いことがある。第一、私は關西の郊外に住んでゐるので、原稿を記者に手渡しすること いろいろ都合の、 つも郵便で送り屆けるのであるが、そのためには、目方のか、らない、嵩張らない紙質 4 は殆んどない。い で、強靱なもの、方がよいのである。それに私は、非常に書き潰しをする方で、統計を取った譯ではない からハッキリしたことは云へないが、 一枚について少くも四五枚は無駄をする。だから百枚の物を書くに は、四五百枚以上の紙を用意してか、る。それでも筆が思ふやうに運ばない時は、仕事が捗らないのに反 比例して、用意した紙は見る / \ 減って行き、紙屑籠が直きに氾濫するのであるが、執筆中は女中を呼ん おくくふ で籠をあけさせるのさへ億劫なものであるから、机の周りが散らかって仕方がない。そんな場合に、日本 紙の紙屑は嵩張らないだけに氾濫する度數も少く、籠をあけに行く手數が大分省ける。又旅先へ仕事を持 って行く時など、五百枚千枚といふ西洋紙を持ち運ぶのは厄介だけれども、日本紙だと手輕に運搬出來る のである。 〇 用紙を印刷所へ賴んで印刷させると、刷る度毎に、紙質、大きさ、インキの色合ひなどを、いくらかづゝ 違へて來る。私は以前、冴えた黄色で刷らせたが、ルラを充分に洗ってくれないので、黄色がへんに濁っ たものになり、弱ったことがあった。で、いろいろ考へて、現在では、日本紙の用紙だけは家で手刷りに することにしてゐる。これだと、紙も自分で紙屋から買って來、繪の具も自分で調合するので、間違へる と云ふ恐れがない。萬一間違 ~ たとしても、そこは人間、勝手なもので、自分の手落ちならまあ仕方がな
佐藤君 それにつけても、人は困難な場合に立たないと、自分の智惠の程度、勇氣の程度が自分にも分らない。ふ いざと云ふ時に打つかってみると、豫見し得なかっ だんは自分がもっと賢く、もっと強い積りでゐても、 た打撃と障害が起って來て、到底それに堪へられなくなる。小田原事件などその意味に於いて僕には甚だ よい教訓であった。「二人とも聰明さが足りなかったのだ」と君はあの時にさう云ったが、僕はその上に、 體力に於いても精禪力に於いても、自分が案外弱かったことをしみじみと感じた。同時に僕は自分の弱さ を憎む氣にはなれないで、むしろ憐れむ気になった。自分で自分に同情する心持ちが強かった。さう云へ ばあの時分、僕と千代子との形式上の媒酌人であったは、「君と佐藤君とは二人がかりで素睛らしい戀 愛小説の筋を作ってゐるやうなもんだね」と、たださう云って呆れてゐたが、のやうに文學に關係のな 、堅儀な、平和な家庭人からみれば、正にその通りの感じがしたことであらう。實際われわれは、いっ の間にか さうして事實のみが持っ眞の困難を輕く見過 事實を小説的に見る癖がついてゐたかも知れない。 ぎてゐたかも知れない。けれども亦、僕はあの葛藤の最中にあって、「いっかは此の事件を書く時が來る、 書かれる時が來る」と云ふ意識を常に持ってゐたものだ。君も恐らくはさうであったらうから、それがわ れわれの行動に幾分か反映し、且感情をいやが上にも複雜にさせた。僕等は鬪爭に焦りながらも、絶えず 自分たちを作品中のモデルとして見てゐた。元來僕はずばらな人間で、今迄嘗て日記などを附けたことも 328
