春雄 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第2巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第2巻

春雄それちゃお前が内中で一番好きな人は誰だい ? 千代子さあ、誰でせう ? お祖母様か知ら、それともお父様か知ら。 靜子あのね、あたしの一番好きなのはお祖母様 ! 春雄それから ? ばあや 靜子それから乳母 ! 千代子それから ? おんな 靜子それから、お父様と叔母様と同じぐらゐ好きなの。 どなた 千代子それから誰方 ? 靜子それからお母様。 春雄お前はお父様よりお母様の方が恐いんだな。 靜子だって、お母様は直きにあたしを叱るんですもの。 春雄何と云って叱るんだい ? 靜子「うるさいから、彼方へお出で」ッて仰っしやるの。 春雄よし、よし、今にお母様が歸って來たら、云ひ附けてやるぞ。 邊千代子謔よ、靜子さん。お父樣は謔つきよ。 ( 春雄の膝より靜子を抱き取る ) のお好きなら、此れからちょい / \ 叔母さんの處へ遊びに來て頂戴な。 靜子叔母さんのお内は何處なの ? ばあさま あなたそんなに叔母様が 311

2. 谷崎潤一郎全集 第2巻

春雄きっと二階だよ。靜子の聲が聞えるぜ。 梅子あの子はまだ寢ないのかしら。もう九時になるのに。 春雄それにしても、千代子が居ないやうだ。又何處かへ行ったのかな。 梅子今時分獨りで夜歩きをするなんて、千代子さんの方が餘程怪しいわ。 此の時廊下に足音が聞える。 梅子 ・ : あ、千代子さんだ。あたし二階へ行ってるわ。 梅子、上手の障子を開けて去る。 第二節 下手より千代子登場。 千代子兄さん、嫂さんはどちら。 春雄今二階へ行った。お前は今迄何處に居たんオ てきりつ 千代子 ( 春雄の前に彳立したま、話し績ける ) あれから又散歩に出掛けましたの。 都合がありますから、今夜東京へ歸りますわ。 邊春雄なぜ。 の千代子でも、考へた事がありますから。 春雄だって、もう遲いぢゃないか。 ミ ) 0 兄さん、あたし少ウし 347

3. 谷崎潤一郎全集 第2巻

春雄今に本嘗にして見せるから。 吉川どれ、吾輩も宿屋へ歸って、金儲けの夢でも見るか。 春雄まだい、だらう。漸く八時だぜ。 いや、明日の朝早くお訪ねするよ。それぢや失敬。 春雄さうか、そんなら失敬。 やす 梅子左様なら、お寢みなさい。 吉川、下手へ去る。 第三節 梅子あたしたちも歸りませうか。 ( 立たうとする ) 春雄まあもう少し此處に居ておくれ。實はお前に話があるんだ。 ・ ( 気遣はしげに再び坐る ) 梅子 春雄話と云ふと大袈裟だが、ほんたうに下らない事なんだ。全く取るに足らない事なんだからお前氣持 ちを惡くしちゃいけないぜ。此れだけは前以て賴んで置く。 梅子一體何の話なの。 海 の春雄外でもないんだが、此の頃己は或る人からをかしな忠告を受けたんだ。 ( 一言一句戦々兢々として、成る 可く妻を怒らせまいとする ) 吉川 341

4. 谷崎潤一郎全集 第2巻

春雄それで二人はどんな様子だったい。何か話をして居たかい 千代子顏を見られちゃまづいから、遠くの方から見屆けて歸って來たわ。 春雄そんなら話にならないぢゃないか。吉川だって東京に用のある男だもの、偶然に停車場へ落ち合っ たのかも知れやしない。 千代子偶然に落ち合ったのか、約東をして置いたのか、一目見れば直ぐに解ってよ。 春雄どう云ふ風に解るんだね。色眼鏡を掛けて見れば、何だって怪しく思はれるからな。 千代子い 、え、たしかにさうらしいの。私の云ふ事が謔だか本嘗だか、今に嫂さんがお歸りになればき っと解るわ。 若しも嫂さんに疚しい所がなかったら、昨夜の事をお隱しになる筈はないけれど、 あたしやきっとお歸りになっても默っていらッしやるだらうと思ふわ。 春雄 千代子萬一隱し立てをなさるやうなら、兄さんだって疑はずには居られないでせうね。 春雄 千代子ねえ兄さん、さうちゃなくって ? それでもやつばり證據がなければ駄目だと仰っしやるの ? 春雄 千代子いよ / \ さうなった場合に、あたしは兄さんの決心を聞かして頂きたいんですの。 春雄まあ待ってくれ。決心など、さう譯もなく云ひ出されちゃ、僕も迷惑だ。成る程先からのお前の意 見は解って居るが、此方の事情も少しは考へて貰ひたい。兎に角、誰が何と云はうとも、僕は梅子を信 やま さっき 322

