「今まで田舍で何をしてゐたの」 と聞いてみますと、 「お母さんと二人で百姓をしたり、漁をしたりしてゐました」 と云ひます。 「お父さんは」 と云ひますと、 「もう亡くなりましたのでございます」 と云ひます。 彼女には兄が二人ありましたのが、一人は死に、一人はカリエスで寢てゐることは前に書きました。その 外に兄弟は、と云ひますと、 「姉さんが一人ございます」 と云ひます。 「その姉さん、何してはるの」 「紀州の和歌山にゐるのでございます」 「和歌山で何してはるの、お嫁に行かはったの」 と云ひますと、 「い、え、奉公してゐるのでございます」 222
1 一口 で子に云った。子と淸太郎氏の間にはまだ頑是ない男の子と女の子がゐたのであったが、それは結婚 と同時に私の方へ引き取ったので、淸太郎氏と Z 子の外には子一人が置き去りにされてゐたのである。 ( 二階の老母はその少し前に逝去してをり、それが私たちの結婚に一つの機會を與へてくれた ) 私は相當 に荷物のあることを豫想して、用意のために自分が一台の人力車に乘り、もう一台の俥を連れて迎へに行 ったのではなかったらうか。結婚したのが三月であるから、それも三月中のことに違ひないが、睛れた日 の午後であったと云ふ以外には記憶がない。淸太郎氏は外出してゐた。女中はもう逃げ出して一人もゐな かった筈であるから、家には子と子の二人に、往年藤永田造船所のために櫓を作るのを職業にしてゐ た爺やが一人使はれてゐた。二階が二た間、階下が玄關の外に二た間あった。子が出て來てその階下の 一と間で私に接した。 「お迎ひに上りました」 平素から至って言葉數の少い人で、私がさう云ふと、何かロのうちで一と言二た言うなづいたやうであっ たが、はっきりとは聞き取れなかった。そしてそれきり何とも云はずに、默って立って二階へ上って行っ てしまった。 私は一と間に取り殘されて、可なり長い間、多分一時間近く待たされてゐた。待ってゐてい、のか惡いの か、行くのはいやだから歸れと云ふ意味なのか、どうしてい、のか判斷に迷った。待ってゐよとなら、一 夜 後と言さう答へて行きさうなものだが、さう云ふことは何も云はずにすうっと立って行ったのである。さう 云ふ風に去就をはっきり示さないところがいかにも子式なので、私はいつも彼女と談話を交す時は人知 389
・ : 十一時頃に私も睡くなったんでバアを引き上げて部屋へ行かうとしたら、アレ 飲んでゐたけれど。 ンさんも寢に行くと云って私の後からついて來たの。私の部屋は二階で、アレンさんの部屋は三階なんで、 私の部屋の前を通って行くことになるもんだから、途中まで私を送って來た譯なのね。廊下で「お休みな さい」を云って私がドーアの内側へ這人ると、アレンさんも後からついと這人って來て「キスしてくれ」 と云ふのよ。今廊下にゐた時は何もをかしな素振りはなく、いつもの通りの上品な紳士でゐたのに急にそ んなことを云ふんで、「グッドナイトのキスなら頬つ。へたか額にしてくれ」って云ふと、「そんなキスちゃ ない」って唇を持って來さうにするの。それから何か一と言二た言云ひ合ったけれど「子供が寢てるから 靜かにしてくれ」って云ふと、それきり手荒なことはしないでおとなしく出て行ったわ。昭一はちょっと 寢返りを打ったけれど、何も気がっかないで寢てゐたわ。えゝ、そんな時の私の服裝 ? さうね、たしか あの晩は香港製のビ 1 ズの刺繍のある白いスエータ 1 に銀のラメ人りのグレイのスカ 1 トをしてたと思ふ でもアレンさんもその わ。靴 ? 靴も香港製の紅いビ 1 ズのついた黒繻子の室内履を穿いてたわ。 晩そんなことがあったきり、その後は別に變な素振りはなかったわ。明くる日孝吉が東京からやって來る と、何事もなかったやうに食事を共にして愉快にしゃべり合ってゐるの。赭顏の、お酒飮みらしくでつぶ り太った話の面白い陽氣な人で、感じの惡い人ぢゃなかったから、私もその時のことは勘辨してやって孝 吉にもしゃべらずにゐたの。そして今でも相變らず家族同士の交際は績けてゐるの。 ダウィット・ ハスケルって人がゐ しアレンさんの事件はそれきりなんだけれど、もう一人ハスケル、 お て、この人とはちょっと恐い思ひをしたわ。この夫婦も最初はホテルで懇意になったんだけど、夫婦と あからがほ 481
