茅場町 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第17巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第17巻

路が走ってゐて、最初の家があった所も、二度目の家があった所も、しつかりとは指摘しにくい。自らそ の地を蹈査して見れば、此處と云ふことが云へるかも知れないが、今の私の體力や脚力ではそれは到底覺 東ない。仕方がないから昔の地圖と今の地圖とを見比べながら話を進めることにするが、第一に南茅場町 と云ふ町名がないし、 ( 現在は唯の「茅場町」で、「何丁目何番地」があるが、以前は番地だけであった ) 番地もすっかり違ってゐるし、橋の位置なども變ったところが多いので、何を目じるしに説明してよいか も分らない。「鎧橋は昔は鎧の渡しと云って、あすこには橋はなかったものだ」と、子供の時分に聞かさ れたことがあったが、今は下流に茅場橋と云ふ橋が出來、鎧橋は老朽して取り拂はれてしまったと云ふか ら、再び私の生れなかった昔に復った譯である。 小網町の方から來て元の鎧橋を渡ると、右側に兜町の證券取引所があるが、左側の最初の通りを表茅場町 と云ひ、それに並行した次の通りを裏茅場町と云ってゐた。表茅場町の通りを南へ一二丁行くと、右の角 なみかは に濤川と云ふ自轉車や乳母車などを製造販賣する店があったが、そこを曲って裏茅場町の通りへ拔けたと ころの、東北の角が勝見と云ふ袋物屋で、その向うの東南の角から東へ二軒目が私の家であった。もし日 枝訷社や天滿宮や藥師堂が現在もなほ昔の場所に殘ってゐるとすれば、そこから一丁と離れてゐないとこ ほめろう ろにあったが、間もなく私の家の隣に保米樓と云ふ西洋料理屋が出來た。此の保米樓は、洋食のお數に米 代の飯を組み合せて瀨戸物の重詰にして賣り出した元祖で、それを「合の子辨當」と名づけてゐた。兜町が 少近いので此の「合の子辨當」の思ひっきは圖に當り、長く繁昌した店であるが、今も彼處で商賣をしてゐ るかどうか。兎に角私の家が四十五番地の角から東へ二軒目で、保米樓が角から南へ二軒目にあったと云

2. 谷崎潤一郎全集 第17巻

或る時 今はたしか日本橋區に、いや中央區に南茅場町と云ふ町名はない、大震災前迄 日本橋區南茅場町、 あったその町は、震災後北島町龜島町など、云ふ附近の町を併合して出來た、たゞの茅場町と云ふ町の一 部になった。 その南茅場町に住んでゐたのは、いっからと云ふことがはっきりしないが、多分十一 二歳の頃から十五六歳迄の數年間、明治三十年頃から三十五六年頃に至る期間であった。番地は何丁目な しの二十五番地だったと思ふ。今の茅場町の交叉點から永代橋へ行く廣い通り、あれは震災後にあんなに 廣くなったので、私の住んでゐた家の跡は現在電車の走ってゐる路面のどこかに嘗る筈である。常時は今 の大通りよりずっと狹かったのであるが、その頃としてはやはり普通よりは廣い通りであった。それを日 か / 、《っ一こ、 ) 本橋の方から來た右側の、靈岸橋の少し手前にお訷樂堂の附いたお稻荷様があって、その角を曲る小さな 道で、その左側に私の 路次があったが、それは永代橋の通りと並行の裏通りへ拔けるほんたうに細い / \ ひっそく 家はあったのである。私の家と云っても、蠣殻町で米の仲買店をしてゐた父が、相場で失敗して逼塞して からの住居だったから、もちろん借家なのだった。六疊の居間と、四疊半の女中部屋と、階下を造作して でも、今日 八疊ほどの座敷に直した二階造りの土藏と、部屋數から云へばたった三間しかない家、 の入は三間の家と云ふと、戦後のバラック建てとか簡易住宅などを想像しさうだけれども、あ、云ふもの とは少し違ふ。兎に角土藏が附いてゐたのだし、玄關なしの、いきなり六疊の居間になってはゐたけれど も、路次に面した潜りを開けると、飛石傳ひに、片側が土藏の腰卷、片側が板塀の奧まった通路が附いて

