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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第20巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第20巻

近頃の少年たちはどうであるか知らぬ、が、私などが十三四歳の時分、初めて小説本と云ふ面白い讀み物 のあることを知り、それに親しみを覺えるやうになったのは、主として歴史を題材とした物語、所謂歴史 小説が世に行はれてゐたお蔭であって、現代を扱った作品に興味を感じ出したのはやゝ成人してから後、 先づ中學の一二年生頃からである。私は、ふとかう書き出しながら、自分が最初に讀んだ小説、童話や古 典物でない、今の世に謂ふ「創作」の體裁を備へた書物は何であったらうかと考へてみて、消え去った記 憶を辿って行くと、おばろげながら、村井弦齋の「櫻の御所」とか何とか云った題の歴史物を想ひ浮べる。 それが果して最初であったかどうかは分らぬが、兎にも角にも小説を讀んだ記憶としては最も古く、さう して今もその時に受けた感銘を忘れずにゐるのである。露伴先生の作品などでも、「毒朱唇」「綠外綠」等 の妙味を解するに至ったのはずっと後年のことであったが、「ひげ男」や「二日物語」は可なり早く、多 分小學校の高等三四年頃に讀んでゐた。その他、石橋忍月の「惟任日向守」、村上浪六の「井筒女之助」 歴等々の作品など、いづれも記憶にあるものは歴史物であって、現代物でない。つまり、少年の私が「大人 木の讀む文學」の存在を知り、それ ~ 入門するやうになったのは、歴史小説が手ほどきをしてくれたのであ る。蓋し少年時代には誰でも英雄を崇拜し、武將の話を聞きたがるものであるから、さう云ふ風な經路を 473

2. 谷崎潤一郎全集 第20巻

と同じ位置に据ゑられた經驗があるのだ。君は僕と絶交してから、始終作物を通して君の存在を千代子の 腦裡に刻み付けることを怠らなかった。或る時は孤獨の佗びしさを訴へ、或る時は彼女の境涯を憐れみ、 或る時は進んで僕の家庭を攪亂するやうな題材を擇んだ。君は詩の形を以て僕に挑戦状をさへ附きつけた。 今でこそ笑ひ話だけれども、當時の僕は、豫想してゐたこととは云へ、君の此の戀愛戦術には少からず參 ったものだ。もちろん君はどう云ふ時にも自己の良心に忠實であったし、藝術家としての品格を落したこ とはなかった。況んや僕は、自分の方に大きな落ち度のあったことを悔いてゐたから、君と云ふものを遠 くに置いて考へると、君がああいふ作物を書く心持ちには同情が持てた。たとへばあの「秋風のうた」や、 「秋刀魚のうた」や、何んと云ふ題であったか淋しい兄弟の會話から成る戯曲などは、讀んで覺えずホロ リとしたくらゐだった。 ( 君は小説の外に詩と云ふ武器を持ってゐるので、ああ云ふ時には實に好都合 ) が、多くの場合、僕と千代子との夫婦關係を全く無視した書き方を見せつけられては、折角遠くか ら抱いてゐた同情も一朝にして憎惡に變るのは已むを得なかった。ぜんたい君と僕との場合は、孰方も文 壇入であるから猶始末が悪い。僕のところへは月々の雜誌が寄贈される。而も僕の性質としては、妻に讀 まれて都合のわるいやうなものを隱すのがイヤだった。自然に放り出しておいても、妻がそれを手にだに 觸れずにゐる、と云ふやうにありたかった。君は恐らく、僕の此の横着と云はうか負け惜しみと云はうか、 兎に角さう云ふづうづうしい所のある性分を心得てゐたことだらう。それを知りつつ書いてゐるなと思ふ と、僕は一脣腹が立った。と云ふことは、うはべは鷹揚に構へてゐても、彼女が讀むかも知れないと云ふ 不安を抱いてゐたのであった。僕はあの時分、新闘に出る「改造」や「中央公論」その他の廣告を、どん 、戔 ) 0 322

