四月二日。午後より外出。夕刻歸宅。 四月三日。朝十時外出。河原町 e 。Ⅱ靴店で靴を買ふ。夕刻歸宅。 四月四日。午後より外出。夕刻歸宅。 四月五日。午後より外出。夕刻歸宅。 四月五日。 : 妻ノ様子ガ日々變ッテ來テヰル。此ノトコロ殆ド毎日午後ニナルト ( 朝カラノコモア ル ) 一入デ出力ケテ行キ、四五時間ヲ費シテ夕飯前ニ戻ルノデアル。夕飯ハ僕ト二人デシタ、メル。ブラ ンデーハ飮ミタガラナイ。大概シラフデアル。今ハ木村ガ暇ナノデ、ソレト關聯ガアルコハ察セラレル。 何處へ行クノ力分ラナイ。今日午後二時過ギ敏子ガヒョッコリ顏ヲ出シテ、「ママハ」ト尋ネタ。「今時分 ハイツモ田守ダ。オ剥ノ所デハナイノカネ」ト云フト 、「ママモ木村サンモサツ。ハリ見エナイ。何處へ行 クノカシラ」ト首ヲヒネッタ。ソノ實彼女モグルデアルコハ察スルニ難クナイ。 四月六日。 : 午後より外出。夕刻歸宅。 : 此のところ私は連日外出してゐる。私が出かける時、 机の上には可ゝ 夫は大概在宅してゐる。いつも書齋に引き籠って机に向ってゐるらしいけれども、 342
ら誰かゞ運んでくれたのだと見えてべッドに寢てゐた。今日は終日頭が重くて起き上る気力がない。覺め たかと思ふと又直ぐ夢を見て一日ぢゅうウトウトしてゐる。夕方少し心持が囘復したので、辛うじて日記 にこれだけ書きとめる。これから又直ぐ寢るつもり。 一月廿九日。 ・ : 妻ハ昨夜ノ事件以來マダ一遍モ起キタ様子ガナイ。昨夜僕ト木村トデ彼女ヲ風呂場カ ラ寢室へ運ンダノガ十二時頃、兒玉氏ヲ呼ンダノガ〇時半頃、氏ガ歸ッタノガ今曉ノ二時頃。氏ヲ送ッテ 出ルキ外ヲ見タラ美シイ星空デアッタガ寒氣ハ凛烈デアッタ。寢室ノスト 1 ブハイツモ寢ル前一トッカミ ノ石炭ヲ投ゲ込ンデオケパソレデ大體ヌクマルノダガ、「今日ハ暖カニシテ上ゲ夕方ガョウゴザンスネ」 ト木村ガ云フノデ、彼ニ命ジテ多量ニ石炭ヲ投ゲ込マセタ。木村ハ「デハドウゾオ大事ニ。僕ハ歸ラシテ 貰ヒマス」ト云ッタガ、コンナ時刻ニ歸ラセル譯ニ行カナイ。「寢具ハアルカラ茶ノ間デ泊ッテ行キタマ へ」ト云ッタガ、「ナニ近インダカラ何デモアリマセン」ト云フ。彼ハ郁子ヲ擔ギ込ンデカラソノママ寢 室デウロウロシテヰタノダガ、 ( 腰掛ケルニモ餘分ノ椅子ガナイノデ、僕ノ寢臺ト妻ノ寢臺ノ間ニ立ッテ ヰタ ) サウ云へバ敏子ハ、木村ガ這人ッテ來ルト入レ違ヒニ出テ行ッテ、ソレキリ姿ヲ見セナカッタ。木 村ハドウシテモ歸ルト云ヒ、「イエ何デモアリマセン /. \ 」ト云ッテトウ / ( 、歸ッテ行ッタ。シカシ正直 ノコヲ云へバ、實ハサウシテ貰フ方ガ僕ノ望ムトコロダッタノダ。僕ハ先刻カラ或ル計畫ガ心ニ浮カビッ 、アッタノデ、内心ハ木村ガ歸ッテクレルコヲ願ッテヰタノダッタ。僕ハ彼ガ立チ去ッテシマヒ、敏子モ モハヤ現ハレル恐レガナイノヲ確カメルト、妻ノベッドニ近ヅイテ、彼女ノ脈ヲ取ッテ見タ。ヴィタカン 291