平安神宮も直ぐ近い所にありました。 磊吉一家が移った後、龜井の家には飛鳥井次郎と鳰子の夫婦がなほ暫く階下の座敷を借りて住んでゐまし たが、それも加茂の大橋の近くにあった三井の別莊の茶座敷を借りて引き移りました。鳰子は夫の次郎を 植物園の將校クラプへ送り出してしまひますと、毎日のやうに南禪寺の姉の家 ~ 遊びに來てゐました。 磊吉夫婦が京都の冬の寒さに堪へかねて、馴染の深い熱海の土地へ避寒に逃げて來ましたのは、その明く る年の二十二年の暮から二十三年の春へかけてのことでした。戦爭中疎開してをりました彼の地の西山の 別莊は、岡山縣の勝山 ~ 再疎開します時に處分してしまひましたので、もはやその家はありません。で、 東京の山王ホテルの支店である熱海の山王ホテル内の、 e 氏の別莊を嘗分の間借りることにしましたが、 さうなりますと南禪寺の家は睦子一人になりますので、飛鳥井夫婦が留守を預かることになりました。そ んな次第で、急に女中をもう一一三人雇ひ人れる必要が起りました。 e 氏の別莊を借りるにつきましては、 そこに一人、飛鳥井夫婦が南禪寺 ~ 泊りに來てしまひますと、その留守番に三井の茶座敷へ一人、南禪寺 も飛鳥井夫婦と睦子との三人家族になりましたから、一人では女中が不足しますので、そこに又もう一人。 今度も早速初が鹿兒島から「みき」と「まし」と云ふ二入を呼び寄せてくれました。 二人は一緒の汽車で出て來てくれましたが、ましは以前阪神間の某家に奉公してゐましたのが、戦爭中に 歸國したのださうで、始めての旅ではありませんでした。「まし」とはこれも亦珍しい名前で、「ます」か 所「まさ」のりではないかと思ふのですが、讃子が何度聞き返しても、 台 一三ロ 「いゝえ『まし』でございます」 241
これは今月分のお給金ださうです」 さう云って原田夫人が、蒲生夫人の手からふた包みの金封包を受け取って、一人々々に別々に渡しました。 2 「分ってるわね」 「はい」 「自動車を呼んで上げませうか」 さう云ったのは蒲生夫人でした。 「あの、まことに勝手がましうございますが、大きな荷物がございますので、表門から出さして戴きまし てもよろしうございませうか」 と、小夜が云ひました。 「どうぞ御遠慮なく」 「ロクにお役にも立ちませんでしたのに、却ていろ / ( 、御厄介になりまして、まことに失禮中し上げまし た。蒲生さんの奧様も原田さんの奥樣もお體をお大切に遊ばして、 節はさすがに一言も云はず、小夜の後から極まり惡さうに小さくなって出て行きました。 自動車が行ってしまひますと、蒲生夫人は早速家政婦會へ電話をかけて、家政婦を一人至急に寄越してく れるやうに賴みました。そしてこの事件は、蒲生家に關する限りこれでカタがっきました。 追ひ出された二人は、その晩何處で夜を明かしたことでせうか。多分何處かの安宿にでも泊ったことでせ うが、そんな風にして幾日も過せるものではありません。かと云って、さう云ふ二人を一緖に雇ってくれ
家同士でなければ、一般の批評家には看破出來ないであらう。 心に浮かんだ話の筋を、筆にする前に人にしゃべって聞かせる人がある。或は、先づロでしゃべってみな ければ考が出て來ないで、それから筆にする人がある。佐藤春夫の「田園の憂鬱」は、あの作品が出來る 前に私はたび / \ 彼の口からあの話を聞かされてゐた。作品で讀んだ時よりももっと詳細に、もっと倣に 入り細に亙って繰り返し繰り返し聞かされたので、讀んだ時よりも聞いた時の方が面白かったくらゐであ った。孤獨主義の私は一人ひそかに原稿用紙に向はなければ思想が湧いて來ないのであるから、書く前に 他人に話すことなどはめったにないが、萬一書く前にしゃべったりすれば、もはや書く興味はなくなって しまふ。現在の私は右手が不自由になった結果、已むを得ず筆記者を賴んで、その人と二人デスクに差向 ひに相對してゐるが、數年前迄は執筆中は何人をも近づけず、一字々々念を入れて、丁寧に枡に篏めて行 った。