梅や橋場や入谷あたりの別莊妾宅のあり 小名木川筋は嘗分あきらめて、江戸中の遊廓は云ふ迄もなく、小 さうな區域を隈なく尋ね廻ったが、とう / く、二月の末になるまで女の在り家はわからなかった。やがて向 島の土手は櫻が咲き初めて、のどかな空には霞が立ち、賣り聲高く往來を歩いて居てさへ、暖かい日和に 眠くなるやうな時候となった。新助は陽春の廻り來ると共に、戀しさ辛さ悲しさが激しく胸に迫るのを覺 えた。夢になりともせめてお艶に會ひたかった。 「新助さん、お前が尋ねる女と云ふなあ、若しゃ仲町に藝者をしてゐる染吉と云ふのがそれちゃああるめ えか」 三月下旬の或る夜のこと、金藏はかう云ふ喜ばしい報知を齎して歸って來た。話に依ると共の晩彼は二三 人の子分をつれて、深川の尾花屋へ飮みに行ったが、圖らずも座敷へ呼んだ藝者の一人が、日頃新助から 聞かされて居る娘の面ざしや年恰好にそっくりであった。先づ第一に類の少い美貌ではあるけれど、上眼 瞼が少し張れぼったくて、眉毛が男のやうに濃く、笑ふ時に右の上顎に八重齒が露はれて共れが恐ろしく 愛嬌を添へる風情と云ひ、物を云ふ時口を歪めて唇をむ癖と云ひ、地聲が非常に婀娜つほくて人の心を そ、るやうな色気を含んでゐること、云ひ、几べての特徴がてつきり共れと頷かせたので、内々素姓を捜 って見ると、砂村の博徒の德兵衞と云ふのが親許になってゐるのだと云ふ。ところで德兵衞と云ふ人間は、 し仲間うちでも擯斥されて居る無賴漢で、船頭の淸次とは昵懇な仲であることまで、殘る所なく突き止めて 無論新助も共れを信じた。 艶來た。もう此れまでに種が上れば殆ど疑ふ餘地はない。 お 「大概さうだと思はれるけれど、ちっと腑に落ちねえ事もあるんだ。こんな事をしゃべったら、 もたら うはあ′」 ひょり うはまぶ 533

いやうに親の口からようく意見をしてくれろと云ひ出した。「それでは物の順序が違ふ」と云って、初め はなかなか老人も承知しなかったが、つまりは我を折って淸次の請びを容れたのださうな。しかし新助の おほみそか 來ゃうが遲かったのと、親爺も隨分待っては見たもの、平生から忙がしい體の上に、何分大晦日を眼前に 控へてさう呑にもして居られず、引き留めるのを辭退してたツた今しがた歸ったばかりだと云ふ。 「どうだい新どん、親と云ふ者は有りがてえもんだなう」 淸次にかう云はれると、新助はしみみ \ 勿體なさが身に應 ~ て、疊に兩手をついたま、熱い涙をこばした。 「そりゃあさうと話に身が入って折角の酒が醒めちまった。一番今夜は前祝ひに思ひ切り飮むとしようぢ ゃねえか。本當ならば藝者の一入も呼びてえんだが、お前の男が好過ぎるから、又落っこちでも出來たら 淸次は新助を抑へ付けるやうにして多量の酒を矢鱈に強ひた。新助はそれほど酒を嗜むのでもないが、體 が丈夫なせゐか、も 、くら飮んでも惡醉ひをしたと云ふ經驗がなかった。彼は進まぬ心を勵まして矢繼ぎ早 に差される杯を一々淸く受けて居た。 三太が豫言した通り空はいっしかすっかり曇って、風が止んだと思ふ間もなく忽ち大粒の雫の音がばらり がうぜん ばらりと軒先を叩いたが、見る見るうちに囂然たる大雨となって、室と河とが一つになる程土砂降りに降 り始めた。三人は激しい響きに話聲を打ち消されて、小さな座敷が搖ぎ出すかと思はれるやうな凄じさの 中に、猶暫くは差しつ押へっして居たが、なかなか小降りになりさうもない。 「彼れ此れするともう四つだ。私あ此れから小梅まで行かなけりゃあならねえんだが、此のお天気ちやほ 520

