斷っておくが、千圓の月收がないと云ふのは數年來のことで、過去にはそのくらゐあった時代もある。 で、その時代に一旦膨張した生活費をその後徐々に切り縮めることが困難なところから、斯くの如く始終 つぼど無駄遣びをするんでせう、と、中には忠告するつもりで尋ねてくれる人もあり、古い友人などは親 身に心配してくれて、さういっ迄もその日暮らしの生活をしてゐるとはどうしたものだ、少しは老後に備 2 へることを心がけて貯金でもする気にならないものか、第一君の歳になってそれでは見つともないと云ふ。 かう云ふ人達は、私が特に金錢に締めく、りがなく、右から左へばつばっと使ってしまふやうに田 5 ひ、暗 にその點を批難するらしいのだが、しかし、まあ待って貰ひたい、成る程私は、自分でも決して締めくゝ りがある方だとは思ってゐないが、 それより何より、友人達は私の收人と云ふものを過大に見積ってゐる のである。印税や原稿料で莫大な上り高があるやうに考へ、その前提から無駄遣ひをするの貯蓄心がない のと云ふ結論を誘導するのである。これが抑もの間違ひであって、先達も佐藤君に「せめて毎月千圓ある といゝんだがなあ」と云ったら、けゞんな顏をして、「へえ、千圓ありませんかねえ、無論そのくらゐは あると思ってゐましたが」と云ふのである。そこで具體的な數字を擧げ、千圓には遠く及ばない所以を説 明すると、やう / ( 、、納得してくれたが、佐藤君の如きジャ 1 ナリストにして猶且然りなのは困ると思って、 その後某雜誌社の某氏々々などを掴まへて話してみると、大分誤解をされてゐることが明かになったので、 これでは友入達が考へ違ひをするのも尤もだと思った。 せんだって しん
或る日の問答 ゃあ暫く。今日はわざ / \ 見舞ひにおいで下すったさうで、有難う。 疾うから一度お伺ひしようと思ってゐたんですが、訪客を避けていらっしやると聞きましたので、遠 慮してゐたのです。その後どんなエ合なのです手の痛みは。 どうもこんなに弱ったことはないね。去年の十一月廿八日に發病したのだから、これでちゃうど一年 になる。始めは二三ヶ月もすれば直ると思ってゐたんだが、醫者もそのやうに云ってゐたんだが、どう してなか / \ よくならない。だん / \ 惡くなる一方なのだ。手だけならい、カ 腕から肩、頸すちから 後頭部へかけてズキンズキンする。朝から晩まで痛みつゞけと云ふことはめったにないが、近頃は日に 三四時間は必ず痛む。さう云ふ時は客に會ふのがまことに辛い。それでなるべく人に會はないやうにし てゐる。 でもこの間のⅡの「こ、に鐘は鳴る」なんかを見ると、なんだ、ピンシャンしてるちゃないか、 あれなら何も心配なことはないって、みんなさう云ってましたがね。 からあれに出てみないかと云ふ相談があったのは、あの一ヶ月ばかり前のことだった。その時 分にはそんなに痛くなかったので、出られると思って引き受けたんだが、それから日增しに惡くなって、 當日が近づくにつれ、こんなで大丈夫出られるだらうか、第一東京まで行かれるかどうか心配になって 來たのだが、今更取り消しも出來ないので、意を決して出かけた譯さ。さうしたら、莱が立ってゐる時 499
