女 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第2巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第2巻

「嫌なものを無理に逃げて下さらなくってもい、事よ。あなたの方にもいろいろ御都合がお有りですわ 彼の女は細い眦を凛々しく吊り上げて、男の泣き顏を冷や、かに睨み返したが、其の表情は忽ち崩れて、 直ぐに嬉しさうな、勝ち誇った做笑が眼元にも口元にもこぼれて來た。二人は明かに自分達の擧動が芝居 じみて居る事を感じっゝ、お互ひに泣いて見せたり怒って見せたりした。殊に、わざとらしい男の諂諛に は不思議な魔力が籠って居て、彼の女は到底共の誘惑を制する事が出來なかった。丁度人間に馴らされた 猛獸が、一日一生血の味を覺えると、忽ち今迄の習慣を忘れて獰悪な野性を發揮するやうに、彼の女はだん だん意地のわるい、殘酷な遊戯を喜ぶやうに變化して行った。幸吉は時々、自分の刺戟がいかに有力に、 いかに根本的に、彼の女を變化させつ、あるかを考へて、竦然とする事があった。 「あたしだって逃げるのは嫌ちゃないんです。けれども何だか、共れがあなたに捨てられる前兆のやうな 気がしてならないから、 「捨てる積りなら逃げやしなくてよ。そんな事を云って、あたしと結婚するのがお嫌なら、どうでも勝手 になさるがい、わ。」 彼の女はほんたうに怒ったらしかった。出奔すると云へば、一も二もなく喜んで、自分の命令通り動くで あらうと見くびって居た男の心が、案外にも冷淡で頑固である。少しぐらゐ怒っても威嚇かしても、口先 したで ばかり柔順を裝って居る。それが彼の女には口惜しかったが、以前のやうに下手に出ようとはしなかった。 やつばり何處までも威嚇して、散々泣き顏を眺めた上、思ふ存分に屈服させて了ひたかった。 なまち ほゝゑみ 252

2. 谷崎潤一郎全集 第2巻

「そりや無理だわ。けれども、あたしはあなたに弱點を握られて居るんですから、いづれさう云ふ時が來 るかも知れませんわ。」 「ほら御覽なさい。實行するとなれば、忽ち『無理だわ。』になるでせう。」 男は如何にも口惜しさうにダメを押した。彼とても本莱に實行を迫る積りではなかったらしいが、此の際 になって、女が平気で矛盾した返答を吐く事が、恐ろしく癪に觸ったのである。 「しかしね、あたしは今迄あなたに對して、負けまい負けまいと思って居た事は事實ですの。それを今日 から本當に改めようと決心しましたわ。此の一週間の間にいろ / ( 、考へて見て、どうしてもあたしの方が ですから、も 餘計あなたを思って居るんですから、意地を張るだけ損だと云ふ事が解りましたの。 う怒らないで下さいましな。」 「え、、もう怒っちゃ居ませんよ。」 男は仕方なしに、押し出されたやうな挨拶をした。 第三者の眼から、今日の幸吉の態度を觀察すると、彼は女の行爲に就いて、大分不滿足に感じて居るらし 現に自分でも「不滿足だ」と公言して、皮肉を云ったり、直既したりして居る。所が不思議な事には、 彼は決して不滿足を感じて居ないのである。幸吉はそも / \ 彼の女と戀に落ちた時から、成る可く彼の女 を自分の嗜好に適するやうな性格に薫陶したいと望んで居た。丁度彫刻家が木や石を材料として自己の藝 ィリュージョン 術を創造するやうに、彼は彼の女の肉體と靈魂とを土臺にして、共處に自分の幻覺を表現させようと努 めて居る。つまり、彼の女を能ふ限り非自然的な、非現實的な、非習慣的な、若しくは演劇的な性格に作 216

