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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第20巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第20巻

然るに他の一方に於いては、東洋の文化も古代には西洋に優ってゐた時代があった、だから將來再びさう 云ふ時代が來ないとも限らぬ、西洋に打ち勝っことは出來ない迄も、少くとも東洋は東洋だけの文化を發 達させなければ、東洋人は生きて行かれないと云ふ莱持を、近頃特に痛切に感じる。 それに就いて想ひ出すのは、私は嘗て支那趣味に關して「中央公論」に短い感想を寄せたことがある。今 その全文を左に掲げて見よう。 支那趣味と云ふことは、單に趣味と云ってしまふと輕く聞えるが、しかし案外われノ \ の生活に深い關 係を持ってゐるやうである。われ / \ 今日の日本人は殆ど全く西歐の文化を取り人れ、それに同化して しまったやうに見えるが、われ / \ の血管の奥底には矢張支那趣味と云ふものが、思ひの外強い根を張 ってゐるのに驚く。私は近頃になって特に此の感を深くする者である。私もその一人ではあるが、嘗て は東洋の藝術を時代後れとして眼中に置かず、西歐の文物にのみ憧れてそれに心醉した人々が、或る時 期が來ると結局日本趣味に復り、遂には支那趣味に趨って行くのが、殆ど普通のやうに思はれる。特に 洋行して來た人々には一脣それが多いやうである。私は主として藝術家の場合を云ふのであるが、しか し今日五十歳以上の紳士で、多少教養のある人々の持っ思想とか、學問とか、趣味とか云 ~ ば、大概は 支那の傳統が基調を成して居る。政治家、學者、實業家の古老などで 0 拙劣な漢詩を作り、書道を學び、 多少なりとも書畫骨董に親しまない者はないと云ってよい。彼等は皆子供の時分に彼等の祖先が代々學 舌んで來た支那の學間で育てられた、そして一時は西洋かぶれした時代もあったが、歳を取ると共に再び 祖先傳來の思想に復歸してしまふのである。「今日、支那藝術の傳統は最早や支那では減びてしまった、

2. 谷崎潤一郎全集 第20巻

佐藤君 僕は去年の春頃、千代子との夫婦關係をいかに處理すべきかについて迷った揚句、或る實業家の舊友に意 見を叩いたことがあった。その時僕の何より苦痛とするところは千代子を事實上の寡婦と同じ境遇に陷れ てゐること、さうしてその生理的不和が、今後も永久に改まる見込みのないことだったが、その實業家の 友人は、僕の話を聞くと至極事もなげに答へた、「そんなことは大した間題ちゃないよ君、さう云ふ夫婦 はいくらもあるんだから、それはお千代さんに我慢して貰ったらいいぢゃないか」と。 さ、つ つまり此の友人の考へでは、正式の細君と云ふものを床の間の置き物のやうな存在と見做すがいい してそれだけの待遇をしてやれば、多少淋しくても女は滿足するものだと云ふのだ。われわれと同じ年輩 語の者は、男女間の道德について今少し新しい時代思想の洗禮を受けた筈であるが、實際の世間を見渡すと、 生殊に家名を重んずる實業家や政治家などの社會では、かう云ふ封建時代的な夫婦の習慣が、思想としては 過否定されながらも、臨機の解決方法として案外廣く實行されてゐるものらしい。僕は此の答 ~ を聞いたた こ。ゝ、しかし達觀して考へると、 ~ めに却って千代子を憐れむ念が生じて、何等の參考にもなりはしなかっオカ 千代子のやうな女に取っては、初めから君や僕のやうな人間と縁を結ぶことなく、堅儀な商人の所へでも 藤片附いてゐたら、たとひ床の間の置き物にされる憂ひはあっても、或ひはその方が幸疆であったかとも思 はざるを得ない。 335

