もう餘程前に死んだ英國の滑稽作家にジェロ 1 ム・ケー ・ジェロ 1 ムと云ふ人がある。此の人の書いた 「ノ 1 ヴェル・ノ 1 ツ」と題する本の中に、小説なんて要するに下らないもんだ、昔から世に著はれた小 説は濱の眞砂の數よりも多く、何千何百何十萬册あるか知れぬが、どれを讀んだって筋は極まり切ってゐ る。煎じ詰めれば「先づ或る所に一人の男がありました、さうして彼を愛してゐた一人の女がありまし Once upon a time, there lived a man and a woman who loved him.' と、結局そ れだけのことちゃないかと云ってゐる。 それから又、佐藤春夫から聞いたのだが、ラフカディオ・ ーンの何かの講義録の中に、「小説と云ふも のは昔から男女の戀愛關係ばかりを扱ってゐるので、自然一般が戀愛でなければ文學の題材にならないや うに考へる癖がついてしまったが、しかしそんな筈があるべきではない。戀愛でなく、人事でなくとも、 隨分小説の題材になり得るのであって、文學の領域と云ふものは元來もっと廣いのである」と云ふ意味が 絶述べてあるさうである。 愛以上、ジェロームの諷刺と云ひ、 1 ンの意見と云ひ、西洋では「戀愛のない文學」や「小説」が餘程不 思議に思はれてゐることは事實であるらしい。尤も可なり古くから政治小説、社會小説、探偵小説等があ 241
ゃうに、背中から二の腕から腋の下まで、露出してゐる肉體のあらゆる部分へ濃い白粉を塗ってゐるのだ が、それでゐて、やつばりその皮膚の底に澱んでゐる暗色を消すことが出來ない。ちゃうど淸冽な水の底 にある汚物が、高い所から見下ろすとよく分るやうに、それが分る。殊に指の股だとか、小鼻の周圍だと か、襟頸だとか、背筋だとかに、どす黒い、埃の溜ったやうな隈が出來る。ところが西洋人の方は、表面 が濁ってゐるやうでも底が明るく透きとほってゐて、體ちゅうの何處にもさう云ふ薄汚い蔭がさ、ない。 頭の先から指の先まで、交り気がなく冴える、と白い。だから彼等の集會の中 ~ われ / \ の一人が這人り 込むと、白紙に一點薄墨のしみが出來たやうで、われ / \ が見てもその一入が眼障りのやうに思はれ、あ まりい、気持がしないのである。かうしてみると、嘗て白晳入種が有色人種を排斥した心理が頷けるので あって、白人中でも神經質な人間には、社交場裡に出來る一點のしみ、一人か二入の有色人さへが、気に ならずにはゐなかったのであらう。さう云 ~ ば、今日ではどうか知らないが、昔黒人に對する迫害が最も 激しかった南北戦爭の時代には、彼等の憎しみと蔑みは單に黒入のみならず、黒入と白人との混血兒、混 血兄同士の混血兒、混血兒と白入との混血兒等々にまで及んだと云ふ。彼等は二分の一混血兒、四分の一 混血兒、八分の一、十六分の一、三十二分の一混血見と云ふ風に、僅かな黒人の血の痕跡を何處までも追 究して迫害しなければ已まなかった。一見純粹の白入と異なるところのない、二代も三代も前の先祖に一 人の黒人を有するに過ぎない混血兄に對しても、彼等の執拗な眼は、ほんの少しばかりの色素がその眞っ 白な肌の中に潜んでゐるのを見逃さなかった。で、斯くの如きことを考 ~ るにつけても、 いかにわれノ ( \ 黄色人種が陰翳と云ふものと深い關係にあるかヾ知れる。誰しも好んで自分たちを醜悪な从態に置きたが 548