3. 谷崎潤一郎全集 第2巻

女を此處へ引き寄せる事が出來る。 「もう數寄屋橋へ來る時分だ。」 さう思った時、不思議にも其處まで追從して來た彼の連想は、もはや其の先を考へる事が出來なか . った。 二三分か、るか、四五分か、るか、それ 電車が數寄屋橋の對岸の停留場から此の四つ辻へ到着するのに、 とも十分ぐらゐか、るか、彼には更に見嘗が付かなかった。彼は成る可く時計を見ないやうにして、一心 に走り來る電車の列を眺めて居た。 それから大分長い時間が過ぎた。長いと云ふのは彼の主觀に訴へた氣持ちで、實際どのくらゐ過ぎたかは 明瞭でなかった。考へやうに依っては五六分のやうにも思はれ、二三十分のやうにも思はれる。橋の袂の、 外濠線の交叉點で稍暫く混雜して、やがて又動き出した「九段兩國行」が、四つ角から半丁程手前へ近づ いた頃、彼は車臺の硝子窓を徹して始めて彼の女の姿を認めた。彼の女は電車が止まらないうちにすっく りと腰掛けを立った。さうして、しづかに前方の出口の方へ歩いて行った。車室の中の電燈が、まざまざ と彼の女の顏を照らして居る。彼の女の眼はまだ幸吉を見付け出さない、しかし、男が直ぐ戸外の暗闇に ながしめ 必ず待って居る事を知って、明かに一種の輝きを增して居る。電車から降りると、彼の女は幸吉を眄に見 かざ て、嫂と何事か打ち語らひながら、右の手を庇髮の鬢のあたりに翳した。男も同じゃうに手を擧げて、帽 る 子の鍔をつまんだ。それはお互ひに發見した時合圖をする爲め、豫め定めて置いた暗號なのである。 れ て女の一行は大通りを向う側へ渡って、カフ = 工、ライオンの角から新橋の方へ歩いて行った。二人の間隔 が五六間離れた時分、男は始めて長い長い彳立の从態を免れて、魂を吹き込まれた人形の如く不意に動き おもて 187

4. 谷崎潤一郎全集 第2巻

た。彼はいつも格子戸から上って、母屋と西洋館の間を接續する窮屈な廊下を通り、狹い裏梯子を昇って 病院の二階へ案内される。從って、女中や看護婦の外には家族の者と顏を合はせる機會がない。彼は母屋 の間取がどうなって居るのかさへ知らなかった。 案内される二階座敷は、もと / \ 入院患者を收容す可き病室なのである。けれども其處が他の病室と離れ て居る爲めに、暫く嫂夫婦の居間となって居たらしい。さうして兄が洋行に出かけてからは、嫂と彼の女 とが住まって居る。尤も嫂の方は殆んど寢るだけの事で、書間は全く母屋に暮らして居る所から、自然と 彼の女が其處を占領して了って居る。 部屋の廣さは八疊程で、 トーアと壁を除いた部分は、押し入れでも床の間でも疊でも一切日本風に作られ て居た。共處へ案内される人々は、大概彼の女と嫂とに共通な友達で、外の家族に挨拶をする面倒のない 結果、三日置きに一入ぐらゐは誰か知ら遊びに來て居た。來客の多くは女學校時代の同窓であるが、中に は五六人の若い、未婚の男子も交って居る。彼等は兄の舊友で、兄が洋行する以前から親しく往來して居 た人々である。彼等が再々兄の留守宅を訪問するのは、單に舊友の夫人を慰めると云ふ親切ばかりではあ るまいと、幸吉は邪推して居る。 しかし、邪推は邪推として、彼は決して彼等を憎む譯には行かない。なぜと云へば、幸吉が彼の女の家に る 出人する事が出來るやうになったのは、抑も「彼等」の一人が紹介してくれたお蔭なのである。丁度去年 れ ての十月ごろ、幸吉と同じ學校の文科の 氏が、花柳病に罹って二週間程此の病院へ人院して居た。 共の時分、彼が折々見舞ひに行くと、いつも 氏の病室に彼の女と嫂の姿が見えた。二人の女はい まどり おもや うらばしご 221