に思び出した。そして咄嗟に「しまった」と感じた。他日小説にすべき資料は、完全に君の手に握られて、 こ。ゝ、僕はその頃 3 自分の方のは皆燒けてしまったのだ。大體のことは書類がなくても覺えてゐる積りだっオカ 自分の記憶力の衰へたのを嘆じつつあった際でもあり、且柄にもなくノ 1 トを取ったために、却ってそれ に賴る念が生じてゐたので、いざ筆を執った場合に、細かい出來事の順序だの、その時その時の會話だの 手紙の文句だのを、正確に思ひ出せるかどうか甚だ心許ない氣がした。それ故僕はかう考へた、いづれあ こするであらう、とすると自分は、佐藤の小説の出るのを待って、その中の事實に基 の事件は佐藤が小説。 いて自分の方の記憶を喚び起すのが最良の策だ、どうせ此方は急ぐ必要はないのだから、佐藤が書いてか ら十年ぐらゐの月日を置いても遲くはあるまいと。だが、實を云ふと、君の記憶なり君の方に取ってある ノートの内容などに就いて、僕は幾分信用が置けないやうに思った。と云ふ意味は、君も知ってゐる通り、 いことばかり覺えてゐて、都合の悪いことはいつの あの事件に關しては、君も僕も、妙に自分に都合の、 間にか忘れてしまふ傾向があった。此れが兩者の利害に關しない事件を扱ふのであるならば、一つの事實 を兩人が記載するのに相違や矛盾はない筈であるが、ああ云ふ性質の事件になると、無意識のうちに記憶 カまでが公平を失ふものと見えて、全く單純な一つの言葉、一つの出來事に就いてさへ、君の覺えてゐる つい一と月か ことと僕のそれとが甚だしく違う場合があった。それが一年も二年も前のことならば格別、 半月前のことを話し合ってみても、確かに一方が云ったり聞いたりしたと信ずる事柄について、一方が 「そんな覺えはない」と云ひ張った。そしてだんだん順序を立てて説明するうちに、大概孰方かが自分の 思ひ違ひであったことを認め、而もその思ひ違びは、自分に都合の悪い事實を知らず識らず都合の好いや
それから又、同じ控へ目主義でも支那と日本とでは大分違ふと云ふことも考へられる。 支那のは形式は擦へ目であるが、内容はその枠の外へハミ出すほど充實してゐる。十のものを七にも八に も無理に壓縮したと云ふ感じで、その爲めに一脣彈力がある。だから控へ目であっても、コッテリとした 厚みがあって弱々しいところがない。然るに日本のは十のことを七八分だけ云って、殘りの二三分を遠慮 してしまふのである。「まあこのくらゐにして置かう」と、後はアッサリ水に流すと云った風である。だ から非常に弱々しく淡々しい たとへば日本の特産物たる俳句などは、形式が餘り短いので内容が外へハミ出してゐるやうにちょっと見 えないことはないが、アレは私はさうは思はない。俳句は或る一定の、特殊の情景を歌ってゐるものでは なく、寧ろわれ / 、日本人にだけしか分らない一種の符牒であるに過ぎない。その符牒に從ってわれ / \ 勝手に自分に都合のい、情景を聯想し、そこに面白味を感ずるのである。だから俳句を解する 舌のには、われ / ( \ 日本人の生活様式上の約東を知ってゐなければならない。その約東の範圍内で、一つの 俳句に對しても各人がいろ / 、、違った聯想を起すことは自由である。無論俳人が俳句を詠む場合には、具 健全な藝術の方が病的の藝術より常に本質的に優れてゐるとは私は云はない。たヾその方が餘計人間社會 に適してゐるとだけは云へる。さうして、今の少年にもっと東洋流の教育を施すのもい、が、先づその前 に此れらの點を十分考察して懸らなければならないと思ふ。 〇 103