3. 谷崎潤一郎全集 第17巻

って、それを塗る時は部屋ちゅうにその匂が滿ちた。あまりよい匂ではなかったけれども、その後久しく 嗅いだことがないので、思ひ出すとなっかしい感じがする。それから、ばあやに聞くと私は六歳ぐらゐま で母の乳を吸ったと云ふのであるが、自分にもその記憶がある。それもやはり南茅場町の最初の家に於い てのことで、もうその時は精二がゐた。私は、精二が乳を吸ったあとで、母の膝に腰かけて乳房をいちく りながら吸った。 「まあ、可笑しいこと、大きななりをして」 など、、傍からばあやに笑はれながら吸ってゐると、母もちょっと羞澁むやうな顏をしながら吸はせてゐ た。私は乳の味はそんなにおいしいとも感じなかったが、生温かい母の懷の中に籠ってゐる井ったるい乳 の匂を嗅ぐことは好きであった。私が生れた明治十九年は記録的に暑かった年だと云ふことを、當時の老 人はよく話したものだが、その暑い年の、而も七月の廿四日に、あの風通しの惡い薄暗い土藏の中で生れ 落ちた自分の姿を想像しながら乳の匂を嗅いでゐると、母が襁褓を着た私を抱き上げて、乳房にじっとり 汗を掻いてゐたであらう様子までが思ひやられるのであった。 茅場町へ來てからも、母やばあやに連れられて毎日のやうに本家へ遊びに行くことに變りはなかった。距 離は濱町の時とほゞ同じぐらゐで、五六丁ほどであったらう。裏茅場町から勝見の横町を表茅場町へ出、 代鎧橋を渡って小網町の方へ左折し、又直ぐ右折して米屋町を通り拔けて行く。私やばあやの脚でも十五分 少程度の路であったし、電車も自動車もない時代であったけれども、鎧橋を越える時は廣い往來を向う側の 入道の方へ渡らなければならないので、人力車に轢かれないやうにと、ばあやは一生懸命に私に注意した。 むつぎ

4. 谷崎潤一郎全集 第17巻

書生風の男が彳んで、待ち伏せしてゐることもあった。私はいっぞやの將校の事件以來、自分より年上の 男の子には警戒するやうになってゐたが、日淸戦爭から此方、急に美少年趣味が盛んになって、「ニセさ ん」だの「ヨカチゴ」だのと云ふ薩摩一一一〔葉が、東京でも用ひられるやうになってゐた。それに戦爭前まで は、男の子でも絹物を着てゐる者が多かったのに、戰爭以後は質實剛健を旨とするやうになったせゐか、 めくらじまふたこおり 大概の子供が久留米絣や肓目縞や二子織などの木綿物を着るやうになったが、年下の子を追ひかけ廻す不 良少年共には自ら一定の服裝があったので、暗闇でも遠くから見分けがついた。 / 彼等は必ずと云ってもよ い程、白い太い毛糸の、馬鹿気て長い紐の附いた、黑木綿の絞附か久留米絣の羽織を着てゐた。そしてそ の羽織の紐を、末端の方で小さく結んで、背中へ廻して頸にかけてゐた。物蔭などで待ち伏せする時は、 顏を見られないやうに羽織をすつぼりと頭から被り、その上から紐を擔ぐので、黒頭巾の上に白い毛糸が 一層眼立った。しかし今から考へると、彼等はそんな風をして小さい臆病な子供たちを恐がらすのが面白 かったので、眞に犯罪性を帶びてゐた者はあまりゐなかったやうに思ふ。私はしば / \ さう云ふ不良の徒 に立ち塞がれて、慌てゝ横町へ逃げ込んだり、 一生懸命息のつゞく限り走って歸ったりしたことがある が、せ い \ ロ笛を鳴らすとか奇聲を發して嚇すとかするくらゐで、さう執拗く追って來ることはなかっ 代路の暗さは蠣殻町方面よりも、鎧橋を渡って南茅場町へか、ってからの方が一人であった。表茅場町には みせや 少倉庫のやうな建物が多かったし、裏茅場町にも店屋らしい店屋がなかったせゐであるが、それでも裏茅場 町の通りには、明德稻荷より少し手前の右剛の五十番地に、東京電燈會社の配電所があって、その周圍だ こ 0 おのづか おどか ひとしほ 119