5. 谷崎潤一郎全集 第2巻

「三千子さん。」 と呼んオ 「もう彼れ此れ八時よ。・ 彼の女は男の肩に擦り寄って、囁くやうに云った。 「姉さんがぐずぐずして居るもんだから、出掛けるのが大變遲くなっちゃったの。あなた餘っ程待ったで せう ? 」 「僕も差し支へがあって、あなたより少し前にやって來たんです。」 幸吉はこんな負け惜しみを云った。 「さう、それちゃ遲く來て却て宜かったわね。」 「此れから何處へ行くのです。」 「何處へでもあなたの御自由に。」 二入は土橋を芝の方へ渡った。女は豫定の時間が遲れたから、それ程ゆっくりする譯に行かない。十時ご ろまでには歸宅したいと云った。それで、二人が一分でも長く會はうとするには、彼の女の家から近い所 に Rendezvous を求める必要があった。男は咄嗟の間に、芝浦の方面へ行かうと思った。 「電車は入目が多いから俥にしませう。」 と、幸吉が云った。 「俥だって、 」と、女は首をかしげて、 みち ミ ) 0 192

6. 谷崎潤一郎全集 第2巻

それにしても、もう十五分待って見よう。 彼は自分で自分に云ひ譯をするが如く、腹の中で呟いた。 とうたう共の十五分が過ぎて七時が鳴った時、更にもう十五分 : ・ : : : と彼は思った。會はずに歸ると云ふ 事が、彼に取って何も左程の苦痛とは考へられない。是非とも今夜逢ひたいと云ふ、痛切な慾望がある譯 でもない。それにも拘らず、彼は不思議に共處を立ち去る気になれなかった。此れは丁度、煙草をそれ程 好まぬ人でも、全然禁煙すると云ふ事が、なか / \ 容易でないと同様な心理現象で、格別自分が、女に惚 れて了った證據とするには、少し早計のやうに彼は思った。 女の乘って居る電車は、數寄屋橋の方面から此の四つ角へ來る筈である。丸の内の暗闇から絶え間なく駛 走して來る車臺の中を、幸吉は一々念入りに檢べてはやり過ごした。冬の夜の寒空とは云へ、流石歳の暮 だけあって、彼れか此れかと乘客の顏を見定めるのが紛らはしいくらゐ、電車はどれも一杯である。背の 高い彼の女は、普通の女より一二寸抽んでて居るのだが、それでも此の群衆の中からいち早く見出すのに 、こ、も は可なりの注意と努力とを要する。幾臺も幾臺も續いて來る電車の内部は、電燈が暖かさうに灯って、多 勢の乘客の顏は皆赤く輝いて居る。幸吉には共れ等の見知らぬ入々が、悉く彼の女の到着を豫報する前驅 となって、長い長い行列を作って居るやうに想像された。立派なオバ 1 コ 1 トに體を包んで、いかめしい そばだ 八字鬚を生やした紳士も、粹な銀杏返しに乘り合ひの入目を欹て、居る。それ者らしい女も、官吏も商人 も夫人も令孃も、列べて車臺に充ち溢れた乘客の群は、彼の女の出現を莊嚴にし、禪秘にする爲めの行列 の一員のやうに見える。幸吉は彼等に對して一種の Pride を感ずる事を禁じ得ない。彼等は几べて愚直 に、几べて忠實に、さうして悉く二人の芝居の下廻りとなって働いて居るかに考へられる。平生見馴れて 184

