代物がやって來たのは、それから三十分程後であった。 「おかみさん、こちらですか。」 と、低い、遠慮深い聲で、云って娘はおづおづと二階へ上って來た。さうして、松村と女房との間に据わ らうとする時、ちらりと上眼づかひに饒太郎を見たが、直ぐ俯向いて膝の上に兩手を重ねた。けれどもそ の一と眼で、饒太郎は自分がすっかり見られて了ったやうに思った。 あたま 頭でも結って居たんだね。」かう云っ 「どうしたのお前さん、大そう遲かったぢゃありませんか。 て、女房は据わりながら少し反り身に返って、島田の髱の出し具合や、帶の結び方や、娘の後ろ姿を勞は るやうに視詰めて居る。 娘は何を云はれても「はい、はい」と答へるばかり、松村の吹聽した如くいかにも大人しさうであった。 男が女を評價する場合には、大概一と眼で善いとか惡いとか定まるものだが、饒太郎は最初の瞬間に、此 あと の娘なら兎に角善いと思った事だけは確かである。「兎に角善い」と思ひさへすれば、それから後は気の 持ちゃうで、どのやうな激しい戀にでも造作なく陷る事が出來る。もう本嘗に大丈夫である。 大丈夫なところで、彼は更に落ち着いて、詳細に娘の態度を見守り始めた。や、お白粉が濃過ぎる爲に實 際の地肌は判らないにしても、眞白な背筋や掌の様子から直覺すれば、決して色の黒い方ではないらしい。 まるがた ふつくらと下膨れのした、師宜の浮世繪にでもありさうな、圓形の、眼の細い眉の長い、可愛らしいと云 太ふよりは寧ろおっとりとした娘顏で、表情も甚だ鈍い方であるが、鼻の高さが心持ち嶮し過ぎるのと、折 々上眼を使ふ癖のある爲めに、多少油斷のならないやうな感じを與へる。襟のか、った矢絣銘仙の袷の下 ざうさ てのひら 419
饒太郎はふと眼を覺ました。彼はいつもの通り自分の四肢を縛られて、仰向けに臥かされて居る事に心付 いた。我に復った一二分間、頻りにばちばちと眼を瞬いて居たが、やがてばっちり瞳を据ゑると、殆んど 自分の顏の眞上に二つの顏があるのを見た。あの靑年と娘とが睦じさうにソオフアへ腰掛けて、自分達の 足元に打ち倒された彼の姿を眺めて居る。 「御覽なさい。眼がさめたらしいから : よみがヘ 娘は靑年の肩を叩いて、饒太郎の眩しさうな表情を指した。とたんに彼は朦朧とした意識が蘇って來るの を感じた。先庄司を此の部屋へ連れ込んでから間もなく、自分は不意に娘のために麻藥を嗅がされて了っ た事を想ひ出した。 「あなたもう気が付いたの。共の恰好を若旦那に見せて上げたかったもんだから、實はちょいといたづら をして見たのよ。」 かう云って、娘は面白さうに笑った。 「庄司君、僕は毎日斯う云ふ目に會はされて居るんだよ。どうだい、僕の気違ひだと云ふ事が解ったか 饒太郎は靑年を案内して西洋館へ這入って行った。彼の胸の中には、或る新しい樂しみが密かに計劃され て居た。 さっき 450
は、無上の權威と崇嚴と美容とを具へて彼の眼に映った。其の指先の一片の爪、生え際の一本の毛の貴さ にも、自分の肉體の几べてを抛っ價値を認めた。斯くてこそ始めて、彼は彼の女に完全なイリュウジョン を形作る事が出來るやうになった。彼は自分の身を卑しくすればする程、いよ / \ 相手の美に打たれる事 を知った。 女は男の言葉を少しも疑はないらしかった。却ってさうなるのが嘗然だと云ふ風に、默って笑ひながら共 の顏を視詰めて居た。 「あなたは杉村君を可愛がって居るんですか。」 暫く立ってから、幸吉は激しい嫉妬を眼に泛べて訴へるやうに云った。 「あんな者を心配しないでもよくってよ。まるで子供ぢゃありませんか。」 と、彼の女は冷や、かに云った。 四 その明くる日も、その明くる日も、彼の女は駿河臺の旅館を訪れた。 幸吉は二日の晩の事を、醉が覺めてから考へて見ても後悔する気にならなかった。丁度夢の中の幻が、眼 を覺ました後まで繼續して居るやうに、あの晩の彼の女に對する崇拜の情は、今も猶ほ彼の胸に巣喰って、 日增しに強く露はになった。彼は戀人の前にひれ伏して了った現在の自分を、昔の自分よりも餘計幸疆に 愉快に感じた。 あら ひとひら 244