もおろそかに思ってはならないが、俳優としてはいろいろな場合の經驗を積み、舞臺のコツを呑み込むこ とが最も肝心なのである。さうして始めて、することに巧味が出るやうになり、無爲にしてその役に化す ると云ふ域に達することが出來る。 次ぎには此れも十數年前、友人の某君が新劇の靑年俳優某々氏等を糾合して純文藝映畫を試作したことが ある。嘗時それ等の俳優諸氏は最も文藝に理解のある新人を以て目され、又常に高級な戯曲のみを選んで 熱演する眞面目な人々であったが、その映畫の試寫に呼ばれて行って感じたことは、監督や編輯や筋のよ しあしは二の次ぎとして、何よりも畫面に現はれる彼等の顏に巧味がない。その頃の映畫は最初に登場俳 優を一人一人キャメラの前に呼び出して紹介すると云ふ寫し方であったが、しかし苟くも俳優である以上、 おのづか 無表情で觀客の前に立っても自ら眼の配り方が違ひ、何かしらその顏に巧味があり魅力があって然るべき である。たとへば、寄席藝人が高座に現はれれば、もう挨拶する前から一種の人なっこい愛嬌が客を惹き つける。淨瑠璃の太夫が見臺を前にしてまだ一と言も語り出さない時、矢張り滿場をシ 1 ンとさせるだけ の気魄がただよふ。戦場往來の古武士に接すれば劍戟の光り軍馬の嘶きが眼前に髣髴とするやうに、藝人 には藝人特有の、劇場とか寄席とかの雰圍気を感じさせる味ひが顏に備はってゐる。或る人の話に、所作 舞臺の雛段に居並んで唄を謠ったり三味線を彈いたりする長唄や淸元の藝人連中は、素顏で地頭で登場す い男には見えないが、それでも彼處へ出てあれだ るので、俳優に比べれば見劣りがし、いづれもあまり、 しろうと けに見えるやうになるには、相當に場數を踏んでゐるのである、ただの素人がいきなりあんな所へ出たら、 どんな美男子でもとても汚く無細工に見える、それがその道に年期を人れると、醜男は醜男なりに可笑し 425
を取る者ではないが、 しかし現今のやうな文壇にかう云ふ作家のかう云ふ作品もたまにはあって欲しいと 思ふ。ぜんたいわれ / \ の傳統から云へば、小説と云ふものは此の程度に人間の動きを寫せばい、譯なの だ。少くとも斯くの如き作品に對しては、「性格が描けてゐない」とか「タイプだけしか出てゐない」と か云ふ風にばかり見たがらないで、乍者 ゞ、ゝに材料を扱ってゐるか、その扱ひ方にも眼をつけるべきだ。 藝術品の持ち味はどう云ふ所にころがってゐるか分らないもので、何も性格を描くばかりが能ではない。 大勢の人物を登場せしめてそれを書き分ける時なぞ、タイプだけ出てゐれば澤山で、さう一人々々の性格 まで書ける筈もなく、そんな必要もない。それに又、もと / \ タイプ以上に人間が描けるかどうかも疑問 である。西洋流に内部へ細かく掘り下げて行くのもい、が、そのために却ってうそらしくなったり、獨り 合點になったり、イヤ味になったり、やにツ濃くなったりする嫌ひがないでもない。昔の作家が人間を人 形の距離にまで遠ざけ、或は全く機械の如く扱ったのも一理があると考へられる。 〇 む 讀 を書き方に愛想がないと云へば、此の小説の始めの部分、 ( 一 ) と ( 一 D のあたりは最もそれが甚しい ャア 「こいつ。ひどいぞ。」と矢さんは撲つまねをするはずみにテーブルの綠に在ったサイダアの壜を倒す。 あ四五人の女給は一度に整を揚げて椅子から飛び退き、長い袂をか、ヘるばかりか、テ 1 ブルから床に滴 の と・はしり - ゅ る飛沫をよける用心にと裾まで摘み上げるものもある。君江は自分の事から起った騷ぎに據所なく、雜 っ 巾を持って來て袂の先を口に啣へながら、テ 1 ブルを拭いてゐる中、新しく上って來た二三人連の客。 297