5. 谷崎潤一郎全集 第2巻

春雄 ( 少しく元気を恢復する ) うん、そんなでもなかった。どうだい、い 、家があったかい。 梅子 ( 息を切らせながら、忙しさうに、早口に語る ) 溜池の近所に一軒い、、家が見附かったの。二階が八疊に四 疊半で、下は玄關が三疊、六疊二た間に四疊半の女中部屋が附いて居て、風呂場もあるし、便所も綺麗 だし、申分がないと思ふわ。 春雄家賃はいくらだ。 梅子二十五圓。それに敷金が三つ。建具もしつかりして居るし、押人は澤山あるし、何より有難いのは、 間取りの具合が明るくって馬鹿にい、んですの。あたし薄暗い家が大嫌ひだから。 春雄借りる事に極めて來たのかい。 にさんちうち 梅子二三日中に挨拶するって、さう云って來たわ。 春雄なぜ ? 極めて來たらばよかったちゃないか。 梅子だけど一遍あなたに見せてからと思ったの。 春雄己はどうでもい、んだから、お前さへ好ければ、極めて來た方がよかったのになあ。そんない、家 は、グヅグヅして居るとすぐに塞って了ふぜ。 あした 梅子だからあなた、明日お天気が好かったら、ちょいと行って見て來て下さいな。 ・ ( 何か他の事を考へ出したやうに、生返事する ) 春雄うむ、 梅子ね、明日の朝早くお起きになれば、明るい中に行って來られるわ。 春雄さうだ、明日千代子が東京へ歸ると云ふから、共の時一赭に行くとしよう。なあに、遲くなったら ふさが 326

6. 谷崎潤一郎全集 第2巻

都合で赤坂へ泊めて貰ふさ。 梅子それちゃ、さうして下さいな。 ( 上手へ來て鏡臺の前に坐り、袋を臺の上に置く。抽出しから櫛を取り出して、庇髪 の鬢を直し始める ) へ 1 え、千代子さんは明日歸るんですって ? 春雄うん、明日はどうしても歸らなければならないさうだ。 梅子さうですか、嫌ひな人は早く居なくなった方がさつばりするわ。 春雄もう歸るんだから、あんまりあて付けない方がい、さ。 梅子あゝそれからね、ゆうべ赤坂へ泊ったら、父がいろ / \ あなたの事を心配してね、來月の半ば頃に は是非任命が下るやうにして置いたから、御安心なさいって。 春雄それは有り難う。 梅子さう云へば、昨夜停車場で吉川さんに遇ひましたつけ。 春雄ふん。 どちら 梅子「何方へお出掛けです」ッて聞いたら、頭を掻きノ \ 「ちょいと東京の隱れ家まで」って、變にに や / \ 笑って居るのよ。 春雄彼奴、隱れ家は方々にあるからな。 邊梅子ところがをかしいちゃありませんか。だん / \ 問ひ糺して見ると、共の隱れ家と云ふのが、赤坂の の内の近所なのよ。 やっこ 春雄あは、、、、 ( 何となく不自然な笑ひ方をする ) 奴さん、飛んだ所を見附かったもんだ。 327

7. 谷崎潤一郎全集 第2巻

春雄いやお白粉は眞っ平だ。あとでお母さんに着けてやるがい、。 雪子春雄さん、そんなに鏡ばかり視詰めて居てどうするのさ。此の頃は誰だってあなたを病人だと思ふ 者はありませんよ。第一顏に赤味がさして來たからね。 春雄しかし矢っ張り日に一度づ、鏡を見ないと、どうも安心しませんよ。それに何ですな、かう肉が附 いて、血色が好くなると、鏡に向っても我ながら非常に愉快です。お蔭様で、今度こそはすっかり丈夫 になったらしい 雪子丈夫になってくれなければ困りますよ。 全體あなたは神經病みだから、それで尚更病莱に取 っ り憑かれるんだね。毎日々々鏡を視詰めて、自分の血色を気にする人があるもんですか。 春雄なあに、別に莱にして居る譯ぢゃありません。一體僕は昔から鏡を見るのが好きなんです。退屈す ると、鏡を見て居るのが一番面白うござんす。 雪子妙なお父様だねえ靜ちゃん。 しゃれ 靜子お父さんのお酒落やあい 春雄何だと、お父さんのことをお酒落だと云ったな。こいつめ、こいつめ。 ( と云ひながら、靜子を兩手に抱 き上げて立つ。靜子から / 、、と樂しげに笑ふ ) 邊雪子 ( 綠側の寢臺に腰かけて戸外を眺める ) ほんとに今日は好いお天氣だ。春雄さん、ちっと子供を連れて散歩 のでもしたらい、ぢゃないか。その内に梅子も歸って來るだらう。 春雄 ( デスクの前の椅子に腰掛け、膝の上に靜子を載せて搖す振って居る ) さあ、まだちょいと歸りますまい。今日 305