うと云ふ譯さ。僕は懷ろに二三圓しか持って居ないのに是非共そいつが奢ると云ふんで、一緖につれて行 きはらだな かれたのは木原店の中華亭なんだ。全體中西と云ふ男は非常な道樂者の大酒飮みで、寧ろ中華亭よりも箱 5 の這人るお茶屋へ行きたいらしかったが、其の方は僕が不賛成を唱へたんだ。僕は酒が飮めない上に、自 ・ : 」と云ひかけて、木村 分が藝者や淫賣を買ったりする事を飽く迄も祕密にして居たし、それに第一・ はロをもぐもぐやらせた。 : どうしたんだ ? 」 「それに第一・ 「それに第一中西のお供をして、新橋邊の立派な料理屋で所謂一流所の藝者を見せられると、僕は却て我 が親愛なる不見轉藝者の哀れさ加減をつくづく感じさせられるから心細くなっちまふんだ。人形のやうな 美人がちんと据わって上の空で三味線を彈いて聞かせたところで、實際愉快でも何でもないんだからな わかれみち 「同感々々。あんまり岐路に入らないで、正味の部分だけを聞かせ給へ。」 「中華亭を出たのが十時ごろだったが、僕は例の如く三合ばかりの酒でひどく醉つばらちまった。中西の 方も大分循って居た癖に飮み足りない飮み足りないと云ってどうしても僕を放さないんだ。何でもそれか ら魚河岸近邊の鮨屋だの天ぶら屋だの、二三軒の屋臺店を荒し廻って十二時ごろまで梯子飮みをした、揚 句の果には芳町の待合へ行かうと云ひ出して、僕がいくら斷っても承知しない。仕様がないから、では兎 も角共處いらまで送らうとなってもう眞暗な伊勢町河岸を堀留の方へぶら / \ 歩き出した。さうして親父 のれん 橋の傍まで來ると、又そこのおでん屋の暖 ~ もぐり込んぢまふんだ。中西はとうに一文なしになって居 どこ

う此れからは心を人れ換へて、きッと善人になって御覽に人れます。何卒お見捨てなさらないで可愛がっ て下さいまし。」 「あは、、、。まさか本氣でもないだらうが、何もそんなに殊勝らしくして見せる必要はないよ。女の癖 それ程にして賴まなくっても、僕がお前をどれ程可愛がっ に大それた罪を犯す程の悧巧なお前だ。 て居るか、實は可愛がり過ぎるくらゐ可愛がって居る事を、ちゃんと見拔いて居るんだらう。そのくらゐ の事が悧巧なお前に判らない筈はないんだ。」 あんま 「それはあなた餘りでございます。」 「しかし、いくらお前が悧巧な女でも、僕がどうして此れ程お前を可愛がって居るのか、その理由がわか る筈はない。 僕はお前の器量よりも何よりも、お前が大膽な惡黨女であると云ふ事に惚れ込んで居 るんだ。」 話す方も聽いて居る方も、二人の顏はだんだん靑くなって、互ひに重い溜息を吐いて居る。饒太郎は轟く 胸を鎭めながら、卓上の酒を手あたり次第に績けざまに呷って、濡れた唇を拭ひイ、尚も熱心に口説き立 てる。 「僕がお前に賴みがあると云ふのは此處の事なんだ。お前は今、此れから心を改めて善人になると云った。 それは勿論一時の気休めで、僕を欺さうとしたのに違ひない。欺して置いて、又何か惡事を働かうとする 太了見に違ひない。 饒 「飛んでもない事を仰っしゃいます。たとへ私が今迄にどんな惡事を働きましても、此ればっかりは決し 431

