幸吉 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第2巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第2巻

「三千子さん。」 と呼んオ 「もう彼れ此れ八時よ。・ 彼の女は男の肩に擦り寄って、囁くやうに云った。 「姉さんがぐずぐずして居るもんだから、出掛けるのが大變遲くなっちゃったの。あなた餘っ程待ったで せう ? 」 「僕も差し支へがあって、あなたより少し前にやって來たんです。」 幸吉はこんな負け惜しみを云った。 「さう、それちゃ遲く來て却て宜かったわね。」 「此れから何處へ行くのです。」 「何處へでもあなたの御自由に。」 二入は土橋を芝の方へ渡った。女は豫定の時間が遲れたから、それ程ゆっくりする譯に行かない。十時ご ろまでには歸宅したいと云った。それで、二人が一分でも長く會はうとするには、彼の女の家から近い所 に Rendezvous を求める必要があった。男は咄嗟の間に、芝浦の方面へ行かうと思った。 「電車は入目が多いから俥にしませう。」 と、幸吉が云った。 「俥だって、 」と、女は首をかしげて、 みち ミ ) 0 192

2. 谷崎潤一郎全集 第2巻

幸吉は久し振りで愛宕下の家を尋ねた。二月の末の、珍しくうらうらとした、春らしい日和の午後であっ 「まあ、お珍らしいこと ! 」 玄關に出て來た嫂は、元氣な聲で、吃驚したやうに反り返ったが、 「さあどうぞお上り。三千ちゃんは此の頃出てばかり居るんですけれど、今日は好い鹽梅に宅に居ります かう云って、彼を二階へ案内して行った。 「ほんとに御無沙汰致しました。」 わたくしども ゝえ私共こそお尋ねしようと存じながら、ついつい御無沙汰しちまって。 ったんですが、あの通り氣紛れな人だもんですから。 る 梯子段を上りながら、彼の女はこんな言ひ譯をした。幸吉は何と答へてい、かわからないので、唯「い れ い、え、」を繰り返した。さうして自分に對する不詳な室気が何となく家の中に行き亙って居るや うに感じた。 か。果してさうだとすれば、今暫く様子を見ながら、時節を待った方がい、。 合ひに安心して居た。 アンフエプラ・フル さう思って、男も割 妹でも伺へば宜か 263

3. 谷崎潤一郎全集 第2巻

「だからよくってよ。あなたの心はすっかり解ってよ。何でもあたしの云ふ事を聞くなんてみんな口先ば かりだわね。」 「い、え逃げます。きッと逃げます。あなたが逃げろと仰っしゃれば、何處までヾも附いて行きます。」 「もう澤山だわ。無理にお願ひするんぢゃないんですから。」 たかぶ ほゝゑみ 彼の女の眼元には、再び驕った微笑が浮かんオ 「逃げますよ、逃げますよ。あたしは本當に、あなたの云ふなり次第になって了ったぢゃありませんか。 ですからもう勘忍して下さいな。ね、ね、」 かう云ひながら、幸吉は彼の女の袂を引き付けるやうにして、強びて自分の傍へ据わらせた。 「承知して下されば結構だけれど、あなたは其の實、逃げるのをちっとも嬉しいと思って居らっしやらな いのね。」 「逃げたが最後、いづれあなたに捨てられるにきまって居るんですもの。」 「まだそんな事を云って居るの。」 「ねえ三千子さん、逃げろと仰っしゃればいつでも逃げますから、共の代り、必ずあたしを捨てないで 「大丈夫よ。」 「それさへたしかなら、いゝけれど : ながしめ かう云って幸吉は、始めて嬉しさうに眄を與へながら、又例の訴へるやうな調子で、 ヾ、 ) 0 254