嘗って私は、荷風氏が「雨瀟瀟」を書いた時代に、荷風氏のやうな獨身の境涯が羨ましくてならないこと があった。文學者は家庭を持たない方がよいとか、妻子を持つべきではないとか、さう云ふことは一概に は云へないけれども、私の場合は、實は荷風氏のやうに孤獨な境涯を選んだ方がよかったのではないか、 と思ふことがしば / \ あった。そして實際、今ではもう既に遲いけれども、過去の生涯の或る時期には私 も家庭を破壞し去って孤獨にならうとすれば出來る機會もあったのに、優柔不斷でぐづ / 、にそれを逸し てしまった。私にはその悔恨の情に似たものがあるので、それだけになほ今の荷風氏が羨ましい。人傳て に聞いたので確かでないが、私は荷風氏が「近頃谷崎君は少し大家になり過ぎたね」と云ってをられると 云ふことを誰か、ら聞いた。その言葉が本富とすれば、氏はどう云ふつもりで云はれたか知らないが、私 で押し通してゐるので、死んでも總理大臣などが來もしまいし、來られたら却って浮ばれないであらう。 先月小倉金之助さんが荷風氏の「反逆的」なることを指摘してをられたが、氏が天皇や皇室をどう云ふ風 に思ってをられるかと云ふことも、私にはほヾ分ってゐる。東洋的大人の風があった露伴と、市井の蕩兒 の如き一面を持っ荷風氏と、藝術家として孰方が偉いか俄かに定め難いけれども、少くとも私などに取っ ては、露伴は餘りに博大に過ぎ、自分には窺崙出來ない領域が澤山あるのに、荷風氏は、これも到底及び 難いとは思ふけれども、その書くものは勿論、行動進退に至るまで私には實によく分るやうな気がするの である。 あめせうせう いうじうふだん 398
生きてゐた頃、谷崎さんに會はして下さいとしきりに吉井昔に賴んでゐたさうであるが、此れは純大阪と 云へない人なので私としてはさう興味がなく、まあそのうちにと思ってゐるうちに死んでしまった。松鶴 は井上金太郎君が懇意だったので、一遍南禪寺の家へ連れて來てくれたことがあり、一と晩ゆっくり語り あふ機會を得たが、初めてのせゐか座談は案外生眞面目で、酒が這人ってもそんなに彈まないでしまった。 そして此の人も、達者さうに見えたのにそれから間もなく死んでしまった。ところで一番會ひたいと思っ てゐたのは春團治なのだが、とう / \ 此の人には會はずじまひであった。酒好きと云ふことはかねて聞い てゐたので、一遍家へ來て貰って咄を聞き、その後で大いにハメを外して貰って取りとめのない雜談を交 して見たらと、幾度か考へたことがあったが、此の人には全然手蔓がなかったし、それに、家庭へ呼んで 妻や娘と一緖に聞くのには、此の人の咄は誠に不向きなのである。と云ふのは、必ずどんな咄にも生殖器 のこと、糞や小便のこと、水ッ洟のこと等々が出て來ないことは先づないのである。家庭でしゃべる時は 遠慮するかも知れないが、それでは春團治らしい面白味がなくなる。それやこれやで、どうしようかと考 へてゐるうちに、此の人も亦此んなことになった。ついでながら、東京の俳優や落語家はさかんに下阪す るけれども、此方の藝入はめったに向うに出かけない。松鶴もさうであったが、春團治が上京したのも私 ラヂオで聞くと、東京人には春團治のしゃべる大阪辯は殊に聞き が覺えてゐるのは數へるほどしかない。 に云ひ洩らしたが、大阪の特色を最も多 取りにくゝ、何を云ってゐるのかさつばり分らないと云ふ。 分に示してゐたものはその音聲であったかも知れない。あの滑らかなやうでネチネチしたやうな、油ッ濃 くてたつぶりした分厚な感じのする肉聲は、顏の輪郭や表情よりもなほ一層大阪的で、私は何よりもそれ はす 424
葉を有名にしてしまったので、もう使ひ道がないやうになった。あの時私は「しまった」と思った。そし て早く使って置かなかったことを後悔した。もう一つ私の取って置きに「べか、う」と云ふ言葉があって、 今までこれを機會があったら使はう / \ と思ってゐたのだが、 遂にこれにふさはしい題材に行き遇はない でゐる。私以外にこんな言葉に興味を感ずる作家はゐさうもないけれども、もしさうでもなく、使ってみ たいと思ふ入があったら、遠慮なく使っていたゞきたい。私はもはや使ふ折がありさうにもない。 