幸吉は共の後いろいろの方面から、所謂「面白くない事」の眞相を詮索して見たが、どうも ( ッキリと判 らなかった。たヾ、彼の女が嘗て半年ばかり、或る男。ーーーー , 杉村と云ふ醫科大學生と同棲して居た事實と、 其の男はすでに病死して了った事と、此れだけが朧ろげながら確かめられた。其れ以上の詳細は人々に依 ってさまる、こ し傳へられて居た。或る人は、彼の女が或る女の戀人を奪ったのだと云った。或る人は、彼 の女は評判の色に欺かれて弄ばれたのだと云った。共の男の死は病死でなくって、自殺したのだと云ふ 説もあった。男の方が却って彼の女にだまされたのだと云ふ説もあった。中には共の男が病気で死ぬ時、 彼の女の名前を呼び續けにして、 Now, I shall die with her ・ name on my 一ぎ s. ) と、流暢な英語で譫語を云ひながら息を引き取ったなどと云ふ、甚だ信を置けない風説もあった。其の外、 彼の女は兩親に結婚を強ひられて、いやいや同棲したのだとも云ふし、兩親の意志に背いて二人で勝手に 逐電したのだとも云ふし、法律上の結婚はしなかったとも云ふし、殆んど千差萬別であった。 要するに、彼の女の過去には、何か非常な不面目な事か、或は不道德な事かヾ潜んで居るらしかった。彼 の女が幸吉に心を寄せるやうになった時、幸吉は第一に此の事件を質問した。すると彼の女は、 「それを聞いて何になさるの。もう死んだ人の事なんか、どうでもい、ぢゃありませんか。」 る と云った。けれども幸吉は承知しなかった。たとへ過去の事實にせよ、自分に對して秘密を守るのは怪し れ てからぬと云って、執拗く追求した。 彼の女の答は至極簡短で、又非常に嘘らしかった。彼の女は決して杉村を戀ひしては居なかった。けれど ディティル 223
「三千ちゃん、此れが餘って居るんだけれど、明日山本さんと御一緖に入らッしやらなくって ? あたし は少し用事があって出られないから。」 かう云って、わざと杉村の事を何とも云はなかった。 「え、行くわ。」 と、三千子も無雜作に答へた。 「なんでせうね、山本さんと三千ちゃんと芝居なんかへ出かけると、好い御夫婦のやうに見えるでせう 「ほんとよ、よく人にさう思はれるのよ。あたしにやちっともそんな氣がしないんだけれど。」 「なんかんて、共の實大いに嬉しいんちゃなくって ? 」 こんな事まで嫂は云ふやうになった。 一概に陰險な婦人だと思ひ込んで居た幸吉には、だんだん嫂の性格が解らなくなって了った。彼の女はど うしても二人の關係を知り拔いて居るやうに見える。若し本當に妹の身の上を案じて、品行の監督をして いくら妹が我が儘でも、默って捨て、置いたら、 居るのなら、何とかして幸吉を遠ざけるのが至當である。 姉の義務が濟まない筈である。それだのに彼の女は、をりをり皮肉を云ふぐらゐで少しも干渉しないばか る りか、どうかすると油を掛けて唆かすやうな態度を取る。惡く云へば、妹の不品行を面白がって居るかと れ ても思はれる。彼の女は案外物のわかった、度量の大きい婦人かも知れない。他人の事は他人の事として靜 幸吉は自分の都合のい、やうに解釋して、知ら かに傍觀するやうな、覺め切った女かも知れない。 271
