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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第2巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第2巻

て僞りではございません。」 娘は急にはら / \ と涙をこばして、ソオフアから轉げ落ちるやうに彼の足元に跪いた。 「お前がどんなに哀れつぼくして見せても、僕にはお前の本心がよく判って居る。萬一お前がほんたうに 改心する積りなら、それは一時の気紛れで、直ぐに又もとの惡黨になる事は見えて居るんだ。 今お前に耻をか、せたり、改心をさせたりしようとは思って居ない。それよりかお前が立派な惡黨になっ やさ て、僕に對して出來るだけの罪惡を働いて見せて貰ひたいんだ。此の方がお前に取っても、どのくらゐ容 易くて、どのくらゐ面白い仕事だか解らないぢゃないか。」 男の言葉は冗談なのか皮肉なのか。冗談とするにはあまり眞面目で、皮肉とするにはあまり熱心なやうで ある。娘は呆れて饒太郎の瞳の色を視詰めて居たが、少しく醉っては居るもの、、彼の態度は気が狂った かと思はれる程嚴然たるものであった。 「お前は今迄にいろ / 、の男と知り合ひになった筈だが、いつも此のやうに大人しくして居た譯でもある まい。お前が惡事を働いた時、お前の手先に使はれて、一赭にいろ / \ の仕事をした相棒の男が澤山あっ たらう。さう云ふ男たちにお前は定めし姐御と呼ばれて、隨分權威を振ったに違ひない。。 とうぞお願ひだ から、僕をお前の乾分のやうに取り扱っておくれ。乾分で惡ければ奴隷でもい、。飼ひ大でもい、。餌食 でもい、。 : 身代りが欲しいと思ったら、僕を身代りに使っておくれ。金が盜みたいと思ったら僕の 金を盜んでおくれ。人を殺したいと思ったら僕の命を取っておくれ。此れが僕のお願ひなんだ。」 かう云ひながら、饒太郎は室の一隅にある大きな戸棚の抽き出しを開けて、その中に忍ばせてあった奇怪 432

2. 谷崎潤一郎全集 第2巻

娘の言葉は弱々しい調子で、清え人るやうに徴かであった。 お喋舌りをしたり、 「判らない事はなからう。お前はお前の好きなやうに我が儘自由に振る舞ふがい、。 嘘をついたり、酒を飮んだり、賭博を打ったり、善い事でも惡い事でも思ふ通りな眞似をして面白がって くれさへすれば結構なんだ。」 ・ : 敎へてさへ頂けば此れから何でもいたしますけ 「でもまだあたくしは十七の娘でございますもの。 れど。」 「おい、おい、お前ももう好い加減にするがい、ぜ。」グッとコップを飮み干して了ふと、饒太郎は立ち 上って、不安らしくテェブルの周圍を行ったり來たりし始めた。「僕はお前がどんな素情の、どんな經歴 の女だと云ふ事をよく知って居るんだぜ。去年の夏お前が新聞に書かれた事も、檢事局へ擧げられた事も、 それから共の後到る所でお前が行った犯罪に就いても、すっかり種は上って居るんだ。今年十七になる初 心娘のやうに見せても、實際の年がいくつになるかは疾うからちゃんと判って居るんだ。」 さう云はれて居る間、娘は此の臺辭が聞えるのか聞えないのか、相變らずばんやりした顏つきをして、折 々例の上眼を使ひながら饒太郎の歩く姿を窃み視るのみであった。 : だからもう猫を被っても仕様がないんだ。ねえ、さうだらう。」 まなざし 云ひ終ると同時に彼は娘の前に歩み寄って、急にやさしさうな、勞はるやうな眸をした。 「御存知で居らッしやるならもう何も申しません。」俯向いて居た娘は更に低く頭を垂れて、いよ / \ 微 : どうぞ私のやうな人間を可愛さうだと思召して、憐んでやって下さいまし。も かな聲で云った。「 : ばくち せりふ 430