初めて自分の作品を世に問うたのは、戯曲では第二次新思潮の創刊號に載せた「誕生」、小説では第二號 に載せた「刺靑」であるが、あの頃は私は二字名の題を附けるのが好きで、「誕生」、「刺靑」、「麒麟」、 「少年」、「幇間」、「秘密」、「信西」、「惡魔」等、悉く二字の漢字を用ひた。若い時分の作品なので、 れも内容は耻かしいものだけれども、中で「麒麟」と云ふ題は、常時は内心得意であった。今考へると少 し氣障なやうだけれども、それでもそんなにいやな題だとは思はない。が、一番我が意を得てゐる題は、 「吉野葛」と「卍 ( まんじ ) 」である。この二つは題と内容とがよく一致してゐて、動かしゃうはないと思 ふ。「蘆刈」と「蓼喰ふ蟲」も、ちょっと気取り過ぎてゐるやうだけれども、先づ莱に入ってゐる方であ る。ついでながら、「蓼喰ふ蟲」は今度英譯されてアメリカで出版されることになったが、サイデンステ ィッカ 1 氏の英譯の題は、 Some prefer Nett1es で、「或る虫は好んでネトルスを喰ふ」と云ふ意味にな る。サイデンスティッカー氏の話では、アメリカには日本の蓼に相當する植物がないので、已むを得ず 446
分で自分に話しかける習慣があります。強ひて物を考へようとしないでも、獨りでぼつねんとしてゐる時、 自分の中にあるもう一人の自分が、ふと囁きかけて來ることがあります。それから、他人に話すのでも、 自分の云はうとすることを一遍心で云ってみて、然る後ロに出すこともあります。普通われノ \ が英語を 話す時は、先づ日本語で思ひ浮かべ、それを頭の中で英語に譯してからしゃべりますが、母國語で話す時 でも、むづかしい事柄を述べるのには、しばノ \ さう云ふ風にする必要を感じます。されば言語は思想を 傳達する機關であると同時に、思想に一つの形態を與へる、纒まりをつける、と云ふ働きを持ってをりま さう云ふ譯で、言語は非常に便利なものでありますが、しかし人間が心に思ってゐることなら何でも一言語 で現はせる、言語を以て表白出來ない思想や感情はない、 といふ風に考へたら間違ひであります。今も云 ふやうに、泣いたり、笑ったり、叫んだりする方が、却ってその時の気持にびったり當て篏まる場合があ る。默ってさめみ \ と涙を流してゐる方が、くど / \ 言葉を費すよりも千萬無量の思ひを傳へる。もっと 簡單な例を擧げますと、鯛を食べたことのない人に鯛の味を分らせるやうに説明しろと云ったらば、皆さ んはどんな言葉を擇びますか。恐らくどんな言葉を以ても云ひ現はす方法がないでありませう。左様に、 たった一つの物の味でさへ傳へることが出來ないのでありますから、言語と云ふものは案外不自由なもの でもあります。のみならず、思想に纒まりをつけると云ふ働きがある一面に、思想を一定の型に入れてし まふと云ふ缺點があります。たとへば紅い花を見ても、各人がそれを同じ色に感ずるかどうかは疑問であ りまして、眼の感覺のすぐれた人は、その色の中に常入には氣が付かない複雜な美しさを見るかも知れな さゝや
かも知れません。かう云ふことは一長一短でありまして、何事に依らず西洋人が進取的であり、東洋人が 退嬰的であるのを見れば、我等が彼等に學ぶべきところも多いのでありますが、優劣は暫く論じないとし て、上に述べたやうな日本人の國民性を考へますと、われくの國語がおしゃべりに適しないやうに發達 したのも、偶然でないことが知れるのであります。尚もう一つ云ひたいことは、われ / ( 、は島國入である せゐか、西洋人や支那人に比べると、執拗くない。 よく云へばアッサリしてゐてあきらめがよいのであり ますが、惡く云へば気短かで、執着力がないので、一つ事を餘りあくどく云ふのを嫌ふ。云ってみても始 まらない、。 