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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第18巻
207件見つかりました。

1. 谷崎潤一郎全集 第18巻

乘ってをられます。御主人と云ふのはまだ年の若い、三十そこ / \ の、京都育ちで色の白い方でしたが、 親父は手前が奉公に上ります時に、ほんの一度か二度お目にか、ったことがあるだけなんです。で、少し 離れたこっちの席から親父が見てますと、どうも精養軒の旦那によく似てゐる、さう云 ~ ば先方からも時 々こっちを見ておいでになるらしい、するとやつばりさうなのかな、親父はさうも思ひましたもんの、精 養軒の日一那がたった一人で三等に乘ってる譯がない、やつばりあれは人違ひかな、それとも聲をかけてみ よ、つかなと、ぐ。 っ / ・ \ 迷ってをりますうちに大森に着きましたんで、そのま、下りてしまったんださうで 「こなひだこんなことがあったつけが、 ありゃあ旦那ちゃなかったのかな」 と、親父は手前が一日お暇を戴いて我が家 ~ 歸りました節にそんな話をいたしました。と、それから二三 日經ちますと、精養軒の旦那様 ( と、手前は呼ぶやうに云びつけられてをりました ) が、 「君のお父ッつあんは先日汽車で大森へ行ったことはなかったかね」 と、申されるちゃありませんか。 「へえ、へえ、行ったと中してをりました」 と、仕方がございませんから手前は正直に申しました。 「どうも旦那に似た方が乘ってらっしやる、と思ったさうでございますが、まさか旦那様ぢゃあおあんな 世さるまいと存じましたんで、つい御挨拶を申しそびれてしまったと申してをりました」 「あ、さうだったか、それぢゃあやつばりお父ッつあんだったか、どうもさうらしいと思ったんだが」 353

2. 谷崎潤一郎全集 第18巻

重ねる、、お仕合はせな御老人と申し上げるより外はありません。 〇 お斷り申しておきますが、手前が先生とデコちゃんとの間柄、信書の往復などを、こんなエ合に素ッ破拔 いて差支へないのか、先生に對しては勿論、デコちゃんに對しても失禮ではないのかと云ふ懸念を抱く方 もおありでせうが、そこは如才なく御兩所のお許しを得てゐるのでございます。デコちゃんは申すまでも なく、先生も、 「えゝ、ちっとも構ひません、御遠慮なく書いて下さい」 と、仰っしやって下さいました。 先生はもと德川家の幕臣關ロ家の出で、新村家へ養子においでになったのだと伺ってをります。この新村 家の養父新村猛雄氏は慶喜公の小姓頭を動めた方で、大政奉還の時には劍を持って公のうしろに控へてゐ た方ださうです。先生の義理の姉君の新村信子さんは慶喜公の側室となった方で、慶久さんその他のお子 さんの實の母君と伺ってをります。かやうな因綠で、先生は少青年の頃駿府の德川家の大奥に出入りし、 慶喜公の姫君方のお相手をなさいました。あの川田順氏と問題のあった「葵の女」 ( 慶喜公第五女國子姫 ) どなども幼い頃新村先生の背中におんぶして貰ったことがあると、國子姫自ら川田氏に語ったことがあると 世云ひます。新村先生が大學生の頃には、家庭教師として國子姫のお邸へ毎週來られたさうですが、大變き れいな方だったので、お女中衆がお茶を持って出るのを爭ったと云ふ一つ話も殘ってをります。 393

3. 谷崎潤一郎全集 第18巻

やの人間もどうかした拍子にそんな気持になることがあるんでございますな。一つには前から丹羽さんの ものが好きだったせゐかも知れませんな。 あさゆ 朝湯 前段で親父の話が出ましたついでに、少しばかり親父の思ひ出をしゃべらして戴きます。 と申しますのは、手前いっぞや東京新聞に「親父の話」を書きましたが、書きたいと存じてをりましたこ とで書き洩らしたことがございますので。 それは外でもございません、朝湯のことでございます。ちょっと餘談になりますけれども、近頃東京では 「朝湯」と云ふ言葉がなくなりましたな。尤も最近の錢湯は午後二時頃から立てるんださうで、朝湯その ものがなくなっちまひましたが、當節の方々は「朝湯」の話をなさいます時にも「朝湯」と云はずに「朝 風呂」と中されますな。昔、と申しましても明治時代の東京の下町には「朝風呂」なんて言葉はありゃあ しません。第一「風呂屋」とは中しません。みんな「湯屋」と申しましたな。錢湯はもちろん、自宅の風 呂でも、「風呂に這人る」とは申しませんでした。「湯にへえる」と申しましたな。「一とッ風呂浴びる」 など、申す言葉はございましたけれども。 この間安藤鶴夫さんの「寄席紳士録」と申すものを大層面白く拜見いたしましたが、あの中の第Ⅷ話「う れしうましの柳家小半治」の中に小半治の日記が出てをります。その正月二日の條に「七時に起きて朝風 呂へ行く」とございます。小半治は昭和三十五年頃に六十歳で亡くなったらしく、この日記は三十二年の 364

