いたし - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第18巻
135件見つかりました。

1. 谷崎潤一郎全集 第18巻

ことが上手になって參りました。 〇 たをりが好きになりましたのはどう云ふ譯か、自分にもよく分りません。自分の孫とは中しながら、血の つながりは全くございません、手前には一番綠の遠い孫でございます。が、前々から申しましたやうな手 前の癖で、その綠の遠いところ、孫らしくない孫であるところ、他人に近い子でありながら而も「おちい リこよ工合がよかったのでございませうな。それと、 ちゃん」と呼んで貰へる間柄であるところ、そこが手前しー これには明かに一つのきっかけがございました。たしかたをりが二つの年の正月のことでございます、手 前共が下鴨の家から伊豆山の今の山莊 ( その頃は京都と熱海と兩方に家がございました ) に遊びに參って をりました時、母の千萬子に連れられまして始めてたをりがこ、に見えたことがございました。數日間滯 在いたしまして、再び母に抱かれて北白川の家に歸ります日、玄關まで送って出ますと、 「おぢいちゃん、さよなら」 と云ひながら、いきなり傍へ寄って參りまして手前の頬にキスいたしました。母が云ひつけましたのか、 どちら それとも二人のばあばのうちの孰方かゞ云ひつけたことなんだらうと存じますが、それは手前には全くの 驚き、全くの不意打ちで、そして何ともたとへやうのない肉感でございました。憚りながら、手前今まで 世に美人にキスされた覺えはございますけれども、こんないたいけな、而もすぐれて器量の美しい女の子に きたなぢゞい キスされたことはございません。たをりの方も、こんな髯だらけな穢い爺の頬つ。へたに唇をつけましたの 469

2. 谷崎潤一郎全集 第18巻

東京の人は他人に物を與へます時に、普通「やる」と申します。「金をやる」「お菓子をやる」「祝儀をや る」すべて「やる」でございます。目下の者には勿論でございますが、自分と對等の人に對しましても、 どうかすれば目上に對しましても「やる」で濟ましてをりますな。關西では「やる」は殆ど使びません。 「上げる」と申します。大に。ハンを與へる時でも、「。ハンを上げる」と申します。今の家内と始めて家を持 ちました時、妙にこの「上げる」が耳について、馬鹿丁寧な、と云ふ氣がしたもんでございますが、少く とも女性の言葉といたしましては「上げる」の方が品がいゝゃうな莱がいたします。家内や妹などは今で も「上げる」と云っとります。「やる」とは決して申しません。 始めて世帶を持った時のことで、もう一つ思ひ出しますのは、手前が何か用事が出來まして外出しようと いたしますと、家内が玄關へ送って出まして、 「お早うお歸り」 世と申しましたので、 「いや、そんなに早くはないかも知れない」 々が皆關西でございますから、熱海に住んでをりましても、家庭内ではしば / \ 「はる」を用ひます。東 京人には使ふ譯に參りませんから、却って家内や義妹たちに對する時の方が、丁寧になることもございま 403

3. 谷崎潤一郎全集 第18巻

〇 ど箱書きを終へてしまひますと、手前はすぐに笹沼君の奥さんを呼び出しまして事の次第を告げました。殘 世念ながら今日は用心した方がいゝと思ひますから帝國ホテルは缺席しますが、使ひの者にお約東したお祝 の品を持たせてやります、折角只今箱書きをした、めたところですから、と申しますと、 それを拜見して十分堪能いたしまして、その晩は虎の門の宿に泊りましたが、多分その翌日が十一月の二 十八日だったと存じます。その日は、今は亡くなられましたが手前の竹馬の友である笹沼源之助君の金婚 式の當日でございまして、夕刻から帝國ホテルで祝賀會がある筈でございました。手前はそのお祝に、富 岡鐵齋が高砂の尉と姥を袱紗に描きましたものを贈呈いたしますつもりで、それを納める桐の箱の蓋に箱 書きをいたしてをる時でございました。箱書きは可なり長い文句でございましたが、二三行書きかけてを しび りますと、急に右の手の手頸から先が痺れ出して、無感覺になりました。こんな經驗は始めてのことで、 オヤと思ってびつくりいたしましたが、無感覺にはなりましたものゝ動くことは動くのでございました。 で、え、構ふもんか、ぢき直るだらう、書きかけたもんだから書いちまへと存じまして、痺れた手のま、 で書き續け、丁寧に關防の印まで捺しました。 後で京大の前川先生に伺ひましたが、最初に痺れ出した時に、すぐ筆を擱いて書くのを止めればよかった のだ、さうすれば恐らく一週間ぐらゐで囘復したのだ、痺れ出したのに無理をして書き績けたのが非常に 惡い、と云ふことでございますが、どうもそれも後の祭で致し方がございません。 437

