談 偉い役者になれたのは不思議なやうな気がするが、彼が河原崎家に養はれてゐた靑年時代には、便所に這 入ってゐた間が一番樂だったと云ふくらゐ二六時中激しい稽古を積んだのださうであるから、後年の大成 も偶然でなかったことが分る。印ち彼は嚴格な養父の膝下にあった時代に、舞踊音樂等の姉妹藝術を始め として、歌舞伎道の有らゆる部門を修めたのだ。何でも一と通り通って來たのだ。彼の場合は天稟の素質 にも依るであらうが、ああして置けば今に養父に殺されてしまふと云って實家の者が心配したと云ふ程だ から、どんなに猛烈な修業をしたかは想像に餘りある。 團十郎に限らず、昔の藝道の稽古は全く幼兒虐待にも等しい殘酷なものであったらしい。中車や梅幸の藝 談を讀むと、少し鼻につくくらゐ修業の話を持ち出して、二た言目には「今の若い者は贅澤だ」と云って ゐる。團十郎の養父は實家の入に答へて、「堪へ切れないで死んでしまふかも知れないが、もし生きてゐ たら素睛らしい役者になるでせう」と云ってゐるから、打ち殺してもいい覺悟で仕込んだ譯だ。大阪の義 太夫語りや檢校などに聞いても、師匠に撥で毆られて頭から血を流したとか、二階から蹴落されて気絶し たとか云ふ話はザラにある。現に文樂座の道八は團平に毆られた時の撥を大切に保存してゐると云ふ。思 ふに歌舞伎俳優の強味は、何よりもさう云ふ稽古の仕方に依って幼年時代から藝を身に着けてゐる點にあ る。中車老人などから見れば近頃の稽古は生ぬるいかも知れないが、それでも中年から芝居道に這入った 5 者と、頑是ない歳頃から踊りや三味線や淨瑠璃などで叩き込まれた人々とは、默って舞臺へ立たせただけ
度それを舞臺にかける段になると、彼等の演出は往ょにして新劇俳優を凌駕する。たとへば、髷物の新作 は勿論として、飜譯劇のセリフ廻しなどでも、自由劇場がイプセン物やゴルキ 1 物を演じた時のメリ ( の法が、あれ以來廣く踏襲されて今日に至ってゐるではないか。事實、近代劇のセリフの云ひ方は、新派 明治末葉頃の歌舞伎俳優が、默阿彌の生世話物の云ひ から出ないで舊派から出てゐる。あの時分、 1 ションを工夫したものが、今日の新劇のセリ 方などから換骨奪胎して、自然な、いや味のないエロキュ フ廻しの基礎を成してゐるやうに思ふ。それはあの時分に小山内氏のやうな立派な監督がゐたからでもあ らう。しかし小山内氏が近代劇を我が劇壇に移植するに方って、素人を使はずに舊時代の歌舞伎役者を採 用したのは、彼等の「藝」を賴ったからではないか。それについて讀者の注意を喚起したいのは、今日で はさうでもないが、あの時分の歌舞伎役者と云ふものは、その生ひ立ちが全然われわれとは違ってゐた。 彼等は幼年時代から世間普通の子供たちとは甚だ隔絶した環境に住み、われわれの想像も及ばない時勢後 れな別世界に育てられた人々である。左團次なども私と同じ小學校に通ってゐたが、卒業する迄はゐなか ったやうだし、菊五郎にしても幸坊時代に茅ヶ崎の別莊へ引き取られて團十郎の薫陶を受けたとすると、 普通敎育を滿足に卒へたかどうかは怪しい。あの時分は、役者の子と云へば女のやうなニャケたなりをし て、鳥打ち帽子に絹の襟卷をし、。 ( イプなどを口に啣へてシャナラシャナラしながら、恐ろしくマセた物 云ひをしたもので、だからわれわれは彼等をまるで別の種族扱ひにし、藝者の下地ッ兒と同じゃうに見下 して、輕蔑したものだ。彼等は前にも云ふやうに朝から晩まで幼兒虐待的な稽古を課せられてゐたのだか ら、藝事は達者だったであらうが、學問智術德育の修得には手が廻らず、ややともすると頭腦の發達は後 418