7. 谷崎潤一郎全集 第2巻

様子さへ見えた。さう云ふ場合、實際の腕カから云へば、女は却って男より優れて居るのに、又相手が外 の人間であったなら容赦なく抵抗するのが常であるのに、英子はひどく齋藤を恐ろしがツて欲するままに 1 成敗を受けて居た。輝雄は、若し自分が齋藤の境遇にあって、英子程の女を戀して居るとすれば、とても あんな鷹揚な體面を保って行く事は出來なからうと思ッた。容貌と云ひ、姿態と云ひ、乃至人を惹き付け る魅力ある性質と云ひ、容易に得易からぬ婦人であるにも拘らず、齋藤はそれを一向感謝して居る風のな いのみか、寧ろ全然強者の態度を示して居た。それが輝雄には何となく憎らしかった。 よそめ 英子の齋藤に對する心持ちと云ふものも、餘所眼からは殆んど未知數であった。一日のうち、彼の女は齋 藤に接して居る時間より、外の友達と遊ぶ方が餘計なくらゐで、始終子供のやうにたわいなく浮かれて居 一こ時を過ごす。朝は寢坊の齋藤が晝近く迄眠って居るのに彼の女 た。夜は多勢集めて十二時過ぎまで雜談。 は五時頃から飛び起きて濱へ出掛ける。如何程お互ひに嫉妬を感ぜぬとは云へ、また兩親の許可を得ない で勝手に成立した間柄とは云へ、齋藤以外の男に對する開放的な英子の態度は、あまり無頓着過ぎるやう に考へられた。彼の女は鎖を弛められた飼犬の如く、共の持ち主の手元から遠く離れて、時としては其の 鎖を危く斷ち切らうとしてまで、妄りに人と馴染み戯れる懸念があッた。しかし、其の懸念は第三者たる 輝雄が感ずるだけであッて、彼等自身は二入を繋ぐ鎖のカの充分堅固なる事を信じて、各々自由の行動を 取ッて居るらしかッた。いづれにせよ、彼等の間には新婚旅行者のやうな初々しさも、駈落者のやうなし んみりした味はひも、全く見出す事は出來なかッた。一體英子のやうな活漫な勝莱な女に、しんみりとし た情調を要求するのが無理なのであらう。彼の女は齋藤に對して心中深く許す所はありながら、敢て負け くさり

8. 谷崎潤一郎全集 第2巻

勿 殺 て 出 よ 彳悳 藝 が 月夏 を 間 と 不 己 く の も 方 丘 者 糸内 最 ど の 女 な を く ら な 法 德 っ 知 家こ郎 る 得 れ も 皿 て に 兵 金 で 新 か 出 し 性 く せ を と て て か て 淸 ら 賣 徳 衞 お 唱 助 を ら も お て た へ 兵 次 が し 節 艶 る 彼 融す ム を カゝ た の ま 操 女 通すら つ は も に 復 實 瑕享 は を 不呈 さ は は の で が て 逃 し さ 勿 淸 讐 際 點 す つ な ゐ の せ 體 る 自 次 げ 新 し た け く に は 不ロ 。分 い 局 て な て あ の た に て に 我 出 の 貰 流 考 い 對 は 證 斷 で と た や き り 體 し ら ら を し か し つ の キ斤 て 名 っ め な と て 生 . て ら か ふ て て い 事 見 っ 見 を 藝 と な が は ね よ 居 恣に 町 者 け け る て を と 彼 番 れ れ そ る まい と ひ て 出 女 ば ど な 女 己 は を の と 値 寧 歸 れ を 引 は な さ の に で 共 淸 ら に 旦カ し り と オ t. ろ ム 鬩 な 後 の 此 ふ 己 さ け オこ ム て て 女 時 く ー内 方 の は く る し ふ れ や に な 事 で 丸 っ ま か か な 々 0 ) お っ 情 度 は 抱 ら 人 ら で ば も つ な - つ 望 積 あ 否 た て 堅 を た を り なく イ吏 を は ん り る で で に の の っ 角 も 藝 吹 死 女 身 く で だ / レ ム 若 應 者 房 て 分 き ひ も れ カゝ さ 捜 込 込 だ は ま を い ら し か で に ん 男 せ 迎 新 も な し の ら て 家 く 獨 助 だ の な - 見 の 足 思、と が ら ら た り さ て っ 趣とど 主を た 草 を 貰 し と ゐ で で 暮 で 日靑は 葉 穢ひ でしび が さ 0 あ ら あ ら も の さ た ふ る 自 し 蔭 し 本 事 る る っ で る て と 解 自 行 聞 は と そ ら の き 彳悳、 淸 由 體 ら く 果 兵德 と 矢日 次 で な を な と つ て も 含 ま 彼 っ 衞 兵 っ 此 い 境 カゝ あ 衞 未 は で 女 れ た め れ に 漕 ば と そ は そ だ 案 れ 置 ぎ れ ら は お て が の 仲 け 何 ま 艶 外 者 話 を 下 っ カゝ の 等 德 谷た稼カ滿 救 手 田丁 し は は れ け 易す業 く の 玉 つ に ヾ」 0 したで たま 540