3. 谷崎潤一郎全集 第20巻

取るのが當然であるが、分けてもわれ / \ の國に於いては、昔から立派な軍記物の文學があり、文學と歴 史との關係が甚だ密接なのである。これを古典についてみても、われらが最初に親しんだ文學は、西鶴、 近松、或ひは紫式部等の作品ではなくて、平家や、盛衰記や、太平記等の物語か、小説ならば八大傳、弓 張月等の馬琴物であった。今日でこそわれ / ( 、の作る文學はその大部分が現代物であって、歴史物や記録 物は所謂大衆文學の域へ追ひやられた形であるが、もしわれ / \ の文學史を繙くならば過去に於いては決 してさうでなかったことに気付くであらう。近松でさへ世話物よりは時代物の方を遙かに多く作ってをり、 その得意とする所も後者の方にあったことは、岡鬼太郎氏や永井荷風氏の指摘せられる通りである。封建 時代の常識に從へば、小説院本の類は讀み物として卑しいものであり、わけても日常市井の出來事を扱っ たものは最も卑しく、それに比べれば歴史の背景を持った物語、たとへば馬琴の作品等はいくらか品がい ゝのであった。それはなぜかと云へば、昔の人の學問と云ふものは、「今」を知ることではなくて、「過 去」を知ることだったからである。彼等の頭には時代が下れば下るほど「世が末になる」と云ふ思想があ 、敎養のある人間は常に過去の文化を憧憬し、努めてそれに倣はうとした。斯様に現代を蔑視する傾向 は東洋人の通性であって、支那でも事情は同じであったと思はれる。われ / 、、、の習った漢文學と云ふもの は、詩と、諸子百家との外は、その大部分が史記とか、左傳とか、通鑑とか、十八史略とか、日本外史と か、近古史談とか云ふやうな歴史的著述であり、さう云ふものこそ正系の文學と見做されてゐたのであっ て、歴史を除いたらわれらの散文々學の大牛は失はれてしまふであらう。 474

4. 谷崎潤一郎全集 第20巻

時、私の級を受け持ってゐた小學校の先生に哲學や文學の好きな人があって、此の先生が常に露作を褒め てゐた。紅葉よりも露伴の方がずっとえらい、第一學間が非常にある、だから書く物にも思想的の深みが と云ってゐた。その後中學校へ あって、通り一ペんの小説とは類が違ふ。あれはたゞの小説家ではない。 行ってからも、確か今の學習院の教授をしてをられる井久藏氏が先生であったが、矢張同じゃうなこと を云って、紅葉よりも露作の方を持ち上げてゐた。これは餘談であるが、勝海舟翁なども「露伴はえらい 餘程ひろく本を讀んでゐる。學問のない男は小説を書いても直きに種が盡きてしまふが、あの男はまだ / ( 、いくらでも伸びるだらう」と云ってゐたさうで、直接翁の話を聞いた人から私は又聞きしたことがあ ひかはせいわ る。 ( 海舟伯の文藝談は「氷川淸話」か何かにも載ってゐる筈である。 ) さう云ふ譯で、その頃の學者とか 敎育家とか政治家とか、知識階級の方面には露伴の方が評判がよかった。德田秋聲氏の話にも、氏が高等 學校時代にほんたうは露伴の弟子になりたかったのだが、餘り尊敬し過ぎてしまってその門を叩くのが恐 ろしく、それで紅葉山人の許へ行ったのだと云ってをられた。で、たとへば「對髑髏」など、云ふ作品を、 少年の私は頗る愛讀したものであった。紅葉の物は思想とか觀念とか眼じるしになるものがなく、ちょっ と見ると何の奇もない客觀的の作品であるから、寫實の妙とか、會話の機微とか組み立てのうまさとか云 ふものが、却って子供には分りにくかった。それに露伴の文章は古典の趣味が豐富であったので、讀みな がらその出典を考へるのが一つの興味であり、たまど \ それを捜し嘗てると、自分もたいそう學者になれ 舌たやうな気がした。「對髑髏」と云へば、あれは何處か「雨月物語」の「靑頭巾」を想はせる。さうして 一層よく似てゐるのは「二日物語」と「白峰」である。これは勿論露伴氏が「白峰」を頭に置いて書かれ たいどくろ 161