とうせこれ以上分りつこはないと思ったり、成るやうにしか成らないと思へば、好い加減に見 切りをつけて、あきらめてしまふ。此の性質が矢張國語に影響してゐるに違ひないのであります。 國語の長所短所と云ふものは、斯くの如くその國民性に深い根ざしを置いてゐるのでありますから、國民 性を變へないで、國語だけを改良しようとしても無理であります。ですからわれ / \ は、漢語や西洋語の 語彙を取り入れて國語の不足を補ふことは結構でありますが、それにも自ら程度があることを忘れてはな りません。なぜなら、われノ ( 、の國語の構造は、少い言葉で多くの意味を傳へるやうに出來てゐるので、 澤山の言葉を積み重ねて傳へるやうには、出來てゐないからであります。今試みに實例を擧げて此のこと を説明致しますが、先づ皆さんは次の英文を讀んで御覽なさい。 his tl ・ otlbled and then stlddenl} 「 distorted and ftllgurous, ) 「 et weak and even 1 → nbal. anced face a face Of a stldden, instead Of angl ・イ fel ・ ocious, demoniac—・・・ confused and a11 bllt meaningless in its registration Of a balanced combat between fear and a hurl ・ ied and restless and ) 「 et self-repressed desire 120
田舍二分と云ふところではあるまいか。その昔漱石先生は「猫」の中で「月並」なるものに定義を下して、 白木屋の番頭に中學生を加へて二で割ったものだと云ったが、今日の東京にはそれよりもう少し複雜な要 素の月並臭を持った通人が、非常に多い。但し複雜と云ったところで、決して内面的な複雜ではなく、極 めて上ッ面な、ほんの鼻先だけのもので、お腹の中の單純なことは白木屋の番頭プラス中學生時代と變り はない。彼等は昨日はワンで飯を喰って文樂座の出開帳に押し寄せ、今日は帝劇のキングコングを見て 歸りに濱作で一杯やる。朝にファッショ政治を論じ、ヒットラ 1 や荒木さんの噂をするかと思へば、タに まフリ 1 ドマンを評し、菊五郎を説く。而も一と通り聞いてゐると、中々分ったらしいことを云ふ。隨分 政界の消息にも通じ、新聞に出ないやうなことまでも聞き咄ってゐ、又樂屋裏の事情にも明るく、水谷八 重子は誰が。ハ トロンだとか、六代目には幾ら / \ の借金があるとか、見て來たやうなことを云ふ。文化學 院の生徒あたりから四十五十の有閑紳士やマダム連までが大概此の程度の通人であり、インテリゲンチア であるのだから恐れ人る。さうしてロケだのデモだのセンチだの合流だの轉向だのと云ふ言葉が、忽ち一 般人の常用語になり、常識になる。私はかう云ふ市民に會ふと、なるほど日本入も利口になり生意気にな ったものだと思ふ。全く、此の調子では舶來品であれ國産品であれ、あらゆる贅澤品が東京に於いて多大 の顧客を見出すと云ふのも無理はない。九里四郎君が今の長を數寄屋橋際で始める前に、出來るなら關 西で開業しようと思って、大阪と東京と、兩方の西洋料理屋を視察してみたが、大阪では開く餘地がない ことを悟って東京へ持って行った。九里君の話に依ると、洋食屋へ這入る客種と云ふのが、此の兩都では まるで違ふ、大阪では高級な洋食を食ふお客さんは極く少數に限られてゐて、そんな人たちにはまあアラ