5. 谷崎潤一郎全集 第17巻

た子が弟の精二と同級であったが、一昨年 ( 昭和廿九年 ) の八月精二が熱海へ見えた時の話に、實に何十 年ぶりかで柴垣の次男が早稻田大學へ彼を訪ねて來たと云ふ。すると長男の德太郎氏も健在ではないかと 思ふのであるが、精二はそのことは聞き洩らしたと云ってゐた。 私の家から一番近いのでは、藥師の地内を裏茅場町へ拔けた所の、南茅場町の廿八番地か九番地あたりに 店のあった糸屋の息子で、丸山金一郎と云ふのがゐたが、此の人はもう何十年も前に亡くなったと云ふ話 を聞いた。それから龜嶋町の代官屋敷、 現今の中央區茅場町二丁目の一部、都電が千代田橋から靈 岸橋へ向って走ってゐる路面の南側あたりが、ちゃうど代官屋敷の跡に嘗る。「日本橋區史」に依ると、 此の邊は「享保年中に武家地から與力の組屋鋪へと變った」とあるが、昔は八丁堀から龜嶋町北嶋町一帶 にかけて與力や同心が住んでゐた關係上、私の子供の時分にもまだ何人かはさう云ふ過去を持った人々が あの一廓に居殘ってゐた。以前は「八丁堀の旦那」と云はれて恐れられてゐたそれらの人々も、もうその 頃はわれノ \ 町人と同様何の權力も持ってはゐなかったのであるが、さう云っても士族の身分ではあった し、いくらか舊幕時代の餘威を存してゐる風があった。代官屋敷と云ふのはつまり彼等の屋敷のあった土 地の名稱で、片側が南茅場町、片側が龜嶋町から北嶋町に跨がる一區劃であったが、姓を脇田と云って、 昔父親が與力をしてゐた家の子が一人同級にゐた。私よりは二つ年下であったから、六歳で人學した譯で 代 あるが、そんなことも嘗時は一般に許されてゐたのか、士族で與力の忰であったから特別扱ひをされたの 時 少か、よく分らない。此の家も私の家に近かったから始終遊びに行った。一見して普通の町家とは違ふ長い 板塀のある構へで、表門は平素は閉ぢて、出人りを禁じてあったと思ふ。私は先づ塀の外から、「誰々ち 101

6. 谷崎潤一郎全集 第17巻

と、不意に聲をかけられて、振り返って見るとお菊さんだったので、かんてらの明りに照らされながら、 二人でさんる \ 立ち話をして泣いたと云ふことを聞いたのが最後であった。 次に書き加へて置きたいのは、お菊さんの輿入れの際であったか、それとも結婚後の最初の節供の時であ ったか、兎に角その前後に、櫻井家からお嫁さんの雛道具一式が屆いたのを見たことがあった。私がそれ をどうして覺えてゐるかと云ふと、その雛道具がたいそう贅澤なものであったからである。何でもそれは ゆたん 數入の人が汕箪のか、った臺に載せて擔いで來たのを、此方の店の者たちが受け取って、奧座敷へ運び込 ししんでん んだのであったが、今でも思ひ出されるのは、嚴めしい大きな屋根を戴いた紫宸殿の中に、内裏様を始め 數々の雛人形が並べてあった。私はあんな豪華なのを十軒店でも見たことがなかった。いったい、昔から 綠起を擔ぐ家では、關東でも關西でも、屋形の附いた雛人形を飾ることを忌む。紫宸殿はよいけれども、 屋根のあるのを飾ると家が潰れると云って、屋根だけは附けないやうにする。櫻井家でも谷崎家でもさう 云ふ傳説を知らずにゐたのか、そんな迷信は意に介しなかったのか、どっちかであらうけれども、谷崎家 の場合は不運にもその傳説の通りになって、十年後には二代目久右衞門は沒落するやうになるのである。 南茅場町の最初の家 かやばちゃう 濱町の家には私はほんの數ヶ月ゐたゞけで、明治廿四年の秋までの間に、南茅場町の四十五番地に引き移 ったらしい 昭和廿八年二月發行の改訂版東京都區分圖の中央區詳細圖を見ると、嘗時の南茅場町邊には縱横に廣い道