9. 谷崎潤一郎全集 第2巻

・ : 後生だから此の後酒を止めて下さい、僕はあなたをいっ迄も でせう。どんなに悲しかったでせう。 立派な、完全な、えらい女だと思って居たいんです。酒さ ~ 止めて下されば、あなたは僕に對してどんな にでもえらくなれます。神にも、惡匱にも、暴君にもなれます。あなたと別れると云ふ考 ~ が、僕には既 に死ぬよりも悲しい事になって了ったんです。」 幸吉は相手の醉を戒めながら、自分も非常に醉って居る事を意識した。彼は共の日の午前中から飮み績け て、紅葉館でも腹立ち紛れに大分多量のやけ酒を呷った。其れが今になって一時に發して來たのである。 アルコ 1 ルの力は知らず識らず彼の心を不思議な状態に誘惑して行った。女の行動を批難する筈であった 彼は、長い間喋舌って居るうちに、いっしか口を極めて相手を讃美して居た。彼は己れの弱點をさらけ出 して、彼の女に對する僞りのない自分の感情を、正直に、寧ろ誇張的に懺悔し始めた。傲慢な罪人が良心 の苛責に堪 ~ かねて今しも神前に平伏する如く、彼は珍しくも女の膝下に跪いて、始めて哀れな、打ち負 けた、歎願的な態度を示した。 「三千子さん、僕は今迄あなたに向って強い事ばかり云って居ました。『強者』の假面を被って居ました。 しかしあれはみんなウソです。負け惜しみです。其の實あなたにどんな事をされても、僕は怒る事もどう する事も出來やしないんです。ほんたうの弱者なんです、だから僕を可哀さうだと思って下さい ! 」 迄 る此の言葉と共に、彼は今日までの心の苦痛が快く流れ去るやうに感じた。此の言葉と共に、二人の地位は れ て今日から轉倒して、彼は自分に相當する弱者の椅子に就く事を覺悟した。彼は小ひさな意地を捨て、眞實 の哀れな姿のま、に、自分の命を女の掌中に委ねようとするのであった。彼は俄かに安心した。同時に女 243

10. 谷崎潤一郎全集 第2巻

至底其の快樂 しいかを充分に實驗して居ないのである。一日一それを心行くまで實驗する事が出來たなら、」 を抛つ事は出來まい。世の中にネロの境遇を羨む人は甚だ稀であるが、それは彼の境遇を經驗しないから の事で、一と度び共れを經驗する事が出來たなら、多くの人はネロと同様な歡樂に沈湎したくなるであら う。然るに杉村の擧動は、だんだん彼の女を此の境遇に誘惑して行くかと思はれる。彼の女は今迄知らな かった新しい歡樂の境地に向って、漸く眼を開かうとして居る。彼の女はやがて、戀人を作る事を止めて、 さうなった時、杉村と云ふ裝飾品は、 忠實な奴隷を思ふがまゝに使役する興味を專一にするかも知れない。 一轉して缺く可からざる日用品となるのである。彼の女は杉村を弄ばずには、一日も生活する事が出來な くなるのである。斯くして遂に、此の女王と奴隷とはシッカリ結び着いて、二入とも几人の夢想し難い幸 幅に生きるであらう。 杉村は果してそんな所まで考へて居ないのかも知れぬ。彼は案外何等のプロットをも持たない、單純な俗 悪な、價値のない拊間であるかも知れぬ。そんな恐ろしい境地を作り出す勇氣や情熱は有りさうにもない。 けれども若し幸吉が杉村であったら、始めから豫期しないまでも、しまひには必ず其處へ到達するに違び なからう。さう思ふと幸吉はやつばり不安であった。 三十分ばかり按摩させて後、彼の女は漸く杉村を免したが、再びコップを手に把って、 る 「さあ、もう少しお酌をして頂戴。」 れ てと、云った。さうして、勢よく績けさまに二三杯傾けた。彼の女の態度はますます粗暴に露骨になった。 「三千子さん、そんなに醉ってい、んですか。」 235