~ られたかも知れませんが、「内心恐怖の色を包み切れなかった」と云ふやうなことはなく、態度が落ち 着いてをられましたので、さすがに軍人は違ったものだと、云はれたやうに覺えてをります。後年この方 は二・二六事件の時遂に非業の死を遂げられましたが、その時の態度も軍入として耻しからぬものだった ゃうに存じてをります。 〇 ま、それは兎も角といたしまして、吉野博士はこんなことも書いとられます。「僕曾て田舍の靑年會に講 演に招がれた事があった。同じく招ぎに應じて來た某軍入は頻りに勇猛突撃の精紳を皷吹し、剛毅果斷沈 勇の德を力説し、豐富なる材料によって頗る靑年の志気を作興して居ったが、共晩定められた宿屋に歸ら ず怪しげな料理屋に泊りたがって幹事を手古摺らして居った事を覺えて居る」と。そして申されますのに ( ( ・ / もカそれよりも大事なのは繰り返して云ふが平几 は、「剛毅、沈勇の徳を高閣に東ねてい、とま、よよ、。、、 な日常生活の出來る丈け完全な遂行である。而して此點に尚一脣の努力を傾倒せしめんが爲めの手段とし いかさま、理窟はその通りでございますが、實 て、僕は戰國道德感よりの覺醒を叫ばざるを得ない」と。 際に世に處しまする上に於いて、水野錬太郎さんのやうな羽目に立たされますことがしば / 、ございます のは、困ったもんでございます。水野さんは待合室に逃げ込んだゞけで助かったからようございます力 世さう簡單に濟まない場合が多うございます。入は追ひノ ( 、、と立身出世をいたしまして社會的地位が高くな 3 ればなるほど、左様な危險に遭ふ率が多くなるものと覺悟しなければなりません。
「まだ死なんぞ、もっと切れ」 と、箕浦が又大聲で叫びます。今までよりも大きな聲だったので、三丁ぐらゐ響き渡ります。「箕浦の擧 きゃうがくゐふ 動を見てゐたフランス公使は、次第に驚駭と長怖とに襲はれた。そして座席に安んぜなくなってゐたのに、 おきどころ この意外に大きい聲を、意外な時に聞いた公使は、とうイ、立ち上がって、手足の措所に迷った」と鵰外 先生は書いていらっしゃいます。 馬場はやう / 三度目に箕浦の首を切り落します。次に呼び出されましたのはもう一人の隊長西村でござ います。軍服を着てをりました西村は、服のボタンを一つ一つ丁寧に外し、短刀を取って左に突き立て、 少し右へ引きかけましたが、淺過ぎると思ひましたので、一脣深く突き立て、悠々と右へ引き廻します。 介錯人が慌てゝ、西村がまだ右へ引いてゐるうちに背後から切ります。首が三間ばかり飛びます。 〇 次は小頭の池上、次は大石、次は杉本、勝賀瀬、山本、森本、北城、稻田、柳瀬と云ふ順序に切腹いたし ます。フランス公使はこれまで不安に堪へない様子で立ったり居たりしてをりましたが、不安は次第に銃 を持って立ってをります水兵に波及いたします。ちゃうど十二人目の橋詰が切腹の座に着きました時、公 使が何か一と言申しますと、水兵一同公使を中に圍みまして臨檢の席を離れ、總裁の宮や諸役人に會釋も しないであたふたと幕の外に出、驅足で港の方へ逃げて行ってしまひます。切腹の座では橋詰がアハヤ短 刀を突き立てようとしてをりました瞬間、役人が驅けて參りまして、 482
少將滋幹の母、源氏物語の新譯、幼少時代、鍵と、兎に角仕事をして參りました。健康もびとしきりより 囘復いたし、一時は完全に禁酒いたしてをりましたのが、少しぐらゐはよろしからうと申すことで、時に は二合を超えることなどもございましたが、そんなエ合に少し圖に乘りましたのが悪かったんでございま せうな。腦溢血のやうな病気は一應健康を取り戻しますと、六七年は保つけれども、六七年目に大概ぶり 返しが來る、だから用心なさいましと、御親切な忠告を戴いたこともございましたが、なあにその時はそ の時と、つい氣を許してをりました。 舊稿「高血壓症の思ひ出」の末の方に「數へ年七十二歳の老人がこんな健康を享受することが出來るのは この上もない幸疆であるが、こ、らで深く警戒しないと、第二の出來事が起るのではないか、と云ふ懸念 が萌さないでもなかった」と書いとります。