3. 谷崎潤一郎全集 第20巻

上る迄の經路が、ばつばっと變化する場面に依って、映畫のやうに運んでゐた。そして組っぽいやうだけ れども、重要なことは洩らさず書いてあり、舞臺に必要な小道具なども手際よく列擧してあった。あの 「尊氏」は今度の「義經」と同じ行き方で、たしか未完であったと思ふが、私はあれを讀んで、鎌倉末期 の東國の武士の気風や、土民を相手に半農生活を營んでゐた當時の地方の豪族が尊氏の門に馳せ集まる光 景などが、短い一節々々のうちに手際よく描けてゐるのに感心した。のみならず私は、未だ京都以前の尊 氏、「高氏」時代の奪氏を、野州や上州の田舍にをさまってゐた頃の直義、師直、義貞等を、斯くの如く 小説の形で再現したものが他にあるを知らない。近頃中村直勝博士の「南朝の研究」が出て、その中の 「足利奪氏の理想」及び「人としての足利尊氏」の章に、擧兵前後の彼の立ち場や心境が詳かに説いてあ 、大覺寺統と足利庄との關係、義家の置文と足利家代々の野心のことなどが書いてあるが、直木君も亦 此の置文のことから筆を起してゐる。氏は「楠正成」でも、正成が後醍醐帝に召される以前の業績に眼を つけ、北條氏の命を受けて叛徒を平げた事實に觸れてゐるが、正成や尊氏を描いて太平記や梅松論や園太 暦以外の天地に出てゐるのは、從來の作家の爲し得なかったところであって、歴史小説家として處女地を っ 開拓したのである。處女地と云へば、維新物や幕末物が流行の昨今、戦國時代以前の史料を扱ってゐるの も直木氏一人だけではないか。氏は道三を書き、義經を書き、常盤を書き、最も古いところでは養老の孝 史 歴子の物語をさへ書いてゐる。實際に筆を取ってみると分るが、歴史物も元龜天正頃までは誰にでもどうや 木らこなせるけれども、あれより前の時代になると、作家的手腕と史學の智識とが兼ね備はってゐなければ、 1 マンスか、でな 中々書きにくいのである。芥川君や私などの書いたものは、時代を昔に借りたゞけのロ つまびら 493

4. 谷崎潤一郎全集 第20巻

戀愛及び色情 西洋の小説中の人物のやうな気がするが、あの當時さう云ふ女が多く實際にゐた譯ではないとしても、社 會は早晩所謂「自覺ある女」の出現を望み、且夢みてゐた。私と同じ時代に生れ、私と同じく文學に志し たあの頃の靑年は、多かれ少かれ皆此の夢を抱いてゐたであらうと思ふ。 夢と現實とはなか / \ 一致するものでない。古い長い傳統を背負ふ日本の女性を西洋の女性の位置に まで引き上げようと云ふのには、精神的にも肉體的にも數代のジェネレーションに亙る修練を要するので あって、これがわれ / \ 一代の間に滿たされよう筈はない。早い話が、先づ西洋流の姿態の美、表情の美、 歩き方の美である。女子に精神的優越を得させるためには、肉體から先に用意しなければならないことは 勿論であるが、考へて見ると、西洋には遠く希臘の裸體美の文明があり、今日もなほ歐米の都市には至る 所の街頭に紳話の女訷の彫像が飾られてゐるのであるから、さう云ふ國や町に育った婦人たちが、均整の 取れた、健康な肉體を持つやうになるのは嘗然であって、われノの女性が眞に彼等と同等の美を持った めには、われ / 、も亦彼等と同じ神話に生き、彼等の女神をわれ / \ の女紳と仰ぎ、數千年に溯る彼等の 美術をわれ / \ の國へ移し植ゑなければならない。今だから白从してしまふが、靑年時代の私なぞはかう 云ふ途方もない夢を描き、又その夢の容易に實現されさうもないのに此の上もない淋しさを感じた一人で あった。 私はさ、つ田 5 ふ、 精神にも「崇高なる精神」と云ふものがある如く、肉體にも「崇高なる肉體」と云 ギリシャ 255

