だけれど、何となく氣が進まないもんだから。 : 暫く音沙汰がないと思ったら、ついこの間スイスか ら美しい繪 ( ガキを寄越して、「今休暇で此方に來てゐる、景色がとても素睛らしい」なんて眞面目なこ とが書いてあったわ。 私たちのやうな夫婦關係を、昭一はどう思ってゐるかって ? さうね、子供は子供で分相應に分ってるら しいわ。私は男女關係のことでも下手隱しにせず理解させようと思ってるの。母だからって人間だし女だ もの、無闇に秘密にしない主義。子供の方もそこはちゃんと心得てるのよ。昭一はアレンさんは好きだけ れどハスケルさんは嫌ひだって云ってたわ。孝吉も會社の都合で半月以上も家を空けることがあるんで、 何處で何をしてるか分らないけれど、藝者に持てた話だの、ストリップショウの話だの、子供のゐる前で も平気で話すもんだから大概子供だって分るわ。濃厚なラヴシ 1 ンだの、魅力的だとかグラマーたとかっ て言葉はテレビを見て、も始終出て來るんですからね。 490
代りの人が容易に見つかりさうもないので、いやだ / \ と思ひながら使ってゐた、と云ふのでした。 蒲生夫人の觀察するところでは、どうやら節が男性の役廻りで、小夜が女性の役らしく見えた、節は體っ きがゴッゴッして骨つぼい感じがしたが、小夜は身のこなし、物の云ひ方がデレデレして締りがなく、ホ ルモン不足の異常體質らしく肌や手足がカサカサしてゐたので、そんな風に思 ~ たと云ひます。けれども まあ、仕事さへ眞面目にして働いてくれるなら、當分このま、で我慢をしよう、二人の間柄だけのことで、 他人に迷惑の及ばないことなら、見て見ないふりをしてゐよう、と思ってゐた、同性愛的交際と云っても、 まさかそんな穢はしい方法で肉體的に結びついてゐようとは、そんな程度にまで發展してゐようとは、想 像してもゐなかった、と云ふのでした。 以下、原田夫人と蒲生夫人との間に、次のやうな會話が交されたものと考へて下さい 「あたしは小夜を雇ひ入れる時にも、一應千倉さんに斷るのが順序かと思ったんだけれど、あなたがそれ には及ばないと仰っしやるし、千倉さんの御機嫌を損ねてお拂ひ箱になった女だから、それもさうかと思 ってゐた。だが節の場合は少し事情が違ふんだから、あれを無斷で雇ったのは手落ちだったかも知れない わね」 「さう云はれると私にも責任があるけれど、でもそんなこと、今更どうだってい、ぢゃないの、どっちに したって千倉家の方ちゃもう何とも思っちゃゐないんだから。それよりどうなさるおつもり ? あの二人 の始末を ? 」 「あなた、手を貸して頂戴よ、それより先にこれをどうにかしなくっちゃ、 278
一三ロ もう一つの方、和歌山の話と云びますのは、彼の地に初の姉がゐますことは前に述べましたが、その姉と 妹の初と、兩方のためを思って姉が考へたことなのです。姉は國元にゐる母親とカリエスの弟に貢ぐため に三千圓の前借をしまして和歌山へ賣られて行ったのですが、その後世話をしてくれる旦那が出來まして、 自分で小料理屋の店を出すやうになってゐましたところ、旦那の本妻が亡くなりましたので、跡に直った 譯ではありませんけれども、今では莱樂な身分になってゐたのでした。さうなってみますと、姉は自分に 子供が出來ないのが惜しい、ついては初をいづれかへ綠づかせ、生れた子供の一人を貰って行く末の面倒 を見て貰ひたい、 と云ふ料簡になったらしいのです。すると好都合なことに、自分の店へ飮みに來る男で、 子供を二人遺して女房に先立たれ、後添ひを搜してゐる人があるのに目をつけました。それで、これノ ( 、 かう云ふ相談があるから、お暇を戴いて和歌山へ來てみる氣はないか、先方の人は私がかねてから知り合 ひの信用の置ける人物である、この話は必ず巧く行くと思ふからと、手紙でさう云って來たのでした。 二つの申し込みが同時に來ましたので、初も迷った様子でした。磊吉たちの考としましては、二十年近く を、見知らぬ土地 も自分達の一家と共に暮らして來た娘ーーーー・もう娘と云ふ歳ではありませんが、 へ嫁にやるのはまことに辛い、それも生れ故鄕の鹿兒島へ歸るのなら格別、嘗入もまだ行ったことがない と云ふ和歌山へ行くのです、姉は一度旦那と一緖に京都に見えたことがありますので、人柄は分ってゐま すけれども、嫁に貰ふと云ふ相手の男はどんな人間か、姉の云ふことに間違ひはありますまいけれども、 所そっくり眞に受けていものかどうか。男の家は和歌山市外の農家ださうで、半農半漁の家に生れた初が 9 台 來てくれゝば、大變助かると云ってゐるさうですが、彼女が田舍で百姓仕事をしてゐましたのはもう何年