此の心持は支那ばかりでなく、古くから日本にもあって、代々の歌人や俳人の吟詠の中に例を求めたら定 めし數限りもないであらうが、就中室町時代のお伽草紙のうちには「物臭太郎」と云ふ小説さへ作られて ゐる。 : ただし名をこそ物臭太郎と申せども、家づくりの有樣人にすぐれてめでたくぞ侍りける。四面四 ・錦をもって天井 町に築地をつき、三方に門を立て、東西南北に池を掘り、島を築き松杉をうゑ、 を張り、桁、うつばり、たる木のくみ入には、白銀黄金を金物にうち、瓔珞の御簾をかけ、厩さぶらひ 所にいたるまで、ゆゅしく作り立てて居ばやと心には思へども、いろいろ事足らねば、ただ竹を四本た : かやうに作りわろしとは中せども、足手のあかがり、のみ、虱、 て、菰をかけてぞゐたりける。 ひちの苔にいたるまで、足らはずと云ふ事なし。もとでなければ商ひせず、物を作らねば食物なし。四 五日のうちにも起き上らず、ふせりゐたりけり。 と、かう云ふ書き振りで筆をす、めてある此の物語は、純然たる日本人式の着想であって、支那の小説の 燒き直しであるとは思はれない。恐らく當時の零落した公卿などが、それこそ作者自身物臭太郎の如き生 活をなしつ、、退屈紛れにこんな物を書いたのであらう。そして、幾分そのせゐもあらうが、作者は此の 一種の掬すべき 手に負へない怠け者の主人公を擯斥しないのみならず、その物臭さ、不潔さ、横着さに、 愛嬌を持たせてゐるのである。隣り近所の入々からは爪彈きされ、土地の厄介者のやうに書いてはあるも の、、乞食かと思へば地頭の威力を怖れない程の気骨があったり、馬鹿かと思へば時の帝の叡聞に達する 程の和歌の才能があったりして、とう、 / ( 、しまひには御多賀の大明禪と云ふ禪様にまで祭られる。 しろがねこ、かね 222
なく人間味の乏しい、物足りない印象を受けたが、大佛君直木君等は此の點が實に器用である。彼等は現 代語と時代語とを巧く綯ひ交ぜ、或る場合には講談の如く、或る場合には飜譯小説の如く、思ふがま、に 4 會話を驅使して、公卿でも、大名でも、大奧の女中でも、市井の無賴漢でも、存分にしゃべらせ、怒らせ、 泣かせ、笑はせて、その人物に近代性を賦與してゐる。元來我が國のやうに階級制度がやかましく、それ に伴ふ言葉遣ひや禮儀作法が面倒であって、各時代毎にその匂ひを持っ敬語法があると云ふ國柄では、歴 史的に正確でない迄も、その時代の空氣を感じさせる程度の會話を使ふことが必要であり、さうして而も 講談等の型を破らなければならぬ、その點で我が國の歴史小説家は ( ンデキャップを附けられてゐる譯だ ℃、。それには鷓外先生や芥川君等の試みも先蹤をなして が、彼等は見事にその難關を征服したと云って、 ゐるであらうが、しかしあの頃の作品は、言葉づかひも上品で、靜的なものであったのを、もっと大衆に 親しみのある、碎けた動的なものにした。さう云ふことは小手先の藝だと云ってしまへばそれ迄だけれど も、なかイ \ 惡達者と云はれる程の腕前がなければ、一と通りの器用さでは出來ることでない。その外心 理解剖などでも、くどくなく、大衆を飽きさせないやうにして、可なり細かい所へまで突き進んでゐる。 事實、彼等の書く物は、その藝術的價値に於いて、所謂純文學派の作品と何等の差異があるのではない。 今度の直木君の「源九郎義經」にしても、信西や、義朝や、常盤などの心の動き方、會話のこなし方、衣 裳小道具のあしらひ方等にまんべんなく注意が行き亙ってゐて、昔の芥川君の「羅生門」や「芋粥」以下 の作品、又は私の「兄弟」など、云ふものは、今から見ればあ、云ふ長篇の一節にしか過ぎないやうな觀 がある。嘗て大佛君は「赤穗浪士」の一節を短篇小説の形式で中央公論 ~ 寄稿したことがあったが、私は せんしよう