った。 父は存分唄ったあとでは、そのま、ごろりと横になってしまふ。かと思ふと、すぐに物凄い鼾を掻き出す。 うたゝね 「お父つあん、風邪を引きますよ、そんな所で轉寢をしちまってさあ、 と、母が掻卷をかけてやる。そして、度々のつまりは手を引っ張り脚を引っ張りして抱き起し、さんみ \ 手數をかけて藏座敷へ運び込む。母はさうして置いてから、やう / \ 代官屋敷の錢湯へ行く。時にはばあ やも一緖に連れて行ってしまふ。 「潤一や、お前布團の中へ這入って、もい、から、ふんとに ( 「ほんとに」の江戸訛 ) 寢ちまっちゃあい けないよ」 と、そんな時には母はさう云って出かけて行く。ばあやはなるべく早く濟まして、先に歸って來るけれど ながゆ も、母は非常な長湯なので一時間たっても歸らない。私は何となく母の歸りが待たれるし、天井のランプ もまだ燃えてゐるしで、気が落ち着かないせゐかなか / \ 眠れない。夜がしんしんと更けるに從って、あ の配電所のごうごうと云ふ機械の音がだんイ、近く聞えて來て、夜通し遠雷のやうに鳴り始める。あ、お ッ母さんはまだなのかなあ、何處をそんなに洗ふ所があるんだらうなあと思ひながら、私は路次を曲って 來る下駄の音に耳を澄ます。もう人通りは殆ど絶えて、たまに一人二人、裏茅場町の方からと、代官屋敷 代の方からと、通り拔けをする人があるのが、カラリ、コロリと、はっきりと冴えた下駄の音をさせて通り 少過ぎる。それを熱心に一つ一つ數へながら莱をつけてゐると、やがて遠くの方から、最初はかすかに、實 に少しづ、、待ちに待った母の下駄の音が聞えて來る。どんなに遠くの方からでも、子供はそれが母の足 力いま、 V 123
こと、察し、「ではちょっと一二時間」と云って、三時頃に買ひ物袋を提げて出かける。眞っ直ぐ關田町 へ行って見る。マダムは留守で、木村が離れに一人でゐる。先刻敏子から電話があって、「今日はマダム が和歌山へ行って夜おそくまで不在であるが、私もこれから病人の所へ出かけるので、濟まないけれども 二三時間留守番に來てゐて欲しい。夕刻までには歸って來る」と云ふことで、呼び寄せられたのであると : ざっと半月ぶりに少 云ふ。風呂は沸いてゐなかったが、風呂の代りに木村がゐたと云ふ譯である。 しゆっくり話し合ふことが出來たけれども、矢張何となくセカセカして落ち着いた気分にはなれなかった。 病人が眼を覺ましはしないかと心配なの ・ : 彼を殘して五時に關田町を出て、時間がないので、 で、 大急ぎで近所の市場で買ひ物をして歸宅する。「お歸り。早かったわね」と、敏子が云ふ。「。ハ 。ハは」と云ふと、「今日は珍しくよう寢たはる。もう三時間以上になるわ」と云ふ。なるほど凄い鼾ごゑで ある。「お嬢さんにお願ひして、お風呂へ行って參りました」と、小池さんが云ふ。湯上りの色つやのよ 私は何がなし い顏をてかてかさせてゐる。あ、さうだったか、小池さんは錢湯へ行って來たのか、 尤も、夫が臥床してからは、家 にハッとする。何かしら敏子が作爲を施したらしいことを感じる。 の風呂を沸かしたことは二三度しかない。私も、小池さんも、婆やも、大概隔日か三日置きぐらゐに、晝 間のうちに錢湯へ浴びに行くことにしてゐるのであるし、今日あたりは小池さんが行く番であるから、行 って來るのに不思議はない。が、敏子はそれを計算に入れて、病人と自分と二人きりになるやうに、私を 外へ出したのではあるまいか。ついウッカリして、さう云ふ場合が生じ得ることに、私は考へ及ばなかっ た。いつもなら當然気が付くのであるが、 ( 小池さんの風呂は長湯で、五六十分はか、ると云ふことも、 383