江戸深川で生れて大正六年に東京日本橋蠣殼町で死んだ生粹の江戸っ子で、生涯關西の土地を蹈んだこと はなかった。いったいあの頃の江戸人はそんなに京大阪を見たがらなかったやうである。河竹默阿彌のや ったもみぢうつのやたうげ うな人でも、「蔦紅葉宇都谷峠」を書いてゐるからあの邊までは行ったことがあるか知れないが、京大阪 は知らなかったらしい。あのやうな人でもさうであるから、一般の江戸人は尚更である。私の親戚に、赤 身の刺身は喰ふけれども白身の刺身は喰はないと云ふ男がゐた。意地からではなくほんたうに白身は不味 いと思ってゐるのだから助からない。 ま、そんなことはどうでもい、が、私は私の母にだけは京都や奈良を見せて死なせたかった。彼女は五十 歳そこ / \ で死んだのであるが、でももうその時分には私も三十を越してゐたので、無理工面をすれば彼 女に京見物をさせるくらゐの旅費は調達出來た筈である。親不孝の私のことだからなか / 、そんなところ まで気が廻らなかったのでもあるが、さう云へば母もあんまり京見物をしたがる様子はなかった。初めか あきら らとても行けないものと諦めてゐたのかも知れないが、私は母が京都や奈良の話をするのを聞いたことが ない。母は私が幼少の時「奈良の大佛様の鼻の孔は人間が傘をさして通れるんだとさ」と云ったことがあ ったが、母が語った上方の話で記憶にあるのはこれだけである。子供の私は奈良の大佛の鼻の孔は實際に そんなに大きいのかと思ってゐたが、ひょっとすると、母も眞からさう思ってゐたのではなからうか。あ 話の頃の江戸人の上方に關する知識と云ったらほんたうにそんなものであった。そのくせ母は下町の商家の 後娘として決して無學な方ではなかった。私は小學校の高等二三年の頃、放課後漢學の塾 ~ 通って十八史略 を習ってゐたが、「安」の字に「安ンゾ」と傍訓が施してあるのを讀み下すことが出來ずにゐると、母が かみがた からかさ しん 449
と、気輕に呼びかけた。どんな言葉でどんなことを話しかけたか覺えてゐないが、兎に角私はあんな風に 書かれたことを何とも思ってゐないと云ふ氣持を傳へるために、一と言二た一「〔、それとは全く關係のない 無駄話をした。廣津君もちょっと怪訝に感じたやうではあったが、それに應じた返事をした。 と、暫くしてから志賀さんが云った。 「谷崎君、今日は午後差支 ~ があると云ったけれども、差支へがないやうになったから、歸らないでもい 、んだよ。何もないけれども、食事の用意がしてあるから一緖に食べてくれないかね」 「さうですか、では遠慮なく御馳走になります」 私はさう答へたが、志賀さんが「今日の午後は差支へる」と云ったのは、つまり廣津君と先約があり、私 、と云ふ心遣びからであったことが分った。志賀さんは、批評家 を廣津君に會はせないやうにする方がい などに自分が惡口を云はれると、ほんの下らない、取るに足らない言葉であっても氣に觸るらしく、一々 相手にする風があるので、自分の気持から推して私に不愉快な目をさせまいとし、廣津君との出遇ひを避 けさせようとされたのであらうが、私は實はさう云ふことをそんなに莱にするタチではなかった。と云ふ ことは、或る意味ではづう / \ しいとも云へば云へさうで、決して褒めた話ではない。鷓外先生なども、 下らない惡口を気にする方で、昔の新潮などのゴシップ欄で何か云はれても、些細なことが眼にとまるら 話しく、誰それにこんなことを云はれたと、ブップッ不平を洩らされることがあるので、「あれだけの先生 後が」と、皆で可笑しがったものであるが、苟くも作家であるからにはそのくらゐの神經を持ってゐる方が 9 本である。しかし私はどう云ふものか、昔からあまり気にならない。生れつき横着な性質があって「何 けげん
