幸吉 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第2巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第2巻

幸吉は共の後いろいろの方面から、所謂「面白くない事」の眞相を詮索して見たが、どうも ( ッキリと判 らなかった。たヾ、彼の女が嘗て半年ばかり、或る男。ーーーー , 杉村と云ふ醫科大學生と同棲して居た事實と、 其の男はすでに病死して了った事と、此れだけが朧ろげながら確かめられた。其れ以上の詳細は人々に依 ってさまる、こ し傳へられて居た。或る人は、彼の女が或る女の戀人を奪ったのだと云った。或る人は、彼 の女は評判の色に欺かれて弄ばれたのだと云った。共の男の死は病死でなくって、自殺したのだと云ふ 説もあった。男の方が却って彼の女にだまされたのだと云ふ説もあった。中には共の男が病気で死ぬ時、 彼の女の名前を呼び續けにして、 Now, I shall die with her ・ name on my 一ぎ s. ) と、流暢な英語で譫語を云ひながら息を引き取ったなどと云ふ、甚だ信を置けない風説もあった。其の外、 彼の女は兩親に結婚を強ひられて、いやいや同棲したのだとも云ふし、兩親の意志に背いて二人で勝手に 逐電したのだとも云ふし、法律上の結婚はしなかったとも云ふし、殆んど千差萬別であった。 要するに、彼の女の過去には、何か非常な不面目な事か、或は不道德な事かヾ潜んで居るらしかった。彼 の女が幸吉に心を寄せるやうになった時、幸吉は第一に此の事件を質問した。すると彼の女は、 「それを聞いて何になさるの。もう死んだ人の事なんか、どうでもい、ぢゃありませんか。」 る と云った。けれども幸吉は承知しなかった。たとへ過去の事實にせよ、自分に對して秘密を守るのは怪し れ てからぬと云って、執拗く追求した。 彼の女の答は至極簡短で、又非常に嘘らしかった。彼の女は決して杉村を戀ひしては居なかった。けれど ディティル 223

2. 谷崎潤一郎全集 第2巻

「三千ちゃん、此れが餘って居るんだけれど、明日山本さんと御一緖に入らッしやらなくって ? あたし は少し用事があって出られないから。」 かう云って、わざと杉村の事を何とも云はなかった。 「え、行くわ。」 と、三千子も無雜作に答へた。 「なんでせうね、山本さんと三千ちゃんと芝居なんかへ出かけると、好い御夫婦のやうに見えるでせう 「ほんとよ、よく人にさう思はれるのよ。あたしにやちっともそんな氣がしないんだけれど。」 「なんかんて、共の實大いに嬉しいんちゃなくって ? 」 こんな事まで嫂は云ふやうになった。 一概に陰險な婦人だと思ひ込んで居た幸吉には、だんだん嫂の性格が解らなくなって了った。彼の女はど うしても二人の關係を知り拔いて居るやうに見える。若し本當に妹の身の上を案じて、品行の監督をして いくら妹が我が儘でも、默って捨て、置いたら、 居るのなら、何とかして幸吉を遠ざけるのが至當である。 姉の義務が濟まない筈である。それだのに彼の女は、をりをり皮肉を云ふぐらゐで少しも干渉しないばか る りか、どうかすると油を掛けて唆かすやうな態度を取る。惡く云へば、妹の不品行を面白がって居るかと れ ても思はれる。彼の女は案外物のわかった、度量の大きい婦人かも知れない。他人の事は他人の事として靜 幸吉は自分の都合のい、やうに解釋して、知ら かに傍觀するやうな、覺め切った女かも知れない。 271