も、到底西洋哲學の巍たる組み立てや、奥深さには及ぶべくもあるまい。淺學な私はよく知らないが、 最も物質的だとされる亞米利加にでさへ、ワルデンの森の聖者ト 1 ローがゐる。タゴール翁の云ふやうな 意味での聖人高士も、捜したら隨分西洋にゐるであらう。要するに釋迦と基督とマホメットの三教祖を亞 細亞から出してゐると云ふ以外、東洋がより精神的だと云ひ得る根據はないやうに思ふ。たゞ西洋に比べ て物質的の方面が著しく劣ってゐる爲めに、精紳的の方面ばかりが眼立つのではないか。タゴ 1 ル翁のや うに物質文明を呪咀し、輕蔑するのもい、が、徹底的にその論理を推し進めれば、あらゆる近代科學上の と云ふことになる。そんな不便 發明や設備は不必要になり、汽車も電車も無線電信も飛行機もいらない、 な生活でも差支へないのか、第一翁自身は物質文明のお蔭を蒙ってゐないのか、物質文明を排斥する結果 自分の國が亡ばされてしまっても構はないのか、さう云ふ點が一向何とも説明してない。それでは全くの 室威張りであり、負け惜しみである。翁が西洋で持て囃され、亞米利加あたりでひどく歡迎されてゐるの は、翁の思想や學識の爲めではなく、寧ろその聖者らしい優雅な風貌、美しい發音の英語の力に負ふとこ ろが多いのであらう。東洋人は偉い人ほどおしゃべりをしない、外に向って宜傳しない。亞米利加あたり で持て、ゐる日本人にはロクな奴は一人もない。紳士淑女にお世辭を云ふのが上手な、見てくればかりの 喰はせものである。翁が鄕國の印度に於いて餘り人気がないと云ふのは宜なる哉と私は思ふ。 せきじゅここうめいをう なほもう一人東洋主義のチャンビオンとも云ふべき人は、支那の碩儒辜鴻銘翁である。此の人も物質文明 舌の排斥屋で、東洋の精神文明を高調するけれども、タゴ 1 ル翁と同様に獨斷的で、室威張りと云はれても 仕方のないところがある。東洋の經濟は消費者を主にした經濟であり、西洋のそれは生産者を主にした經
眼の士とされ、くさした人は理解がなかったことになる。「シルレルの手袋はゲエテには篏まらない」と 云ふ諺が獨逸にある、それはシルレルよりもゲエテの方が偉大だと云ふ意味であるが、今日になってこそ 其の偉大さがほんたうに分るのである。ゲエテが沙翁やダンテに比肩し得る最大の藝術家であることは、 もはや今日では誰も疑はうとはしない。そこでわれノ ( \ はゲエテを萬世の師表と仰ぎ、此の大先生の云っ たことなら間違ひはあるまいと思ひ、自分の意見が大先生の意見と衝突した場合には、自分の方が間違っ て居るのぢゃないかと云ふ風に反省する。ポオドレエルの「惡の華」が出た常時、多くの人は毀譽褒貶に 迷ったに違ひない、が、 彼と同時代の最大の藝術家たるユ 1 ゴ 1 は何と云ったか ? 「ダンテは地獄を見 て來た詩人であるが、君は地獄に生れた詩人だ」と、さう云って彼はボオドレエルを推擧した。 此 の言葉は、今日になって見ればボオドレエルの境地を眞によくも理解した、動かすべからざる名言であっ きうていたいりよ 1 ゴ 1 が褒めたと云ふことは、「惡の華」の價値をして九鼎大呂よりも重からしめると同時に、ユ 1 ゴ 1 その人の感受性がいカ ゝに鏡敏であり、博大であるかを證據立てる事實である。要するに多少の時を 置きさへすれば、それがほんたうの藝術であるか、どのくらゐの價値があるかに就いての、一般の意見は ゴ 1 のやうな 定まって來るものであって、一面から見れば「時」が公平な批評家ではあるけれども、ユ 1 その道の達人は「時」を待たないでも物の眞價を洞察することが出來る。現在の物を現在の人が批評する 言際に、誰の云ふことが中って居るか、誰の感覺が勝れて居るか、まるで標準がないやうに見えるけれども、 おのづか 術しかし藝術的感覺の敏不敏と云ふことは立派に有り得るのであって、「時」が立てば自ら共の優劣が ( ッ キリと分って來る。だからわれど、は藝術を批評する場合に、 ( 創作でも同じだが、 ) 「時」と云ふものを