5. 谷崎潤一郎全集 第20巻

知れない。兎に角「た」止めの文章は齒切れがよく、爽快、新鮮、剛健と云ったやうなものには適するが、 纎細なもの、優婉なもの、暗示的なもの、象徴的なものを云ひ現はさうとするには、決してふさはしい文 體ではない。 前にもちょっと觸れて置いたやうに、日本語の表現の美しさは、十のものを七つしか云はないところ、言 葉が陰影に富んでゐるところ、半分だけ物を云って後は想像に任せようとするところにあって、眞に日本 的なる風雅の精神と云ふものはそこから發してゐるのである。尤もかう云ふと、それだから日本語は不完 全な國語だ、十のものを七つしか云はないのでは舌足らずがしゃべるやうで、到底歐洲語のやうに、説い て委曲を盡すことは出來ない、と云ふ入があるかも知れない。それは人々の考へやうだから、一概には片 附けられないけれども、私に云はせると、全體人間の言葉なんてさう思ひ通りのことを細大洩らさず表現 出來るものではないのだ。手近な例が料理法の本だとか、手品の説明書なぞを讀んでも、それが日本文で あらうと英文であらうと、圖解でも這人ってゐなかったら中々分るやうには書けてゐないではないか。言 試みに鰻 葉と云ふものはそれほど不完全な、微細な叙述になって來ると一切實用にならないものなのだ。一 = をたべたことのない入に鰻の味を分らせるやうに説明してみろと云ったって、何處の國の言葉でもそんな が豊富なために、さ 災場合の役には立つまい。然るに西洋人と云ふものは、なまじ彼等のヴォキャブラリー 該う云ふ説明の出來得べくもないことを、何とか彼とか有らん限りの言葉を費して云ひ盡さうとして、その 二 11 ロ 代くせ核心を掴むことは出來ずに、愚かしい努力をしてゐるやうに私には見える。獨逸語は哲學の理論を述 べるのに最も適してゐるのださうだが、それにしても作者自らが此れで充分と思ふ程には決して云ひ盡せ 207

6. 谷崎潤一郎全集 第20巻

伴を以て紅葉と同じ高さに、若しくは共れ以上に持ち上げたものは多く學者側の人々であった。が、今日 になって見ればどうであるか ? 試みに明治二十年代に書かれた「風流佛」や「一口劒」を以て同じ時代 きやらまくら の「夏痩」や「伽羅枕」に比べて見るがい、。 兩者の徑庭はもはや識者を俟たずして明かではないか。學 者が露伴氏を褒めたのは、その物語の中にある一種の觀念が気に入ったからであって、つまり藝術に感じ たのではなく思想に感じたのである。 ( 斷って置くが、私はあの頃の小説家としての露伴氏を論じて居る ので、露伴氏全體を批評して居るのではない。「爛言長語」や、「幽情記」や、「運命」の作者としての露 伴氏は、私の最も敬慕して已まない人である。 ) 「夏痩」や「伽羅枕」の中にはどんな観念があり、どんな 思想があるか、學者に云はせたらあの中には田 5 想らしい思想などは何處にもないかも知れない、が、あれ を讀めば理窟なしに無限の感興が津々として盡きないのを覺え、春風駘蕩たる恍惚境へ惹き人れられる。 春風駘蕩と云ふ形容詞は、紅葉山人の場合に於いて特に適切な言葉であるが、すぐれた藝術には、たとひ 思想問題を取り扱ったものであっても、何等かの形で理窟なしに人を動かす氣力が溢れて居るものである。 さうして其の力は、思想の力や論理のカよりももっと強く、もっと直接に人間の胸臆へ或る訷韻を傳へる。 そこが藝術の有難いところである。 漱石氏のものでも、前期の作品には、たしかに藝術的感激を以て書いたと思はれるものが少くない。「猫」 言や「坊っちゃん」などは、暫く讀まないが、今讀んで見てもきっと惡くはないだらうと思ふ。「それから」 術を讀んだ時は、私は最も漱石氏に傾倒した一人であった。キザだと云はれる「虞美人草」や「草枕」にし ても、近頃讀み返して見たが、「明暗」よりは遙かにい、。 殊に「草枕」は傑作の部に屬すると思ふ。キ いっこうけん