3. 谷崎潤一郎全集 第2巻

「でも何だか心配だから、若しかどうしても結婚する事が出來なかったら、一緒に死んでくれませんか。 それさへ約東して下されば、あたしも本當に安心しますから、 「そんな事は約束するまでもないぢゃありませんか。」 「それでも兎に角約東して下さいな。」 彼の女は默って頷いて見せた。 「ほんたうに死ねるでせうか ? 」 いざとなったら、あたしの方が餘っぽ 「死ぬなんて、あなたが念を押す程むづかしい事ぢゃなくってよ。 どたしかだわ。」 幸吉は彼の女の約東が一向あてにならない事をよく知って居た。けれどもどうせ逃げるものならば、捨て られる前に彼の女を煽て、、一緖に死んで了ひたかった。 一緖に死ぬ ? 彼の奸計がうまく成功して、首尾よく彼の女を誘惑する事が出來るとしても、實際共れを 遂行する勇気があるだらうか ? 幸吉は彼の女の決心を疑ふ前に、先づ自分の勇氣を測量して見なければ ならない。彼は常人以上に憶病である。どう考へても死の恐ろしさを忘れ得ない人間である。かりに忘れ る事が出來るとしたら、それはやつばり戀入の助けを借りるより外はない。 る 幸吉は不斷からこんな事を考へて居た。 人間は是非共一度死の恐怖に遭遇しなければならぬ。殊に れ て自分のやうな男は、老齡になってから靑年時代の惡業の報いを受けて、いかなる心身の苦痛に惱まされる 一種のエクスタシ 1 か判らない。共れ故、若し何等の恐怖を感ずる事もなく、片に醉うて眠るやうに、 おだ 255

4. 谷崎潤一郎全集 第2巻

の女と「馬鹿」の競爭をして居る譯には行かなかった。 「よござんす。一時間ばかり立ってきっと行きます。その代り、あなたも共れまでに醉を覺ましてくれな 2 ければ困りますよ。」 彼は餘儀なく、四囘目の電話に斯う答へた。 「もう醉って居やしなくってよ。」 彼の女はまだそんな事を云って居た。 一時間の後、會場を辭した幸吉は、芝浦へ急がせる俥の上で、今宵の彼の女にどんな態度を示してやらう かと案じ煩った。顏を見たらば散々罵り耻かしめて、何等の滿足も與へずに席を蹴立て、逃げて來ようか とも考へた。けれども其れが原因となって、又いっかのやうに此の後長く會へなくなったらばどうであら ・ : 彼の女の醉は一時である。醉が覺めてから、男の無禮と自分の醜態とを囘想して、再び幸吉に 近寄らなくなったらばどうであらう。 「己は始めからあの女を悧巧な人間だとは思って居なかった。あの女はたゞ悧巧らしく見せる事が上手だ った。己は共れで滿足して居たのだ。ところが今日になって、彼の女は醉って居る爲めに平生の假面を取 り落した。たゞ其れだけの話なのだ。此の後酒を愼むやうに戒めさへすれば差支へない。」 こんな風に幸吉は心の中で辯解して見た。 彼は今の經驗から、讃美す可き肉體を持った多くの女を知って居た。しかし、價値のある頭腦を持った

5. 谷崎潤一郎全集 第2巻

まうと試みた。勿論彼の女が幸吉の理想に從って、恐ろしい變化を完全に遂行するまでには、長い時日を 要するらしかった。幸吉は全く杉村と同様な卑屈な態度で、甘味ある毒酒の醉の少しづ、五體に浸潤する へつら が日く、陰險に、徐々に、女の心に諂って行った。現代の人間の慾望を束縛して居るいろいろの桎梏、 習慣や、常識や、禮法や、儀式や、窮屈な社會の制約を、彼の女は次第に二人の世界から剥ぎ取って 行った。少くとも幸吉に對する時、漸く彼の女は柔弱な怯懦な女性の類型から遠ざかって自然のま、の、 雄大な素朴な、原始的性格を閃めかすやうになった。幸吉が女らしくなればなる程、彼の女はだんだん非 女性的になった。 二人は相互の間に絶えず現はれる變化と影響を樂みつ、、殆んど毎日顏を合はせたが、丁度正月の半ばご ろ、どう云ふ譯か彼の女は二三日訪ねて來なかった。其の時分、男は一日も彼の女を見ずには暮らせない 程になって居た。すると、三日目の夜遲く、彼は戀人の手紙を受け取った。 手紙には意外な事實がした、めてあった。彼の女は此の頃、兩親から杉村と結婚す可く迫られて居る。杉 村も共の積りで居る。此れにはさまる、の込み入った事情があって、一と通りの手段では彼の女も容易に 拒絶する事が出來ない。第一、兩親は杉村の兄の気の毒な最後に對して、非常な同情を持って居る。何と かして杉村家に謝さなければならないと思って居る。共の上彼の女の兄はエ學士であるから、父は是非と も適當な養子を彼の女に迎へて、病院の經營を委托したいと望んで居る。ところが彼の女の過去に暗い經 歴がある事と、彼の女の性質が我が儘放題である事と、彼の女の品行の不評判な事と、いろ / 、の缺點に 想到して、父は到底立派な養子を迎へる事が出來まいと悲觀して居た。かう云ふ氣兼ねやら、必要やらが 246

