いかにも一應は尤もの意見でありまして、讀者に親切なばかりでなく、さうした方が作者に取っても一番 迷惑が少いのであります。 たとへば私の小説の標題に「二人の稚兒」と申すのがありまして、これを私は「フタリノチゴ」と讀んで 貰ひたいのでありますが、相嘗敎育のある人が「ニニンノチゴ」と讀んだことがありました。かう云ふ間 違ひは、作者が聞くと餘り好い気持はしないものでありますが、而もわれ / \ のロ語文に於いては常に頻 々と起るのであります。現に今、私は「好い氣持」と書きましたけれども、これすら或る人は「ヨイキモ チ」と讀み、或る人は「イイキモチ」と讀むでありませう。さうして甚だ厄介なことには、むづかしい文 字よりもやさしい文字の方が却って間違へられるのでありまして、むづかしい文字は略 ' 、讀み方も一定し てをり、分らなければ字引を引く気にもなりませうし、讀者の方で注意してくれますけれども、やさしい 文字は、作者も油斷をして振り假名を怠りますし、字引を引いてもいろ / \ な讀み方があったりします。 手近な例は「家」でありますが、これを「イへ」と讀むべきか「ウチ」と讀むべきかは、振り假名がない 限り、大概の場合は分らないのであります。又「矢張」を「ヤハリ」と讀むか「ヤツ。ハリ」と讀むか、 「己一入」を「オレヒトリ」と讀むか「オノレヒトリ」と讀むか「オノレイチニン」と讀むか、「如何」を 「イカガ」と讀むか「イカン」と讀むか「ドウ」と讀むか、「何時」を「ナンドキ」と讀むか「イツ」と讀 むか、これらは孰れにも讀めるのでありますから、作者の注文通りに讀んでくれませんでも間違ひとは云 へませんし、又敎育のあるなしに關係はありません。ところが高級な文藝作品に於きましては、これらの 何でもない文字の讀み方の適不適が、時としてその文章の調子や気分に重大な影響を及ばすのであります 196
気になると 告が出てゐた。私は咄嗟に潮騒の「騒」を「さい」と澄んで讀んでゐるのに感心した。かう云ふことには 殊に亂暴で無神經な映畫人の仕事にしては珍しいと思ったことだが、考 ~ て見ると、これは明かに三島氏 の原作が「さい」となってゐるので、それに從ったまでなのであらう。それにしても近頃は創作家でもか う云ふことに気を使ふ人は少いのであるが、さすがに三島さんの注意はよく行き亙ってゐると思った。 田中榮三氏の「新劇その昔」に久保田万太郎氏が序文を書いてゐる。その終りの二行に次の如き文章があ としつき ぼくは、その十數年の年月の、風雪をしのいで來たあなたのいのちの幸をよろこび、いまなほ衰へな いあなたの″新劇〃愛護精神のはげしさに、敬意が表したいのであります。 この文章に別段變ったところはないやうであるが、一箇所近頃の人の云ひ方と違ってゐる點が眼につく。 それは「敬意が表したいのであります」とある「が」の字の使ひ方である。近頃の人はかう云ふ場合決し て「が」を使はない。必ず「を」を使ふ。「私はそれが好きだ」と云ふ時に「私はそれを好きだ」と云ふ。 つまりこの「私」だの前文の「敬意」だののやうに目的格の名詞代名詞の下に「が」を持って來るのはを こかしいと云ふ考があって、「を」にする方が合理的だと思ふのであるらしい。私は今「『を』にする方が合 これは英文などの文法 理的」と書いたが、これなども今の人は「をにする方を」と云ふのかも知れない。 が頭にあるせゐでさう考へるので、日本文としては「が」で差支へないばかりか、むしろその方が昔は本 さち 477
生は、昔も今も變りはないのでありまして、現代でも、平素は西洋流の思想や文化が支配してゐるやうに 見えますが、危急存亡の際に方って、國家の運命を双肩に荷って立つ人々は、矢張古い東洋型の偉人に多 いのであります。で、われ / \ は西洋人の長所を取って自分達の短を補ふことは結構でありますけれども、 同時に父祖傳來の美德、「良賈は深く藏する」と云ふ奥床しい心根を捨て、はならないのであります。 話が大變横道へ外れたやうでありますが、文章の品格につきましてその精神的要素を説きますのには、 處まで溯って論じなければならないのであります。