7. 谷崎潤一郎全集 第17巻

や瀧の落ちてゐる池の趣や、泉石の眺めがまことに見事だったので、芝居や錦繪でしか見たことのない大 名の奧庭 ~ でも突然連れて來られたやうな、夢の世界 ~ 誘はれた記憶が、ばんやり殘ってゐるのである。 南茅場町の二度目の家 私は數 ~ 年の三十歳の時に、始めて本所の新小梅に一戸を構 ~ てから、東京近縣を振り出しに大阪京都中 國方面に及び、今日までに三十囘近くも轉々と居を移してゐるが、これも或は父の感化であるかも知れな い。父も私ほどではないが、私が知ってゐるだけでも十囘は家を變へてゐる。私の場合は地震とか戰爭と か、外界の事情に左右されて動いてもゐるのだが、父は全く生活上の都合から、東京の下町の日本橋區と 神田區との間を彼方此方と動き廻った。が、その中で一番長く一つ所に落ち着いてゐたのは、南茅場町の 二度目の家で、私の幼少時代に於ける最も多くの年月は此處で過されたのであった。 二度目の家は五十六番地であったから、四十五番地にあった最初の家から距離は僅かしか隔たってゐなか った。裏茅場町の廣い通りの四つ角から二軒目にあった最初の家の前を、靈岸嶋の方 ~ 向って二丁足らず ほこら 行くと、右側の五十四番地に明德稻荷と云ふお紳樂堂の附いた小さい祠があって、その祠の蔭に、代官屋 敷の方 ~ 拔ける路次があり、その路次の眞ん中あたりの東側にその家はあった。當時さう云ふ路次の中に ゃなみ は、隱居、妾、お店者、仕事師、遊び人などが住んでゐたが、私の家はそんなこま / \ した家並の中では、 兎も角も一軒建ての住宅で、外から内部を覗かれるやうな構 ~ ではなかった。そしてその家のうしろに又 もう一つ奥の路次があって、これは私の家の勝手口のところで行きどまりになってをり、そこに意気な鳶 たなものしごとし いざな 116

8. 谷崎潤一郎全集 第17巻

料理屋は藥師の地内に草津亭があった時代であるから、恐らくそこらあたりから仕出しを取り寄せたので あら、つ。 蠣殼町や濱町の頃は水天宮と大觀音が恰好な遊び場所であったが、南茅場町の藥師の地内はそれにも勝っ ろてき て、子供には持って來いのところであった。徂徠や共角が住んでゐた寶永享保頃は、一面に蘆荻の生ひ茂 る閑雅な土地であったと云ふが、明治廿年代でも、今から思へばほんたうにのんびりとした、長閑なもの せんげん えんまだう であった。地内には、南から數へて天滿宮、翁稻荷、淺間神社、神樂堂、日枝神社、藥師堂、閻魔堂、大 うゑぎだな 師堂などがあって、ちょっとした小公園ぐらゐの廣さがあり、今の兜町、當時の坂本町の植木店方面から 這入る正面の參詣道の外に、それに並行した小路と、裏茅場町の通りから這入るロと、保米樓の前から這 入るロと 、北嶋町の代官屋敷方面から這人るロとあった。神社や數々のお堂の外に、保米樓よりも古い西 洋料理屋の彌生軒、草津亭、鰌屋の丸金、寄席の宮松亭、待合の香川などがあり、天莱のよい日には露天 しんこ 商人が何かしら出てゐないことはなく、飴屋、駄菓子屋、穆粉屋などの店の前にはいつも子供たちが集っ てゐた。飴屋や粉屋は出來てゐる品物を賣るだけではなく、さまみ \ な物の形を眼の前で作って彩色を して見せたりするので、子供たちは何時間でも立ちつくして飽きる時がなかった。私はよく、粉屋に寄 せ鍋を作って貰って食べた。それを作るには、穆粉屋は先づ手が粘っかないやうに指先に油を塗り、白い はんべん 代穆粉を鍋の形に捏ねて、ヘギ板の上に据ゑる。次に別の穆粉で蒲鉾や竹輪や半平の類を作って中に人れる。 少鍋は赤い穆粉で綠を取り、竹輪や蒲鉾にも適當に色をつけ、一通り出來上ったところで蜜をかける。私は それを買って、ヘギだけ殘して鍋ぐるみ食べてしまふ。飴屋も飴を吹いて膨らがしたり、いろノ \ な物體 どちゃう こうち ねば のどか