る。驢馬が針のみづをも通る。龍が灰吹からも出る。さあど、。吉井君の藝當を御覽なさい。 と書かれた。この「藝當」と云ふ語に私は ( ッとした。恐らく先生は吉井君の生硬な、變に新しがった戯 曲の書き方に反感を持ち、輕く揶揄する気になられたのであらう。しかし私は鷓外先生として少し大人気 ないやうに思はれ、むしろ吉井君に同情した。當時吉井君は二十五六歳の新進作家であったから、齒の浮 くやうなキザな書き方をするくらゐはありがちのことで、あの若さなら吉井君に限ったことではない。先 生ももっと若い人たちを優しい眼で眺めて下すってもよさ、うなものだと、さう思ったことであったが、 さう云ふ序文を頂戴した吉井君の當惑は察するに餘りあった。「己はよっぽど突き返さうかと思ったよ」 と云ってゐたが、さすがにその勇莱はなかったとみえて、とう / \ その序文がそのま、載せられたのを私 は覺えてゐる。 今度この稿を書くに嘗って念のために調べてみると、明治四十四年に東京市京橋區南傳馬町三丁目の東雲 堂書店から戯曲集午後三時他十一篇と云ふ單行本が吉井勇著として出版されてゐる。外先生の序文も載 ってゐるが、私の擧げた「さあど、。吉井君の藝當を御覽なさい。」と云ふ「藝當」の文字が「伎倆」と 一五森林太郎」と記してある。或は先生も吉井君に気の毒と 改められてをり、末尾に「一九一一 思って後に訂正されたのかも知れないが、私は確かに「藝嘗」となってゐたのを見た覺えがあり、「吉井 話の奴、さぞ困ったゞらうなあ」と、友達同士で話し合ったことを覺えてゐる。私が今度調べて貰った本は 後中央公論社の調査部が國會圖書館から借り出して來たもの、初版であるが、これが再版されたことはなさ 、うであるし、これ以外にこの戯曲集が出版されたことがあるとは思はれない。かと云って、「藝嘗」と 415
れず心を使ひ、なるたけ機嫌を損じないやうに、氣むづかしい彼女の氣に人るやうにと努めるのである。 さっきこの部屋へ出て來た様子では、いかにも迎へに來ることを豫期してゐた風で、それを當然と思って ゐたやうに見えた。だがそれにしては餘りにも待たせ過ぎる。心もとない淸太郎氏に子を託してこの荒 屋を捨て、行ってもい、ものかどうか、折角新生活に這入った姉の所へ押しかけて行くのも迷惑ではない か、など、、ひとりでとつおいっ思案に暮れてゐるのであらうか、荷物があまり澤山で纒めるのに時間が か、ってゐるのか。 「御都合がお惡いのなら、一應歸って又改めて伺ひますが」 私は階段の上り口へ行って下から怒鳴って見ようかとも思ったが、それも催促がましく、無躾のやうで躊 躇された。じっと坐ってゐるより外仕方がなかった。 「一赭に來る莱はないんだな、お前は歸れと云ふ意味なんだな」 ゃうイ、私がさう判斷して、こっそり座を立ってすご / \ 玄關へ出ようとした時、彼女は二階から何度に も荷物を運んで下りて來た。散々私を待たせたことについて、別に「お待たせしました」と云ふ挨拶もな かった。「では一赭に行く」と云ふ心を、何となく素振りで示したゞけであった。私はその荷物をすべて 受け取って私の方の俥に載せた。そして彼女が前の俥に乘り、私が後に從って行った。何でもないことの ゃうであるが、この時の彼女の無言の行動はまことに印象的で、おっとりとした性格を實によく現してゐ 子はそれきり、淸太郎氏の家へは二度と戻らなかった。彼女はその後渡邊氏に嫁いだが、渡邊氏が比較 、」 0 390
