も彼の女の兩親は馬鹿に杉村が気に入って居た。彼の女の家と杉村の家とは、舊くから關係があって、お 互ひに往復して居たのだと云ふ。今から考へると、杉村は始めから彼の女と結婚したい野心があって、一 生懸命で彼の女の兩親に取り入ったものらしい。一日、彼の女は突然兩親から杉村と結婚す可き相談を受 けた。無論彼の女はキツ。ハリとはね付けた。杉村は一と方ならず失望して、さまん \ に彼の女や彼の女の 兩親を口説いた。杉村の母もわざ / 、九州の國許から上京して、懇々と賴んだ。人の好い彼の女の兩親は、 杉村母子の熱心な言葉に心を動かし、到底其れを拒絶するだけの勇莱がなかった。今度は兩親が共々彼の のつび 女に懇願した。杉村と杉村の母と、自分の兩親と、彼の女は三方から拜み倒されて、退引きならぬ ( メに 陷り、到頭結婚を餘儀なくされた。 此れが彼の女の云ふ所である。 「拜み倒されて往生するやうなあなたでもなささうだが、 かう云って、幸吉は詰った。 「その時分は未だ子供だったんですもの。」 と、彼の女は辯解した。ついでに彼の女は杉村の自殺説も否認した。當時、杉村はあと半年ばかりで醫學 士になるところであった。大學を卒業してから本式に結婚するつもりで、二人は暫く千駄木の借家に同棲 して居た。そのうち、杉村は腎臟病に罹って、二た月ばかりの間に死んで了ったのださうである。 「どうもいろいろ嘘があるらしい。僕にはあなたが共の男を嫌って居たとは思はれない。隱さずに本當の 事を云ったらい、、ちゃありませんか。」 幸吉にかう云はれても、彼の女はやつばり共れが事實であると主張した。さうして、共れ以上の事を一つ 224
あらうと、幸吉は思った。 「此の戀が續くか續かないか。それは聞くだけ野暮な話だ。お互びに自分の心を信用する事は出來ないの だから、未來の事は考へない方がい、でせう。」 女の眼は斯う云ふ意味を語って居た。彼の女は寧ろ、其の意味を男が推量してくれるやうに望むで居るら しかった。 幸吉は此れまでの女に對して、いかにも移り気な、浮薄な態度を示して居た。彼は不熱心な、無精な飽き つぼい人間であると見られて居た。けれども彼は、決して自分の此の態度に滿足する者ではない。相應な 相手さへあれば、自分はいつまでも極端まで進む事の出來る性分だと信じて居る。共の性分がどうやら今 度の女を得て、充分に發展しさうになって居る。彼は是非とも、女の魂に桎梏を篏めて、自分の手元から 一歩も動き出さぬゃうに努めなければならない。然る後、殘る所なく歡樂の美酒に飽滿して何等の未練も さかな なくなったならば、始めて魚の骨を捨つるが如く女を捨てよう。 若し、自分が女を捨てるより先に、女が自分を捨て、了ったならばどうであらうか。その場合には、幸吉 の性質としてますます執拗に女を追ひかけ、、ゝ 力なる侮辱にも甘んじて戀人の袂を放すまいと焦るであら う。外の女の愛情よりも、戀入の侮辱の方に、まだしも井味を感ずるであらう。哀れな幸吉は、共の時完 全に女の奴隷となってしまふ。さうして、女がどうしても男の手を振り切って、之に近づく事を厭ふやう になったなら、彼は死ぬより外に途がないのである。 女を慕うて死ぬと云ふ事は、いろいろの死に方のうちで最も樂しい死に方であるから、彼は寧ろ、彼の女 200
「自分がみんな悪いのだ。自分が勝手に彼の女を強者にさせて、揚句の果てに捨てられて了ったのだ。」 と、幸吉は腹の中で呟いた。 それでも彼は彼の女を憎む事が出來なかった。やつばり彼の女の奴隷となって、慘忍な、奸譎な女王の足 下に自殺をして了ひたかった。 今一と目、彼は彼の女に會ひたいと思った。さうして再三再四端書を出した。 「あたしは事に依ると杉村と結婚するやうになるかも知れません。いづれ身の上が極まってから、ゆっく りお目にか、りませうね。」 こんな返事が、恰も五本目の端書に對して報いられた。 彼はいよいよ死なうと決心した。彼の女の爲めに破滅する男が、一人でも餘計あればある程、ますます彼 の女の歴史を飾る所以である。自分は最も彼の女の爲めに花々しい犧牲となって死んで見せよう、自分の 死に依って、彼の女の美を一段も二段も引き立て、やらう、それが彼の女に一番忠實な、一番柔順な、自 幸吉はさう考へた。 分の取る可き最後である。 彼の女は大概狂言の變り目毎に、帝劇へ行くのが習慣となって居た。幸吉は其の折を狙って、劇場の廊下 こめかみ に彼の女を擁した上、いきなりピストルを自分の蟀谷にあてゝづどん ! と一發、花やかな群衆に取り卷か る れながら、彼の女の眼前に斃れて見せたかった。 れ て「それにしても大丈夫死ねるだらうか ? 死ねる死ねる、死ねるに違ひない。」と、彼は獨語した。 ほかほかした、うら、かな天気が毎日續いた。四月の上旬は眠いやうに暖かであった。上野淺草の櫻が綻 285