談 白刃の下を潜って平気であるとか云ふやうな武士道的の勇氣は、どちらかと云ふと藝術家にはそんなに必 要がないのであって、まあわれわれの仲間にはその反對の型が多い。私なども政治運動に携はる人や代議 士などに出る人を見ると、その體力や腕力の盛んなること、気魄の横溢してゐること、常に甚だしく樂天 的で臆面もないこと、堂々とウソを吐いたり人をベテンにかけたりして一向良心に咎めないらしいづうづ うしさの備はってゐること等、到底自分たちのやうな気の弱い者の及び難い所であるのを感じて、成る程、 かう云ふ野獸のやうな強さを持った男子でなければ、政爭などには堪へられない、やはり藝術家は自分の 性格や素質を省みて、分を守ってゐるべきである、もし政爭に携はるなら、藝術を捨ててか、るより仕方 がない、餘程の大器量人にあらずんば一人で兩方へ手を出すなどは考へ物だと、さう思ふことがしばしば ある。人の仕事にはいろいろの分野があるから、武士道的に、或ひは野獸的に強いばかりが強いのではな 藝術家がいかに臆病でも自分の天分に安んじて藝を研いてゐるうちには、藝のためになら命を惜しま ないと云ふ氣にもなり、知らず識らず死に身の覺悟が出來て來る。それが藝術家の勇気である。今日では 政治が常識になり、萬人が政治を論じて差支へない時勢であるとは云ふものの「非常時」と云ふやうな時 になると左右兩黨の迫害が激しいから、西洋の文人を気取って餘計なことに口を挾むと、それこそ芥川の 云ふやうに引っ込みが付かなくなる。そんな暇があったら、せッせと藝道に精進した方が利ロであるとし か考へられない。 453
實にたまらなくおいしくって、こんなものを年中喰べてゐる西洋人が羨ましかった。當時私の家では毎月 の十日が祖父の忌日に嘗るので、その日になると佛前へ祖父の寫眞を飾り、供へ物をして、そのお下りを 私たちが喰べたものだが、兩親は多分子供を喜ばせる爲めにであらう、 いつの間にかその供へ物を洋食の オムレツにする習慣になった。それで私は毎月十日が來ることを樂しみにしたものである。同じ卵である けれども、オムレツの味は卵燒や炒り卵とは全然別な味で、うまさはとても比較にならなかった。「おめ へたちは洋食が食ひてえんでおちいさんを出しに使ってゐゃあがる」と、父は江戸辯で冷やかしたものだ 正にその通りであった。その頃小學校の友達にと云ふ體の弱い兒があって、その兒は營養分を取る 爲めに毎日夕食に西洋料理を喰べてゐた。で、よく私と戸外で遊んでタ方家へ歸る時分、茅場町の保米樓 と云ふ洋食屋の前に立ち寄り、自分の好きな洋食を注文して歸るのが常であった。私はこのをどんなに 羨ましいと思ったか知れない。自分は一と月に一度ぐらゐしか洋食が喰べられないのに、は毎日、それ も好き放題なものをいろど、取り變へて喰べるのである。どうも話が卑しくなったが、此れを思ふに、東 洋流の 少くとも日本流のーーーー食味は微妙に過ぎて、子供の官能には訴へるところがないのに反し、 西洋流のは刺戟が強いだけ、それだけハッキリと分るのである。私は父や母が此の刺身はうまいとか、此 の吸ひ物がどうだとか云ふのを聞いても、一向自分には分らなかった。大人と云ふものは變な贅澤を云ふ おんな ものだ、お刺身なんぞ孰れも同じ味ちゃないかと思ったりした。 ざうふく 舌繪に就いても同じゃうな經驗がある。私の家なぞ下町の町人で、碌な藏幅があらう筈もなく、せい くさざうし 世繪の版畫や草双紙の類に親しんだくらゐなものだったから、そのせゐもあらうが、日本畫に於いて繪の ほめろう