夕方歸路につき、三人が百万遍で電車を下りるとバラバラにめいめいの家に歸る。今日はあまりに爽快な 時を過したので、夜もブランデ 1 、の卓を圍む気分にはなれなかった。 三月卅一日。 : 昨夜夫婦は酒の気なしに寢に就いた。夜中、私は螢光燈の煌々とかゞやく下で夜具の 裾の方から左の足の爪先を、わざとちょっぴり外に出して見せた。夫はすぐに気がついて私のべッドへ這 入って來た。アルコ 1 ルの力を借りないで、眩い燭光を強く浴びつ、事を行って成功したのは珍しいこと であった。この奇蹟的な出來事に夫は明かに異常な興奮の色を示した。 : 關田町のマダムも私の夫も目下休暇中なので大體朝から家にゐる。尤も夫は毎日必ず一二時間は外 出し、その邊をうろついて歸って來る。それは散歩が目的なのではあるが、もう一つの目的は、私に彼の 日記帳を盜み讀ませる餘裕を與へるためだと思ふ。夫が「ちょっと出て來る」と云って出かける度に、 「この隙に僕の日記を讀んで置け」と云はれてゐるやうに私は感じる。さうされ、ばされるほど、尚更私 は讀みはしないが、しかしそれなら私の方も、夫に此の日記帳を盜み讀ませる機會を作ってやらなければ なるまい 三月卅一日。 ・ : 妻ハ昨夜僕ヲ驚喜セシメタ。彼女ハ醉ッタフリモシナカッタ。光ヲ消スコモ要求シナ カッタ。ソシテ進ンデサマザマナ方法デ僕ヲ挑發シ、性慾點ヲ露出シテ行動ヲ促シタ。彼女ガコンナニ種 : コノ突然ノ變化ガ何ヲ意味スルカハ追ヒ追ヒ分ッテ來ル 々ナ技巧ヲ心得テヰルトハ意外デアッタ。 340
以來なのであるが、その重箱が現在は熱海で開業してゐて、こ、ヘ來てから既に二十數年になり、久保田 万太郎氏の小學校の同窓である今の當主の大谷氏は創業以來五代目になると云ふから、私が父に山谷の店 へ引っ張って行かれたのは先代の時代であったに違びない。 銀座の天金へも何度か連れて行かれたが、今でも覺えてゐるのは、あすこの店の丁稚たちはその時分まで しほから 丁髷に結ってゐた。その頃天金では酒の肴に鳥賊の鹽辛をしばイ、出したが、私は父に「それは子供の食 ふもんぢゃあねえ」と云はれながら、生れて始めてちょっぴり舌の先で舐めて見て、何と云ふ世にも複雜 な旨い味のするものだらうと思った。それから又、初期の小説「秘密」の中で書いてゐるやうに、一緖に 深川の八幡様へお參りをして、歸りに「これから渡しを渡って、冬木の米市で名代のそばを御馳走してや るかな」と云はれて、「小網町や小舟町邊の堀割と全く趣の違った、幅の狹い、岸の低い、水の一杯にふ くれ上ってゐる川」を、「二た竿三竿ばかりちょろ / \ と水底を衝いて往復して居」る小さな渡し船で渡 って、その有名な冬木のそば屋 ~ 連れて行かれたこともあった。入の朝顏を見ての歸りに、笹の雪で朝 飯を食ったこともあったが、 「こ、の家は豆腐はうめえが、米が惡くっていけねえ」 と、父は云った。 代根岸に岡野と云ふ非常に立派な庭園のある料理屋があって、そこへも二三度行ったことを思び出すのだが、 少あれは團子坂の菊見の歸りにでも寄ったのであらうか、さうだとすれば母も一緖だったのではなからうか。 5 このはな 元來が汁粉屋で、ほかの料理も出來、座敷は入れ込みだったけれども、庭は古能波奈園と呼ばれて、築山 こめいち