ヘッ、實際金と云ふものは有る所には有るもんだな 五拾圓ばかりなくなったって何でもありやしない。 あ。」松村は仲び上るやうに紙人の中を覗き込ん / 「見られた以上は借さなけりゃならんが、兎に角今日は此れだけ持って行き給 ~ 。殘りはまた二三日のう ちに屆ける。」 彼は一杯に詰まった財布の中から十圓札を三枚抽き出して、惜し氣もなくそれを相手の掌に載せた。さう して、珍しくも任侠に富んだ、高潔なる自己の行爲に對して、不思議な程道德的の愉快と誇とを覺えたの である。 けれどもよく / 、前後の事情を調べて見ると、饒太郎が今此處で道德的の愉快を覺えると云ふのは、頗る 矛盾した話のやうである。彼は全然成功者が失敗者に對するやうな、乃至は貴族が乞食に對するやうな心 彼を赤裸々にし 持ちで松村を見下して居るけれど、實際兩者の境遇はそれ程隔たって居るのだらうか ? て松村と比べて見たところで、どれだけ勝れた點があるだらう ? 彼は松村よりも高尚な品性を持って居 るだらうか、該博な知識を所有して居るだらうか、或は立派な仕事でも成し遂げたらうか、否々何一つと して彼の方に長所を見出だす事は出來ない。そんならせめて金でもあるのか ? 公平に判斷して見て、彼 は自分自身の金と云ふものを少しでも所持して居るのか ? 現在彼の懷ろにある二百五拾圓と云ふものは、 綠もゆかりもないあかの他人の金庫から引き出して來たものではないか。さうして見れば彼は松村を侮辱 太する資格がないばかりか、却って自分の方が卑しむ可き人間なのである。既に自分が他人の惠みを受けて 居ながら、松村に多少の金を貸し與 ~ て得意がるとはをかしな事である。それはまだい、としても、道徳 379

と、藤田が云った。 「石鹸の廣告なら鬼瓦よりよッほどよくってよ。 それよりか今玉置さんが土左衞門の眞似をして居 たから、もう少しで首ッ玉を掴んで潜らしてやらうと思ってたの。」 「どうです諸君 ! 」と、輝雄は大聲に叫んだ。「三入が、りで、お轉婆先生に水を飮ませようちゃありま せんか。」 「よし來た、賛成々々 ! 」 藤田も末松も身を躍らせて波を切った。忽ち女は長大な手足を漫溂と跳ね返らせ、夥しい水煙を身邊に捲 き起しつ、、濱邊へ向って二尺三尺と敏捷に逃れ始めた。三人は麩を投げられた緋鯉のやうに、噴水の如 く降りそ、ぐ眼潰しのしぶきを浴びながら、白泡を蹴立て、爭ったが、容易に彼の女は捕へられなかった。 輝雄は獨り水中に體を沈めて、目立たぬゃうに女を追った。彼はばっちりと海の底で眼を開いた。肌が同 ひは うしほ じ色に染め上げられるかと思ふ程、鶸色の潮の光が十重二十重に彼を包んで、瞳に泌み入るのを覺えた。 急に水温の冷めたい所や、暖かい所があった。突然、女の兩脚が、蛇體のやうにうね / \ と彼の鼻先を掠 めて消えて行った。彼は間もなく、淺瀨の沙に膝頭を擦られて、すっくりと立ち上った。 「玉置さん御苦勞樣だったわね。あなたのやうなのろまに掴まりやしなくってよ。」 英子は沙濱に腰を下ろして、水面に現れた輝雄を見ると、待ち構へたやうに云った。末松も藤田も、もう 海岸に辿り着いて彼の女の傍に寐ころんで居た。 「撼まへればまへられたんだが、可哀さうだから勘忍してやったんだ。」 120

と、お勝は頓興に眼を圓くした。 「たった今どす。」 どたりと据わって、息をせいせい切らしながら、梅龍は銀扇を忙しく煽った。白っぽいフランネルの不斷 着の上へ、鹽瀬の丸帶を締めて、大きな翡翠の帶止めばかりが殊更に眼立つ、見るから瀟洒としたいでた ちである。輝雄は六月に這入ってから、始めて此の女に遇ふのだが、僅かの間にひどく憔悴して、血色が 靑褪めたやうであった。美人と云へば云ふもの、、中高の、きちんと整った面白味のない顏が、まだ夏痩 せの時候でもないのに、や、面窶れの凄味を帶びて、いつもよりは風情ありげに眺められる。こんな蒸し 暑い晩でも、さすが河原は凉しくて、坐敷へ吹き込むそよ風が女の睫毛に小波を寄せ、東髪に結った髪の 毛の鬢のあたりを嬲るやうに掻き亂す。輝雄は體中の汗が冷え冷えと乾き切るやうな快味を覺えた。さう して、「やつばり遊びに來た方が宜かった。」と思った。 たまき 「ほんにまあ、え、鹽梅どしたなあ。 ・ : 玉置はんが近々に東京へ行ぐってお云ひやすさかいに いにしてもあんたに知らせにゃならんと思うてたんえ。」 あてかっ 「あんたはんほんまどすか。 またてんご云うて、私を擔ぎやはるのどすやろ。」 て「そゃないのえ、もう今夜ぎり遊びに來やはらんちうてやはるのえ。そないに疑ぐるなら、あんたから玉 置はんによう聞いておみ。」 吹 印かう云び捨て、、お勝は銚子を取り代へに立った。 久し振りで差し向ひに据わって見れば、彼も滿更此の女を嫌ふ心にはなれなかった。梅龍が輝雄を憎から なぶ