5. 谷崎潤一郎全集 第20巻

なことは誰でも云ってゐることで、私が寡聞なのであらうか。 菊五郎は若い時分からしば / \ 傲慢であると云はれた。吉右衞門をいぢめると云ふやうな嚀もあって、そ の爲めに同情が吉右衞門に集まり、彼は世間から憎まれたやうな時代もあった。私は一二度樂屋で會った それが ゞけで、個人的に深く知るところはないのであるが、 ( しかし公人の出所進退と云ふものは、 前後一貫した立派なものであるかどうか。疚しいところや、曖味なところや、表裏反覆常なきところがあ るかどうか。と云ふことぐらゐは、そんなに親しく接觸しないでも、遠く離れて、長い眼で見てゐれば分 るもので、「人焉んぞ廈さん哉」である。思 ~ ばもう三十年近くも前のことだが、その頃日本橋に住んで ゐた私は、先代菊五郎の愛子菊之助の葬式が水天宮の近所を通るのを、乳母に連れられて見に行ったこと がある。何でもびしよびしよと雨の降る日で、長い行列が濱町の中之橋の方から人形町の方 ~ 練って來た。 會葬者は大概俥で、幌に隱れてゐたけれども、歌舞伎役者の素顏が見たさにその大雨をものともしない見 物人が集まって來て、往來はたいへんな混雜であった。狹い道路の兩側が雨傘で一杯に埋まって、ぎっし り詰まった人込みの中を押し分けるやうにして行列が通る。幌を掛けた人力車が何臺も續く。その時今の 菊五郎は、菊之助の弟で丑之助と云ってゐた。私より一つ歳上の彼はまだやっと十歳前後だったであらう。 明治何年のことだったか確かな記憶がないのであるが、「あれ、あすこにゐる兒が丑之助ですよ」と云っ て、乳母が私に敎へてくれたのは、可愛い圓顏の、色の白い子供であった。 ( 或はお白粉をつけてゐたか 舌も知れない。 ) その頃は堅儀の家の少年でも大人のやうな長い袂の着物を着、不斷着にも黄八丈や絲織な 7 饒 どの絹物を纒ひ、獻上の角帶に表着きの下駄を穿くと云ふ時代だったから、まして役者の子の丑之助は兄 くるま

6. 谷崎潤一郎全集 第20巻

を振り返って見るのに、僕は何一つとして後悔する所がないばかりか、むしろもっと早く實行しなかった ことを悔いるくらゐだ。しかしさう云っても物には順序があり、時の勢ひがあるから、矢張りあの事件は 3 起るべき時に起ったので、あれより早くも晩くも起り得なかったであらう。顧れば約十年以前、僕が小田 原に住んでゐた大正九年頃にも、一度僕は千代子と君とを夫婦にするやうに取り計らはうとしたことがあ ったが、あの時はそれが失敗に終った。その責任の大半はもちろん中途で前言を飜した僕の方にある。が、 有りていに云へば、あの時僕が違約したのは、君が案外にも僕の千代子に對する心情を充分に理解してを らず、又千代子にも理解させてくれなかったからだった。君等に理解されないと云ふことが僕を此の上も なく淋しくさせたからだった。僕は今日までこんなことを口に出したことはなかったが、君も恐らく後に はそれを諒解してくれたであらう。要するにあの時は三人とも若過ぎたのだ。君はあの時千代子を戀ひす るのに夢中であった。二十九歳の君としては僕を偏へに寬容なる年長者とのみ思ひ込み、なかなか僕の胸 臆にまで立ち入る餘裕はなかった筈だ。さう云ふ君を撼まへて、自分が自分を理解するやうに分って貰へ ると思ったのは、思ふ方が間違ひだった。何しろ僕も、年長者とは云ひながら當時は三十五歳だったので、 先輩としての信賴を受け過ぎてゐることが、どんなに辛かったか知れない。 假りに去年のことが、小田原時代に實行されてゐたとしたらどうなってゐたらうか。僕はいろいろの點で、 君等の方か、僕の方か、孰方かに旨く行かないやうな事情が起り、それが原因で君等と僕との間柄も疎隔 するやうになったかと思ふ。双方の子供のことや兄弟たちのことを考へると一層その感を深くする。世に しかし、 は不仕合はせな夫婦が唯夫婦と云ふ偶然の綠に引きずられて行くのを笑ふ人もないではないが、