貌は今も餘り四十年前と變ってゐない。今の方があの時分よりは肥滿して、さすがに大人の風格を帶びて はゐるが、そしてニキビこそなくなったが、皮膚の色艶や目鼻立などは大體同じゃうな氣がする。さう云 へば晩年の白秋も、やはりあの時分とそんなに變ってはゐなかった。彼も亦昔から、南國的な暖かい血色 をした、ふつくらした豊頬の持主であった。僕は此の二人のゆたかな風貌をした青年が、青黒く痩せた、 神經質らしい、貧血症らしい寬先生を中に挾んで左右に控へてゐるのを見、寬先生はいかにも賴もしい門 弟を持ってゐるやうに感じた。 〇 ハンの會やその他の宴會の後で、主として小山内君あたりに引率されて一赭に惡所へ出かけたこと、朝歸 りに重箱で一杯飮み、歸りに蒲燒の折を提げて葛飾の白秋を訪れたこと、などは君も書いてゐるが、小網 町の鴻の集で或る晩二人が前後不覺に醉ひつぶれて歸れなくなってしまひ、二階座敷に泊めてもらったこ とがあるのを、君も忘れはしないだらうね。明くる朝目が覺めて見たら枕もとに洗面器が置いてあったか 吐いてある物がそんなに汚らしくなく、ビフテキの肉片の ら、君だか僕だかゞ店を擴げたものらしいが、 ゃうなコチコチした固形物の塊一つだけだったことまでも、未だに僕は覺えてゐる。 君と僕との因縁について、僕に取って特に忘れられないことがある。僕が始めて新思潮以外の雜誌へ物を 君 井書いて原稿料を貰ったのは、戯曲「信西」をスパルへ載せた時であったが、その時交換的にスパル同人の ものを新思潮へ貰ふことになり、それに選ばれたのが君の戯曲「河内屋與兵衞」だった。君は原稿料を貰 こう
: 佐々木ノ歸朝祝賀宴ガアッタノデ十時過ギニ歸宅シタ。妻ハタ刻カラ外出中トノコデ 三月十八日。 アッタ。多分映畫ニ出力ケタノデアラウト察シ、書齋デ日記ヲッケテヰタガ、十一時過ギテモ戻ラナイ。 十一時半ニ敏子力ラ電話デ、「。 ( 。 ( チョット來テョ」ト云フ。「何處ダ」ト云フト「關田町ョ」ト云フ。 「ママハ」ト云フト「コ、ニヰル」ト云フ。「モウ遲イカラ歸ルャウニ云ヒナサイ、コチラハ婆ャガ今歸ッ タノデ僕一人ダ」ト云フト、急ニ電話ロデ聲ヲヒソメテ、「ママガ關田町ノ風呂場デ倒レタノョ、兒玉先 生ヲ呼ンデモョクッテ」ト云フ。「ソコニ誰ト誰ガヰルノダ」ト云フト「三人ョ」ト云フ。「説明ハ後デス ハガ來ラレナイナラ兒玉先生ニ來テ貰ヒマス」ト云フ。 ルワ。兎ニ角注射ヲ急イダ方ガイイト思フワ。 僕ハ昨今ヴィタ 「兒玉サンハ呼バナイデモイイ。僕ガ注射シテャル。オ前ガ此方へ留守番ニ來イ」 カンフルノ注射液ヲ絶ヤシタコガナイノデ、家ヲ空ケタママ、敏子ノ來ルノヲ待タズニ出力ケタ。 ( コン ナ時ニ先日ノ記憶喪失ガ襲ッテ來ハシナイカト云フ恐怖ガ、チラト腦裡ヲカスメタ ) 僕ハ關田町ノ家ノ所 在ハ分ッテヰタガ、中へ這人ルノハ始メテダ。敏子ガ門ノ前ニ立ッテヰテ、庭カラ直グニ離レ座敷へ案内 シ、「デ ( 私ハ留守番ニ行ッテヰマス」ト云ッテ出テ行ッタ。「ドウモ御心配ヲカケマシテ」ト木村ガ挨拶 シタ。僕 ( 木村ニ ( 何ノ説明モ求メナカッタ。木村ノ方カラモソノコニツイテ ( 一言モ言ヒ出サナカッタ。 ドッチモバッガ惡イノデ、急イデ注射ノ用意ニカカッタ。ビアノノ前ノ疊ノ上ニ寢床ガ取ッテアッテ妻ガ 靜カニ寢カサレテヰタ。ソノ傍ノチャブ臺ガ杯盤狼藉ト取リ散ラカサレテヰタ。枕元ノ壁ニ妻ノ外出用ノ 衣服ガ、敏子ガ洋服ヲ吊ルノニ用ヒル造花ャリボンノ飾リノ付イタ ( ンガ 1 ニ懸ケテ吊ッテアッテ、妻ハ 326