ところで、こ、で皆さんの御注意を喚起したいのは、 われくの國語には一つの見逃すことの出來ない特色があります。それは何かと申しますと、日本語は言 葉の數が少く、語彙が貧弱であると云ふ缺點を有するにも拘らず、己れを卑下し、人を敬ふ云ひ方だけは、 實に驚くほど種類が豐富でありまして、何處の國の國語に比べましても、遙かに複雜な發達を遂げてをり ますたとへば一人稱代名詞に、「わたし」「わたくし」「私儀」「私共」「手前共」「僕」「小生」「迂生」 「本官」「本職」「不肖」などと云ふ云ひ方があり、二人稱に「あなた」「あなた様」「あなた様方」「あなた 方」「君」「おぬし」「御身」「貴下」「貴殿」「貴兄」「大兄」「足下」「奪臺」などと云ふ云ひ方があります のは、總べて自分と相手方との身分の相違、釣合を考へ、その時々の場所柄に應ずる區別でありまして、 名詞動詞助動詞等にも、斯くの如きものが澤山ある。前に擧げました講義體、兵語體、口上體、會話體等 の文體の相違も、矢張さう云ふ心づかひから起ったことでありまして、「である」と云ふことを云ひます のに、時に依り相手に依って「です」と云ったり、「であります」と云ったり、「でございます」、「でござ ります」と云ったりする。「する」と云ふのにも「なさる」「される」「せられる」「遊ばす」等の云ひ方が 222
くと、其方にも火の手が揚がってゐる、次第に絶望し、氣力を失び、折角助かったと思った喜びがあきら めに變って、父の名を呼び夫の名を呼びつ、行き倒れる。私の頭には、想像し得られる最も傷ましい可憐 な彼等の姿が浮かんだ。今、私を呼び績けつ、だんイ、細くなって行く哀しい聲が聞える気がした。私は 幾たびか横濱の方と思はれる空を望んだ。が、それでも萬一と云ふ希望が持てたのは、東京よりも横濱の 方が町が小さいだけに、市中を拔け出ることも容易である、私の家は樹木の多い山手の居留地にあって、 市の中心から離れてゐるので、海の方 ~ 逃げれば駄目だが、もしひょっとして、運よく反對の方 ~ 逃げ出 したら、或ひは早く郊外の廣い所 ~ 出られるかも知れぬ。それも、現に今その方 ~ 走りつ、あるのでなけ れば遲い。私は彼等の脚の速力と郊外までの距離とを測った。最短距離、最長距離、最も火災を起し易い 途中の建物、崖崩れのありさうな路、「あ、そっち ~ 行ってはいけない、此方だ / \ 」と、私は心の中で 叫んだ。私は又、首尾よく彼等が助かったとして、再び彼等に遇 ~ るのは幾日後であらうかと思ひ、「早 くて一箇月の後」でなければなるまいと算定した。なぜなら私は災害の程度を非常に大きく考 ~ て、東京 横濱は殆んど次燼に歸してしまひ、二つの大都會の人口の過半は失はれて、あらゆる社會機構、交通も秩 序も減茶々々になってしまふであらうと考 ~ たのである。後になってみると此の想像は少し大袈裟過ぎた けれども、私には今の地震が、古來六七十年目毎に關東を襲ふ週期的大地震の一つであって、それが内々 恐れられてゐた通り、ちゃうど廻って來たものであると思 ~ た。さうだとすれば、今の東京の人家と人口 の稠密さは、安政度の江戸の比ではない。建物も洋風の建築が殖えて、而もそれらが外觀は立派だけれど も、古いものは地震に何よりも脆いと云はれる煉瓦造り、新しいものは木ずりの上 ~ 壁を塗った、博覽會
兎に角、相當の言葉數を費した方がよく分ることを、二字か三字の漢語に縮めようとするのは宜しくない。 無駄な文句のないことが名文を作る一つの條件ではありますけれども、さうかと云って、必要な言葉まで も省いてしまっては、用が辨じないのみならず、文品が卑しくなります。文章は簡潔を貴ぶと同時に、何 處かにのんびりとした餘裕のあるのを上乘とするのでありますが、近來はテムボだとかスビードだとか云 トリ」と云ふことがすっかり忘れられてをります。妙な新 って、人の心がセカ / 、、してゐるせゐか、「ユ 語が流行りますのも、さう云ふ風潮が原因の一つでありませうが、私は「待望」などと云ふ言葉を聞きま すと、立て膝をして食膳に向ひ、大急ぎで飯を頬張る人の、卑しいしぐさを思ひ出さずにはゐられません。 