と端正な瓜實顏とを持って居る。丈が高く、手足が西洋人のやうに長く、筋肉が充分に引き緊まって、見 るから健康らしい體格である。〇〇女學校を卒業して、會話の間に気の利いた英語の名詞を挿むぐらゐの、 間に合はせな智識を用意して居る。さうして、中流の家庭の令嬢として、得意の Coquetry を行ふ間に も相當の品威を保つ事を怠らない。此れだけの條件を數へて見るのに、彼の女は幸吉の相手として勿體な まなざし いやうに考へられる。殊に彼の女のあの魅力ある眸 一體幸吉は、圓い眼よりも細い眼の方に餘計惹 き付けられたが、 或る時は長い睫毛の陰にばんやりと眠って居るやうな、或る時は油斷のならぬ陰 險な計劃を廻らして居るやうな、或る時は人を人とも思はぬ驕慢な睥睨を湛へて居るやうな、針の如く閃 々と輝く細い眼の光に想リ . 至すると、彼は二度と再び此のやうな誂へ向きの女に出遇ふ機會はあるまいと思 はれた。 女は充分に自分の價値を知って居ながら、その周圍に群がる多くの男を見渡して、格別優越な地歩を占め て居ない幸吉に心を寄せたのである。不思議にも自分の方から、熱心に執拗に心を寄せたのである。初め ての會合の夜、彼の女は男の顏を電燈のあかりの下でつ くん ( 、と打ち眺めつ、、例の細い眼をばちばちゃ らせて、「どうぞ私を捨てゝくれるな。」と何遍も拜まぬばかりに繰り返した。彼の女は幸吉を非常に買ひ 被って居るらしかった。世間の女は幸吉に對して、誰でも自分と同樣な愛着の情を惹き起すものと信ずる ゃうに見えた。 / 彼の女は自分の美貌が、幸吉の心を動かすに至らないのを知った時、それは幸吉の無精が 原因するのだと云ふ事實を悟らなかった。却て反對に、幸吉は自分ぐらゐの友では滿足しない程、恐ろし く鑑識の高い、自信の強い男であると考へた。彼の女は平生の高慢にも似ず、出來るだけ自分の身を下し 180
杉村はズルモットの罎を持ちながら、眼を圓くして躊躇して居る。 「い、からお酌して頂戴よ。どうせ好きな人に嫌はれたんだから、 いくら醉っても構はないわ。」 彼の女はしどけなく膝を崩しながら、意地の惡い眼つきをして、ぢっと幸吉の顏を眺めた。 「あは、ゝゝ、なか / \ 盛んですねえ。」 かう云って、杉村は気が付いたのか付かないのか、唯如才なく笑って居る。 さげす 幸吉の胸の中には、女の醉態を蔑む心と、杉村に對する嫉妬と、嫉妬から來る愛着と、三つの感情が渦を 卷き始めた。 「三千子さん、僕は此れから會があるから失敬します。」 彼は帶の間から時計を出して見つ、、かう呟いて立ち上った。 「あらさう、まあ宜しいぢやございませんか。」 平生ならば惶て、引き止める可き筈であるのに、彼の女の言葉は案外物靜かな、寧ろ冷かすやうな句調で あった。男が殊更憤然として、獨りで荒々しく外套を纒ったり、襟卷を着けたりする間、彼の女はやつは りしどけなく机に凭れたま、、以前のやうな意地の惡い眼つきで面白さうに眺めて居た。酒の爲めに無訷 經になったのか、それとも醉に紛れて相手を焦らす積りなのか、いづれにもせよ、共の落ち着いた、大膽 な素振りを見ると、幸吉は片時も座に居たたまれない腹立たしさと危惧とを感じた。 ばたん、とド 1 アを強く締めて、裏梯子の中段まで幸吉が降りて來た時、忽ち又ばたんと云ふ音がしてド ーアが開いた。彼の女は廊下に駈けて來て、幸吉に追ひ縋った。 236