「何を云ふのだねお前、そんなお金があるものかね」 私が切り出すと、案の定母は取り合はなかった。 「それんばかり内にないことはないでせう。どうしても入る金なんだから、出しておくれよおッ母さん」 「ありやしないってば、そんなお金。今日はお祖母さんもいらっしやるのに、今そんなことを云ひ出さな いでもい、ぢゃないか」 「だって、ほんとに入るんだからようおッ母さん、 い、ちゃないかそのくらゐ出してくれたって ! よ う ! 出しておくれッたら」 二た言三言云ひ爭ってゐるうちに、早くも母はハラハラと涙を落した。そして、袂でそれを拂ひ除けなが 「潤一の奴はどうしてこんななんでせうか、 と、聲を詰まらせて祖母に云った。 「ーー、、・ー精二はやさしいんですけれど、此奴はどうしてこんななのか、大學生だなんて云ひながら何を勉 強してるのか、毎日々々方々ほッつき歩いてゐて十日も二十日も家へ歸って來なかったり、たまに歸って 出來たかと思ふと親泣かせのことを云ひ出したり、 ・ : 此奴のお蔭でお父ッつあんだってどんなに苦勞し てゐなさるか : この頃は此奴のことが気に懸って寢る眼も寢られないッて云ってるんです。 の 孝 「この子は庄七によく似てゐるよ」 じゅんいち こ 445
しかし私と草人とは、吉井君ほどに古い附合ひではない。あれは明治年代だったか大正になってからだっ たか、雜司ヶ谷の鬼子母神の境内の燒鳥屋の二階で、或る日早稻田派の文士を主とする會合があって、私 もそこへ招かれて行ったことがあったが、多分その時が草人との初對面だったかと思ふ。吉江孤雁、秋田 雨雀、長田幹彦、前田晁など、云ふ顏ぶれが集ってゐたやうに記憶するが、早稻田派以外の人は私の外に 誰がゐたか覺えがない。又、早稻田の人たちとは日頃交際のなかった私が何でそんな會へ出て行ったのか も思ひ出せない。草人は早稻田の文科から美術學校の日本畫科に轉じ、その後新派俳優を志して藤澤淺次 と郎の門に人り、ついで坪内博士の文藝家協會に投じ、間もなく山川浦路と共に文藝家協會を追はれるに至 のって、負けず嫌ひの男だけに獨力を以て近代劇恊會を作り、帝劇に據って「ヘッダガアブレル」や「ファ 山ウスト」や「マクベス」を上演するやうになったのであるが、私の初對面の時は既にその方面で或る程度 上 の名を成してゐたことは確かである。その後も私は帝劇出演の歸りなどに、浦路と二人で銀座あたりをぶ 五世 ) なども、 ハリウッドで世話になった關係から迎へに來てゐたらしかったが、とう / \ 會へないで歸 ってしまった。私は東京でも大阪でも彼の歡迎宴に引っ張り出されたが、大阪の松竹座の前には、「上山 草人を迎ふ白井松次郎谷崎潤一郎」と素睛らしい大文字で書いた立札が出てゐたのを覺えてゐる。東京や 大阪を濟ませると、彼は生れ故鄕の仙臺へ錦を飾りに歸って行ったが、こ、でも異常なセンセ 1 ションを 捲き起して、仙臺市長が驛頭へ迎へに出たとか草人を名譽市民に推したとか云ふ話を聞いた。 〇