「さうしてその報いは」遂に「去年 ( 昭和三十三年 ) の十一 月の廿八日にやって來た。今私は寢たり起きたりの从態にゐ」るとも書いとりますが、それは一昨々年の 秋のことでございました。たしか草月會館に割烹店辻留の御主入の出版記念會がございまして、それに出 席したことがございます。何でもその會に、有名な祇園第一の美妓と謳はれた初子さん、今は藝者さんを やめて岡崎に旅館の奧さんをしとられますが、あの方がこの日のためにわざ / 、上京されまして、これも 東京で旅館を營業してをられる元の小富美さんの三味線で、「黒髮」 ( くろがみと讀んではいけません ) を 舞はれると云ふ話を聞きましたので、それが見たさに、出席したのでございました。もとよりあの方は井 上流の名手でいらしって、何を舞はれても結構ではございますが、分けても初子さんの「黑髮」と申すも のはまことに京美人の艶姿を表象しましたやうなもので、天下一品たからでございます。 くろかみ 436
日本隨筆大成と申す書物に載ってをります「夏山雜談」と申す本の第三卷に、「關東の詞には濁音多し。 へり」とございますが、これはどんなものでございませうか。 さやの中山をさやの長山と聞ゆるやうにい かみぎゃうしもぎゃう 手前などは東京の方が關西よりも濁音が少いやうに存じますな。京の「上京、下京」を、手前は長いこと 「カミキャウ、シモキャウ」と發音してをりました。嘗ても引用いたしましたが、有名な芭蕉の句「下京 や雪つむ上の夜の雨」なんかも、手前はつい「シモキャウ」と云ひならはしてをりました。手前の若い頃 ほんしろかね までは、、 ったいに東京の方が淸んで讀む場合が多うございましたな。たとへば町の名前で「本銀町」、 ほんこく 「本石町」「芝白金」、「淺草鳥越」等々、すべて淸んで申しました。ところがどう云ふ譯か、近頃の若い方 は皆濁るやうになりましたな。「白金」は「シロガネ」、「本石町」は「ホンゴクチャウ」、「本銀町」は「ホ ンシロガネチャウ」。地方出の方は仕方がないといたしまして、生粹の東京生れの方々が皆さう仰っしゃ います。甚しいのは二十臺三十臺の落語家が濁りますな。本銀町が「シロガネチャウ」ちゃあ全然打ちっ 壞しで、江戸の感じなんか出やあしません。 かしら 「井ノ頭」なんかも昨今は「ヰノガシラ」になっちやひましたな。そんなところがどこにあるんだと云ひ たくなります。さうかと思ふと若いに似合はず氣をつけてる方もございますな。たび / \ 引き合ひに出し まして恐縮でございますが、石川淳さんの「夷齋饒舌」第百頁十行目に、 「牛車はあたっていけねえ。こりこりだ。 とございます。これなんかも今ではみんな「こりごり」と申します。尤も淳さんも「もちくされ」を「も ちぐされ」 ( 五十九頁五行目 ) なんて書いてらっしゃいますが、「もちぐされ」は困りますな。「着換へる」 かね こえ 406
ります。昔手前の「猫と庄造と二人のをんな」が下鴨の手前の家のつい近所、松竹撮影所の試寫室で映寫 されました節、森繁君も見えてをられましたので、ちょっと挨拶はいたしましたが、映寫が濟みました時、 何で森繁さんを家へ誘って來なかったのか、森繁さんだってもっと話がしたかったらうにと、後で家内に 注意されまして、あ、さうだった、飛んだことをしちまったと後悔したことがございました。しかしあの 時分から見ますと、又一段と上手な役者になられましたな。殊に感心いたしますのは、實によく原作の気 持を理解してをられ、それを的確に表現されること、しかもその役の種類が非常に多方面なことでござい ます。たとへば「庖丁」の主人公、林芙美子の「放浪記」の主人公、 あの藥賣りの歌の調子の巧か ったこと、 石川淳氏の「白頭吟」の主人公、まだこの外にもいろ / \ あったと存じますが、一つ / \ 特色のある變った役柄を、會話一つであれだけ生かして表はせると云ふのはなか / \ の才能だと存じ ます。加藤道子君の相手役も相嘗なものだったので一脣効果が擧ったのでございませう。 