「でも何だか心配だから、若しかどうしても結婚する事が出來なかったら、一緒に死んでくれませんか。 それさへ約東して下されば、あたしも本當に安心しますから、 「そんな事は約束するまでもないぢゃありませんか。」 「それでも兎に角約東して下さいな。」 彼の女は默って頷いて見せた。 「ほんたうに死ねるでせうか ? 」 いざとなったら、あたしの方が餘っぽ 「死ぬなんて、あなたが念を押す程むづかしい事ぢゃなくってよ。 どたしかだわ。」 幸吉は彼の女の約東が一向あてにならない事をよく知って居た。けれどもどうせ逃げるものならば、捨て られる前に彼の女を煽て、、一緖に死んで了ひたかった。 一緖に死ぬ ? 彼の奸計がうまく成功して、首尾よく彼の女を誘惑する事が出來るとしても、實際共れを 遂行する勇気があるだらうか ? 幸吉は彼の女の決心を疑ふ前に、先づ自分の勇氣を測量して見なければ ならない。彼は常人以上に憶病である。どう考へても死の恐ろしさを忘れ得ない人間である。かりに忘れ る事が出來るとしたら、それはやつばり戀入の助けを借りるより外はない。 る 幸吉は不斷からこんな事を考へて居た。 人間は是非共一度死の恐怖に遭遇しなければならぬ。殊に れ て自分のやうな男は、老齡になってから靑年時代の惡業の報いを受けて、いかなる心身の苦痛に惱まされる 一種のエクスタシ 1 か判らない。共れ故、若し何等の恐怖を感ずる事もなく、片に醉うて眠るやうに、 おだ 255
の女と「馬鹿」の競爭をして居る譯には行かなかった。 「よござんす。一時間ばかり立ってきっと行きます。その代り、あなたも共れまでに醉を覺ましてくれな 2 ければ困りますよ。」 彼は餘儀なく、四囘目の電話に斯う答へた。 「もう醉って居やしなくってよ。」 彼の女はまだそんな事を云って居た。 一時間の後、會場を辭した幸吉は、芝浦へ急がせる俥の上で、今宵の彼の女にどんな態度を示してやらう かと案じ煩った。顏を見たらば散々罵り耻かしめて、何等の滿足も與へずに席を蹴立て、逃げて來ようか とも考へた。けれども其れが原因となって、又いっかのやうに此の後長く會へなくなったらばどうであら ・ : 彼の女の醉は一時である。醉が覺めてから、男の無禮と自分の醜態とを囘想して、再び幸吉に 近寄らなくなったらばどうであらう。 「己は始めからあの女を悧巧な人間だとは思って居なかった。あの女はたゞ悧巧らしく見せる事が上手だ った。己は共れで滿足して居たのだ。ところが今日になって、彼の女は醉って居る爲めに平生の假面を取 り落した。たゞ其れだけの話なのだ。此の後酒を愼むやうに戒めさへすれば差支へない。」 こんな風に幸吉は心の中で辯解して見た。 彼は今の經驗から、讃美す可き肉體を持った多くの女を知って居た。しかし、價値のある頭腦を持った
まうと試みた。勿論彼の女が幸吉の理想に從って、恐ろしい變化を完全に遂行するまでには、長い時日を 要するらしかった。幸吉は全く杉村と同様な卑屈な態度で、甘味ある毒酒の醉の少しづ、五體に浸潤する へつら が日く、陰險に、徐々に、女の心に諂って行った。現代の人間の慾望を束縛して居るいろいろの桎梏、 習慣や、常識や、禮法や、儀式や、窮屈な社會の制約を、彼の女は次第に二人の世界から剥ぎ取って 行った。少くとも幸吉に對する時、漸く彼の女は柔弱な怯懦な女性の類型から遠ざかって自然のま、の、 雄大な素朴な、原始的性格を閃めかすやうになった。幸吉が女らしくなればなる程、彼の女はだんだん非 女性的になった。 二人は相互の間に絶えず現はれる變化と影響を樂みつ、、殆んど毎日顏を合はせたが、丁度正月の半ばご ろ、どう云ふ譯か彼の女は二三日訪ねて來なかった。其の時分、男は一日も彼の女を見ずには暮らせない 程になって居た。すると、三日目の夜遲く、彼は戀人の手紙を受け取った。 手紙には意外な事實がした、めてあった。彼の女は此の頃、兩親から杉村と結婚す可く迫られて居る。杉 村も共の積りで居る。此れにはさまる、の込み入った事情があって、一と通りの手段では彼の女も容易に 拒絶する事が出來ない。第一、兩親は杉村の兄の気の毒な最後に對して、非常な同情を持って居る。何と かして杉村家に謝さなければならないと思って居る。共の上彼の女の兄はエ學士であるから、父は是非と も適當な養子を彼の女に迎へて、病院の經營を委托したいと望んで居る。ところが彼の女の過去に暗い經 歴がある事と、彼の女の性質が我が儘放題である事と、彼の女の品行の不評判な事と、いろ / 、の缺點に 想到して、父は到底立派な養子を迎へる事が出來まいと悲觀して居た。かう云ふ氣兼ねやら、必要やらが 246
