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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第20巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第20巻

ながらも、私のデスクの左右にある書棚の上には、亞米利加の活動雜誌と共に高靑邱や呉梅村が載って 居る。私は仕事や創作の爲めに心身が疲れた時、屡よそれらの雜誌や支那人の詩集を手に取って見る。 モ 1 ション・ビクチュア・マガヂンや、シャドオ・ランドや、フォオトオ・プレエ ・マガヂンなどを開 く時、私の室想はハリ 1 ウッドのキネマ王國の世界に飛び、限りない野心が燃え立つやうに感ずるが、 さて一と度び高靑邱を繙くと、たった一行の五言絶句に接してさへ、その閑寂な境地に惹き入れられて、 今迄の野心や活漫な空想は水を浴びたやうに冷えてしまふ。「新しいものが何だ、創造が何だ、人間の 到り得る究極の心境は、結局此の五言絶句に盡きて居るぢゃないか」と、さう云はれて居るやうな気が する。私はそれが恐ろしいのである。 此の後の私はどうなって行くか、 今のところでは、成るたけ支那趣味に反抗しつ、、やはり時み 親の顏を見たいやうな心持で、こっそりと共處へ歸って行くと云ふやうな事を繰り返してゐる。 私が此れを書いたのは五六年前のことだが、この誘惑は今も變りがないばかりか、却ってだん / 、 強められ、深められて行くのである。子供の時分には刺身よりもオムレツがうまかったのに、今では全然 反對である。いっぞや何かにも書いたやうに、几そ食ひ物のうちで一番まづいのは西洋料理だと思ってゐ る。酒も灘五鄕の近くにゐるせゐか、結局日本酒が一番うまいことになってしまった。全體日本人の皮膚 の色を考へても、西洋の料理や食卓の器具は何だか感じがしつくりとしない。漱石の「草枕」の中に、西 舌洋菓子には羊羹のやうな深みを持った色彩のあるものが一つもないと云ってあるが、私は今にしてあの言 饒 葉を想ひ出す。西洋入の白い膚には明るく冴えたものが映るけれども、東洋人の黄色い皮膚には深く沈ん

2. 谷崎潤一郎全集 第20巻

あにはか 方は最初からその紳士を尊敬し、いろイ \ 教へを乞ふやうな態度で話し出して見ると、豈圖らんや靑年の 方がずっと委しく歐米の文學に通じてゐる。青年はその紳士の知らないやうな片假名の名前を盛んに並べ 立て、煙に卷いた。紳士は靑年が歸ったあとで、「あの人は何と云ふのですか、非常な物識りですねえ」 と云って驚いてゐた。しかしながらこの靑年は時映畫監督の助手か何かをしてゐた男で、新進作家でも 文學志望者でもなかったのである。紳士は歸朝したばかりで、事情を知らなかったから驚いたのだが、今 の日本の靑年は特に文學好きでなくっても、大概此の程度の物識りではある。彼等は東洋のクラシックは 知らないけれども、實によくいろ / の飜譯を讀む。恐らく世界中で、今の日本の靑年くらゐ各國の文學 藝術をかじってゐる者はないであらう。多くの亞米利加人はユーヂン・オネ 1 ルを世界一の戯曲家だと思 ってゐても、アルツウル・シュニツツレルの名は知らない。同様に英吉利人は餘所の國のことは知らない ナ 1 ド・ショウを偉いと信じ、佛蘭西人はアナト 1 ル・フランスあたりを推すであらう。然るに日 本の靑年は自國のものは第二として、世界各國の文學を漁る。さうしてそれが新しいとなってゐる。とこ ろが彼等のこの該博な世界的知識は、皆恐るべき惡文の飜譯に依って得られるのである。私も少しばかり 佛蘭西語を稽古した時分に、原文のモウ。ハッサンを讀み、今まで飜譯で讀んでゐたモウ。 ( ッサンとは大變 な相違なのに驚かされたことがあったが、今の靑年の知識と云ふのは、皆飜譯のモウ。ハッサンなのである。 、。私の學生時代には大陸文學の飜譯は多く英語からの重譯であ 無論飜譯でも知らないよりは知る方がい 舌ったが、此の頃はさうでもなさ、うだし、大分上手になっても來たから、一概に惡くは云へないけれども、 それでも歐羅巴と日本とは言語の性質が全く違ってゐるのだから、斯くの如くにして西洋の文脈が這入っ けむ