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わざ / \ 懷から手を出して觸って見る勇氣はないが、彼の頬ツ。へたは瀨戸物のやうに冷めたくなって居る らしい。夕方、床屋へ行って鬚を剃った折の、剃刀の刄の感覺がまだ皮膚に殘って居て、薄荷を振りかけ 1 なまぬる たやうにひりひりして居る。鼻の下を蔽うて居る外套の襟の、蠍虎の毛皮が息の爲めに濕ほって、生温く さは すなほこり 唇に觸る。砂埃が、ペーブメントに渦を卷いて、ひゅうッと五六尺の高さに舞ひ上って、眞面に眼の中へ 吹き付ける。彼は時々齒を喰びしばって胴顫ひをした。事に依ったら、女が來る迄に自分は此の時計臺の 下で、凍え死に死んで了ひはしないであらうか。 「よく待って居て下さいました。今こそ、あなたはほんたうに私の戀人です。」 さ かう云って、彼の女は冷めたくなった幸吉の屍骸に勝ち誇った微笑を投げはしないであらうか。 う云ふ場合になったら、人が見て居ても居ないでも、隨分此のくらゐの臺辭は云ひかねない女である。出 來るものならば、俗惡な喜劇の筋によくあるやうに、女が來た時密に死んだ振りをして、其の言動を見て やりたいやうにも思ふ。 女は芝の愛宕下から、嫂や女中に連れられて、歳晩の景況を見物かたみ、、今夜銀座へ買び物に來るので ある。さうして、此の四ッ角で電車を降りたら、雜沓に紛れて嫂と女中をはぐらかした上、幸吉と一緖に 何處かの横町の夜の闇に隱れようと云ふ手筈になって居る。彼の女が同伴者をはぐらかして了ふまで、幸 こんな苦しい手段を擇んだのは、獨りで夜遊びに 吉は成る可く顏を見られぬゃうに尾行して行く。 出る事を禁ずる女の家庭の嚴しい所から、已むを得ず案出した詭計であった。何も此れ程の思ひをせずと も、晝間ならば自由に會へるのだが、恐らく物好きな彼の女の性質がそれを案出したのであらう。 あによめ らっこ せりふ っ まとも

たとひ百兩が千兩でも貰った金は返しゃあしねえよ」 座敷の方は暫くしんと靜まって、落ち着き拂ったお艶の口上が唯凛々と 嵐の前の靜かさとでも云はうか、 聞えて居る。 そのうちに、「野郎拔いたな ! 」と德兵衞が叫ぶと、「此のさんびんめ、生意気な眞似をしゃあがる ! 」と お艶が金切り聲を揚げた。同時にばた / \ と三四人の激しく爭ふ騷ぎが始まった。 ころが : やがて、「ひやあア」と悲 襖を蹴る音、疊へどしんと轉る音、刀と刀がかちりかちりと相搏っ音、 鳴を放ったかと思ふと、德兵衞の圓々と太った顏が血だらけになって勝手口へ駈け出して來た。績いてお えりくび かぶ 艶も髮を亂して飛び出したが、後から追ひかけて來る侍に襟頸をまれ、振り翳った刀の下に引き据ゑら れた。 新助は物をも云はず土間から跳り上って侍の手頸にぶら下った。 「腹の立つなあ尤もだが、此の女にゃあ罪はねえんだ。堪忍してやっておくんなせえ」 てまへ 「手前は何だ」 さかやきあと と云って、その侍は刀を擦へて振り返った。見れば年頃三十五六の、青々とした月代の痕の美しい、目鼻 くろびろう の秀いでた立派な男子で、煤竹色の羽二重の袷に黒天鵞絨の帶を締めた、気品の高い風采である。 「私ゃあ姐さんを迎へに來た仲町の箱屋でごぜえやす。どう云ふ譯か存じませんが、あなたも御身分のお 艶あんなさる御方で、短氣な眞似をなすっちゃあ、却って外聞が惡いと云ふもの、どうぞ其の刀をお收めな 5 すって下せえまし」 わっし をど 、、さが