激しくないまでも、恐らく平生から斯う云ふ風な習慣にしつけたものと推せられる。さうして、少くとも 彼の女の方では、此の靑年の親切を、道德的觀念から割り出された行爲とは認めて居ないらしい。多分彼 の女の解釋は正當であるかも知れないが、 彼の女が幸吉の前で、杉村を使役して見せるのは、幸吉に嫉妬を煽り立てる計略ではなささうに見えた。 なまぬる 將來は知らず、今日の樣子では、傲漫な彼の女がよもや此のやうな生温い靑年と戀に落ちょうとは思はれ ない。彼の女は此の靑年に戀ひするよりも、寧ろ此の靑年を傀儡の如く操る事に餘計興味を感じて居る。 なっとく 彼の女の目的は、此の靑年の痴態を介して、自分の魔力のいかに偉大なるかを、幸吉に納得させようとす るのであるらしい。 「どうぞあなたもあたしの價値を認めて下さい。價値を認めて、それに相當する愛情を持って下さい。」 かう云ふ意味を、男に酌み取って貰ひたいのである。 彼の女の此の目的は、或る程度まで成功したやうであった。幸吉の抱いて居た憎惡はだんだんと別な感情 たきゞ に變化して行った。女の美しさは杉村と云ふ薪を得てから、彼の眼に新しく鮮かに燃え上った。毒々しい、 強い油繪具で描いたやうに燃え上った。杉村の擧動は彼の女の價値をエムフアサイズすると共に、間接に 幸吉自身の價値をもエムフアサイズして居た。つい五六分前の女の醜しさと、現在の杉村の哀れさとを對 る照して見て、幸吉は自分自身がいかに強者の地位にあるかを自覺せずには居られなかった。彼の女は杉村 てを傀儡にしてますます自分の美を發揮しつ、、實は男に媚びて居るのであった。此の媚び方は、いゝに 捨かたくな 頑な男の心をも動かすだけの力があった。彼の女の醉が激しくなればなる程、彼の女の我が儘が突飛に 233
まうと試みた。勿論彼の女が幸吉の理想に從って、恐ろしい變化を完全に遂行するまでには、長い時日を 要するらしかった。幸吉は全く杉村と同様な卑屈な態度で、甘味ある毒酒の醉の少しづ、五體に浸潤する へつら が日く、陰險に、徐々に、女の心に諂って行った。現代の人間の慾望を束縛して居るいろいろの桎梏、 習慣や、常識や、禮法や、儀式や、窮屈な社會の制約を、彼の女は次第に二人の世界から剥ぎ取って 行った。少くとも幸吉に對する時、漸く彼の女は柔弱な怯懦な女性の類型から遠ざかって自然のま、の、 雄大な素朴な、原始的性格を閃めかすやうになった。幸吉が女らしくなればなる程、彼の女はだんだん非 女性的になった。 二人は相互の間に絶えず現はれる變化と影響を樂みつ、、殆んど毎日顏を合はせたが、丁度正月の半ばご ろ、どう云ふ譯か彼の女は二三日訪ねて來なかった。其の時分、男は一日も彼の女を見ずには暮らせない 程になって居た。すると、三日目の夜遲く、彼は戀人の手紙を受け取った。 手紙には意外な事實がした、めてあった。彼の女は此の頃、兩親から杉村と結婚す可く迫られて居る。杉 村も共の積りで居る。此れにはさまる、の込み入った事情があって、一と通りの手段では彼の女も容易に 拒絶する事が出來ない。第一、兩親は杉村の兄の気の毒な最後に對して、非常な同情を持って居る。何と かして杉村家に謝さなければならないと思って居る。共の上彼の女の兄はエ學士であるから、父は是非と も適當な養子を彼の女に迎へて、病院の經營を委托したいと望んで居る。ところが彼の女の過去に暗い經 歴がある事と、彼の女の性質が我が儘放題である事と、彼の女の品行の不評判な事と、いろ / 、の缺點に 想到して、父は到底立派な養子を迎へる事が出來まいと悲觀して居た。かう云ふ氣兼ねやら、必要やらが 246