に出したものを紙の上に書き留めさせ、文字の形に直してみることが必要である。そして何度も讀み返 し、何度も修正を加へる。さし當りさう云ふ方法を取ってゐる。 それで能率の點は如何ですか。自分で書くのと孰方が早く出來ますか。 「夢の浮橋」の場合には一と通り口述し終るのに一ヶ月か、、り、それを修正するのに又一ヶ月か、つ た。それでもまだ滿足ではなかったのだが、まああの程度のものが出來た。しかしこれから追ひ / ( 、練 習を積めば、一年ぐらゐたてばもう少し能卒が上るやうになるかと思ふ。次第に依っては、今後手が直 っても、この習慣に自分を馴れさせるやうにしたいとも思ってゐる。自分で筆を執って書くと、老體に は可なりそのことが肉體的の負擔になるのだ。僕は。ハ ーカー萬年筆などを輕く握って、紙の上を薄くす ら / \ と滑らせながら書いて行くことが出來ないのだ。毛筆の時は云ふまでもないが、ペンや鉛筆で書 く時にも、毛筆と同じ莱持で、グイと力を籠めて、紙に穴をあけるほど強く、ゆっくりと書かないと莱 が濟まないのだ。だから二三枚書くと直ぐ肩が凝って來る。若い頃はそれほどにも感じなかったが、七 十を越してからは、その疲勞が一年々々可なり答へるやうになった。この調子では今にだん / \ 疲勞に 耐へられなくなり、日に一枚か二枚書くのがやう / \ と云ふことになる。で、何とかして口授の習慣を 身につけるやうにし、もう少し樂にものを書くやうにしたいと思ふ。尤もさう云っても、そんなに澤山 書きたいものがある譯でもないが。 さう云へば先生は、もう長いこと戯曲をお書きになりませんね。たしか「顏世」と云ふ五幕物をお書 きになったのが最後だと思ひますが、あれはもう二十年ぐらゐ前のことですね。僕は思ふんですが、戯 どっち 502
朝、親父は母と差し向びに長火鉢の上に屈みながら、「い、ぢゃあれえか、それがほんとの持參睾丸だわ な」と、ニコリともせずに、憂欝な口調で云ふのである。私は傍で聞いてゐて可笑しくもあれば哀れでも あったが、今考 ~ ると、親父が貧乏したのは、何よりも莱魄がないと云ふこと、、無精であることが原因 だったと思ふ。親父はづう / \ しいことや臆面もないことを甚しく嫌った。そしてそんな人間を「彼奴は 田舍者だ」と云った。だから一とたび失敗するとすっかりアキラメを附けてしまって、惡足掻きをしたっ て仕方がないと云ふやうな變に悟り濟ました気になり、獅子奮迅の勢で盛り返さうと云ふ料簡が湧かない。 ちみち そんならと云って、地道にコッコッ商賣にいそしむと云ふのでもない。日曜になると、長火鉢の前で一杯 とっ 引っかけて、その儘ごろッと横になって寢てばかりゐた。「ちょいと、お父つあん、風邪を引きますよ、 力いま、さ そんな所に寢てしまってさあ」と、母が叱言を云びながらそうッと掻卷をかけてやる。少年時代の私は、 さう云ふ光景を幾度も見た。や、成長してからはそれを苦々しいと感じた。寢る暇があったら、少しは義 理を缺いてゐる方面へ顏出しをしたらばどうか。親父のやうな働きのない人間でも、正直の一德を買はれ て、隨分力になってくれてゐた人もある、さうでなくても、私に學費を給してくれたり、家庭敎師のロを 世話してくれた人々がある、ところが親父はさう云ふ方面 ~ さつばり挨拶に廻ってくれない、「近頃お父 さんはどうしてゐるね、暫くお目に懸らないが」などと皮肉を云はれたこともあったが、親父はいつも 「濟まねえ / \ 」を繰り返して、「誰さんの所 ~ も一遍顏出しをしなくッちゃあならねえんだが」と歌には 唄ふけれども、それでゐて、いざとなるとつい億劫になってしまふ。何もオペッカを云ひに行けの、お世 辭を使って取り入れのと云ふのではない、當然の禮儀を盡す迄のことなんだが、親父に云はせると「どう おくくふ ぎん