朝から晩まで耐へ難い苦痛に惱まされると申すほどではございませんでも、年老いた身が薄暗い部屋に閉 ち籠って病の床に臥せってをりますと、自然心も沈みがちになりましてめったに聲を擧げて笑ふことなど ございませんが、それが折々我を忘れて腹を抱へて吹き出すことがございましたのは、宮田輝氏の「三つ の歌」の時間の時でございました。のど自慢の方は皆さんの歌があまり黒っぽくなり過ぎて却って面白味 がございませんが、「三つの歌」はさうでないだけに愛嬌がございます。それに歌の相間々々に、宮田氏 が出演者をまへてその土地々々の風習を尋ねたり、田舍訛りを眞似てみせたり、言葉尻をまへてまぜ っ返してみたり、あの方はあ、云ふことがとても上手でお得意なので、實は歌よりもあれを聞くのがこの 446
云ふことに相成ります。その日先生は谷村夫人とそのお嬢さん、つまり先生のお孃さんやお孫さんに案内 をおさせになって御訪間になり、デコちゃん夫婦も今度は折よく居合はせて大いに感激したと云ふ譯でご ざいます。そしてデコちゃん夫婦が映畫祭に招かれて夫婦で渡歐されましたのが、その年の秋と云ふこと になります。 前に引用いたしました三十四年二月北野梅花祭のお便りの一節に、 巴里の松山秀子夫人からは、旧臘以來、巴里より美くしい繪葉書だよりが、四通ほど、航室便にて受信 いたしたやうな次第で老心の滿悅無上に存じてをります、 とございますが、その先にこんなことが書いてございます。 去る二月五日のⅡ (—) 放送にて、午前七時四五分から八時までの「朝の訪間」の時間に、イヴ・ モンタンと秀子女史との談話の録音に際して、昨春より巴里遊學中の次男猛と申すフランス語學文學專 門生 ( 名古屋大學敎授五十歳 ) なる者が、どう云ふ因綠か兩者の間の通譯を動めるやうな運命にて、拙 宅及び谷村、疆田、および當人の留守宅の妻女子供も、一石二鳥又三鳥の好機を得たやうな仕合せでご ざいました。亡妻は晩年ます / ( 、ラヂオ・ファンになりましたが、この當日の早朝には小生も奮起して、 二者乃至三者のを聞きて、室前とも云ふべき稀代の感激を受けました。 ( 中略 ) まことに得がた、 世の佳人を御紹介下さるに至ったのもはや一ヶ年に近づき : なるほど、 ゐながらにして。 ( リに於ける御令息とデコちゃんとの聲を、京都と東京で御一族と共々にお聞 きになることが出來たのですから、「室前とも云ふべき稀代の感激」をお受けになったのも御尤もです。 392
ために、只今自害する有様見置きて、汝等が武運忽ちに盡きて腹をきらんずる時の手本にせよ」と云ふ よろひひたゝれ ねりぬきふたっこそでおしーた ま、に、鎧を脱いで櫓より下へ投げ落し、錦の鎧直垂の袴ばかりに、練貫の二小袖を押膚脱いで、白く 淸げなる膚に刀をつき立て、左の脇より右のそば腹まで一文字に掻き切って、腸んで櫓の板になげつ け、太刀を口にくわへて、うつ伏しになってぞ臥したりける。 太平記は手前少年時代の愛讀書の一つでございまして、何囘か繰り返し讀んだ記憶がございますが、この 義光が腸をみ出して死にます光景は餘程恐しかったものとみえまして、第一囘目に讀みました時から強 く印象されまして、それから五六十年後の今日に至るまで覺えてゐる次第でございます。 それから鷓外先生の歴史小説に「堺事件」と申すものがございますが、これは定めし多くの方々がお讀み になっていらっしゃいませうな。 時は明治元年戊辰の歳の二月十五日、大阪に停泊中のフランス軍艦ヱニス號の水兵と土佐藩の守備兵たち が堺の町で撃ち合ひをいたしまして、フランス兵十三入が殺された事件がございます。ヱニス號から公使 レオン ・ロッシュと申される入が外國事務係 ~ 損害賠償の要求を出して迫りましたので、朝廷も已むを得 ずその要求に屈したのでございますが、要求の一つといたしまして、堺で土佐藩の隊を指揮した士官二人、 フランス入を殺害した隊の兵卒二十人を、右の殺害を加へた土地、印ち堺表に於いて死刑に處する、と云 ふことがございます。「堺事件」と中しますのは、この時堺の妙國寺と云ふお寺の庭で土佐藩の武士二十 はらわた 480