ことを諷すること、肯定するやうにして否定すること、前提だけ云って結論を言外に示すこと等、まるで 謎をかけるやうな遠廻しな云ひ方で、何處までも禮儀を失はずに體裁よく防禦し、或は攻撃し、それで目 的を達するのだから恐ろしい。尤もこれは大阪人同士でなければ駄目で、一方が東京者だと、謎があまり 婉曲すぎて飛んだ穿き違ひをしたり、わざと知らぬ振りをしてゐるやうに取られたり、結局孰方かゞ腹を 立てるやうなことになる。私なども扨はさうだったのかと後で氣が付いて、そのために大變気の毒な思ひ をしたり、又は腹が立って來ることがしば / \ ある。これは東京人が大阪人を相手にする時に必ず心得て おくべきことで、いつでも金錢上のことは決して言葉通りに取ってはいけない。たとへば祝儀をやるのに も、たって辭退するのを無理に懷へ押し込むやうにしなければ受け取らない、が、そんなら欲しくないの かと云ふとさうではない。 さう云ふ風にして受け取り、又受け取らせるのが、此方では常識になってゐる のだ。 ( 東京では近頃書生流になって祝儀袋を使はないが、此方では祝儀に限らず、女同士の金の遣り取 りにはたとひ一圓札一枚でも一寸半紙に包んで渡す。懇意な仲でもムキ出しにはしない ) 假に東京人が大 阪人に無心に行くとする。ところが相手はいつまでたっても確答を與へないので腹を立て、歸る。しかし 人 大大阪人の方では實はちゃんとイエスかノ 1 かを雜談のうちにほのめかしたつもりなのだ。そのほのめかし 及方が、土地の人同士なら立派に明答として通用するのだけれども、東京人はアケスケな言葉に馴れてゐる 阪 ので、その謎を悟らない。私は、東京人が大阪人をズルイと云ふのはその邊の誤解が餘程手傳ってゐると の思ふ。ズルイのではなく、それが大阪人の禮儀なのである。大阪人にしたら、喧嘩ッ早い東京人を怒らせ ないやうに、なるたけ失禮に聞えないやうにと、一生懸命に苦心をして意志を表明してゐるのである。け どっち 3R7
此の間左團次一行が露西亞へ行った時、あちらで歌舞伎劇の紹介に動めたレニングラ 1 ドのコンラド君が 二三年前に來朝した折、コンラド君、同夫人、及び關西に在住する日本文學通の露人プレトネル君、ネフ スキ君、及び私と、奈良ホテルに會合したことがあった。その時のコンラド君の話に、今の露西亞で私の 「愛すればこそ」を譯してゐる人があるのだが、第一に此の標題の飜譯に困ってゐる、「愛すればこそ」は、 一體「誰」が「愛する」のですか、「私」が「愛すればこそ」なのですか、「彼女」がですか、それとも 「世間一般の人」がですか、要するに主格を誰にしてい、かが明瞭でないと云ふのであった。私はそれに 答へて云った、「愛すればこそ」の主格は此の戯曲の筋から云へば「私」とするのが正しいやうである。 だから英譯では「ビコ 1 ス・アイ・ラヴ」となってをり、佛譯では「ピュイスグ・ジュ・レイム」となっ てゐる、しかしながら、本當を云ふと「私」と限定してしまっては少しく意味が狹められる、「私」では \;' あるが、同時に「彼女」であってもい、し、「世間一般の入」でも、その他何人であってもい、、それだ けの幅と抽象的な感じを持たせるために、此の句には主格を置かないのである、それが日本語の特長であ 缺って、歐洲語では主格を入れないと語を成さない場合でも、日本語ではそれを必要としない、曖味だと云 紋 ~ ば曖味だけれども、具體的である半面に一般性を含み、或る特定の物事に關して云はれた言葉がそのま 二二ロ 代、格言や諺のやうな廣さと重みと深みとを持つ、だから出來るならば露西亞語に譯すのにも主格を入れな 1 い ~ 刀」かい