るのであらうか、それとも誰でも私のやうに恐れたり諦めたり二つの氣持の間を行ったり來たりしてゐる のであらうか、これは誰か他の老人に聞いてみないことには、私には分らない。ほんたうに他の多くの老 人はどうなのであらうか。手や足腰の痛みを人に訴へると、「あなたのお年になればそのくらゐは嘗り前 ですよ、みんな誰だってさうなんですよ」と、皆さう云って慰めてくれる。けれども果してさうなのかど ひが 老いの僻みで私にはさうは思へず、年の割に自分が一番意気地がないやうに感ぜられてならない。 そして、實は明日にも人院すべき態にあるのを悟らず、かうして呑氣に暮してゐるのは危險千萬なのか と思ったりする。 も知れない、 恐ろしく強気になる時と、反對に恐ろしく弱氣になる時と、この二つの間を行ったり來たりすることもあ る。私を勵ましてくれる人は、私が今の年齡で創作の仕事に打ち込んでゐるのに感心する。私はいつもさ う云ふ入に向って答へる、 いや、打ち込んでゐる譯でも何でもない、手が利かなくなり、眼が鈍く なり、耳が遠くなり、體の節々の何處かゞ始終故障してゐれば、そんなことでもするより外に自分を忘れ る方法がないのです、幸にして私はロだけは達者である、多少舌は縺れるけれども、でもまあしゃべるに は差支へない、それだけが取得なので、心に浮かんだことを取りとめもなく話して書き取って貰ふ、それ がどんな作品になるか自分には分らないし、自信もない。たヾ原稿を買ってくれる人があるので、それが 勵みにはなってゐるけれども、多分買ひ手がなくなっても私は話すことを止めないでせう、それは創作カ が旺盛である故ではなく、仕事をしてゐる間だけは、肉體の苦痛を忘れることが出來るからです。 と。つまり、私の現在の消閑の方法は、創作をしゃべって人に筆記して貰ふことゝ、五十九年間の舊作の 436
1 三ロ をしたことはめったにありませんでした。この時は芯から腹が立ちましたので、直ぐに讃子を呼びまして、 彼女に暇を出すやうに云ひつけました。かう云ふ場合、讃子は大概夫をなだめる役に廻って、穩便に事を 運ぶのですが、この時ばかりはさう云ふ譯に行きませんでした。 怒らない方がどうかしてゐる」 「怒るのが當り前ぢゃないか、 「まあ、それはさうですけれども、 何とか彼とか執り成さうとしますと、こんな時の磊吉の癖で、妻が自分と一赭になって腹を立てないのに 腹を立てました。 「理由なんぞ云はないでもい、、當人には分ってゐる筈だ、主人がお前を嫌ってゐるから出て行ってくれ と云ったらい、、顏を見るだけでも胸糞が惡い」 「ぢゃあ、仕方がないからその通りに云って出て行って貰ふわ」 「あの女、少し頭がをかしいんちゃないかね、あんたはさうは思はないかね」 「さうね、今の話の通りだと少しへんね」 「己が怒れば怒るほど、妙に取り濟ましてネチネチ粘り着くやうな口の利き方をしやがるんで、こっちは 一脣癪に觸る。今に彼奴は気狂ひになるんぢゃないかな、さう云ふ素質があるやうな気がする」 結局磊吉の主張が通って、小夜はその夜のうちに大急ぎで荷物を纒め、明くる朝早速何處か ~ 消えてなく 所なりました。 つかへ 台 磊吉はその當座胸の痞が下ったやうで、好い気持でした。小夜が突然何處へ消えてなくなったのか、恐ら 265
ふるヘてゐる。何も知らないたをりは、お師匠さんがいくらか手加減して下さるのを、知ってか知らずか、 恐いお師匠さんをさう恐いとも思ってゐない。お師匠さんカ 「おゐどおさげやす」 と云っても、「おゐど」とは何のことか分らず、澄まし込んでゐる。 「でけへんことして、たをりちゃん器用やな」と云はれても、皮肉とは取らず、褒められたことゝ思って ゐる。お師匠さんが舞妓さんたちを敎へる時は、 「そゃあらへんがな」 「そんなんあらへん」 「よそ見したらあかんがな」 「おばえといなはいや」 「こっちゃおむきいな」 「そないにおゐどおろさへんのやったらもう知りまへん、勝手におし」 等々さまみ \ の叱言が出るが、さう云ふ叱言の云ひ方までが先代以來のものである。先代の八千代さん、 往年の片山春子刀自もこの通りの言葉で弟子を叱った。 井上流では立ち稽古はめったにしない。お師匠さんは弟子に立って舞はせ、自分はそれに向ひ合って座布 團に坐り、右手を使ふべきところを左手を使って、上半身だけで舞って見せる。これを逆手を使ふと云ふ。 弟子の位置からは、ちゃうど鏡に映ったやうな形に見える。東京の踊では兩膝をびったりと着け、時には 186