〇 しかし今迄見たもの、うちで最も感心させられたのは二十四孝の狐火であった。八重垣姫に狐が憑いてか らの、あの幻想的な變化に充ちた複雜なしぐさは、いったい如何なる人形使ひが考へ出したものであらう か。恐らく一人の頭から生れたものではなく、時代を重ね、工夫を積んで、あれだけの手順と型とを完成 するに至ったのであらうが、幻想的の要素に乏しい日本入にも猶あれほどのものが作れたとすれば、德日 時代の藝術家の中には矢張なか / 、、偉い人がゐたのだと思って、私は自然に頭が下った。昔はもっとあれ どころでなく、無數の狐が舞臺一面に出たのださうだから、八重垣姫の振りもまだ更に幻想的で、千 變萬化を極めたのかも知れない。生きた俳優の芝居だと、あすこの場面は頗る簡單に改惡されてしまって ゐるが、あの八重垣姫の身振りは人形でなければとても出來ない業だから、それも是非がなからう。 要するに人形芝居は、官能的で、實感に充ちてゐると同時に、幻想的、惡魔的、病的要素が多分にあ 髪をおどろに振り亂した人形の「お化け」が恐いことは云ふ迄もあるまい 〇 先月の「改造」に戸川秋骨先生の「飜譯製造株式會社」なる一文が出てゐる。あの中には大分同感の議論 があった。 130
雜誌は多く菊判であるのに何故單行本に限り四六判が好かれるのか、私には理由が分らない。私は自分の 作品を單行本の形にして出した時に始めてほんたうの自分のもの、眞に「創作」が出來上ったと云ふ気が する。單に内容のみならず形式と體裁、たとへば裝釘、本文の紙質、活字の組み方等、すべてが渾然と融 合して一つの作品を成すのだと考へてゐる。若い時分には面倒臭がりで、校正なども人任せであったが、 年を取るとさう云ふことにだん / \ 丹念になって來るものか、近頃では何から何まで人の手を借りず、細 かいことに迄注意を配って、自分で一册の書物を作り上げるのが此の上もなく樂しみである。されば裝釘 なども、良いにつけ惡いにつけ自分で考へないと自分の本のやうな気がしない。「靑春物語」の場合は創 作でなく靑年時代の囘想記であるし、吉井勇君にも序文の和歌をお願ひした程であるから、此の書の内容 に因綠の深い杢太郎君が意匠を凝らして下さる以上、自分が考案したよりも一層なっかしいものになるカ 原則として自分の本は自分が裝釘するのに越したことはない。殊に繪かきに賴むのは最もいけない。どう 云ふ譯か、繪かきは本の表紙や扉に兎角繪をかきたがる。千代紙のやうにケバケバしい色を塗りたがる。 そして四六判にして、出來るだけ厚みを出して、同じゃうにケバケバしい箱に人れるから、何のことはな ハコセコのやうな子供じみたものが出來上る。一册だけ見ると花やかで綺麗なやうだが、さう云ふ本が 。繪かきだから繪を描けばい、 幾册もズラリと書棚へ並び、やがて古ぼけて來た時の薄汚さを想ふがい、 と思ふのは智慧のない骨頂で、裝釘と云ふものは、なるべく餘計な線や色彩を施さず、クロ 1 スなり布な 458
〇 昔孔明と同じ時代に生れて、いろ / \ な方面で孔明とよく似てゐながら、而もどの方面でも少しづ、孔明 しうゆ に劣ってゐた周瑜と云ふ男は實に不幸だ。外の時代に生れ、ば一流の人物として通ったものを、孔明と云 舌ふ途方トテッもない室前絶後の人間と時を同じうして生れ合はせて、おまけにタイプが似てゐたのでは、 周瑜の身になったらとても遣り切れなかったであらうと、芥川君が云ってゐた。 云ひ洩らしたが、彼は品行方正の方で、あれだけの美貌と肉體と聲名とがありながら、若い時分にも浮い た噂は餘りなかったと聞いてゐる。此れも俳優には珍しいことである。 兎にも角にも菊五郎は、藝術家に限らず、いろ / 、の人間がお手本にしてい、人である。 〇 菊五郎の藝風は、小説家にしたら何處か里見弴君に似てゐないだらうか。「まご、ろ」を振り廻さないと ころは、前者の方が垢拔けがしてゐるが、聰明なところ、熱つぼいところ、すっきりとして鏡利なところ、 男性的でありながら線が細かくて気の屆くところ、そしてとき \ 自分の實力を恃む餘り、穿き違へて脱 線するところ。 小詭家にも女形になれる人となれない人、踊りのある人とない人がある。里見君は女形になれる人で、且 踊りのある人である、と云ふやうな気がする。 121