丹羽文雄君は速筆家として有名であるが、往年の私は恐らく比類のない遲筆家であった。誤植を恐 れる私は、假名を書くのにも決して績け字をしなかった。漢字は楷書で、一つ一つ切り離して枡目に一杯 に大きく書く。久保田万太郎君のやうな、髪の毛がちらばったやうな、果敢ない、細い、鼻糞のやうな文 字は嫌ひで、ペン、鵝ペン、鉛筆、萬年筆、毛筆、いろ / \ 使ったことがあるが、知らず / 、文字に力が 這入るので、原稿用紙に孔を開けたり、下の紙に痕をつけたりする。私の右手の運動が自由を缺くやうに 話なったのは、こんなエ合に腕に無用に力を人れ過ぎたことが原因の一つになってゐるが、それが又遲筆の 後理由の一つでもあったので、ロ述の癖がついてからは却っていくらか進行が早くなった。 423
外人にしてはやゝ小柄な體つきなの。アレンさんとは反對に何となく陰性で、女性的な感じのする人で、 その晩は黒っぽい背廣に黒っほいタイをしてたわ。私は白いフランスレースのブラウスの上にブル 1 のジ ャ 1 ヂのシャネルス 1 ツを着て、眞珠のネックレスに同じ眞珠の指輪をしてたと思ふわ。可なりフォ 1 マ ルな服裝で、私としては實際その積りでゐたんですからね。そして二人でエレベーターの前へ來ると、 さうよ、自動式のエレベ 1 ターで、近所に誰も人がゐないんで、その邊からだん / \ 様子が變になっ たわ。たまに人が來るとパッと離れて、入がゐなくなると手を握るのよ。夜間は大體エレベ 1 タ 1 ガール とかボ 1 イが附かなくなるんだから、エレベ 1 ターの中は完全な密室と同じことだわ、男の入と二人っき りで乘る時は餘程氣をつけなけりやいけないわ。あれはほんとに心得事だわ。中へ這入ると私が奧の隅の 方に追ひ詰められて、まるでハスケル氏がその前へ掩ひかぶさるやうな形に、兩手で兩側から私を挾んで 立ち塞ってしまったのよ。ねえ、どうしてもさう云ふ形になるでせう。大の男が兩側の壁の間へ私を圍ひ 込んでゐるんで此方は身動きが出來ないのよ。直ぐ唇を吸ひに來るんで、さうされまいとして顏を仰向か せると、今度は胸と胸とが餘計びったり喰っ着くのよ。相手がひどく興奮して胸をドキドキさせてゐるの がよく分るの。 私は首を彼方へ向けたり此方へ向けたりして唇を逃げ廻ってたけれど、その間に手だの腕だの體ちゅうを キスされたわ。外人は日本人より毛むくじゃらで、おまけにその毛が金色にピカピカ光ってるんで、とて しも気味が惡いわ。そして頻りにあなたはレスペクタブルな入だとか、インテリジェンスに富んでるところ お が好きだとか何とかかんとかって口説くのよ。此方も何とか云ひ返してやらうと思ふんだけれど、そんな ふさが おほ あふむ 485
ということになったらしい。それはどうするのかというと、腹部の臍の下に当る部分、 るより外はない、 ふくへき ちょうど腹壁の膀胱に当る位置に穴を開ける、その穴を膀胱瘻というのだそうだが、つまり尿道を経ない で膀胱から膀胱瘻を経て腹部へ尿を出すようにする、 ( 詳しくいうと、膀胱の粘膜を膀胱瘻のロまで引っ 張って来て、それにカテ 1 テルを挿し込み、そこから尿を外に排出する。この、膀胱の粘膜で袋を作って カテ 1 テルを挿し込むようにするのは、落合教授の特別な方法だそうで、普通はそんな面倒な粘膜の袋な どを作らず、カテーテルを直接膀胱の中へ人れる。そうすると膀胱の中に尿が一杯に溢れて零れ出したり、 膀胱瘻が塞ってしまうので、度々穴を開ける必要があったり、いろいろと厄介なことになるそうである。 ) 手術の時間は一時間あまりで済み、別に危険なことも苦痛もない。毎日カテーテルを尿道へ挿し込む手数 もない。膀胱瘻を使っても、ときどきカテーテルを入れ換える必要はあるが、それは三日に一遍ぐらいで よく、医師や看護婦の手を借りないでも、妻に手伝ってもらえば出来るし、馴れれば自分一人ででも出来 ないことはないという。 私は人院してから三日目あたりに軽い心臓の発作があったので、約一カ月経過を見た上で、二月五日に手 術を受けた。