7. 谷崎潤一郎全集 第20巻

もあったものでない。自然主義の全盛時代にたま / \ 反自然主義の傑作が出ると、例の規則違反で以て何 とか彼とかケチを附けられたこともあったが、此れは日本の文壇の悪い癖で、後世になれば物笑ひの種で ある。 ( さう云へば近頃は、ブルジョア文學だと一も二もなくケナされる傾向がないこともない。 ) しかしながら現在の日本には自然主義時代の惡い影響がまだ殘ってゐて、安價なる告白小説體のものを高 級だとか深刻だとか考へる癖が作者の側にも讀者の側にもあるやうに思ふ。此れは矢張一種の規矩準繩と 見ることが出來る。私はその弊風を打破する爲めに特に聲を大にして「話」のある小説を主張するのであ ばっこ る。芥川君も云ってゐるやうに、恐らく日本ほど告白體小説の跋扈してゐる文壇はないであらう。小説と 云ふものはもと / 、民衆に面白い話をして聞かせるのである。源氏物語は宮廷の才女が、「何か面白い話 ( ないか」と云ふ上東門院の仰せを受けて書いたものだ。シェクスビアの時代、近松西鶴の時代、春水種 彦の時代も皆さうであった。近松は「國姓爺合戦」が大富りを取った時、「野も山も國せんやど、にて御 座候」と喜んでゐる手紙がある。餘りギゴチなく考へずにさう云ふ無邪気な心持もあって欲しい。然るに 今の文壇で面白い話は通俗的で、通俗的エコ 1 ル低級と云ふ風に見る。そんな風潮であるからして實際に も高級なる通俗小説が極めて少い。告白小説必ずしも悪くはないが、さう云ふものは全體の文藝作品の一 分か二分を占めるくらゐな比例であって然るべきである。作家の一生に一度はさう云ふ作品を書く、と云 ふくらゐな程度が當り前である。兎にも角にも餘りに窮屈な文壇ではある。のんびりとした気風のないの 舌は敢て文壇のみではないが、此れも國民性の然らしむる所か。 かう云ったからとて私は作者に安易な道を執れと勸めるものではない。誤解をされる恐れはあるが、一と こくせんや 107

8. 谷崎潤一郎全集 第20巻

〇 大佛君や直木君の歴史物を讀んで第一に感ずることは、腕がたしかであること、恐ろしく小手が利いてゐ ること、である。彼等は所謂純文學派と云はれる連中の持ってゐるものは、皆持ってゐる。そして自然主 義、藝術主義、生命主義、心理主義、感覺主義、社會主義等、今日迄のいろ / \ な流派の思想なり技巧な っ りを自家藥籠中の物とし、時に應じてチョイ / ( \ 小出しに使ふことなどは手に入ったものである上に、在 來の軍記や軍談や講談などをも渉獵して、作中の人物の服装、言語、擧動等に、時代の色彩を帶びさせる 史 歴術を知ってゐる。明治時代にも塚原澁柿園は「おあん物語」などから脱化したやうな一種の戰國時代式會 木話を用ひたが、型に囚はれ過ぎて、言ひ廻しがギゴチなく、話してゐる人物の微妙な心持ちなどは、到底 直 表現されるべくもなかった。從って性格の描寫も、謠曲、淨瑠璃、講談等の範圍から一歩も出でず、何と さうとする傾向が見え出して、若い作家たちも以前のやうに歴史に淡ではなくなって來たらしく、もは や直木君の慨歎する程ではないかも知れないが、それでも尚、現代物を正道とし、歴史物を「大衆文學」 と稱して邪道扱ひにする風があるのは何故であらうか。繰り返して云ふが、昔の標準に從へば、それは全 然逆なのである。のみならず、私の見る所では、歴史物の方が現代物よりも、一脣の作家的手腕と、力量 と、準備とを要する。現代物の短篇なら、世故に馴れない靑年が才に任せて書き飛ばすことも出來なくは 、歴史物ではさうは行かない。早い話が、會話に時代の持ち味を匂はせる一事だけでも、中々容易 でないのである。 477