4. 谷崎潤一郎全集 第2巻

る れ て幸吉は妙な意地張りから、芝浦で別れた明くる日女の家を尋ねなかった。女の方からも、何とも云って寄 越さなかった。今までの習慣に依れば、かう云ふ場合に、大概彼の女の方から折れて出るのが普通であ 金杉橋の袂で別れる時、女はこんな事を云った。 「明日 ? 」 「え、。もう一日も會はずには居られないわ。今夜だって、 「大概行けるでせう。」 「駄目よ。きッと來て下さらなくっちゃ。 「けれども少し都合があるから、 「都合なんぞどうにでもなってよ。何もそんなに考へる事はないぢゃありませんか。ね、きッと來て下さ : それともあなた、あたしをうるさいと思って居らッしやるの。」 「そんな事はありませんよ。しかし、何か用事がないとも限らないから。 「そんならい、わよ。左様なら。」 かう云って、彼の女はどんどん歩き出した。多分男が何とか聲を掛けるであらうと豫期して居たらしかっ たが、幸吉は無言のま、棒のやうに彳んで居た。女の姿は間もなく闇に消えて了った。痛快なやうな、便 り無いやうな、不思議な感を頭に疊みながら、男はやがて電車に乘った。 いつまでも斯うして歩いて居たい位だわ。」 203

5. 谷崎潤一郎全集 第2巻

ワイニンゲルの説くが如く、世の中に完全なる男子や完全なる女子が存在して居ないとすれば、從って世 間の男女の間に絶對的差別がないとすれば、此の理屈を或る一個人の心理作用にも應用する事が出來るで あらう。幸吉はどうかすると、自分が全然女のやうな感情に支配される時がある事を發見した。共時の彼 は實際女になって了って居るのだ。 例へば今、彼は鏡に向って化粧して居る。お白粉こそ使はないが、髮を分け、髯を剃り、油を着け、化粧 水を塗る。さうして、共れは戀人に媚びんが爲めなのである。彼は少しでも多く自分の顏を美しくし、愛 らしくしようと努めて居る。綺麗になった自分の皮膚や、唇や、髮の毛に對して、包み切れない一種の喜 びをさへ感じて居る。女が男を待っ時と少しも變らないではないか。 やがて幸吉は鏡の前を立ち上ると、押し入れの行李の底から、一と揃ひの新調の衣類を引き出して、一つ 一つ絹糸の仕つけを解いた。細かい絣の對の大島に、更紗の胴着、羽二重の長襦袢、緞子の角帶まで、み んな自分が柄を見立て、春着の料に拵へたものであった。彼の女性的気質は此處にも働いて、幸吉は不斷 から書籍を買ふより衣類を作る方に多くの金を費して居た。彼が反物の色合や縞柄に對する愛着の情は、 贅澤とかお酒落れとか云ふ單純な言葉で到底説明する事は出來なかった。彼は自分の着て居る衣類を、殆 んど天稟の皮膚の一部分であるかのやうに考へて居る。家に居る時も、外出する時も、彼は自分の所有す る る最も美しい着物を纒った。一日一心に適った衣類は、飽きて了ふ迄片時も肌から放すのが嫌であった。其 れ ての結果、餘裕さへあれば傍から / \ 衣類を新調して、一年の内に着殺して了ふのが常であった。 「お前ぐらゐ、着物をぞんざいにする人間はない。」 211