4. 谷崎潤一郎全集 第18巻

日前、四月二十一日に手前共はこんなお手紙を戴いてをります。 ( 前略 ) いづこも同じ春には何のかの來往多端がちで、とかくしてをりましたのに、昨夕はおもひもか けぬ快報をおったへ下されまして老稚の小生大いに照れてしまび身のおきどころもなき喜びに昨夜はい ごすゐ さ、か夢結びがたかりし次第御一笑御推もじ願ひます、あ、いふ茅屋の、ほんとに何の風情もなき書齋 兼應接間だけの爲体でお恥づかしいわけでございます、實は毎年の例の如く小生もし老躯の健康が容る したならば、五月十日頃東上 ( 中略 ) 訪間して初對面の禮を盡さんものと期してをりました處、格別の 御配慮もありての事と存じますが、かう云ふことに立ち至らうといたしましてドギマギいたしてをりま す。何卒當日は萬事御寬容の上御援助にあづかりたうございます。夢かうつ、か、ねてかさめてかの古 歌も思ひ出されてまゐります。御憫殺下さいませ。 敬具 この日の出來事は餘程お嬉しかったとみえまして、それからちゃうど一年を經た三十四年の四月二十五日 には、去年のことを思ひ出されて、 けふは昨年おふた方が松山善三君夫妻を御紹介にわざ / \ 御光來にて拙宅の美意延年室にて一時間ほど たのしい歡談をつくすことが出來てから正に一週年の記念日なので、 と書いていらっしゃいます。 世話が前後いたしますが、先生とデコちゃんとの京都に於ける初對面が三十三年の四月二十五日、次に先生 の方から御上京の際に麻布永坂のデコちゃん方で二度目の對面をなさいましたのが同年の五月十五日、と ていたらく 391

5. 谷崎潤一郎全集 第18巻

經綸を行ふ實力のない政治家、これが一番イヤでございますな。生意氣を中して恐縮でございますが、尾 崎咢堂などゝ申されるお方は、戰爭後何かの拍子で、アメリカ邊でえらく有名になられまして、大政治家 のやうに申されるやうになりましたが、あのお方から演説を除きましたら、あとに何が殘りませうかな。 あのお方が東京市長でいらしった時、板隈内閣や大隈内閣で大臣を動めてをられました時、いったいどん な仕事をなすったと云ふんでせうか。失禮ながら、ポトマック河畔に櫻の苗木を寄贈なすった以外に、手 前は何も覺えてをりませんな。 ま、それはそれといたしまして、手前の何よりも苦手なのは、何かの祝賀會に招かれまして、柄にもなく テ 1 ブルスビ 1 チとやらを強ひられることがございます。さう云ふ場合、手前は出來るだけ強を張りま して演壇に立たないやうにいたします。從ってなるべくさう云ふ會合には豫防線を張りまして、出席しな いやうに努めます。 でございますが、手前が甚だ奇異な思ひをいたしますのは、大勢の來會者の方々から齒の浮くやうな祝辭 を浴びせられまして、い、気になってをられます御主人の心理状態でございます。さう云ふ祝賀會は、友 人方が寄り集ってその嘗事者を招待なさいます場合と、常事者自ら主催者となりまして友入方を招待なさ る場合とございますが、分けても手前が我慢なりかねますのは、前者より後者の場合でございます。招待 された方々は、司會者に指名されましたら、否でも應でも立ってお世辭の一くさりも申さなければなりま 世すまい。時にはそれが五人も十人も、際限もなく績くことがございます。その長ッたらしいお世辭を、來 會者の方々は便々と聞かされてなければなりません。その迷惑は察するに餘りある次第でございますが、 369