7. 谷崎潤一郎全集 第20巻

一かの生計を立てる。又東京風な派手な家庭と云っても、それが決して東京のやうでない。東京人のは裏 も表もなく、派手なら何處迄も派手なのだが、此方のは表が派手でも人の目に附かない裏の方できっと締 め括りをつけてゐる。 京阪人のしまりやの例を擧げたら際限もないが、私の目撃した一二を擧げると、嘗て京都の或る肉屋へす き焼きを食べに行った時、連れの婦人が生卵の殘ったのを袂に人れて歸ったことがある。而もその婦人と 云ふのが、町方の女房でゞもあることか、一流のお茶屋の仲居なのだから驚かざるを得ない。それから、 マンがポ 大阪で變な気がするのは、夕方、阪神や阪急の終點に立ってゐると、そこへやって來るサラリ 1 ケットから讀み終ったタ刊を出して、スイとタ刊賣りの前に突きつける、するとタ刊賣りの小僧がそれを マンはその新しいタ刊を又急いでポケットに收めて行く。 受け取って他の新聞の夕刊と交換する、サラリー かう云ったのではまだ何んのことか東京人には分らないかも知れないが、大阪では云ふ迄もなく大朝大毎 の夕刊が最も多く人に讀まれ、從って最も早く賣り切れになり、他の夕刊は大概持ち腐れになって、夜が 更けると三枚で三錢とか五錢とか云ふ風に安くして賣ってゐる。 ( 夕刊は大朝よりも大毎の方が早く賣り 大切れる。夕刊賣りの中にもなか / \ こすいのがゐて、「朝日と毎日」と云って買ふと、上に朝日か毎日を 及載せて下に外の新聞を重ねて寄越す奴がある ) そこで、大朝か大毎の夕刊であれば、それを早く讀んでし 阪 大まって ( 但し、あまり皺苦茶にしないやうに鄭重に讀むことが肝心 ) 夕刊賣りに與 ~ れば、喜んで他の新 の聞の一枚と交換する譯だ。つまり、大朝大毎二種の夕刊の代價をもって四種の夕刊を讀むことが出來る ! 改札口を出て來た男がスイと新聞 大阪よりも實は上筒井の終點に於いて甚だしば / \ 見る光景なのだが、 381

8. 谷崎潤一郎全集 第20巻

ければほんのスケッチ風の小品であるから、今昔とか、榮華とか、大鏡とか、在り來りの材料から種を仰 いだに過ぎないけれども、直木君のは多く堂々たる長篇であって、その方面のことはよく分らないが、 ぶッきらばうであ しい研究や學説なども相當に取り入れてあるらしい。氏の書き方がいかにも無雜作で、、 るから、ついうつかりと讀み過すが、讀んでしまってから成る程これは新解釋だと気がつくことがある。 養老の話などは氏の獨創かどうか知らないが、一寸面白い見方であった。但し、時には單なる歴史上の 説にするよりは論文か隨筆にした方が適するやうな概念的な作品もある。「常 盤」は「源九郎義經」の準備作とも云ふべきものだから、そのつもりで讀めば讀めるけれども、叙述が説 明的で、大撮みで、粗ッほくて、血や肉が添ってゐない。あれなどは氏の缺點を露骨に示した代表的な惡 作で、大物浦の義經も、あれだけのことなら「讀史餘論」を讀んだ方が早いやうな気がする。「道三殺生 傳」にしても、油賣りの莊九郎が女房を連れて京都から美濃へ下る道中のあたりは面白く讀んだが、先へ 行くと、括弧をしては道三の心理をモノロ 1 グ風に叙し、且そのモノロ 1 グに托して筋を運んだり環境の 説明をしたりすると云ふ横着な遣り方が眼について、感心出來ない。ぜんたいあの、括弧を使って作中の 人物の心理を獨白體で述べると云ふ方法は、里見君が元祖であったと思ふが、今ではあれが大衆作家の慣 用手段になってしまった。直木君の如きは最も頻繁にあの手を使ふ。里見君が現代物に使ふ場合は、こ、、 からこ、までが此の人物の心持ちだぞと、讀者に分らせるための親切から出てゐて、短い文句が多いから、 さう眼障りでもないけれども、それでもあまり體裁のい、ものとは思へないので、私は一寸賛成しかねる。 これは私一家の趣味ではあるが、成るべくなら主觀と客觀とのつなぎ目がばやけてゐる方が、會話や地の 「見解」の紹介に止まり、少 494