いったい私は、自分が代々の東京人であるにも拘はらず、東京と云ふところを餘り好ましく思はない。東 京人には故鄕がないと云はれるが、私のやうに下町で生れた人間は、その下町が全く形態を改めてしまっ た今日となっては、猶更愛着がない譯である。尤も私の東京嫌ひは震災以前からのことなので、復興後の 昨今は、たまに行って見るとさすがに近代都市の美觀を感ずるけれども、しかし何となく埃ッぽい、落ち 着きのない、カサカサした空気は相變らずである。道路や建築がいくら立派になっても、市民の間に漫剌 とした復興莱分らしいものは認められず、往來で行き遇ふ人が皆血色の惡い靑い顏をしてゐるか、狼のや うなトゲトゲしい眼つきをしてソハソハしてゐる。そして忙しさうに見えるのも、希望があって働いてゐ るのではなく、 一般に人心が荒んで、絶望的に齷齪してゐるのである。蓋し日本全體の現下の人気がさう なってゐるので、それが政治の中心地だけに一脣濃く現れてゐるのでもあらう。ところで「つゆのあとさ き」には、さう云ふ東京のロ 1 カルカラ 1 が實によく出てゐる。こ、に描かれてゐる女給群や、二階貸し をしてゐる婆さんや、賣ト者や、運轉手や、淸岡を取り卷く有象無象や、その他の有閑階級の紳士連や、 それらはいづれもほんの一寸しか顏を出してゐないのだが、いかにも東京によくあるタイプの人々であっ こわね て、僅か二三行の説明を讀んでも直ちにその顏つきや聲音が想像されるのである。かう云ふことは親しく 東京に住んでゐる者には却って氣がっかないであらうが、私のやうに東京を知って東京を離れてゐると、 それがよく分る。一人々々を取り立て、みては左程でもないけれども、各方面の東京タイプの代表者とも 300
饒舌録 ゐるやうなところがあって、とんと勝手が違ってしまった。あの詩人風な人にこんな方面もあるのかと思 って、甚だ意外な感じがした。が、 最近に至って出版された二つの歴史小説は、筋は簡單で、結構配置の 上に面白味はないけれども、自叙傳と同じく詩趣横溢した抒情的気分で、「エロイーズとアベラール」の 如き二册で五百何十ペ 1 ジもあるものを、飽かせずに引き擦って行く。二人が中世紀の巴里の都はリュ ウ・デ・シャントルからオルレアンへ駈け落ちをするところなど、一讀三嘆、まるで淨瑠璃の道行きを聽 くやうである。それに會話をいち / ( 、行を改めず、クオテ 1 ションマークもつけずに地の文と續けて書い てあり、 2 He said ごとかニ She said ごとかの斷りもなしに、二人の言葉が一つのセンテンスの中に織り 込まれてゐるところなどもあって、一種の新體を開いてゐるのが、支那や日本の物語の書きざまに似てゐ る。「ユリックとソラハ」の方は餘りに一本筋に過ぎ、且私には馴染のない愛闌土の昔語りなので少々退 屈するが、文體は前者と同じで、部分々々には矢張美しい。かう云ふ風に、筋で持って行かずに気分や情 調で持って行く歴史物も亦捨て難い。その代り此れで長篇を書くのは隨分むづかしからう。義太夫や平家 琵琶を十段も聽かせるのと同じ手際がいる。 ム 1 アは既に六十幾つか七十以上か、よくは知らないが、餘程の歳に違ひなからう。あ、云ふ肌合ひの人 が、あの歳になって尚あれだけの勞作をする元気があるのは、矢張西洋人の體質である。 今月は東洋主義と云ふことに就いて少ししゃべって見ようと思ふ。實は此の事は座談的でなく、秩序を設 アイルランド