6. 谷崎潤一郎全集 第2巻

あやま いかにも荒々しく腹立たしげであった。いつものやうにお世辭を云ったり、詫ったりしなかった。それだ け彼の女は眞面目に困惑し、憂慮したに違ひない。「一旦此方から折れて出ても、會へさへすれば再び男 或はそんな自信を持って居るのであらうが。何にしても彼の女は幸吉と無 に打ち勝って見せる。」 關係で生活する事は出來ないのである。 幸吉は机の上に立てかけてある鏡を眺めて、意地の惡さうな笑ひを洩らした。それからついでに抽出しか ら櫛を取り出して、綺麗に分って居る頭髪を、再び念人りに丁寧に分け直した。彼の顏はどちらかと云へ あぶら ば圓い方で、子供のやうにクリクリして居る。脂肪の質の爲めに、頬から額の邊がいつもぎらぎらと脂を 浮べて、どす黒く光って居たが、冬になるとサツ。 ( リして見違へるやうな色白になる。顏の輪廓と同様に、 體つきもふッくり肥滿して居る。それで外見はいかにも丈夫さうに思はれるけれど、其の實筋肉が柔かで 骨が細くて、案外虚弱な質であった。 「君は相撲でも取らしたら、嘸強いでせうなあ。」 こんな事を人に云はれて、幸吉は時々をかしくなる事があった。藝者などを相手に腕相撲を試みて、十人 のうち五人には負けるくらゐ彼の腕力は乏しかった。つまり彼の太り方は、十七八の田舍娘や飯炊き女の 體質にそッくりで、殆んど女性的であった。殊に臀部の周圍や兩股の張らみ加減、踝の太い鹽梅など、腰 から下は全く女の姿と異らなかった。彼はいっぞや「男女と天才」を讀んで、ワイニンゲルの所説を聽い てから、 いよイ \ 自分の體質にの特長の多い事を感じた。湯上りの際、赤裸々のま、鏡の前に彳んで、 ジッと兩脚の恰好を視詰めて居ると、彼は自分の性が次第々々に女性の方へ轉化して行くやうに覺えた。 セックス いろじろ くるふし 210

7. 谷崎潤一郎全集 第2巻

へ導かれながら死んで行く機會があるとしたら、さう云ふ時に早く死んで了ふ方が得策である。斯くて始 めて、彼は自分の生の歡樂を完全にする事が出來る。彼は死の恐怖を知らないで死ぬ事が出來る。依然と して生の歡樂に執着し、沒頭しつ、死ぬ事が出來る。ェビキュラスの言葉を借りて云へば、彼は永遠に 「死」に遭遇しないで濟む。彼は絶對に幸疆である。 このやうな幸幅な境地は、容易に獲得する事が出來ないと同時に、全然不可能であるとは信じられない、 若し、共の境地を開拓し得る機會が到來したならば、何を措いても共れに向って猛進す可きである。さう して、幸吉は今や共の機會が近づきつ、あるやうに感ぜられた。手を延ばして共の機會をむか、空しく すどほ 自分の身邊を素通りさせるか、共れは彼のやり方次第である。云ひ換へれば、彼の女と自分の間に生じた あふ 戀愛の炎を、成る可く強く煽り立て、、死に對するあらゆる恐怖、顧慮、逡巡を燒き捨て、了ったらどう であらう 。いかに憶病な幸吉でも、共處まで行けば安樂に、恍惚として死ぬ事が出來るだらうと想像され る 戀愛と云ふものに、眞實共れ程の價値があるかどうかは疑問であるが、少くとも死を決行させる魘力だけ は存して居るやうに思はれる。彼の女も幸吉も、眞面目になって芝居を演ずる習慣に馴れて居る。眞實よ りも幻影を貴び、自然よりも技巧を喜ぶ性癖に傾いて居る。今一歩を進めたら、幻影の爲めに生命を捨て るのは、必ずしも不可能ではあるまい。斯くて立派に死に終せた時、世間は決して二入の行爲が「芝居」 であった事實を觀破することは出來ない。人々は生前の彼の女がいかに美しかったか、いかに多くの男を 惱ましたかといふ事などを語り合って、二人の幻覺をいよいよ眞實にするであらう。二人は死んだ後まで 256