9. 谷崎潤一郎全集 第20巻

佐藤君 君は當時、あの激しい鬪爭の中にありながら、「僕等にバルザック程の才能があれば此の事件からどんな 立派な作品が生れるか知れないのだがなあ」と嘆聲を洩らした。さうして僕もその嘆聲には同感であった。 君と僕とは、千代子を中心に男子として爭ったのみならず、他日その事件を題材とする作品に於いて、藝 術家としての爭ひをなすべき運命を擔ったかのやうに見えた。 そののち、君の「此の三つのもの」が「改造」誌上に連載され出したのは、たしか大正十四年中だったと 記憶する。君はあれを書きつつある最中に僕と和解し、且あの作品には君自身不滿の點が多いと云ふ理由 で、遂に完成せずに終った。が、實を云ふと、僕はあれが出たことを新聞の廣告で知った時、「とうとう 書いたな」とも感じたが、同時に、「まだ書くのには早過ぎる」と感じた。第一僕にしても、あれを讀ん で公平な批評をすることの出來る心境に達してゐなかった。僕は讀まずにゐられないで讀みはしたものの、 そのため折角君に對して暖かい感情を持つやうに仕向けて來た自分の心が、不必要な憎惡で掻き亂される のを恐れた。僕の抱負を云へば、荷くもあの事件を扱ふ以上、一方の相手がそれを讀んでも覺えずその出 來榮えに頭を下げ、過去の一切の恨みを忘れて讃歎せずにはゐられないやうな物を書く、 それだけの意氣込みを以てかからなければ駄目だと思ってゐた。僕は君が、どれ程の覺悟であの創作を起 稿したのかよく知らない。或ひは君のことだから、一度に畢生の大作を意圖した譯ではなく、生涯に何度 332

10. 谷崎潤一郎全集 第20巻

〇 關西に長く住んで、上に述べたやうないろ / \ の人情、風俗、習慣を知り、さてその後に文樂の人形芝居 を見ると、從來東京人の眼で見たのとは全く違った印象を受ける。蓋し、あの人形芝居と現代の大阪人と の關係は、默阿彌劇と今の東京人との關係とは違ふ。默阿彌劇に現はれる舊幕乃至明治初年頃の世相は、 今日の東京人が見ると既に一時代も二時代も過ぎ去った古典の世界のやうに感じるが、大阪人が見る人形 芝居は恐らくさうではあるまい。彼等はあの芝居の中に、自分達の環境や生活感情に近いもの、あるのを 覺え、そのために身につまされたり同情の涙をしばったり、又は云ひしれぬなっかしさを感じるのであら う。少くとも四十臺五十臺の大阪人があれを見れば、自分達の少年時代を憶ひ出して北い囘想に耽るであ らう。それは何も梅忠や紙治の如き世話物に限ったことはない、淨瑠璃劇と云ふものが最初から大衆を目 なちんまりとした家が並び、格子を開けた取っ着きの六疊に長火鉢が置いてあって、柱や板の間などっや ノ \ と拭き込まれ、袢纒着の主が意気な上さんと小鍋立てゞもしてゐようと云ふ路次の生活、 以前 はお店者や職人など皆さう云ふ所に住んだものだが、あれがまだ此方には船場や島の内の中心地にさへ澤 山ある。關西も東京の眞似をして巨大なビルディングが追ひ / \ 殖えて行くけれども、それは幹線道路附 近だけのことで、一遍燒け野原にでもならない限りあ、云ふ町の情景は案外餘命を保つことであらう。先 斗町なども火事があったら最後再建築を許さない方針ださうだが、まだ / 、、當分は亡びさうもないのは嬉 たなもの あるじ 392