3. 谷崎潤一郎全集 第20巻

であらう。だがそれにしても彼女に依ってその素質が著しく成長し、僕の作物にまで影を映すやうになっ たことは事實だ。彼女と云ふものがなかったら、始めから今の丁未子のやうな婦人を妻にしてゐたら、僕 の過去半生は今と違ってゐただらうことも、恐らくは確かだ。尤も僕はかう云ったからとて、それを恨む のでも悔むのでもない。。 とんな境遇に置かれたにしても、僕は僕に備はっただけの力しか出せないし、又 それだけは必ず出せるものと思ふ。家庭の幸ばかりが幸の全部ではなし、何も人生である以上、斯く の如くにして彼女から影響を受け、斯くの如くにして君と不思議な因綠を結び、斯くの如き間に在って我 が子がいかに生ひ立つかを見るのも亦一つの樂しみだ。 いづれにしても、現在の僕はさう云ふ過去を背負って立ってゐる。千代子はもはや僕の妻ではないけれど も、その影響は今もなほ僕の中に生き、僕の性格の一部を成してゐる。だから僕としてその記憶を葬むり 書去るには忍びないし、葬むらうとしても出來ないことなのだ。 る 五ロ 1 一 1 一口 を 生 過佐藤君 ~ 君は僕が君の現在の夫人について斯う云ふ風に語ることを、どう感ずるだらうか。このことが何か君の家 庭や君等の生活に迷惑を及ばすだらうか。 夫 藤普通の人情を以てすれば、自分の妻の前の夫から妻の思ひ出を聞かされることは、あまり好い心持ちがし 佐 ないに違ひない。それは現在の夫婦に取って迷惑千萬であるかも知れない。けれども僕等のあひだにはそ 319

4. 谷崎潤一郎全集 第20巻

はポッキリ折れたのだ。それから間もなく、二人相擁して泣き崩れる場面が展開したのだ。夫婦の間にこ んなことは今迄なかったことだった。而も彼女はその場面で、僕が大正七年の秋に支那へ旅行した時、二 た月の間孤閨を守りながら夜な夜な僕の寫眞を肌に附けて寢ましたなどと語るではないか。何を隱さう、 僕は彼女に憎まれて別れたくはないのだ。別れた後も僕を見ること君の如く、君を見ること僕の如く ーさう云って惡ければ、君の中に僕と云ふものがあると思って欲しかったのだ。 0 佐藤君 君は小田原の僕の家を最後に出て行く時に、「もし谷崎が今後お千代さんを欺くやうならば、いつでも僕 は引き取りに來ますよ」と彼女の砠母に云ひ置いて行ったさうだ。 僕の望みは、今一度彼女を昔の彼女に、 素直な、純朴な彼女に復し、さうして僕の心持ちを正嘗に 理解して貰ひたかったのだ。その上で二入の愛が成り立たないものならば、改めて君に相談を持ちかける 時もあらうかとは思ったけれども、僕は君にそんな約東をするのはイヤだった。駄目なら人に讓ると云ふ ゃうな了見で、果して彼女を「自分の妻」だと思ひ込むことが出來ようか 。僕は何處迄も彼女を完全に 「自分のもの」にし、君との關係をきれいさつばり斷ってしまはなければ、一日も暮らせない気がしたの 君は「去年の雪今いづこ」の中で僕との再會の場面を描いてゐるが、あの時僕は實は甚しく當惑した。な 、 ) 0 344

5. 谷崎潤一郎全集 第20巻

六の頃まで住んでゐた茅場町の家のあとなどは、今では永代橋へつづく大道のまん中になってゐる。一番 ひどいのは濱町から矢の倉へ行くあたり、あの藥研堀の不動様の近所で、あそこらの街區の亂脈になった 1 ことと云ったら、至る所に三角のプロックが出來、犬牙錯綜してゐて、とても昔の江戸ッ兒は、迷兒にな 方丈記の著者でなくってもあの有様 らずに兩國橋へ拔けることはむづかしからう。思へば思へば、 には涙がこばれる。却って今の大阪や京都あたりの古い町の方に、もう忘れかけた明治時代の家のつくり や習慣なぞが殘ってゐて、幼時を想ひ出すことがある。 〇 そんな譯だから、今の東京の下町には純粹の江戸ッ兒の家族など、大概留まってはゐないだらう。さう云 へば茶屋や待合の女將などで東北辯を使ふ女の多くなったのに気がつく。地震後東京の人気が惡くなった と云はれる一原因は、確にいろいろの國の人間が人込んでゐるせゐもあらう。つまり地震を一轉機にして 土地の人が散じ盡した跡へ、他國者が諸方面から侵入したのである。だから現在の東京は、人文的にも以 前の東京ではないのである。 大阪も郊外に住宅地が開けるに伴れ、追ひ追ひ市中に土地ッ兄が減って行くと云ふ。その點では何と云っ ても京都が最も移動の少い都會であらう。 〇