女には一人も出遇った事がなかった。 ( たま / —出遇ふ事があっても、さう云ふ女に限って、到底戀の舞 臺に登場する事の出來ない、非藝術的な婦人ばかりであった。 ) 結局、彼は自分の夢にあて篏まったイリ ュウジョンを與へてくれる女があれば、共れで滿足するやうになった。彼は彼の女を得てから、成る可く 相手の頭腦の缺點を見ないやうにして、次第々々に自分の幻覺を築き上げて行った。こ、で彼の女を捨て 、了ふのは、創作の原稿を半途に燒いて了ふのと同様である。而も原稿は書き直す事が出來るけれど、彼 さうして、彼の女に匹敵する程の美貌と肉體とを持った女は、容易に二度と彼 の女は再び歸って來ない。 の手へ落ちて來ない。やつばり彼は今日の彼の女を戒めて、落した假面を取り囘すやうに教育するより外 はないのである。不愉快な今宵の印象を一日も早く忘れ去る事が出來るやうに、完全に男の眼を欺く事が ・ : 幸吉は一方に 出來るやうに、其の假面をしてますます光輝を發揚させなければならないのである。 ロ、此れだけの事を秩序立て、計劃し 激しい憤怒を抱きながら、恰も商人が冷靜な利害の打算を試みる汝く それにしても、心懸りなのは、先刻の彼の女の輕々しい電話の掛け方であった。どうしても家族の人に様 子を感付かれたに違ひない ! 惡くすると、取り返しの付かない事になったかも知れぬ。彼の女に會った ら、幸吉は第一に此の事實から詰問して、向後絶對に酒を止めさせなければならない。 る彼の俥が例の家の門前に停まると、彼の女は尾行して來たやうに直ぐその後から這入って來た。二人は玄 關で一緖になって、坐敷へ通った。 て 「さッきはあたしが惡かったから、なんにも仰っしやらないで下さいな。怒られるのは解って居たけれど、 こ 0 かへ 241
幸吉は共の後いろいろの方面から、所謂「面白くない事」の眞相を詮索して見たが、どうも ( ッキリと判 らなかった。たヾ、彼の女が嘗て半年ばかり、或る男。ーーーー , 杉村と云ふ醫科大學生と同棲して居た事實と、 其の男はすでに病死して了った事と、此れだけが朧ろげながら確かめられた。其れ以上の詳細は人々に依 ってさまる、こ し傳へられて居た。或る人は、彼の女が或る女の戀人を奪ったのだと云った。或る人は、彼 の女は評判の色に欺かれて弄ばれたのだと云った。共の男の死は病死でなくって、自殺したのだと云ふ 説もあった。男の方が却って彼の女にだまされたのだと云ふ説もあった。中には共の男が病気で死ぬ時、 彼の女の名前を呼び續けにして、 Now, I shall die with her ・ name on my 一ぎ s. ) と、流暢な英語で譫語を云ひながら息を引き取ったなどと云ふ、甚だ信を置けない風説もあった。其の外、 彼の女は兩親に結婚を強ひられて、いやいや同棲したのだとも云ふし、兩親の意志に背いて二人で勝手に 逐電したのだとも云ふし、法律上の結婚はしなかったとも云ふし、殆んど千差萬別であった。 要するに、彼の女の過去には、何か非常な不面目な事か、或は不道德な事かヾ潜んで居るらしかった。彼 の女が幸吉に心を寄せるやうになった時、幸吉は第一に此の事件を質問した。すると彼の女は、 「それを聞いて何になさるの。もう死んだ人の事なんか、どうでもい、ぢゃありませんか。」 る と云った。けれども幸吉は承知しなかった。たとへ過去の事實にせよ、自分に對して秘密を守るのは怪し れ てからぬと云って、執拗く追求した。 彼の女の答は至極簡短で、又非常に嘘らしかった。彼の女は決して杉村を戀ひしては居なかった。けれど ディティル 223
今夜お目に懸れないと捨てられて了ふやうな気がしたから、 彼の女の醉はもうさめか、って居るらしかった。 「捨て、も捨てないでも、二入は今に會へなくなりますよ。あんなにうるさく電話を掛ければ、大概内中 へ感付かれて了ひますからね。」 「うそよ、内から電話を掛けたんぢゃないのよ。實はあ、云って、あなたを威嚇かして見たの。」 幸吉はほッと安心させられたが、忽ち又疑念が起った。彼の女の言葉は何處までほんたうだかアテになら ぬ。少くとも初めの一二囘は、内から掛けたのに相違あるまい。彼の女は男の狼狽と憤怒とを見て取って、 早くもこんな狡猾な遁辭を思ひ付いたのであらう。 