「待望」とは、「期待」と云ふこと、「希望」と云ふこと、を一つにしたのでありませうが、そんな慌しい せはしない云ひ方をせずとも、「期待し、且希望する」とか、「必ずさうなるであらうし、又さうなって欲 しい」とか、云ふ風に云へるのであります。 それと同じ意味で、「銀ブラ」とか、「心ブラ」とか、「普選」とか、「高ェ」とか、「體協」とか云ふ風な 略語を使ふことも、文章の上では餘り品のよいものではありません。尤も、略語の方が既に一般的になっ てゐて、本來の言葉を使ふと、却って廻りくどい場合もある。たとへば、「鰻丼」は「ウナドン」と云は ないで、「ウナギドンブリ」と云ふ方が正しいが、「天丼」を「テンプラドンプリ」と云ふのは可笑しい 本と云ふやうに、 物に依り、時に依って、手加減が必要ではありますけれども、しかし大概は、少し馬鹿丁 章寧に聞えても、正式に云った方が上品であります。尚此のことは後段「品格について」の項で申し上げる 筈でありますが、殊に、外來語を略する云ひ方、「プロ」「アジ」「デモ , 「デマ」の類は、英語を知らぬ日 167
/ \ 同胞は、外國人と違ひまして、生れ落ちた時から國語に親しんでをりますが故に、ロでしゃべる場合 にはさしたる困難を感じませぬけれども、ひとたびそれを文字で現はす、文章で書く、と云ふ段になりま すと、外國人と同じゃうに、據るべき規則のないことに惱まされます。殊に今日の學生は小學校の幼童と 雖も科學的に教育されてをりますので、昔の寺子屋のやうな非科學的な教へ方、理窟なしに暗誦させたり 朗讀させたりするのでは、承服しない。第一頭が演繹や歸納に馴らされてをりますので、さう云ふ方法で 教へないと、覺え込まない。生徒がさうであるのみならず、先生の方も、昔のやうに優長な教へ方をして はゐられませんから、何かしら、基準となるべき法則を設け、秩序を立て、敎へた方が都合がよい。で、 今日學校で敎へてゐる國文法と云ふものは、つまり双方の便宜上、非科學的な國語の構造を出來るだけ科 學的に、西洋流に僞裝しまして、強ひて「かうでなければならぬ」と云ふ法則を作ったのであると、さう 申しても先づ差支へなからうかと思ひます。たとへば主格のないセンテンスは誤りであると敎へてをりま すのは、さう定めた方が教へ易く、覺え易いからでありまして、實際には一向その規則が行はれてゐない。 又、今日の人の書く文章には「彼は」「私は」「彼等の」「彼女等の」等の人稱代名詞が頻繁に用ひられて をりますけれども、その使ひ方が歐文のやうに必然的でない。歐文では、使ふべき時には必ず使ってあり ますので、勝手にそれを省く譯には行かないのでありますが、日本文では、同じ人の書いた同じ文章の中 でも、使はれたり略されたりしてゐまして、合理的でない。それと云ふのが、もともとさう云ふものを必 要としない構造なのでありますから、気紛れに使ってみることはありましても、長績きがしないのであり ます。 134
文章は、讀み方がまちくになることを如何にしても防ぎ切れない、のであります。 ですから私は、讀み方のために文字を合理的に使はうとする企圖をあきらめてしまひ、近頃は全然別な方 面から一つの主義を假設してをります。と云ふのは、それらを文章の視覺的並びに音樂的効果としてのみ 取り扱ふ。云ひ換へれば、宛て字や假名使ひを偏へに語調の方から見、又、字形の美感の方から見て、そ れらを内容の持っ感情と調和させるやうにのみ使ふ、のであります。 先づ視覺的効果の方から申しますならば、「アサガホ」の宛て字は「朝顏」と「牽牛花」と二た通りあり ますが、日本風の柔かい感じを現はしたい時は「朝顏」と書き、支那風の固い感じを現はしたい時は「牽 牛花」と書く。「タナバタ」の宛て字は普通「七夕」かオ 「朋機」でありますが、内容が支那の物語であっ たら、「乞巧奠」の文字を宛て、も差支へない。「ランボウ」「ジョサイナイ」の宛て字は、今では「亂暴」 「如才ない」と書きますけれども、戦國時代には「濫妨」「如在ない」と書きましたから、歴史小説の時に は後者に從ふ。