4. 谷崎潤一郎全集 第18巻

「どうぞ召し上って下さいまし」 「どうぞお大事になさいまし」 東京ではかう云ふ場合に必ず「まし」を使ひました。「下さいませ」「なさいませ」とは決して申しません でした。それがこの頃、だん / \ 「ませ」と云ふ人の方が多くなりつ、あるやうでございますが、どうも と申しましたら、家内にえらく怒られたことがございました。「お早うお歸り」と云ふのは妻が夫を送り 出す時の挨拶ぢゃないか、だのに「早くないかも知れない」と云ふ返事のしゃうがあるものか、と云ふ譯 4 なのでございます。東京ならば「行ってらっしゃい」とか「行ってらっしゃいまし」とか云ふところでご ざいますが、こちらは大阪の云ひ方を知らなかったもんでございますから、「早く歸って來い」と云はれ たやうで、何となく癇に觸れたんでございませうな。 冠婚葬祭の挨拶の仕方、これは西も東も大體似たものらしうございますが、節分の夜の豆撒きの云び方、 東京では「疆は内、鬼は外」と申しますが、京大阪では「鬼は外、疆は内」と中します。つまりあちらで は「鬼は外」と云って先づ鬼を外 ~ 追ひ拂ってしまひ、それから「輻は内」と云って疆を内へ呼び人れま す。ついでながら、東京では節分の夜に疆茶を飮みますが、京大阪では節分には用ひません、正月の三箇 おほぶく 日の朝、屠蘇を祝ふ時に飮みます。そして「疆茶」とは申さないで「大疆」と申します。東京でも疆茶の 袋には「大疆」と書いてございます力 「まし」と「ませ」 、、ゝ 0

5. 谷崎潤一郎全集 第18巻

「この和尚は至って無ロな、そして妙にはにかみやの人ですが、この近所では一種の名僧と思はれてをり ます。このお寺に慈雲奪者の筆になる金剛經の一行物の半折を藏してゐますから、それを見せて貰ひませ つ。和尚は大變この軸を自慢にしてをります」 と申すことでございましたので、拜見に行ったことがございます。その時手前は、慈雲奪者の軸も結構で ございましたが、それよりその和尚さんのはにかみやの様子に何よりも心を惹かれました。と申しまして も、殊更人の眼を惹くやうな變った行動をされた譯ではございません、普通になすってるんですが、はに かみや同士と申すものは、お目にか、ったゞけで直ぐに分るものなんですな。さう云へば手前共が這人っ あか て參りました時、かすかに顏をぼうっと赧くなさいました。その外に眼の配り方がちょっと違ってをられ ましたな。顏はイ 以とりませんけれども、手前は亡くなった親父に遇ったやうな氣がしまして何ともなっか しうございました。承ればその和尚さんも十一年ほど前、昭和二十五年に亡くなられたさうでございま す。 この間ちょっと丹羽文雄さんのものを拜見しましたら、丹羽さんが手前と初對面をされた時のことを書い とられます。初對面と申しましても、手前は平素文士方とのお附き合ひをいたしません方なんで、もうそ の時分丹羽さんの文名は世に鳴り響いてたことは申す迄もございません。場所は歌舞伎座の廊下だったと 覺えとります。丹羽さんは手前が廊下をうろついてをりますので、誰かに紹介して貰って挨拶しようと、 世紹介者を捜してをられますうちに、手前が氣輕に近寄って參って「丹羽さんですか」と聲をかけられたの にびつくりした、と書いとられます。なるほど手前もあの時のことはたしかに覺えとりますが、はにかみ もん 363