3. 谷崎潤一郎全集 第2巻

いの。籍なんぞ孰方にあっても構はないわ。 ぎゃうせき おすみへん、どの面下げて、お前にそんな立派な口がきけるのだい。ちッと自分の不斷の行跡を見るが あんまり親を馬鹿におしでない。 おきんだからい、わよ。どうしてもおッ母さんが承知してくれなけりや、あたしの方にも考があります から。 ( つんとして母の傍を去り、左方の帳場の机の前に据わって、何か卷紙 ~ 徒ら書きをしながら ) あたしや、今迄にも 隨分内の爲めになった積りなんだから、此のくらゐの事を聽いてくれても好いと思ふわ。人の事を男が あるの何のと云ふけれど、おッ母さんだって馬喰町へ知れたら困る事がありはしなくって ? 若しもあ たしが意地惡く出たら、どうする積りなのか知ら。 おすみ ( 稍不安の眼つき ) お前は親を強請る積りなのかい 。大それた娘もあるもんだね。そんな眞似をすり や、私ばかりかお前だって立ち行かなくなるんだよ。 おきんえ、、そりやおッ母さんにばかり苦勞をさせやしませんとも。 おすみ勝手にしやがれ。 ( 強く云ひ放ちたれど、猶不安の表情にて、暫く無言の儘相對して居る ) お花、湯殿の戸を開け、襷がけで兩手の先から湯気を出しながら、廊下に現れる。 おはな ( 襷を外して障子際に長まる ) おかみさん、お風呂が沸きましたが、お召しになりませんか。 おすみさうさね。 ( 茶箪笥の上の置時計を顧る ) まだ二時半だね。私やもう少し後にしよう。 おきんそんならあたし、先へ這入るわ。 ( 立ち上って、衣類を帳場に脱ぎ棄て、、長襦袢一枚になる ) おすみ ( お花に向ひ ) それからね、お信が歸って來たら、此のお重へお萩を入れて、馬喰町へ屆けるやう とっち つらさ

4. 谷崎潤一郎全集 第2巻

う此れからは心を人れ換へて、きッと善人になって御覽に人れます。何卒お見捨てなさらないで可愛がっ て下さいまし。」 「あは、、、。まさか本氣でもないだらうが、何もそんなに殊勝らしくして見せる必要はないよ。女の癖 それ程にして賴まなくっても、僕がお前をどれ程可愛がっ に大それた罪を犯す程の悧巧なお前だ。 て居るか、實は可愛がり過ぎるくらゐ可愛がって居る事を、ちゃんと見拔いて居るんだらう。そのくらゐ の事が悧巧なお前に判らない筈はないんだ。」 あんま 「それはあなた餘りでございます。」 「しかし、いくらお前が悧巧な女でも、僕がどうして此れ程お前を可愛がって居るのか、その理由がわか る筈はない。 僕はお前の器量よりも何よりも、お前が大膽な惡黨女であると云ふ事に惚れ込んで居 るんだ。」 話す方も聽いて居る方も、二人の顏はだんだん靑くなって、互ひに重い溜息を吐いて居る。饒太郎は轟く 胸を鎭めながら、卓上の酒を手あたり次第に績けざまに呷って、濡れた唇を拭ひイ、尚も熱心に口説き立 てる。 「僕がお前に賴みがあると云ふのは此處の事なんだ。お前は今、此れから心を改めて善人になると云った。 それは勿論一時の気休めで、僕を欺さうとしたのに違ひない。欺して置いて、又何か惡事を働かうとする 太了見に違ひない。 饒 「飛んでもない事を仰っしゃいます。たとへ私が今迄にどんな惡事を働きましても、此ればっかりは決し 431

5. 谷崎潤一郎全集 第2巻

依ったら、私の兩親にも會って下さいましな。齋藤は私の方からお宅へ伺ふやうに云ひ附けましたけれど、 それぢや道順が惡うござんすから。詳しい話は共の時に伺ひますわ。 輝雄が默って頷いて居るうちに、二人は松風館の裏庭へ來た。 「明日の事はみんな内證よ。」 かう云ひ捨て、、英子は一と足先へ梯子段を上って行った。 未だ嘗て經驗した事のない、愉快とも不愉快とも名賦し難い、危惧と歡喜の縋れ合った不思議な感情が男 の心に渦を卷いた。彼は自分の座敷へ歸ると、障子の中を暫くうろうろと歩き廻った。燦爛たる色彩に充 ちた明日の午後の光景が、さながら美しい詩の文句を想ひ出すやうに心に映った。ふと、輝雄は今日に限 って齋藤を訪れないのは、却って疑を買ふ原因だと気付いた。さうして、出來るだけ平靜な態度を裝ひな がら、唇に痙攣的な做笑を浮べて、友人の部屋へ這人って行った。 何を叱るのか、齋藤は輝雄の方を見向きもせずに、眼を瞋らして有り合ふ衣絞竹を振り翳しつ、、ピシリ、 ピシリ、と績けざまに女を撻って居た。英子は「あいた、あいた、」と悲鳴を擧げて、打たれる毎に竹竿 しもと かひな をみ取らうと兩手を高くか、げて居たが、其の眞白な腕にも、か細い十本の指先にも、笞は幾度か激し てく中った。彼の女の頬には再び涙が傳はって居た。 「一體どうしたんですね。」 かう云って輝雄は、慰めるが如く男の瞳を見た。二人の喧嘩は近來三日に擧げず起るので、それ程珍しい 事ではないと知りながら、彼は此の場合胸が潰れるやうに覺えた。 あた むちう 163