6. 谷崎潤一郎全集 第2巻

「自分がみんな悪いのだ。自分が勝手に彼の女を強者にさせて、揚句の果てに捨てられて了ったのだ。」 と、幸吉は腹の中で呟いた。 それでも彼は彼の女を憎む事が出來なかった。やつばり彼の女の奴隷となって、慘忍な、奸譎な女王の足 下に自殺をして了ひたかった。 今一と目、彼は彼の女に會ひたいと思った。さうして再三再四端書を出した。 「あたしは事に依ると杉村と結婚するやうになるかも知れません。いづれ身の上が極まってから、ゆっく りお目にか、りませうね。」 こんな返事が、恰も五本目の端書に對して報いられた。 彼はいよいよ死なうと決心した。彼の女の爲めに破滅する男が、一人でも餘計あればある程、ますます彼 の女の歴史を飾る所以である。自分は最も彼の女の爲めに花々しい犧牲となって死んで見せよう、自分の 死に依って、彼の女の美を一段も二段も引き立て、やらう、それが彼の女に一番忠實な、一番柔順な、自 幸吉はさう考へた。 分の取る可き最後である。 彼の女は大概狂言の變り目毎に、帝劇へ行くのが習慣となって居た。幸吉は其の折を狙って、劇場の廊下 こめかみ に彼の女を擁した上、いきなりピストルを自分の蟀谷にあてゝづどん ! と一發、花やかな群衆に取り卷か る れながら、彼の女の眼前に斃れて見せたかった。 れ て「それにしても大丈夫死ねるだらうか ? 死ねる死ねる、死ねるに違ひない。」と、彼は獨語した。 ほかほかした、うら、かな天気が毎日續いた。四月の上旬は眠いやうに暖かであった。上野淺草の櫻が綻 285

7. 谷崎潤一郎全集 第2巻

幸吉はいくら工面しても、自分のカで二百圓以上の金額は到底調達出來さうもなかった。さうかと云って、 二人の旅行は飽くまでも花々しい、誰に見せても耻かしからぬ體裁を保ちたいと思って居た。結局彼は、 どうしても女の所持品に賴るより外仕方がなかったのである。 「まあ追ひ追びに持って來るから、心配しなくってもい、事よ。」 「金」と云ふ實際間題に行きあたって、俄かに不愉快を覺えたらしく、彼の女は男の言葉を強ひて壓さへ つけて了った。 「追ひ追ひに持って來る。」 この返答は共の場限りで、一つも實行せられなかった。幸吉が焦れば 焦るほど、彼の女はだんだん落ち着いて來た。斯くて約東の一ヶ月は室しく過ぎて、二月の半ばとなり、 方々の梅が咲き綻びる季節になった。 彼の女は屡々幸吉を「梅見」に誘った。向島や、龜井戸や、木下川筋や、大森蒲田や、どうかすると汽車 に乘って鎌倉邊まで出向いて行った。女の男を愛撫する事は、少しも昔と變らないのみか、日を趁うてま すます深くなるやうであった。それにも拘らず、彼の女はもはや「出奔」の計劃を忘れたやうに呑莱にな った。 「あなたね、たまにはあたしの内へも尋ねて來た方がよくってよ。」 る 百花園の梅を見た歸りに、大河の水のほとりの小座敷で晝飯をした、めた時、女はふとこんな事を云ひ出 れ 「あたしの方から尋ねて行ったら、都合が惡かないんですか。」 きねがは 261