その間心臓に悪い変化が来ないように、殆ど私一人を専門に受け持って見守っていて下すっ たのは内科の宍戸英雄という先生であった。そして、手術の時に麻酔をしてくれたのは岩井という先生で のあったが、麻酔薬には何を用うべきかについても随分意見が別れたらしい。腰椎麻酔だけでも可能なのだ + そうであるが、私の場合は心臓の変化を考慮して全身麻酔ということにな「たのだと聞く。手術室に運ば 七 れる前に前処置として軽い注射があり、もうその時から半分睡ったような状態に置かれたので、それから 505
「だとすると、大森へ來てからのことかも知れない。偶然の機會に私がそれを見つけちゃったのよ」 電話では話が出來ないからと、夫人は面白半分の興味も手傳って、その晩わざ / \ 熱海まで出向いて來て、 いきさつを話してくれました。夫人が云ひますには、自分は蒲生夫人にはそんなにたび / 會ふ用はない のだけれど、あの家の近所に始終用事があるので、ついでに訪間することが、今までにも數囘あった。蒲 生夫人は外出がちで、訪ねても不在のことが多く、三度に一度ぐらゐはあの二人の女中が「奧さんはお留 守でございます」と云って玄關に出て來た、何度もそんな目に遭ったので、自分は實はその時分からあの 人たちを少し變だと思ってゐた、なぜと云って、二入は必ず二人で一緖に玄關に出て來る、どっちか一人 ヘルを押すと、入口のド 1 アを開けるまでに思ひの外時間がか、る、或 で出て來たことはめったにない、。 こは る時ベルが毀れてゐたので、無理に押したらド 1 アが開いた、這入って行って案内を乞うたら、節が慌て 、二階の階段を驅け下りて來、つゞいて小夜も下りて來た、その素振りが、主入の留守を幸ひに、二人で 二階の何處かしらに上り込んで、何事かをしてゐたらしく想像された。そんなことがあってから、自分は 好奇心も加はって、あの近所 ~ 行くたびに蒲生家 ~ 立ち寄るやうにしてゐた。さうしたら昨日、こんなこ とがあった。例に依ってあの家のベルを押して見ると、ベルが鳴らない、五分間ぐらゐ根氣よく押して見 こちらにちょっと考へがあったので、 たが鳴らない、そうっとド 1 アを押して見たがドーアも開かない、 記なるべく音を立てないやうに用心しながら勝手口へ廻って見た、すると台所の戸が開いた、構はず中 ~ 上 所って行ったが、階下には誰もゐない、足音を忍ばせて二階 ~ 上って行ったところ、主人夫婦の寢室とおば 台 しい部屋が階段を上った取ッつきにあって、主人夫婦のものらしいダブル・べッドに、圖らずも凄じい恰 275
と云ひながら腦貧血を起しましたので、大騒ぎになったことがあります。「ア。ハ」は鹿兄島辯で唖のこと なのださうですが、唖の乞食がどうしてそんなに恐いのか分りませんでした。 初はそんな體格をしてゐながら甚しく神經質で、肺結核を恐れることは非常なものでした。初の田舍では、 結核になるともう誰も附き合ってくれないのださうです。一家のうちに結核患者が出ますと、山の奥に小 屋を建て、、そこへ送り込んでしまひ、食事を運んでやる以外には親兄弟でも近寄らない。ですから肺病 になると云ふことは何よりも恐しいのださうで、初の兄も二人ゐましたのが、一人は既に肺病で死に、も う一人もカリエスに罹って寢ついてゐるのださうです。ですから、初が無闇に神經を病みますのも嘗然な のです。彼女は少し気分のすぐれないことがありますと、もう直ぐ結核になったと思ひ込んでしまひ、一 人で塞ぎ込んでゐます。そんな時には家族たちが何を云ひましても返事をしません、むうっと河豚提灯の ゃうに面を膨らしてゐますので、 「何やその顏、一ペん鏡に映して御覽」 と、よく讃子に云はれてゐました。あまりたびイ、膨れますので讃子がとう / \ 腹を立て、 「あんたみたいなもん、もう用あれへん、田舍へ歸んなさい」 と云ったことがあります。すると初は、 「では歸ります」 と、素直に歸って行きましたが、暫くすると又戻って來ました。さう云ふことがたしか二三度ありました。 ぐちゃうちん 220