「自分がみんな悪いのだ。自分が勝手に彼の女を強者にさせて、揚句の果てに捨てられて了ったのだ。」 と、幸吉は腹の中で呟いた。 それでも彼は彼の女を憎む事が出來なかった。やつばり彼の女の奴隷となって、慘忍な、奸譎な女王の足 下に自殺をして了ひたかった。 今一と目、彼は彼の女に會ひたいと思った。さうして再三再四端書を出した。 「あたしは事に依ると杉村と結婚するやうになるかも知れません。いづれ身の上が極まってから、ゆっく りお目にか、りませうね。」 こんな返事が、恰も五本目の端書に對して報いられた。 彼はいよいよ死なうと決心した。彼の女の爲めに破滅する男が、一人でも餘計あればある程、ますます彼 の女の歴史を飾る所以である。自分は最も彼の女の爲めに花々しい犧牲となって死んで見せよう、自分の 死に依って、彼の女の美を一段も二段も引き立て、やらう、それが彼の女に一番忠實な、一番柔順な、自 幸吉はさう考へた。 分の取る可き最後である。 彼の女は大概狂言の變り目毎に、帝劇へ行くのが習慣となって居た。幸吉は其の折を狙って、劇場の廊下 こめかみ に彼の女を擁した上、いきなりピストルを自分の蟀谷にあてゝづどん ! と一發、花やかな群衆に取り卷か る れながら、彼の女の眼前に斃れて見せたかった。 れ て「それにしても大丈夫死ねるだらうか ? 死ねる死ねる、死ねるに違ひない。」と、彼は獨語した。 ほかほかした、うら、かな天気が毎日續いた。四月の上旬は眠いやうに暖かであった。上野淺草の櫻が綻 285
幸吉はいくら工面しても、自分のカで二百圓以上の金額は到底調達出來さうもなかった。さうかと云って、 二人の旅行は飽くまでも花々しい、誰に見せても耻かしからぬ體裁を保ちたいと思って居た。結局彼は、 どうしても女の所持品に賴るより外仕方がなかったのである。 「まあ追ひ追びに持って來るから、心配しなくってもい、事よ。」 「金」と云ふ實際間題に行きあたって、俄かに不愉快を覺えたらしく、彼の女は男の言葉を強ひて壓さへ つけて了った。 「追ひ追ひに持って來る。」 この返答は共の場限りで、一つも實行せられなかった。幸吉が焦れば 焦るほど、彼の女はだんだん落ち着いて來た。斯くて約東の一ヶ月は室しく過ぎて、二月の半ばとなり、 方々の梅が咲き綻びる季節になった。 彼の女は屡々幸吉を「梅見」に誘った。向島や、龜井戸や、木下川筋や、大森蒲田や、どうかすると汽車 に乘って鎌倉邊まで出向いて行った。女の男を愛撫する事は、少しも昔と變らないのみか、日を趁うてま すます深くなるやうであった。それにも拘らず、彼の女はもはや「出奔」の計劃を忘れたやうに呑莱にな った。 「あなたね、たまにはあたしの内へも尋ねて來た方がよくってよ。」 る 百花園の梅を見た歸りに、大河の水のほとりの小座敷で晝飯をした、めた時、女はふとこんな事を云ひ出 れ 「あたしの方から尋ねて行ったら、都合が惡かないんですか。」 きねがは 261