8. 谷崎潤一郎全集 第2巻

千代子まだ九時ですから、大丈夫よ。 それでね兄さん、晝間あなたと喧嘩をしましたけれど、此 のま、別れるのは気持ちが惡いから、仲直りをして下さいな。 春雄僕の方ぢや何とも思って居ないんだから、お前がさう云ってくれ、ば結構だよ。 さっき 千代子何卒兄さん、先の事は堪忍して下さ 、。ほんとにあたしが惡かったわ。あれはすっかり取り消し にして戴くわ。 春雄どうして。 いまどき 千代子あたしは本當に馬鹿な人間だったわ。今時あたし程馬鹿な人間は、世界中にないと思ったわ。 春雄何だかをかしいな。僕にはさつばり判らんよ。 千代子實は白状しますけれど、あたしは今、松林の中であなたと嫂さんのお話をすっかり聽いて了びま したのよ。 春雄お前あれを聽いて居たのか。 千代子そんなに驚かなくってもよござんすよ。あたしはあれを聽いて、ほんとに感心しましたわ。かり にも兄さんを不仕合はせだの、卑怯だのと云った事を、つくみ \ 後悔しましたわ。 春雄聽かれたら仕様がないが、 あれは全く僕の眞情なのだ。どうか惡く思はないでくれ。 千代子惡く思ふ理由がないぢゃありませんか。妹の癖に今迄兄さんの眞情をお察しする事が出來なかっ たのが、惡いのよ。兄さんはほんとに仕合はせな方だわ。兄さん程幸疆な方はめったにないわ。 春雄さうさ、お前の云ふ通りだよ。 348

9. 谷崎潤一郎全集 第2巻

しも飽く迄主張するなら、レッキとした證據を出せ」ッて、嚴しく跳ね付けて了ったんだ。さうすると 先方ちゃ負けない気になって、「二三日中に必ず證據を撮んで見せる」ッて云ひ出したのさ。 梅子それからあなたは何と仰っしやったの ? 春雄相手にしたって仕様がないから、「どうとも勝手にしろ」ッて、其の儘別れて了ったあね。 あたし、誰が云った 梅子是非共證據を持って來てくれろッて、お賴みになれば面白かったのに。 のか大概判ったわ。 春雄判ったら判ったでい、さ。しかし共の人だって、何も惡莱で云った譯ぢゃないんだよ。やつばり己 の事を心配して、兎に角親切に敎へてくれたんだから、云はゞ有難迷惑なんだ。 梅子それで全體あたしが誰とをかしいんでせう。 春雄かうなったら云って了ふが、相手は吉川だと云ふのさ。 梅子多分さうなんだらうと思ったわ。あの人より外に、此の頃内へ來る人はありませんからね。 春雄吉川こそっまらない嫌疑を受けて、飛んだ災難だよ。 梅子お互ひに損ですから、譯を話して、あんまり内へ來て貰はないやうにしませうか。 春雄さうさなあ、そいつもまづいからなあ。 空が再び睛れて、月光地上に滿つ。 海 の梅子ねえ、さうして貰ひませうよ。 春雄けれどもそんな事で友達の縁を切るのは、あんまり馬鹿げて居るからなあ。己は吉川に對して濟ま 343

10. 谷崎潤一郎全集 第2巻

梅子はあ。 春雄お前、此の話は誰にも云っちゃいけないぜ。お母様にも、千代子にも、吉川にも 大丈夫だらうね。 梅子云って惡ければ誰にも云やしないわ。だけど気懸りだから、早く聞かして頂戴よ。 春雄その、つまり何だ、或る人がお前を誤解して居るんだ、己は決してそんな事を微塵も信じて居やし ないが、お前が己以外の或る人間と不道徳な眞似をして居るやうに、邪推して居る人があるんだ。 梅子誰がそんな事を云ふんです。 春雄まあ誰でもい、さ。 梅子それだけの話をなさる以上は、誰だか名前を仰っしゃいよ。あたしに隱す必要はなくってよ。 春雄此ればっかりは困るんだから。名前を云ふ事だけは赦しておくれ。 梅子だってあんまり馬鹿にしてるわ。あなたに忠告するくらゐなら、定めし證據があるんでせうから、 あたし共の人の前へ出て、孰方が正しいか立派に明りを立て、貰ふわ。 春雄まあさ、お聞きよ。初めからさう怒って了っちゃ、まるで話が出來ないぢゃないか。 己だっ てそんな馬鹿げた事を信じる譯には行かないから、何か證據を見せろと云ったのさ。所が生憎證據なん ぞ何もありやしないんオ 梅子隨分無責任な入もあるものね。證據がなくって、どうしてそんな事が云へるんでせう。 春雄ほんとに下らない話なんだよ。「僕は梅子を信じて居るから、さう云ふ忠告は止めて貰ひたい。若 どちら 、力も 342