ら早速方々を當って見たのだが、なるべくなら神戸の時と同じ仕事の方がよいと思って、彈藥函を製作す る工場を見つけた、場所は宇品の方へ寄った翠町と云ふ所にあって、私の家から歩いて十五分ぐらゐで行 ける、ついては先づお前が一人で來て貰ひたい、私の家も手狹で、夫婦を泊める部屋がないから、むら子 を呼ぶなら貸間を搜して置かなければならない、そして彼女の求めロも見つけた上で呼ぶ方がい、から、 暫く後にして貰ひたい、 と云って來たので、增吉は一と足先に單獨で出かけることになった。 彼が立って行ったのは七月に這入ってからであった。廣嶋行きの切符がなか / \ 手に入らないで、それも 叔父に運動して貰ひ、漸く買へたのであった。彼は立っ時、叔父は後から女房も呼んでやると云ってゐる が気休めではないか知らん、本莱で骨を折ってくれるだらうかと危ぶんでゐたが、それでも同じ月の下旬 に、お前のロも見つかったし、叔父の家の近所の二階を借りる話がきまったから、すぐ立って來いとむら 子に云って來た。そしてむら子はおそくも八月十日までには立っ積りで支度をし、荷拵へをしてゐたので あったが、彼女が出かける一兩日前にあの災厄が廣嶋を見舞った。 そんな次第であるから、むら子は夫が身を以て經驗した當時の状況は、後に夫の口から間接に聞かされた ゞけで、委しいことは知ってゐない。たま / 、 \ 夫の居合はせた土地が不思議な災調に見舞はれたこと、そ れが原子爆彈と云ふものであったらしいこと、爆心地に近い大部分の人が死滅したらしいこと等々は、草 深い名塩の山奥にもその日のうちに傳はって來、夫の安否が一方ならず気づかはれたけれども、さしあた り生死をたしかめるためのどう云ふ方法もある譯はなかった。じっとしてもゐられないので、取りあへず 紳戸まで出かけて行って燒け跡のあたりをうろついて見、二三の知入に行き遇って廣嶋の様子を聞いて見
「お父さん、どこぞ惡いのか」 と尋ねると、 「いや、別に」 と、父はいつも曖味に云ってゐたが、 「そやけど加藤醫院の藥があるやないか」 と云ふと、 てうづ 「何、大したことやない、ちいと手水の出工が悪いのや」 「そしたら膀胱炎みたいなもんやろか」 「うん、まあそんなもんらしい」 と云ってゐた。 父が頻尿に陷ってゐることは漸く誰の眼にも著しかった。それとなく注意してゐると、可なりたび / 、便 所に通ふ。血色もますノく、惡くなりつ、ある。食慾もさつばりない。入梅が明けて土用に人ってから、晝 は大儀さうにごろ寢をしてゐることが多く、日が暮れてからは池の床へ出て食事をした、めることがあっ ても、母や私への手前無理に動めてゐるやうで、元氣がなかった。 「父は自分では膀胱炎だと云ってゐるんですが、ほんたうにそれだけのことなんでせうか」 私は父が病名を明かにせず、醫師へ通ふのをさへ内密にしてゐるのに疑ひを抱き、密かに加藤醫院を訪ね て院長に問うたことがあった。 188
ブラシをかけたり洗ったりいたしませんことには、室内に寢かせる譯には參りません。おまけに猫と喧嘩 をしますので、結局一つ屋根の下で養ふ譯には參りませんな。 臆病について 二十四五歳の頃でしたか、 五六人の友人が集って雜談に耽りました末に、赤穗浪士の話が出まして、「己 が赤穗の浪人だったら四十七士の仲間に這入ってゐたゞらうか」と云ひ合ったことがございました。 「さうだね、君ならきっと義士になったね」 と一人が申しますと、 「君もなれたね」 とカ 「彼奴はとてもなれさうもないね」 」カ 「彼奴は高田軍兵衞の組だね」 「彼奴も小山田庄左衞門になりさうだね」 とか云ひ出しまして群議まち / \ でございましたが、結局その場に居合はせました連中は、いづれも大石 世内藏助の徒黨に與しました忠義一途の、死を恐れない勇気ある武士のやうに自分たちを感じたことでござ いました。手前も勿論元祿の昔でございましたら自分が義士の一人であったに違ひないやうに思ひ、友人 あいっ くみ 477