此の一文は別に白鳥氏にお答へをするつもりで書くのではないが、唯先月の中央公論に出てゐた「谷崎潤 一郎と佐藤春夫」なる同氏の批評を讀み、たまたま思ひ浮かんだことを二つ三つ記して見るのである。 私は、從來の私の作品が大體日本の傳統を蹈まへてゐると云ふ白鳥氏の意見に對して、別段異議を申し出 でようとは思はない。ひところは私も多くの靑年と同じく西洋に、い醉した時代もあったが、 その時分に書 いた作品を今から讀み返してみると、ほんたうに日本離れのしたものは一つもない。正直のところ、私は その時代の自分の作品が一番イヤだ。圓本や全集や廉價版ゃいろいろの形で市場に出てゐる自分の著書の 中に、さう云ふものが少からず交ってゐることを考へるだけでも、私はちょっと憂鬱になる。と云って勿 で論、西洋の影響を受けたことを有害無益と考へる譯ではないが、餘人は知らず、自分の青年期の作品に關 する限り、その影響の現はれ方が甚だうすっぺらで、輕卒であったのが気耻かしくてならない。 宗故小山内君に同情してをられる白鳥氏は、母國の文學藝術の今も昔も甚だ貧弱であることに、云ひ知れぬ 寂寥を感じてをられるやうに見える。事實、四十歳以上の現代作家のうちで、白鳥氏程母國の傳統の價値 401
が東洋風で、思ひ切って筆を省略してゐる。モ 1 ランの物はあまり唐突で分りにくいと云ふ批評があるの は、いつの間にか讀者の頭が西洋物にカプレてゐるのである。 だから、哲學とか科學とか、理詰めで正確を期する記述には西洋流の方が勝れてゐるけれども、文學に於 日本の詩や歌や謠曲などを英譯する場合、もしほんたうに原文の味を いては必ずしもさうとは云へない。 出さうとするなら、文法的にはどうあらうともサプジェクトのないセンテンスを使ふより外にないと思ふ。 いくら西洋入だって日常の會話にいつも必ずサブジ = クトとプレデイケートを伴ふ譯でもあるまい。半分 ロの内で云っただけでも用が足りる場合の方が、實際には多いであらう。現に電報の文句など主格を略す のが常ではないか。 人はよく、日本語はヴォキャブラリ 1 に乏しいと云ふ。私なども靑年時代にはしば / \ 痛切にそれを感じ、 口にしたこともあるのだが、さうして事實、乏しいには違ひないのだが、さう云ふ國語にはそれを補ふに 足るだけの長所があることを忘れてはならない。 今の中學校や専門學校で教 ~ る國文法と云ふものはどうなってゐるのか、私たちが學生時分に教はったの と大して違ってゐないのであらうか。 明治年間は何事につけても西洋文物の模倣時代であったから、文法迄が英語や佛語の直譯に終ったのは是 非もないけれども、私たちの習ったやうな文法が今も教 ~ られてゐるのだとしたら、全く有害にして無益 194
此の前後であったらしい。 〇 今度の「つゆのあとさき」にも、古めかしいところは可なり眼につく。否、文章の體裁、場面々々の變化 配置のエ合など、古いと云へば此れが一番古いかも知れない。たと ~ ば篇中至る所に偶然の出會ひがあり、 その出會ひを利用して筋を運んで行くやり方など、一と昔前の小説や戯曲に慣用された手段である。しか しそれにも拘はらず、その古い形式が題材の持っ近代的色彩と微妙なコントラストを成して、一種の風韻 を添 ~ てゐる。作者は表面緊張した素振りを現はさず、いかにも大儀さうに古めかしさうに書いてゐなが ら、その無愛想な筆の跡を最後迄辿って讀んで行くと、女主人公の君江と云ふ女性があざやかに浮き上っ て來るのに気がつく。のみならず、こ、には夜の銀座を中心とする昭和時代の風俗史がある。震災後に於 ける東京人の慌しく淺ましい生活の種々相がある。これはたしかに紅葉山入の世界でも爲永春水の世界で もない。「腕くらべ」は作者の過去の業績の總決算に過ぎなかったが、「つゆのあとさき」は齡五十を越え てからの作者の飛躍を示してゐる。私は何よりも先づ我が敬愛する荷風先生の健在を喜びたい。 〇 自然主義と云ひ、寫實主義と云ひ、今では既に時勢おくれの言葉であるが、私はかう云ふ作品を讀むと、 繪卷物式の書きかたも、使ひやうに依ってはいつの時代にも 昔ながらの東洋風な純客觀的の物語、 290