8. 谷崎潤一郎全集 第2巻

る れ て口 , 、冫 日中を通る汽船の笛が、ばうッと淋しい音を立てゝ居る。木嵐はますます強くなったと見えて、芝浦の 理立地の方から、板戸を鳴らして吹きつけて來る。をりをり、靜かな座敷を地震のやうに搖がせて、門前 に捨てられた方が餘計幸であるかも知れない。けれども、目下の幸吉はそれ程死を急ぐ氣にはなれなか った。樂しい「死」よりも、先づ樂しい「生」を擇びたかった。そこで彼は全力を盡して彼の女を征服す る必要に迫られた。要するに、早く捨てた方が勝ちを制するのである。彼は當分、自分の方から女を捨て る勇莱がないとしたら、せめて女に捨てられないだけの用心をしなければならない。 彼の女の美貌に戀する男は幾人もあらう、反對に幸吉を戀する女は彼の女の外に一人もない。 其れ が幸吉の非常な弱點であった。さう思ふと、彼は堪へ難い嫉妬の念に驅られた。而も、共の嫉妬を表へ現 せば、却って女に乘ぜられる事を恐れて、彼は飽く迄も平靜を裝った。自負心の強い、度量の廣い男の如 く見せかけて居た。 女は又、些細な事にも嫉妬を起して、怒ったり口惜しがったりした。男が平靜にすればする程、彼の女は いよいよ嫉妬深かった。けれども共れは眞の嫉妬でなくして、男に嫉妬を起させる方便のやうに感ぜられ 「あたしは此れほど嫉妬を焼くのに、どうしてあなたは燒かないのです。」 彼の女の行動の裏には、斯う云ふ謎が含まれて居た。 こ 0 やきもち 201

9. 谷崎潤一郎全集 第2巻

「山本さん、あしたきッと人らッしゃいよ。さうしたら指輪を上げるかも知れませんからね。」 と、睛れやかな調子で叫んだ。間もなく愉快さうな笑ひ聲が、再びからからと木立の奥の闇の中から響い て來た。 漸く戦慄の止まった幸吉は、脇の下から胸の周圍へびッしよりと冷汗を掻いて居た。 明くる日の幸吉は一脣哀れであった。嫂と杉村を前に置いて、彼は散々彼の女から耻ちしめられ、嘲けら れた。 「三千子さん、どんなにあたしをいぢめても、昨夜よりもっとひどい目に遇はしても宜ござんすから、後 生だからあたしを捨てないで下さいな。」 二人きりになった時彼は云った。 「若しも捨てたらどうするの。」 「捨てられ、ば死んで了ひますよ。」 「ふん」 と、彼の女は鼻で笑って、 「あなたも杉村の兄に似て來たわね。あの人もよくそんな事を云ひましたつけ。」 「それぢや自殺したんですか。」 282

10. 谷崎潤一郎全集 第2巻

ば、彼の女は獸と神との美しさを一身に具有して居る。 歌麿の美人畫を見た時、誰でも第一に気が付くのは、あの長い長い、心行くまでに伸び伸びとしたなよや かな線であらう。眺めても眺め盡せぬ程餘裕のある目鼻立ちと背恰好であらう。あの美人を一見すると、 いかにも弱々しく痩せて居るやうに感ぜられるカ 一と度び仔細に注目すれば決してさうでない事が判る。 あの顏立ちは面長とは云へ、頬のあたりなぞたつぶりと肥え太って居る。手でも足でもまことに豐艶であ おほがら る。健康でない迄も、必ず大柄な體格でなければならない。 , 從って、あのなまめかしい衣裳の裏に包まれ た四肢の筋肉は、必ず立派に發達して居なければならない。それでこそ始めて、あのやうな餘裕のある曲 線が出來上るのである。 彼の女の美しさは、恰も此の美人畫の特長に類して居た。たゞ、あれ程の 婉麗を缺く代りに、あれよりもっと健康らしく、もっと生き生きとして、稍強い鏡い線から成り立って居 た。而も此の頃は、共の強さ鋧さが、幸吉の感化を受けてます / 、、著しくなりつ、あった。一つ幸吉の気 に入らないのは、あまり血色が好すぎる爲め、いつも顏が櫻色に上莱せて居る事であったが、それさへ今 朝は眞白に冴え返って居た。 「今日はあたし、大變顏の色が靑いやうだわね。 えさうぢゃなくッて ? 」 彼の女は机の上の鏡を視詰めて、そんな事を云った。 る 「女が自分の顏色の靑い事を云ふ時には、大概得意を感じて居るやうですね。」 れ て幸吉はお世辭のつもりで、答へた。 「うそよ。あまり心配させられたせゐよ。」 219