したか、もう覺えてもゐないのであるが、何でも煮え切らない、女の云ふま、に引き摺られて行きさうな 様子を見せたことは確かであった。あの時彼は全くそんな心持になって居たのであった。 それからうとノ ( 、と一と眠りして午後の八つ時分に眼を醒まして、又酒が始まったのだが、どうしたもの か緊張した愉悅の情は、少しも胸に殘って居なかった。い よ / 今夜が最後と云ふのに、まだ宵のロであ りながら二人共ばんやりしてしまって居る。よんどころなく醉はうとしても、飮めば飮む程眼が眩むやう に頭痛がして、徒らに氣が重くなるばかり、 歡樂の後の物悲しさがひた寄せに寄せて來る。 「新さん、お前は今朝の明け方の話をよもや忘れはしないだらうね」 暫くうっ向いて默って居たお艶は、ふと想ひ出して、例になく沈鬱な調子で甘え出した。たとひ半年でな くっても、もう二日でも三日でもい、から、今一度愴快に酒を飮み直した末別れようと繰り返し云った。 ひたすら 新助は同じゃうに、自分は明日自首するから、お艶は駿河屋へ歸ってくれと只管に賴む。双方が強情を張 って一歩も讓らないので、結局別れ / \ になった。さうして二人とも一居激しく鬱ぎ込んオ 「あ、つまらない、 つまらない」 と、お艶は不平さうに立ち上ったが、 やがて三味線を持って來て縁側の障子をやけに開け放ち、敷居際に こわね 靠れて河東節をひき始めた。彼女が自慢の婀娜つほい聲音はふるヘるやうに座敷へ瀰漫して、二階の外の 往來にも二三入が立ち停まって耳を傾けた。「此の歌の文句がお前に解らないのか。此の淨瑠璃を聞かさ れてもお前は私を見捨てる積りか」 さう云はんばかりに、女は折々恨みの籠った眼差で男の方を こだち 眄に見た。綠側の欄干の彼方には、星の美しい夜の空が永代寺の樹立の上に展開して、お艶の姿を覗き ながしめ まなど一し ミ一 0 546
「何しろ僕は、此の春から體を惡くしたのが一番の打撃だった。君のやうに太って居る人を見ると、實際 羨しいよ。」 「ほんとに御立派な體格で居らッしゃいますこと、何貫ぐらゐお懸りになりまして ? 」 と、英子も傍からロを添へた。 「十七貫ぐらゐなもんでせう。脂太りでぶくぶくしてるから、目方は存外少いんです。 一つお眼に かけませうか」 輝雄は暑苦しさうに兩肌を脱ぐと、 ハンケチで脇の下の汗を拭きながら、腕を張って自慢らしく體の周圍 を見廻したが、 「お見かけ申したところ、あなたも大分かッぶくが好いから、餘程おあんなさるでせう。」 かう云って今度はじろじろと英子の體つきを眺めた。 「あたくし ? 十五貫近くございますの。だんだん太って參りますから、もう痩せたくッて痩せたくッて 仕様がございませんわ。」 「いくら痩せたって、大體骨が太いんだからお前は駄目だよ。」と、齋藤は茶々を入れた。 . て「それでも背が高いせゐか、一向太って居らッしやるやうに見えませんね。」 「い、えあなた、裸體になりますとまるで豚のやうですわ。」 第英子はからからと賑かに笑ったが、直ぐ齋藤を尻眼にかけて、 「だけどあなたのやうにコチコチしてるよりはまだよくってよ。男の癖にあたしより三貫目も輕いぢゃあ 107
容貌を視詰めたま、、孰方にしようかと考へあぐんオ 今日は非常に大切な日である。一分たりとも空費されない貴重な一日である。餘計な見えを張る爲めに時 間を潰すのは愚かな事だ。さう思って、やつばり印坐に築地へ赴く決心をしながら、尚も鏡の前に立って 彼は何囘も冷水を顏に注いだ。気のせゐか、日に依って夥しく變化する自分の表情が、今日は最も醜惡な にきび 相を現じて居るやうに感ぜられた。其の上彼の顏は、毎年夏になると皰が出來て恐ろしく汚れが目立つの であった。團栗のやうに圓い、濁った眼、ところどころに紅い斑點の出來た黄色い頬、無賴漢染みた太い 頸筋ーー・・・ー鏡に映る其れ等の几べてが、野卑で、几庸で、到底瀟酒とした齋藤の美しさに及ばない事を發 見した時、彼は今更自分の肉體を呪ひたい程に口惜しかった。 