私の疑心暗鬼が嘗ってをり、思ひ過しが思ひ過しでなかったことが分りかけて來たのであるカ それでも私にはまだ腑に落ちかねることがあった。こ、で一往敏子の今日の行動を順に並べて見ると、 午後三時、ロ實を設けて私を外へ出してしまふ。次に小池さんを風呂へ行かせる。次に病人が自ら眼 を覺まして敏子に告げたか、敏子から病人に働きかけたか、そこのところは不明であるが、彼女は私の日 記帳が茶の間の用箪笥に入れてあることを知り、それを捜し出して病人の枕元へ持って來る。病人が、此 の帳面は四月十六日で終ってゐるが、十七日以後の分も必ず何處かに秘してあるに違ひない、己が讀みた いのはその方であるから捜してくれと云ふ。そこで彼女は二階の書棚を探って見つけ出す。次にそれを病 室へ持參して病人に見せる。或は讀んで聞かせる。次に二階へ持って上って元の場所に收めて來る。小池 さんが戻って來る。病人が再び安眠を裝ふ。五時過ぎ、私が歸って來る。 と、かう云ふ風になるの であるが、これだけのことが私の外出中の二三時間に、かうすら / 、と運ぶと云ふことは、ちょっと普通 には考へられない。そこで、思ひ出したのは、私は此の前の日曜 ( 四月廿四日 ) にも、敏子にす、められ て午後に外出したのであった。とすると、敏子の此の仕事は、多分あの日曜日から取りか、ってゐたので はないか。既に病人は廿三日の土曜の朝、私と二人きりでゐる時に、「に 1 き、にーき」とロ走って、私 の日記を讀みたがってゐる意を明かにした。それなら、廿四日の午後、私がゐなくなった留守に、敏子と 小池さんのゐる前 ( その時も小池さんは錢湯へ行ってゐたのかも知れないが、婆やは確かな記憶がないと 云ふ ) でも、同じ言葉を口走らなかったと誰が云へよう。病人は、私に訴へても取り合ってくれないので、 385