6. 谷崎潤一郎全集 第2巻

になって、つまらねえお喋舌りばかりしゃあがる。」 「そんなに怒らなくってもいゝぢゃないか。己はまだ女郎買ひを知らないと云っただけなんだ。」 しゃうこ 「何の用があってそんな事を云ったんだ。手前は此の間あんなに擲られて置きながら、まだ性懲りもねえ と見えるな。」 あば 善兵衞は私 0 居る前で自分 0 秘密を發かれたら、やがて主人に告げ口されるとでも思 0 た 0 でせう見る / 、、額に靑筋を立て、、心配さうに私の顏色を判じながら、いきなりコツンと安太郎のいが栗頭を撲り付 けました。 「あ痛え、人 ! 馬鹿にしてやがらあ。」 「手前なんざロで云ったって承知しねえから、後悔するまで斯うしてやるんだ。此れからちッと気を付け 「何云ってやがるんだい ! 手前こそほんとに気を付けるがい、や。毎晩々々店を拔け出して、明け方に なって歸って來る癖に、人が知らないと思ったって、みんな判ってるんだ。」 安太郎は擲られた口惜しまぎれに、もう眞劍の喧嘩口調で大聲にかう叫びました。績いて又ほかぼかと横 面を打たれましたが、 「畜生 ! 擲るならいくらでも擲れ。さあ打て、澤山打ってくれ。」 と、腕を捲くって向って行きます。 善兵衞は自分の方から事を荒立て、、子供ながらも相手の見幕の凄じいのに今更躊躇したもの、、最早や ひと 292

7. 谷崎潤一郎全集 第2巻

處から其のま、包みを持って、欣々然として學校へ行く。お蔭で學問の方にも精が出て、一週間の終るま でせッせと勉強したものさ。だから僕なんざあ、借金を拵へたり試驗を怠けたりした事は一度もなかった 「い、なあ實にー いや全く笑ひ事ぢゃない。僕等も此の先生のやうに無邪気だったら、どのくらゐ仕事 はかど が捗るか知れやしないんだがなあ。」 かう云って遞信省へ動めて居るäと云ふ工學士が感嘆の聲を放った。彼は學校時代に高利貸から多額の放 蕩費を引き出して、未だに返濟の途がっかずに惱んで居る男なのである。 「何しろ木村の白状が今夜中での白眉だね。いかにも平几な趣向のやうで、その實甚だ斬新で奇拔で、而 も大いに教訓的な所がある。小説にしても面白いな。」 「さうだ、たしかに面白い ! 正宗白鳥君の畑のもんだ。」 と、が合槌を打った。 「いやに君達はおだてるちゃないか。みんながそんなに褒めるなら、僕はもう少し風變りな小説の材料を 持ってるんだが、いっそ喋舌って了はうかな。」 しぎり 何か知らぬが木村は獨り悅に人りながら頻と小首を傾げた後、 ェビソード 「ねえ諸君、平几な僕の道樂の中にも、たった一つ非常に奇拔な挿話があるんだよ。あんな不思議な經驗 は、僕以外にもめったに出遇った人はなからうと思はれるんだが二三十分辛抱して話を聞いてくれないか。 のろ 別段惚けと云ふ譯でもないんだから。」 しゃべ しか 576

8. 谷崎潤一郎全集 第2巻

と、藤田が云った。 「石鹸の廣告なら鬼瓦よりよッほどよくってよ。 それよりか今玉置さんが土左衞門の眞似をして居 たから、もう少しで首ッ玉を掴んで潜らしてやらうと思ってたの。」 「どうです諸君 ! 」と、輝雄は大聲に叫んだ。「三入が、りで、お轉婆先生に水を飮ませようちゃありま せんか。」 「よし來た、賛成々々 ! 」 藤田も末松も身を躍らせて波を切った。忽ち女は長大な手足を漫溂と跳ね返らせ、夥しい水煙を身邊に捲 き起しつ、、濱邊へ向って二尺三尺と敏捷に逃れ始めた。三人は麩を投げられた緋鯉のやうに、噴水の如 く降りそ、ぐ眼潰しのしぶきを浴びながら、白泡を蹴立て、爭ったが、容易に彼の女は捕へられなかった。 輝雄は獨り水中に體を沈めて、目立たぬゃうに女を追った。彼はばっちりと海の底で眼を開いた。肌が同 ひは うしほ じ色に染め上げられるかと思ふ程、鶸色の潮の光が十重二十重に彼を包んで、瞳に泌み入るのを覺えた。 急に水温の冷めたい所や、暖かい所があった。突然、女の兩脚が、蛇體のやうにうね / \ と彼の鼻先を掠 めて消えて行った。彼は間もなく、淺瀨の沙に膝頭を擦られて、すっくりと立ち上った。 「玉置さん御苦勞樣だったわね。あなたのやうなのろまに掴まりやしなくってよ。」 英子は沙濱に腰を下ろして、水面に現れた輝雄を見ると、待ち構へたやうに云った。末松も藤田も、もう 海岸に辿り着いて彼の女の傍に寐ころんで居た。 「撼まへればまへられたんだが、可哀さうだから勘忍してやったんだ。」 120