た、す 赤帽から受け取った一切の手荷物を預り所に渡すと、輝雄は正面玄關の石階に彳んで、きれいな俥を物色 諸方面の街路から駈けて來る す可く、遙かに停車場前の廣場を眺め渡した。新橋、蓬橋、芝ロ、 電車や、俥や、通行人や、いろ / \ の物象が、眼の醒めるやうな赭色の地面に、細かい影を落しつ、動い ークが光って居る。 て居る。時々、白晝の熱光が焦點を結んだやうに、電線を走るポ 1 ルの先から、ス。ハ 今朝まで靑い海を見馴れた輝雄の瞳は、俄かにグラグラと輕い眩暈を覺えるのであった。 て二た月振りで眼の前に望む東京の市街 ! 暑くても、騷がしくても、彼は今日の東京ぐらゐ懷しく思った 物はなかった。此の停車場から十町足らずの區域のうちに、新しい戀人は彼を待って居るのである。見 印よ、東京は彼の爲めに歡樂の門となって、將軍の凱旋を迎へるが如く、彼の到着を祝して居るではない まなこ ミ ) 0 ごろっきじ 165
それから十分ばかり後である。二人は密閉された硝子扉の箱の中の、狹隘な、秘密な世界を樂しみながら、 どふ まっしぐら 發動機の響きに搖られて居た。芝ロの大通りと並行する停車場の横の、暗い溝のある路を車は眞驀に走っ て居る。二人の眼に入るものは、行く手の闇を押し除けるやうな、警戒燈の熾烈な光線ばかりである。そ の光線に照らし出された區域の地面は、急流の水の如く後方へ奔馳して、布のやうに引き裂かれはしない さっき かと危ぶまれる。先まで眼の前にちらちらして居た銀座通りの雜沓 服部の大時計も、天賞堂も、三 銀も、嫂も、女中も、飛礫の如く背後へ投げ付けられて、刻一刻に遠く遠く隔って行く。 て「何處か、不思議なところへ連れて行かれるやうですね。」 かう云って、彼は女の方を見た。彼の女は幸吉と相對して向ひ側に腰かけて居た。 : ねえ、あなたは嫌だと思はなくって。そりや、あなたは勿論あたしの半分も思って居て下さらな いんだから。 男はそんな諂諛の言葉を齒牙にもかけぬと云ふやうに、わざと返答をしなかった。さうして全く別の事を 云った。 オー。フンカア 「い、事がある。 新橋の停車場へ行って、あすこから自働車で出掛けるとしたら。無蓋車でなけれ ば誰にも見られないし、時間も經濟だから。ね、そんならい、でせう。」 女は默って笑ひながらうなづいた。 っふて がらすど 195
き付ける汐風が、彼の耳朶にあたってばた / \ と鳴って居た。彼はぼんやりと薄眼を開いて、瞳を蔽うて 居る女の手を見た。強い日光が掌の肉を半透明に射徹して、か細い五本の指の股が、丁度海底の水の明る まふた さ程に赤く輝いて居る美しさ。彼は眼瞼の上の優しい重味を得堪へぬ迄に、忙しく亂れた息つかひを女の 手の中に吐いた。 「あなたなんぞに惚れる人はないだらうと思ったけれど、よく考へたら一人あったわね。」 何を想ひ出したのか、英子は不意にこんな事を云った。 「一人や二人ちゃ、き、ませんよ。」輝雄は眼隱しをされた儘、眠さうな調子で云った。 あなた、あの方を此方へお呼びなさいな。」 「下谷の春江さんと云ふ人ね。 「へえ、そんなものがあるんですか。」 かう云ふ末松の聲が聞えた。 「え、、あるのよ。そりや好い女よ。玉置さんにはちっと勿體ないくらゐなの。」 春江に對するお世辭の積りで斯う云ったらしいのが、輝雄には何となく皮肉に取れて気持が惡かった。 「そいつも惡くすると、此方で惚れて居るだけぢゃないかな。」 て藤田が嘲けるやうに云って、ゲラゲラと笑った。 「馬鹿を云ひ給ふな。そんな惚れるやうな女ぢゃないんだ。」 吹 「嘘おっきなさい ! 」と、英子は載せて居た掌を除ける拍子にべたりと彼の額を叩いて、眞上から顏を見 下ろしながら、 とほ 123