代は戀愛文學の流行した點で平安朝に對立するものだけれども、今試みに近松以下の戯曲について考へて みても、此の敦兼のやうな意気地なしの男の例はちょっと思ひ出せない。稀にこれに似た場合があっても、 滑稽的に取り扱ってゐるので、美談として傳へてゐるものは恐らくあるまい。人は元祿時代の世相を餘程 婬靡で惰弱であったやうに云ふが、その實嘗時の遊冶郎は案外意地ッ張りで、殺伐で、向う見ずで、博多 にんじゃうざた 小女郎の宗七や油地獄の與兵衞は云はずもがな、心中物に出て來る二枚目はしば / \ 刃傷沙汰に及んだり して、なかイ、王朝の公卿のやうな弱虫ではない。降って化政期以後の江戸になれば女でさへも張りを貴 んだのであるから、「男らしい男」が持てたことは云ふ迄もなく、江戸芝居に出て來る色男と云へば、大 ロ屋曉雨式の侠客か、片岡直次郎式の不良少年が多いのである。 〇 平安朝の文學に見える男女關係は、さう云ふ點で外の時代と幾分違ってゐるやうな気がする。敦兼のやう な男を意氣地がないと云ってしまへばそれ迄だけれども、これを云ひ換へれば女性崇拜の精神である。女 を自分以下に見下して愛撫するのでなく、自分以上に仰ぎ視てその前に跪く心である。西洋の男子はしば / \ 自分の戀人に聖母マリアの姿を夢み、「永遠女性」の俤を思ひ起すと云ふが、由來東洋には此の思想 がない。「女に賴る」ことは「男らしい」ことの反對とされ、几そ「女」と云ふ觀念は、崇高なもの、悠 久なもの、嚴肅なもの、淸淨なものと最も綠遠い對蹠的な位置に置かれる。それが平安朝の貴族生活に於 いては、「女」が「男」の上に君臨しない迄も、少くとも男と同様に自由であり、男の女に對する態度が、 いうやらう 250
演じて、ああ云ふ超自然的な、神秘な世界を現出することは容易でない。下手な役者がやれば馬鹿馬鹿し くて見てゐられないものになる。而もウェゲナアは高級作品の品位と深みを失ふことなく、さう云ふむづ かしい役を眞に迫るやうに演じた。東洋流の腹藝とは又違ふが、これと云ふ眼立ったしぐさもしないのに、 彼が畫面へ出て來るだけで既に怪奇の雲がただよひ、その身邊に謎のやうな察気が搖曳して、何となく 「夢幻の國から來た人物」と云ふ感じを與へ、もし世の中にそんな人間が現はれたとすれば全く斯うもあ らうかと思はれた。私は最初、これは藝の力もさることながら、西洋の役者は歌舞伎俳優などと違って文 學に對する素養や蘊蓄が深いのであらう、それで、ウェゲナアなどもああ云ふ高級作品の意味をよく理解 してゐるからこそ、あのやうな演出が出來るのであらう、ああなると、「腕」よりは矢張り「頭」の問題 かも知れないと思ったのであったが、その後「船を漕ぐ罪人」 ( ? ) と云ふ映畫が這入ったことがあって、 それに出てゐる彼を見ると、驚いたことには、俗惡な芝居でも何でもやれる達者な腕を持ってゐるのであ る。前の高級な映畫では、神妙に莊重に動いてゐた彼が、此處では坊主を殺して自分がその坊さんに化け 込んだり、女の臀を追ひ廻したりする半僧坊式の惡漢に扮して、安手に通俗に、思ふ存分跳ね返ってゐる のである。ああ云ふ気品の籠った役をする役者にこんな方面があらうとは意外であったが、私はそれを見 て再び感激を新たにし、考へさせられた。成る程、「頭」も勿論大切であらうが、何と云ってもごが 第一だ。「頭」で理解するのでなく、「藝」から這入って行かなければウソだ。ウェゲナアがあのむづかし い役をあれだけにやりこなすのには、あれだけの惡達者な藝を身に備へてゐることが必要なのであって、 恐らく獨逸の演劇術にも何百年來の傳統があり、それに基いた稽古の仕方があるのであらう。學間も天分 424