6. 谷崎潤一郎全集 第20巻

寺と云へば、私の寺は法華宗で、もとは深川の小名木川べりの大島にあった。名高い新内の「明鳥」の道 行きに「此の世を猿江大島や」とある、その浦里時次郎の比翼塚のある寺で、それが地震の數年前に、染 井の共同墓地の傍に移轉した。おかげで焼けも潰れもしなかったけれども、同時に綠結びのために比翼塚 へお參りをする人は殆どなくなってしまったであらう。ことしの五月、母の十三囘忌の折に行ってみると、 塚は今でもあるにはあるが、卒塔婆の數も少く、お線香もろくに上ってゐず、今では昔の俤もないのにそ ぞろ哀れが催された。 尚此の寺には司馬江漢の墓があり、芥川龍之介の墓がある。舊幕の頃、私の祖父は深川の釜屋堀に住み、 芥川家は本所の横網邊にあったのだらう。それで芥川家の墓地と谷崎家のそれとは背中合せになってゐる。 私は實は、故人龍之介君の葬式の時以來一度もお寺へ行かなかったので、此の間始めてお參りをした。故 人の墓は、芥川家累代の塋域の中に、別に石碑が建ってゐて、その形は普通の石碑と少しちがふ。横に長 い長方形のやうな形で、頂きは蒲鉾型を成してをり、正面には太い輪廓を取った中に、戒名でなく、「芥 川龍之介之墓」と俗名を誌してある。今でも崇拜者や愛讀者の參詣に來る者が多く、殊に毎月の命日に怠 らず香花を供へる一女性があるのだが、寺の坊さんが尋ねてもどうしてもその名を告げないと云ふ。 〇 170

7. 谷崎潤一郎全集 第20巻

〇 神私はいっぞや上方の喰ひ物のことを書いたから、今度は人間のことを書いてみた。が、 阪 人間の方はどうも喰ひ物ほど上等ではないやうである。 る朝ラジウム温泉の共同風呂へ這人りに行くと、私より先に這入ってゐた商人風の若い男が、やがて私と 入れ代りに湯から上がって、戸外へ出て行ったかと思ふと、直ぐ又それとよく似た男が這入って來て、着 物を脱いで、素ッ裸になって、私の漬ってゐる湯槽の中へ飛び込んだので、「オヤ、此れは今の男と違ふ のか知らん ? 」と思ってゐると、その男はニャニヤしながら、「失禮ですが、あなたが谷崎さんですか」 と云ふ。さうだと答へると、「ははア、左様で。 實は何です、今門ロで谷崎さんは此の温泉へおい でにならんかと聞いてみましたら、今お這入りになってゐるのが谷崎さんだと伺ひましたんで、ちょっと お目に懸かりたくって、もう一度風呂へ這入りに來ました」と云ふのであった。しかし此れなどは非常識 でも愛嬌のある部だが、此れも矢張り同じ風呂場で、或る朝私が湯槽の綠にしやがみながら、湯を浴びて ゐると、中に漬ってゐる二人連れの男が、つい鼻の先で、此方を無遠慮にヂロヂロ視詰めては話をしてゐ る。「ホレ、此の方が谷崎さんや」「ふ 1 ん、さうだっか、此れが谷崎さんだっか、偉いお方やな」と、ま るで品物の値蹈みでもするやうに、人の顏を見ては感心してゐる。そのくらゐなら「あなたは谷崎さんで すか」と呼びかけてくれる方がまだいいのだが、決して直接には話しかけない。何とも気味の惡い次第で あった。 斯うして見ると、