6. 谷崎潤一郎全集 第18巻

當世鹿もどき 料理は多分、大阪の川口の天仙閣と申す店からコックを招きまして、その頃の支那料理、今で中す中華料 1 ト・ソ 1 タン (Haut Sat1terne) でござ 理を出しました。酒は日本酒でも老酒でもなく、白葡萄酒のオ いました。これはその「奥さん」のお好みでございましたので、特別に取り寄せたのだったと記憶いたし ま亠 9 。が p 、よ / \ 食事が始まってみますと、その「奥さん」も白葡萄酒をよく飮みましたが、それより 妹さんがよく飮まれるのに驚きました。これが後の「細雪」の雪子のモデルになりましたお嬢さんで、手 前の義妹になりました譯でございますが、その時分は漸く二十を越したか越さないくらゐの、姉さんより は痩さ型のほそる、、としたお嬢さんでございました。義妹は今でもいったいに内気な方で、ロ數が至って 少いのでございますが、幾分か窮屈さうに姉さんの隣に座を占めまして、虫も殺さないおとなしい顏をし てながら、手前がグラスにソ 1 タンを注ぎますと、一と言もものは云はれませんけれども、決して辭退は されません。手前がふと氣がっきますと、たった今なみ / \ と注いだグラスがもういつの間にか空になっ てゐます。手前が又恐るノ \ 注ぎ入れます。醉が内攻するとみえまして、そのうちに眞っ白な顏が仄赤く に染まって參るのでした。花の盛りの年頃だといたしましても、一入のお孃さんが一生のうちにあんなに 美しく見える瞬間はめったにないものでございます。手前は今でもあのタぐれのことを昨日のことのやう に覺えてをります。 「細雪」の雪子のモデルである義妹が四十三歳で夫の渡邊氏に死に別れましたこと、夫婦の間に子が生れ ラオチウ 465

7. 谷崎潤一郎全集 第18巻

「ほんに上手え。本職の按摩はんかてこない巧いこと行か ~ んえ。かうして貰てると、とろ / ( \ とろ / \ 、 眠たうなって、何とも云へん氣イやわ」 「成る程手つきが上手さうなな。澤子さん、あんた稽古したことあんのか」 「稽古てしたことあらしませんけど、毎日ちうてえ、ほど父や母の肩揉まされてますねやわ」 「さうやろえな、これやったらくろうと裸足どすえ。糺さんあんたもして貰とおみ」 をせ 「僕は按摩みたいなもんもうよろし。それより僕も澤子さんの弟子になって、揉み方敎て貰はうか知ら 「敎てもろて、どうおしる」 「敎てもろたらお母さん揉んだげるわ。僕かてそれぐらゐのこと出來へんことないやろ」 「そんなてんこつな手ェでやったら、痛うて仕樣がないわ」 「僕は男のわりに手が柔かいのやがな。なあ澤子さん、ちょっと觸ってみて下さい」 「どれ、どれ」 と、澤子は私の指を握ったり手のひらを撫でてみたりしながら云った。 「ほんに、何ちふ華奢な、しんなりした手工しとゐやすのどっしやろ。これやったら行けまっせ、ほんま 「僕は男の癖にスポーツちふもん餘りせえへんさかいな」 「かんどころさへ呑み込んどくりやしたら、すぐお上手におなりやすわ」 をせ あんま もろ もろ 200

8. 谷崎潤一郎全集 第18巻

ないやうになりました。尤も同臭の兄弟と中す者は、殊に藝術家同士でございますと、いったいにどうも 工合が惡いもんだとみえますな。たとへば長田秀雄と幹彦兄弟、これがさうでございましたな。秀雄は早 く亡くなりましたが、殆ど弟と一緖に歩いてたをこなんぞ見かけたことがございません。それから木村莊 太と莊八の兄弟、これなんぞは積極的に憎み合ってるみたいでしたな。それから正宗白鳥さんと得三郎さ ん。いつでしたか、ずうっと以前、得三郎さんにお目にか、りました時、 「近頃兄さんにお會ひになりますか」 と伺ひましたら、 「兄貴のことなんぞ知るもんですか」 と、ひどく素っ気なく申されたんでびつくりしたことがございます。 そんなエ合で、兄と弟が同じゃうな職業、分けても藝術家の場合には仲が惡くなりがちなんでございます から、それでなくてもはにかみやの手前共兄弟がしつくり行く筈はございません。 〇 第一手前は、子供の時分は兎も角として、成人してからはつひぞ一度も精二から「兄さん」とか「兄貴」 とか、面と向って呼ばれたことがございません。手前のをりませんところで、他人と話します時は何と申 しますか存じませんが、手前に向っては努めて兄と云ふ名稱を用ひずに濟むやうに、意識して避けてをり ます。文章の中へ出て來る時でもさうでございますな。手前のことを書く必要があります時でも、「兄貴」 356