か一枚の新聞であるが、貸す方の身では自分が買ってまだ眼を通さないものなのである。私が人から借り るとすれば、相手がすっかり讀み終って、次ぎの新聞に移る迄は差し控へる。然るに大阪では、馬鹿なの かづうづうしいのか、そんな遠慮をしてゐる者は一人もない。 ヒドイ奴になると、一度私はこんな目に遭 った。或る晩梅田で大朝と大毎の夕刊を買って、阪急に乘ったが、少し酒を飮んでゐたので、乘り込むと 直ぐ好い氣持ちに居睡ってしまった。すると暫らく立ってから、「もしもし、もしもし」と、ガンガン云 ふ聲で耳元で怒鳴る奴がある。 ふと眼 多分私は肩を持って搖すられたやうに記憶してゐる。 を覺ますと一人の紳士が傍に立って、「一寸夕刊を拜借します」と云ってゐる。私は眠い眼を擦りながら、 「はア」と夢現で返事をしたが、さアそれからは眼が冴えてしまって、どうしても寢られない。仕方がな いから新聞を讀まうとすると、さっき紳士が二枚とも持って行ってしまった。何分寢惚けてゐたものだか ら、それがどんな男だったか、キョロキョロ見廻してもよく分らない。そのうちに夙川へ來る、蘆屋川へ 來る、いよいよ次ぎの岡本で降りようと思って立ち上ると、やっとその男が返しに來た。見れば四十恰好 の髯を生やした紳士だったが、此奴の方では恐らく私が眼を覺ましたのを平氣で讀んでゐたには違びない のだ。それがあんまり忌ま忌ましかったから、以來私は時々意地の惡いことをして、腹癒せをしてやる。 一枚を讀んで一枚の方を特にれいれいしく膝の上に載せて置く。すると必ず「拜借」と來るが、「此れか 録ら讀むのですから」とキツ。 ( リ斷る。既に讀んでしまった方でも「まだ讀むところがありますから」と云 神ってやる。或る時私は、わざと一枚貸してやって、ちゃうど績き物のまん中あたりを讀みかけた時分に、 「何卒お返しを願ひます」と云ってやったら、相手は澁々返した。私は胸がすッとして、日頃の恨みを睛
雜誌は多く菊判であるのに何故單行本に限り四六判が好かれるのか、私には理由が分らない。私は自分の 作品を單行本の形にして出した時に始めてほんたうの自分のもの、眞に「創作」が出來上ったと云ふ気が する。單に内容のみならず形式と體裁、たとへば裝釘、本文の紙質、活字の組み方等、すべてが渾然と融 合して一つの作品を成すのだと考へてゐる。若い時分には面倒臭がりで、校正なども人任せであったが、 年を取るとさう云ふことにだん / \ 丹念になって來るものか、近頃では何から何まで人の手を借りず、細 かいことに迄注意を配って、自分で一册の書物を作り上げるのが此の上もなく樂しみである。されば裝釘 なども、良いにつけ惡いにつけ自分で考へないと自分の本のやうな気がしない。「靑春物語」の場合は創 作でなく靑年時代の囘想記であるし、吉井勇君にも序文の和歌をお願ひした程であるから、此の書の内容 に因綠の深い杢太郎君が意匠を凝らして下さる以上、自分が考案したよりも一層なっかしいものになるカ 原則として自分の本は自分が裝釘するのに越したことはない。殊に繪かきに賴むのは最もいけない。どう 云ふ譯か、繪かきは本の表紙や扉に兎角繪をかきたがる。千代紙のやうにケバケバしい色を塗りたがる。 そして四六判にして、出來るだけ厚みを出して、同じゃうにケバケバしい箱に人れるから、何のことはな ハコセコのやうな子供じみたものが出來上る。一册だけ見ると花やかで綺麗なやうだが、さう云ふ本が 。繪かきだから繪を描けばい、 幾册もズラリと書棚へ並び、やがて古ぼけて來た時の薄汚さを想ふがい、 と思ふのは智慧のない骨頂で、裝釘と云ふものは、なるべく餘計な線や色彩を施さず、クロ 1 スなり布な 458