9. 谷崎潤一郎全集 第17巻

後から十五六歳に達する頃まで、毎月の八日の縁日に、裏茅場町の夜の闇に不思議な悪夢を見せて貰った ことを、決して後悔してはゐない。 前に話した大阪仁輪加の鶴家團十郎一座が東京へ來たのは、何年頃であったか確かには云へないが、或は 私は明德稻荷の茶番よりも前に、あの仁輪加芝居を見たのではなかったらうか。その時分、蠣殻河岸を永 かはっふち 久橋から川口橋の方へ行く三丁目の川縁の角に、遊樂館と云ふ、禪田の錦輝館のやうな、高級な演藝場の しんれい 建物があったが、私はたしか母や叔父に連れられて、彼處で鶴家團十郎を見たのであった。出し物は神靈 やぐちのわたし 矢ロ渡で、團十郎の頓兵衞が、ところる、で道化たしぐさを交へながら、要所々々では眞面目な芝居をし ひとかど て見せるのが、なか / \ 達者だったので、これは一角の歌舞伎役者ではないのか知らんと、子供心にも感 心したことがあった。ついでながら、その頃は此の遊樂館のやうな、劇場と寄席の中間を行く恰好な小屋 あやっ が少かったので、こ、には折々珍しい興行物がか、ったが、私が始めてダアクの操り人形や活動寫眞を見 せられたのもこ、であった。長谷川如是閑翁の令兄である故山本笑月氏著「明治世相百話」に依ると、東 京に於ける活動寫眞の初興行は明治卅年の二月頃、歌舞伎座で催されたとあるから、遊樂館での興行もそ トリック物、一卷のフィルムの兩端をつな れから間もなくのことであったらう。 いづれも簡單な實寫物か ぎ合せて、同じ場面を何囘でも繰り返して映せるやうにしたもので、今もよく覺えてゐるのは、海岸に怒 濤が打ち寄せて、さっと碎けて又退いて行くのを、一匹の犬が追ひっ追はれっして戯れる光景の反覆。遠 くの方の平原の果てに、粟粒ほどの小さ、で一列に並んでゐる馬の群が、観客席の方を目がけて一直線に 疾驅して來、刻々に形が大きくなって眼前に肉迫しつ、走り去ってしまふ、と、又新しい一列が遙かな地 160

10. 谷崎潤一郎全集 第17巻

合ってゐたあの令嬢の姿であった。 本家の叔父と米店の伯父伯母 私たち一家が南茅場町の五十六番地に逼塞してから、なほ十年間ぐらゐ蠣殼町の活版所は機械の音を響か してゐたが、一旦茶屋遊びの味が沁み込んだ叔父は兎角仕事に身が人らないので、だんノ \ 營業が不振に なり、世間の信用も失はれて行った。お壽美はお菊さんがゐなくなった後、ほんの僅かの間本家の奥座敷 に治まってゐたゞけで、疾うの昔に再び柳橋から出るやうになってゐた。尤も、さうなってからも叔父と の綠は切れた譯ではなく、二人はときん \ 代地河岸あたりで逢ってゐた。叔父は次第に動産不動産を手放 して行き、令の義兄にも重ね / \ 迷惑をかけつ、あるらしかったが、遊びの金にも不自由するやうになり ながら、まだお壽美とのつながりは絶えなかった。 叔父は自分の直ぐ上の姉である私の母とは馬が合ふと見えて、しょざいのない折々、父のゐない晝間びよ っこり現はれて、話し込んで行くことがあったが、或る時、私が學校から歸って來ると、叔父が待ってゐ て、 「潤一、お前にちょっと使ひに行って來て貰ひたいんだが、 代と云った。私が承知すると、 少「ちゃあ一つ賴まれておくれ」 と、叔父は私の眼の前で手紙を書いて、腰に挿してゐた金唐革の莨人を拔き取った。 きんからかは 207