「三千子さん、僕にはあなたがほんたうにえらい女なのか、或は下らない女なのか、未だによく解りませ んよ。けれどもあなたは、自分をえらく見せる事が上手な入です。僕にはあなたのつまらない嘘が、一々 意味ありげに聞えます。やさしい言葉がみんな皮肉のやうに取れます。下手に出られ、ば出られる程、却 って此方が不安を感じます。だからやつばりあなたはえらい女だと思って居る。たとへどんなに器量がよ くっても、どんな經歴を持って居ても、あなたが普通の女に復って了ったら、僕の戀は消えて了ふかも知 れません。 「そんならあたしが、もう普通の女に復って了ったと仰っしやるんですか。」 「少くとも酒に醉って居る間は、あなたはたゞの女です。卑しい、無智な、世間普通の女です。僕はさッ き、もうあなたとは今日ぎり別れて了はなければならないのかと思ひました。どんなに僕は口惜しかった かへ したて うちちゅう 242
る れ て口 , 、冫 日中を通る汽船の笛が、ばうッと淋しい音を立てゝ居る。木嵐はますます強くなったと見えて、芝浦の 理立地の方から、板戸を鳴らして吹きつけて來る。をりをり、靜かな座敷を地震のやうに搖がせて、門前 に捨てられた方が餘計幸であるかも知れない。けれども、目下の幸吉はそれ程死を急ぐ氣にはなれなか った。樂しい「死」よりも、先づ樂しい「生」を擇びたかった。そこで彼は全力を盡して彼の女を征服す る必要に迫られた。要するに、早く捨てた方が勝ちを制するのである。彼は當分、自分の方から女を捨て る勇莱がないとしたら、せめて女に捨てられないだけの用心をしなければならない。 彼の女の美貌に戀する男は幾人もあらう、反對に幸吉を戀する女は彼の女の外に一人もない。 其れ が幸吉の非常な弱點であった。さう思ふと、彼は堪へ難い嫉妬の念に驅られた。而も、共の嫉妬を表へ現 せば、却って女に乘ぜられる事を恐れて、彼は飽く迄も平靜を裝った。自負心の強い、度量の廣い男の如 く見せかけて居た。 女は又、些細な事にも嫉妬を起して、怒ったり口惜しがったりした。男が平靜にすればする程、彼の女は いよいよ嫉妬深かった。けれども共れは眞の嫉妬でなくして、男に嫉妬を起させる方便のやうに感ぜられ 「あたしは此れほど嫉妬を焼くのに、どうしてあなたは燒かないのです。」 彼の女の行動の裏には、斯う云ふ謎が含まれて居た。 こ 0 やきもち 201
なればなる程、男はいよいよ興を催した。 そんなら幸吉は全く嫉妬を感じて居ないかと云ふに、決してさうは行かなかった。自分の地位は杉村に對為 して、充分安心が出來るであらうか ? 現在は大丈夫としても、此の後長く杉村を見下す事が出來るであ よもやと思ひながら、ひょ らうか ? 威張って居る者が卑屈な者より強いと云ふ事は、斷言は出來ない。 ッとしたら此の靑年の親切が、幸吉の傲慢に打ち克っ時がありはせぬかと危ぶまれる。目下のところ、此 の靑年と戀に落ちょうとは、彼の女自身も想像しない事であらう。しかし、想像しないだけに、彼の女も 幸吉も油斷し切って居るだけに、その隙を狙って杉村はあっかましく、せゝこましく、少しづ、女の心に 喰ひ入って行くであらう。彼の女は今、明らかに杉村を輕蔑して居る。けれどもそれは冷淡や憎惡から來 る輕蔑ではない。寧ろ彼の女は杉村を自己の裝飾品として愛用して居る。彼を傀儡の如く弄ぶ事に異常な 得意と誇とを感じて居る。彼の女のやうな虚榮心の強い、浮気な、悧巧振った女には、此の裝飾品は可な り必要である。杉村よりも更に柔順な、更に卑屈な、更に愛す可き靑年が出て來ない限り、彼の女は容易 に此の裝飾品を捨てる事が出來ない。幸吉といふ戀人を捨て、、第二、第三の戀人に移って行っても、彼 の女は依然此の裝飾品を愛用する。斯かる意味に於いて、杉村の地位は幸吉よりも遙かに安全である。そ のうちに此の靑年の諂諛の力は、知らず識らず彼の女の魂に腐蝕して行く。彼の女は次第々々に此の靑年 を忘れる事が出來なくなって、杉村を極端に弄ぶのが、「戀愛」よりも何よりも愉快な仕事となるか知れ ない。「戀愛の快樂と暴君の快樂と、孰れか一つを撰べ。」と云はれた場合に、幸吉は自分の性癖から判斷 して、彼の女が猶豫なく後者を撰ぶだらうと想像して居る。現在の彼の女は、まだ暴君の境遇がどれ程樂