9. 谷崎潤一郎全集 第20巻

つまり男の側から云ふと、西洋の婦人は抱擁するよりも、より多く見るに適したものであり、東洋の婦人 はその反對であると云へる。私の知ってゐる限りでは、皮膚の滑かさ、肌理の細かさは支那婦人を以て第 一とするが、日本人の肌も西洋人のそれに比べれば遙かにデリケートであって、色は白皙でないとしても、 或る場合にはその淺黄色を帶びたのが却って深みを增し、含蓄を添へる。これは畢竟、源氏物語の古へか ら德川時代に至る迄の習慣として、日本の男子は婦人の全身の姿を明るみでまざまざと眺める機會を與へ られたことがなく、いつも蘭燈ほのぐらき閨のうちに、ほんの一部ばかりを手ざはりで愛撫したことから、 自然に發達した結果であると考へられる。 〇 クララ・ボウ流の「イット」と、女大學流の「色氣」と、孰方がいゝかは人の好きる \ に任せて置くべき ことだけれども、しかし私かに心配するのは、今日のやうなアメリカ式露出狂時代、 レヴュウが流 行して女の裸體が一向珍しくも何んともない時代になっては、イットの魅力はだん / \ 失はれて行きはし ないか。どんな美人でも素っ裸になる以上にムキ出しになることは出來ないのだから、裸體に對して皆が 絶鈍感になってしまへば、折角のイットも結局人を挑發しないやうになるであらう。 愛 275

10. 谷崎潤一郎全集 第20巻

藤が推賞した程には此の作品に打たれなかった。圓熟の美はあり、齊整の美はあるが、その題材が爲、水春 水以來の花柳界と云ふ古めかしい世界に限られ、あまり粹になり過ぎた、めに現代離れのした気味合ひが あって、これでは結局紅葉あたりの綺麗事の境地から一歩も進んでゐないと思はれた。「巧いことは巧い が、かう云ふものは春水時代にも硯友社時代にもあったやうな気がするね」と、私は佐藤にさう云ったこ とを覺えてゐる。 が、まあ何にしても、靑年時代に詩人風であった此の作家は、「腕くらべ」以後次第に紅葉山人風な寫實 主義に轉ぜられたと認めてい 。稀には「雨瀟瀟」の如き例外もあるが、そののちに發表された「おかめ 笹」「かくれがに」等の作品は皆これを證する。すべてこれらの小説は、現代に材を取りながら、その形 式も、文章も、共に古めかしくなっかしい感じのもので、これを明治時代の「新小説」や「文藝倶樂部」 誌上に發見したとしても、さまで不似合ひではないであらう。作者自身はどう感ぜられるか知らないが、 私は此の數年間が荷風氏の藝術の沈滯期であったと思ふ。少くともわれイ \ 、の眼には、「腕くらべ」を頂 む點として、氏の創作力は下り坂になりつ、あるやうに見えた。何より私の懸念したのは、氏の筆がだん 讀 をイ、干涸らびて來て、「腕くらべ」に見るやうな典雅な潤ひが乏しくなり、妙にパサバサして、荒んで來 さたことであった。蓋し此の期間に於ける絶品としては、嘗て復活後の「明星」誌上に連載された「雪解」 あ ( ? ) の第一章であらう。私はあの麗しい雪睛れの朝の描寫を讀んだとき、「荷風先生未だ老いず」と思っ ゆたが、しかしあれとても、傑れてゐるのは冒頭の叙景だけであって、第二章以後は頗るあっけない気がし た。「荷風の物では『西遊日誌抄』に止めを刺すね」と、故芥川龍之介がそんなことを云ってゐたのは、 289