6. 谷崎潤一郎全集 第18巻

ましてからはうつかり映畫も見られなくなりました。まして夏の東京はどこへ行っても冷房がございます ので旅館に泊ることも出來なくなりました。かと申して冬は猶更、ホ 1 ムで列車を待っ間にも風邪を引く のが恐しく、厚着をして肩が凝るだけでも疲れます。でもまあ季候の柔かな熱海の町だけは、どうにか、 うにかおっかなびつくり出かけて行き、好きな女優さんの出てゐる映畫を一つだけ見て歸ります。ドライ ブと申しましても遠走りは出來かねますし、場所に限りがございますので、當時は映畫を見るくらゐがま あノ ( 、唯一のリクリエ ションでございました。 ところが狹心症の發病以來、その樂しみも不可能になってしまひました。 と申しますのは、今度の發病以來自宅で臥床してをりましたのが約半月、それから病院で約四十日、それ から少しづ、囘復いたしまして半日ぐらゐ倚子に腰かけてゐられるやうに相成りましたが、驚いたことに は立って歩かうといたしますと、腰、膝、足頸、等々の關節が弱りきってゐるのでございました。長患ひ の後には誰もかうなると申しますけれども、前から足腰が弱ってゐたのでございますから、四十臺五十臺 の方々のやうに、さう簡單には直りさうもございません。いや恐らくは發病以前の程度にまで戻ることは なさ、うに存ぜられます。庭を歩いてみますと、ちょっとしたはずみにもすぐよろけさうになりますので、 人通りの多い町中で間違ひがあっては大變だと云ふ気がいたします。 寢てをりました間は、どうして時間を過したらい、か 一日所在なさに苦しみました。右の手が利きませ まちなか 444

7. 谷崎潤一郎全集 第18巻

てましたが、初演の時分に亡くなった阪東壽三郎の五平が「何かそのやうな考があって」と云ひますと、 きっと見物がどうッと笑ひました。それで気の利いた舞臺監督さん、 多分久保田さんあたりでせう が、気を利かしてこの「何か」を省いて下すったらしいんですが、それでもよほどセリフ廻しを巧く申し ませんことには、こゝへ來ると見物が笑ひました。すると手前は何とも云へず耻しく、きまりが惡くなっ て來まして、みんなに顏を見られるやうで、席にゐたゝまれずコソコソと廊下へ逃げ出したもんです。 それから「無明と愛染」、これはしよっぱなから終りまで、全部いけません。どこがどうと云ふんぢゃあ ありませんが、もう全體が齒が浮くやうで、 ハラハラして聞いてられません。次は「法成寺物語」、これ もいけません。大正四年にあれを執筆しました時は、大いに自信がございましたし、小山内さんや杢太郎 さんなんぞに認められた覺えがございますし、今でもそんなに耻しい作とは存じませんが、あれを大勢の 見物の前で舞臺にかけられてみますと、どうも奇妙にきまりが悪くって、齒が浮くやうで困ります。たと へば爲成と定朝との問答、 きじん 爲成 ・ : 鑿を取っては鬼神を凌ぐ共許の此の頃の御苦 , 、いに、などて御佛の加護がなからう。やがて は名工の名に耻しからぬ傑作を成就なされて、世上を驚かすことでござらう。必ず / \ 御心配は御無 用になされい しんじっ 定朝 : 爲成どの、共許は眞實さやうに思さる、か。此の定朝を日本一の名工と、まことに思し召 さる、か この邊から、この二人の長ったらしい言葉の遣り取りがございまして、それから定雲と女房たちの出にな みほとけ 360