9. 谷崎潤一郎全集 第18巻

〇 森繁君には「ラジオ喫煙室」の時分からあのもの、云びぶりに妙に惹きつけられてをりましたが、「日曜 世名作座」と云ふものが、たしか丹羽文雄さんの「庖丁」以後、忘れられないものになってしまひましたな。 5 今更手前などがかれこれ申しますのも烏滸がましうございますが、實に巧い俳優だと、毎々感服いたしと ん上に視力が鈍ってをりますから、寢ながら本を讀みますことも容易ではございません。螢光燈のフロー アスタンドを枕元に立てゝ、書見器とか申す器具に書物を支へて貰って讀むのですが、印刷がよほど鮮明 な大きい活字のものでないと、ぢき疲れますから長くは續きません。テレビを病室へ持ち込みましても、 これも眼が疲れます。さうなりますとラヂオより外はございませんが、どうも近頃のラヂオは前ほど面白 くなくなりましたな。これはテレビが普及しました結果テレビの方にだん / \ 面白い題材を持って行かれ て、專ら聲だけで聞かせるものが殖えたせゐでございませうかな。浪花節、漫才などの囘數が增したやう な氣がいたしますが、さうではございませんでせうか。さう云ふ中で、手前がいつも缺かさずと云っても い、くらゐ樂しみにして聞きましたのは、森繁久彌のもの、志ん生と圓生の落語、堀内敬三さんの「音樂 丿 1 ガル千太の漫才、午後九時のニュ 1 の樂しみ」、宮田輝氏の「三つの歌」、高橋圭三氏の「話の泉」、 等々でございます。これ以外には これは新聞を讀む面倒が省けますから、 スとニュ 1 ス解説 何一つとして気睛らしの方法がなかったのでございますから、手前はこれ等の人々にどのくらゐ感謝して いゝか分りません。

10. 谷崎潤一郎全集 第18巻

」江戸ッ子の熱湯好き ( この場合も熱風呂とは決して申しません ) など、申しますが、昔は野蠻でございま 世して、朝湯に這入りに行きますと、全く熱うございましたな。手前も親父に連れられて、朝湯に漬かりに 參りましたのが癖になりまして、後には生意氣に一人でも參ったことがございますが、あの時分の湯の熱 酉年の正月、五十七歳のものらしうございますが、あゝ云ふペラベラな江戸辯を使ふのが商賣の、六十近 はなしか い落語家でも、やつばり「朝風呂」と書いてゐる。これは頗る意外な感がいたしました。 いったい東京では、いっから入浴のことを「湯」と申さずに「風呂」と申すやうになったんでございませ うか。昔、手前が一高の寮にをりました時分、でございますから、これも隨分古いことで、明治の四十年 前後のことになりますが、その時分手前は地方から出て參った寮生たちが「風呂屋々々々」と中しますの を聞きまして、何となく耳障りに感じたことを覺えとります。とすると、大正頃の或る時代から次第に 「風呂屋」になったんでございませうか。 それに東京の下町では、以前は只今のやうに自宅で風呂を沸かすことはめったにございませんでした。相 ごしんぞ 嘗裕疆な家庭でも、奥さんも御新造さんも娘さんも、大概普通は錢湯へ這人りに參りました。手前が日本 橋の箱崎に住んでをりました時分、近所に新派の輻島淸と申す俳優がをりましたが、晝間手前が近所の湯 屋へ這入りに行きますと、輻島がよく來てをりました。演技はあんまり巧い役者ちゃあありませんでした が、兎も角も新派の幹部級の俳優が戸外の湯屋へ行くなんて、今では想像もっきません。 あっゅ おもて 365