8. 谷崎潤一郎全集 第20巻

いはゆる言文一致體、或はロ語體と 明治の中葉以後に始まって今あるやうな發達した日本文の形式 、。しかしながら私のやうに日常文筆を以 稱する文體は、現在では殆ど完成の域に行き着いたといってい て世渡りをしてゐる者は、自分が始終此の文體を使ひこなしてゐるだけに、實際の經驗上から、いろ / 、 の缺點にも氣がっき、まだいくらでも改良すべき餘地があることを、しみみ \ 感じさせられる。人々のロ からロ ~ 話される言葉は、人爲的に改良しようとしても到底出來ないことだけれども、文章の方は社會一 教育家や著述家などが少しその方に眼を開けてくれたら、必ずしも改良は不可能 般がその心がけになり、 でない。一例を擧げれば今のロ語體は一と通りのことを記述するには結構間に合ってゐるもの、、少しく 精密な、たとへば哲學の理論を表現したりするのには、とかく晦澁に陷り易い。早い話が西洋哲學の飜譯 書で、敢て名文と云はない迄も、意味がはっきり分るやうに書いてあるものは甚だ少い。英語もしくは獨 缺逸語の書について、コッコッ字引を引きながらでも拾ひ讀みをした方がまだ呑み込めると云ふ場合が多い 該これは飜譯者の罪と云ふよりも、現代の國文そのものに何等かの缺點があると見てい、。古い時代の語法 代でも現代には活用出來るものは生かして使ったらよささうなものだが、私の信ずる所では、今のロ語體は 國語の持っ特有の美點と長所とを悉く殺してしまってゐる。云ふ迄もなくこれを研究することは、社會一 183

9. 谷崎潤一郎全集 第20巻

「藝」の話が横道に外れて、いろいろと取り止めのない矛盾だらけなおしゃべりに終ってしまったが、つ ゞめて云へば、まあもう少し現代の藝術家が抽象的議論よりも「藝」を貴び、昔の藝人のやうな謙抑な 心持ちになってはどうか、さう云ふ気分が今程排斥されないでもよくはないかと思ふのである。しかしさ う云ふ私自身がこんな理窟を並べるやうでは矢張り謙抑の美德に缺けてゐるもので、藝人ならば何も云は ずにコッコッ自分の仕事にいそしんでゐるであらう。正直のところ、前にも云ふ通り私と雖もこれらの考 へに確信を持ってゐるのではない、多少圖に乘って深入りし過ぎた気もしてゐるが、此の後齡を積ねるに つれて、否でも應でもかう云ふ意見に傾いて行くことは今から想像に難くない。私の固陋さを嗤ふ若い人 達も、私と同じ歳頃になれば恐らくは思ひ嘗ってくれる所があるであらう。 454

10. 谷崎潤一郎全集 第20巻

に比べればずっと時勢に伴って進歩した。しかしながら、明治の文壇に於ける「紅露」の地位は、恰も劇 壇の「團菊」に嘗たる。今の「中央公論」や「改造」に猶露伴氏が活躍してゐるのは、ちゃうど五代目菊 五郎が帝劇の舞臺へ現はれるやうなものである。此れが芝居道であったら非常な出來事に違ひない。 〇 老人連 團菊の死んだのは私の中學時代であった。だから私も彼等の舞臺をまんざら知らないでもないが、 が餘り紳様扱ひにする反感もあってか、名優には違ひないとしても、果してどれほどのものであったか疑 はしいやうな気がする。少くとも當時の彼等の演出をそのま、今日の見物に見せたら、何と云ふか分った ものでない。今の六代目や勘彌の方が面白いと云ふかも知れない。要するに老人連が團菊を持ち上げるの いくら持ち上げても今の若い者には見ることが出來ないからである。 、。さう / \ 老人を威張らしては置かない。われ / 、は今日の眼で改め そこへ行くと文學の方は都合がい て紅露の作品を見、文壇に於ける此の二名優の價値を批判することが出來るのである。 私は可なり早熟であったから、少年時代からずゐぶん生意気な本を讀んだ。ちゃうど老人が團菊の時代に あこがれるやうに、私も始めて紅葉露伴の作品を貪り讀んだ頃を想ふと、云ひやうのない懷しさを覺える。 そして私は、どちらかと云ふと、紅葉よりは露伴の方に早く親しみ、一番最初は露伴の方が好きであった。 此れは一つには、露伴の作品は佛教思想などを背景にして哲學的色彩を帶び、なかノ—むづかしい小説だ と云はれたもので、子供の癖にそれを讀みこなすと云ふのが、我れながら偉さうに思へたからである。當 160