8. 谷崎潤一郎全集 第18巻

お許しを願っておきます。 假に雨雀さんといたしまして、雨雀さんとその平田さんとが或る時御飯のお數に困って「屁飯」と申すも のを作って食べたと申します。それはほか / \ 煙の立ってゐる炊き立ての御飯の眞ん中にしやもじで穴を 掘りまして、二人が代るイ、屁をしては握って穴の中へ入れます。出來るだけ澤山入れまして大急ぎで御 飯を掻き交ぜ、暫く釜の蓋をして籠らせておいてから、戴くのださうでございます。お數を買ふお金が一 文もなかったんでございませうな。 この平田と申される方とも手前はちょっと面識がございました。後に北京に行かれまして、手前が第一囘 の中國旅行の時分、お世話になったことがございます。 不作法談義 飛んだ話になりましてまことに恐縮でございますが、屁飯の話が出ましたついでゞございますから、二つ 三つ我慢のならない不作法な實例を中し上げてみたうございます。屁飯なんぞは愛嬌があってをかしいだ けでございますけれども。 さすが東京の眞ん中では、近頃は町の人々も服裝が立派に相成り、あまり目に餘るやうな不作法もいたさ ないやうになりましたけれども、手前が住んでをりますこのあたり、熱海邊では却って以前よりびどいく らゐでございますな。温泉地などでは旅の耻は掻き捨てゞ、見えも外聞もいらないと云ふ料簡でございま せうかな。男も女も丹前姿で出歩きますのは普通になっとりますが、映畫館 ~ 這入りますと、若い男が倚 おなら 430

9. 谷崎潤一郎全集 第18巻

はにかみや 「はにかむ」と申す言葉は、普通の字引を引いてみましてもそれにあてはまる漢字はございませんな。尤 も大言海を見ますと、伊呂波字類抄に女扁に気と云ふ字を書いてハニカムとしてある、と記してをります が、そんなむづかしい漢字は今の中國の字引にもありゃあいたしません。それから「羞澁」の二字をあて たりしてますが、手前も小説などを書きます時は已むを得ずこの字を用ひてをります。嘗て鷓外先生は 「羞明」と申す字を使っておいでになりましたが、これは日の光がぼうっと明るく障子に射して參ります のにお用ひになりましたので、「はにかむ」とは少し意味が違ふやうでございますな。醫學綱目と申す書 : 、など、、生意莱に、ちょっ に依りますと、「羞明」は日の光を恐れる神經衰弱症の一種ださうで : と學のあるところを御覽に入れてまことに恐れ人りますがエへ、、、・ さあ、もうかれこれ十年ぐらゐ前になりますかな、今でも手前はあの時のことを思ひ出しますと冷汗が出 ますが、たしかあれは、中央公論社の瀧澤博夫君と一緖の時でございましたかな、熱海から東京へ參る汽 車の中で、ふと向う側の席を見ますと、三笠宮様が乘っておいでになります。宮様は前から乘っておいで 世になったんですが、そこ ~ 手前が何気なく乘り込んで參りまして、つい気がっかずに宮様の向う側 ~ 席を 占めた譯なんです。後から考へますと、ほかの席は全部塞がって、、そこだけ室いてた、つまり乘客がみ 345

10. 谷崎潤一郎全集 第18巻

これが十臺か二十臺の若者なら兎も角、もう世故にも長けてゐる筈の、七十にもならうと云ふ老人のしぐ さなんですから、全く我ながら呆れる外はございません。宮様も嘸をかしな奴だとお笑ひになったことで せう。いや、お笑ひになったのなら助かりますが、失禮な奴だとお取りになりはしなかったでせうか。い や、あんな場合のわれ / \ の心理状態はよくお分りのこと、存じ上げて、堪忍して戴くことにいたします が、それにしましても、手前は少し人並みはづれてはにかみ方がひどいやうでございますな。 考へてみますと、宮樣の場合ばかりでなく、さまる \ な友人知己に對しまして、理由のないはにかみ方を して、人様に誤解を招きましたことが今までにもたび / \ あったやうな気がいたします。たとへば、今は ちっこん 故人になられました笹川臨風、笹川種郎と申される方がをられましたな、あの方とは昵懇と申す程ではご ざいませんでしたが、可なり古くから存じ上げてをりました。それが、長年御無沙汰してをりまして、何 年振かで或る會場で偶然お目にか、ったことがございます。と、その時も、あ、、あすこに臨風先生がい らっしやるなと気がっきながら、何だかきまりが惡くって、早速そこへ飛んで行って御挨拶する気がいた しません。遠くの方からチラと見ては、見て見ないふりをしてます。先様も疾うから氣がついていらしつ たに違ひないんですが、年輩から申しても大先輩でいらっしやることですから、こちらから挨拶があるべ きものと、、い待ちにしていらしったに違ひありませんし、又それが當然のことでございます。だがそのう いつまで經っても手前が變にそらみ \ しくしてますので、とう / ( 、、臨風先生の方から寄っていらし 「谷崎さんですか」 ひとさま さ一さま 348