る れ て口 , 、冫 日中を通る汽船の笛が、ばうッと淋しい音を立てゝ居る。木嵐はますます強くなったと見えて、芝浦の 理立地の方から、板戸を鳴らして吹きつけて來る。をりをり、靜かな座敷を地震のやうに搖がせて、門前 に捨てられた方が餘計幸であるかも知れない。けれども、目下の幸吉はそれ程死を急ぐ氣にはなれなか った。樂しい「死」よりも、先づ樂しい「生」を擇びたかった。そこで彼は全力を盡して彼の女を征服す る必要に迫られた。要するに、早く捨てた方が勝ちを制するのである。彼は當分、自分の方から女を捨て る勇莱がないとしたら、せめて女に捨てられないだけの用心をしなければならない。 彼の女の美貌に戀する男は幾人もあらう、反對に幸吉を戀する女は彼の女の外に一人もない。 其れ が幸吉の非常な弱點であった。さう思ふと、彼は堪へ難い嫉妬の念に驅られた。而も、共の嫉妬を表へ現 せば、却って女に乘ぜられる事を恐れて、彼は飽く迄も平靜を裝った。自負心の強い、度量の廣い男の如 く見せかけて居た。 女は又、些細な事にも嫉妬を起して、怒ったり口惜しがったりした。男が平靜にすればする程、彼の女は いよいよ嫉妬深かった。けれども共れは眞の嫉妬でなくして、男に嫉妬を起させる方便のやうに感ぜられ 「あたしは此れほど嫉妬を焼くのに、どうしてあなたは燒かないのです。」 彼の女の行動の裏には、斯う云ふ謎が含まれて居た。 こ 0 やきもち 201
「山本さん、あしたきッと人らッしゃいよ。さうしたら指輪を上げるかも知れませんからね。」 と、睛れやかな調子で叫んだ。間もなく愉快さうな笑ひ聲が、再びからからと木立の奥の闇の中から響い て來た。 漸く戦慄の止まった幸吉は、脇の下から胸の周圍へびッしよりと冷汗を掻いて居た。 明くる日の幸吉は一脣哀れであった。嫂と杉村を前に置いて、彼は散々彼の女から耻ちしめられ、嘲けら れた。 「三千子さん、どんなにあたしをいぢめても、昨夜よりもっとひどい目に遇はしても宜ござんすから、後 生だからあたしを捨てないで下さいな。」 二人きりになった時彼は云った。 「若しも捨てたらどうするの。」 「捨てられ、ば死んで了ひますよ。」 「ふん」 と、彼の女は鼻で笑って、 「あなたも杉村の兄に似て來たわね。あの人もよくそんな事を云ひましたつけ。」 「それぢや自殺したんですか。」 282
ば、彼の女は獸と神との美しさを一身に具有して居る。 歌麿の美人畫を見た時、誰でも第一に気が付くのは、あの長い長い、心行くまでに伸び伸びとしたなよや かな線であらう。眺めても眺め盡せぬ程餘裕のある目鼻立ちと背恰好であらう。あの美人を一見すると、 いかにも弱々しく痩せて居るやうに感ぜられるカ 一と度び仔細に注目すれば決してさうでない事が判る。 あの顏立ちは面長とは云へ、頬のあたりなぞたつぶりと肥え太って居る。手でも足でもまことに豐艶であ おほがら る。健康でない迄も、必ず大柄な體格でなければならない。 , 從って、あのなまめかしい衣裳の裏に包まれ た四肢の筋肉は、必ず立派に發達して居なければならない。それでこそ始めて、あのやうな餘裕のある曲 線が出來上るのである。 彼の女の美しさは、恰も此の美人畫の特長に類して居た。たゞ、あれ程の 婉麗を缺く代りに、あれよりもっと健康らしく、もっと生き生きとして、稍強い鏡い線から成り立って居 た。而も此の頃は、共の強さ鋧さが、幸吉の感化を受けてます / 、、著しくなりつ、あった。一つ幸吉の気 に入らないのは、あまり血色が好すぎる爲め、いつも顏が櫻色に上莱せて居る事であったが、それさへ今 朝は眞白に冴え返って居た。 「今日はあたし、大變顏の色が靑いやうだわね。 えさうぢゃなくッて ? 」 彼の女は机の上の鏡を視詰めて、そんな事を云った。 る 「女が自分の顏色の靑い事を云ふ時には、大概得意を感じて居るやうですね。」 れ て幸吉はお世辭のつもりで、答へた。 「うそよ。あまり心配させられたせゐよ。」 219