8. 谷崎潤一郎全集 第2巻

た。彼はいつも格子戸から上って、母屋と西洋館の間を接續する窮屈な廊下を通り、狹い裏梯子を昇って 病院の二階へ案内される。從って、女中や看護婦の外には家族の者と顏を合はせる機會がない。彼は母屋 の間取がどうなって居るのかさへ知らなかった。 案内される二階座敷は、もと / \ 入院患者を收容す可き病室なのである。けれども其處が他の病室と離れ て居る爲めに、暫く嫂夫婦の居間となって居たらしい。さうして兄が洋行に出かけてからは、嫂と彼の女 とが住まって居る。尤も嫂の方は殆んど寢るだけの事で、書間は全く母屋に暮らして居る所から、自然と 彼の女が其處を占領して了って居る。 部屋の廣さは八疊程で、 トーアと壁を除いた部分は、押し入れでも床の間でも疊でも一切日本風に作られ て居た。共處へ案内される人々は、大概彼の女と嫂とに共通な友達で、外の家族に挨拶をする面倒のない 結果、三日置きに一入ぐらゐは誰か知ら遊びに來て居た。來客の多くは女學校時代の同窓であるが、中に は五六人の若い、未婚の男子も交って居る。彼等は兄の舊友で、兄が洋行する以前から親しく往來して居 た人々である。彼等が再々兄の留守宅を訪問するのは、單に舊友の夫人を慰めると云ふ親切ばかりではあ るまいと、幸吉は邪推して居る。 しかし、邪推は邪推として、彼は決して彼等を憎む譯には行かない。なぜと云へば、幸吉が彼の女の家に る 出人する事が出來るやうになったのは、抑も「彼等」の一人が紹介してくれたお蔭なのである。丁度去年 れ ての十月ごろ、幸吉と同じ學校の文科の 氏が、花柳病に罹って二週間程此の病院へ人院して居た。 共の時分、彼が折々見舞ひに行くと、いつも 氏の病室に彼の女と嫂の姿が見えた。二人の女はい まどり おもや うらばしご 221

9. 谷崎潤一郎全集 第2巻

彼の女はわざ / \ 自分の立てた計割に自分を苦しめて、それを喜んで居るやうに見えた。 「しかし歩いて居たら、時間が無くなっちまふちゃありませんか。それとも今夜は唯話をしながら散歩で もしますか。」 「え、、それでもい、わ。」 かう云って、彼の女は俯向いて居る。 「ではさうしませう。」 此の言葉は、その時幸吉の頭の中に浮かんだだけで、とうたうロへは出ず に了った。女の男を戀ひする程度が、男より優って居るとしても、斯う云ふ事で意地を張れば女はなかな か屈しないに極まって居る。それが女の弱味であると同時に強味である。男は自分の最も不得意とする武 器を以て、女と競爭するやうなものである。それに彼の女の心配して居る今夜の事情は、幸吉も充分に認 めなければならなかった。 さうす 「それちゃ斯うしたらどうです。あなただけ電車へお乘んなさい。僕は俥で行きますから。 れば見付かったところで差支へない。」 彼は眞面目に方法を考へた後、こんな事を云った。 時間がないのにちょいとで 「いゝわ、そんな面倒な事をする位なら一緖に俥へでも何でも乘るわ。 も別々になるのは何だかあたし嫌だから。 かう云った時、あまりの我が儘に男が少し怫然として、不機嫌らしい溜息を洩らしたので、彼の女は惶て 、附け加へた。 194

10. 谷崎潤一郎全集 第2巻

そんならあたし、もう歸るわ。」 「あなたがさう云ふ考へなら仕方がないわね。 「三千子さん、待って : しふね 男はあわて、袂を捕へたが、彼の女は共の手を邪慳に振り拂って立ち上った。それでも幸吉は執念く追ひ 縋って、今度は兩手で裾のまはりにからみ着いた。さうして、相手の鼻息を窺ふやうに、おづおづと美し い立ち姿を見上げた。 「何も逃げるのが嫌だって云やしないぢゃありませんか。もうどんな事でも云ふ事を聞きますから、歸ら ないで下さいな。」 「云ふ事を聞くなら此の手を放して頂戴。」 「放しますから、歸らないで下さいな。」 さう云ひながらも、幸吉はまだしがみ着いて居た。 「あなたはまるで女見たいね。嫌なら嫌で男らしくキツ。ハリとさう仰っしゃいな。どっちにしても、あた しはもう此處に居る必要はないと思ふわ。」 ほど 彼の女は徐ろに手を廻して、背後にしつかりと組み合はされた男の指先を、一本一本解いて行った。さう して、それ程激しい抵抗も受けないのに、恐ろしいカで指を撓めながら、ところる、にわざと鏡い爪を立 る てた。 れ て「逃げるのは少しも嫌ちゃないんですよ。たゞ逃げたあとで、若しもあなたに捨てられたら大變だと思ふ もんですから、 たわ 253