9. 谷崎潤一郎全集 第2巻

居る。前の晩の惡醉がまだ頭に殘って居るのか、輝雄は手足のほごれるやうなけだるさを覺えて、光った 物を見る度毎に、瞳、、 がぐり / \ と痛んだ。 あさって 「玉さん、それちゃ明後日忘れずにね、きっとよ ! 」 札幌ビ 1 ル會社の前へ來た時、春江は往來の人目も憚らず、後ろから甲高い調子で云った。共處から女の 俥は橋を渡って、雷門の方へ消えた。 横網河岸を俥に搖られながら、濱町の家へ歸る途中輝雄は獨り昨夜からの事を考へた。梅龍と云び、春江 と云ひ、自分はもう、あ、云ふ踵類の女には乘り氣になれなくなったのか知らん。殊に春江が、あれ程ま でにして感情を煽り立てようとするのに、少しも惚れる気にならないのみか、一々受け答へをするのさへ 大儀なやうな、何となく自分が侮辱されたやうな、惓怠と不滿を感じて、相手が上氣せれば上氣せるだけ、 此方は冷淡になるばかりであった。それならば何故、無駄な時間と金とを費して、遊び廻って居るのだら 、つ いつまで下らない女に引き擦られて、弛んだ生活を績けて行くのだらう。京都 ~ 立ったのを機會にし て、再び會はなければよいものを、歸って來れば又春江に誘ひ出されてうか / \ と相手になる。今朝もっ い口車に乘せられて、明後日箱根へ行くと云ふ約東までしてしまった。今年の正月から夏へかけて、彼は て春江の爲めにどれだけ迷惑を受けたであらう。大學の試驗準備を放擲して了ったのも、上方へ行って道樂 かをしたのも、學生に不相應な多額の小遣ひを遣ったのも、内實の事情は兎に角、表面は皆春江の事が原因 であるかのやうに、母親を始め、親戚の人々も信じて居る。彼は戀ひしくもない女の爲めに戀をしたと同 然の犧牲を拂って居るのであった。 たあ たる

10. 谷崎潤一郎全集 第2巻

「ちょいと、今度はいつお目にか、れますの。」 男は默って、「覺えて居ろ。」と云はんばかりにまじまじと彼の女の顏を視詰めて居たが、やがてだらしな く自分の肩へしなだれか、る女の體を突きのけて、 「知りませんよ。」 と云ひ放つや否や、捕へられた外套の袖がちぎれさうになるのも構はず、ずる / \ と梯子段を降りると云 ふよりは滑べり落ちて行った。彼は戸外へ出て了ふまで、一度も彼の女の顏を振り顧って見なかった。 これは本當の話なのである。夕方の四時半から紅 ~ 業館に新年會が 「僕は此れから會があります。」 ある筈なので、幸吉はもと / ( 、愛宕下から共の方へ廻るつもりであった。尤も、彼の女に會った時の都合 さう思って居たのが、悉 で、何か面白い事件が發展しさうになったら、會の方は缺席しても差支へない。 く豫期に反して、彼はやつばり會場へ赴くより外仕方がなくなった。 戸外へ出て、俥へ乘って見ても、腹立たしさといまいましさは容易に收まらない。今日の彼の女は馬鹿な のか悧巧なのか、美しいのか醜いのか、執拗いのか冷淡なのか、殆んど譯がわからなかった。唯几べての 擧動が毒々しくて、嘔吐を催させる程俗悪であった。さうして、前後の様子をいろいろ考へ合はせて見る のに、結局彼の女はまだ充分幸吉に惚れて居ると云ふ事だけは明かであった。 る若しも幸吉が、彼の女を捨て、了ふ気があるならば、今が一番容易い時である。彼は自分の胸中に沸き騰 てった憎惡の情を利用して、比較的未練や後悔を感ずる事なく、彼の女を振り捨て、了へさうである。兎に 角、今日の態度から判斷すると、彼の女は幸吉が最初に豫想したよりもっと淺はかな、もっと薄っぺらな、 しつッこ あが 237