假名使ひも同様の方針に基づいて、分り易いことを主眼にしたものは送り假名を丁寧にし、 特殊の調を重んずるものは、それと背馳しないやうに適當に取捨する。故に或る時は「振舞」になり、 或る時は「振る舞ひ」になる。たとへば志賀氏の「城の崎にて」の文章では「共處で」「丁度」「或朝の 事」「仕舞った」等の宛て字を用びてありますが、字面をなだらかに、假名書きのやうな感じを出したい 時は、「そこで」「ちゃうど」「或る朝のこと」「しまった」と書くことを妨げません。 嘗て私は「盲目物語」と云ふ小説を書きました時、なるべく漢字を使はないやうにしまして、大部分を平 假名で綴ったのでありますが、これは戦國時代の肓目の按摩が年老いてから自分の過去を物語る體裁にな 210
創作餘談 小説の題の附け方などはどうだってよいと云ふ作家と、大いに凝りたがる作家とある。私は凝る方なのだ けれども、凝っては思案に能はずで、凝るわりに題の附け方はあまり上手であるとは云へない。われなが さ・、めゆき ら下手な題だったなあと思ふものが、舊作の中には澤山ある。「細雪」と云ふ題は、いっぞや陛下の御前 でお食事を戴いた時、あ、云ふむづかしい讀み方の題はお止めになった方がよござんすなと、吉田前首相 に云はれたことがあったが、 實は最初はあの題ではなく、「三姉妹」としようか「三寒四」としようか と、長い間迷ってゐた。が、「三姉妹」はあまり平几のやうに思へたし、それに物語の内容から云へば、 三人姉妹の上にもう一人姉がある譯なので、「四姉妹」が本當であるとも云へる。「三寒四温」と云ふ題は 氣に人ってゐたのだけれども、本來あの小説はあの倍くらゐの長さにして、もっといろ / 、、な人物や事件 を織り込み、醜惡な暗い方面をも描くつもりであったのが、時局に遠慮して明るいい方面ばかりを扱ふ ゃうになったので、「三寒四温」では少し題材に適しなくなり、咄嗟に「細雪」と云ふ字面を思ひ出した のであった。それと云ふのは、前から此の言葉が好きで、何かの折に使はうと云ふ気があったからなので ある。 私は「おいらく」と云ふ題も隨分前から思ひついて暖めてゐたのだが、川田順氏があの事件で急に此の言 445
には云々」から「決して彼の欲するところではなかったのであるから。」まで、三四行を費してゐます。 一方では「古里覺東なかるべきを」と云ってゐるのが、一方では「彼が最も好んだ社交界の人々の總べて と別れることになるのは、」となってをり、「よろづの事、きし方行末思ひっゞけ給ふに、悲しき事いとさ まる \ なり。」が、「彼のこれまでの生涯は不幸の數々の一つの長い連績であった。行く末のことについて は、心に思ふさへ堪へ難かった ! 」となってをります。つまり、英文の方が原文よりも精密であって、意 味の不鮮明なところがない。原文の方は、云はないでも分ってゐることは成るべく云はないで濟ませるや うにし、英文の方は、分り切ってゐることでも尚一脣分らせるやうにしてゐます。 しかし原文も、必ずしも不鮮明なのではない。成る程「古里覺東なかるべし」と云ふよりは「彼が最も好 んだ社交界の總べての人々と別れること」と云った方がはっきりはしますけれども、都を遠く離れて行く 源氏の君の悲しみは、此の人々と別れることばかりではない。そこにはいろ / ( \ の心細さ、淋しさ、遣る 瀬なさが感ぜられるでありませう。さればそれらの取り集めた心持を「古里覺東なかるべし」の一語に籠 めたのでありまして、英文のやうに云ってしまっては、はっきりはしますけれどもそれだけ意味が限られ て、淺いものになります。さうかと云って、その取り集めた心持を細かに分析して剩すところなく云はう とすれば、かのドライザ 1 氏の文章の飜譯の如きものになり、却って分りにく、なるばかりでなく、恐ら くはどんなに言葉を積み重ねても、これで云ひ足りたと云ふ時はないでありませう。全體、かう云ふ場合 の悲しみは、分析し出したら際限のないもので、自分にもその輪廓がはっきり突き止められないのが常で あります。ですからわれ / \ の國の文學者は、さう云ふ無駄な努力をしないで、わざとおほまかに、いろ 126
った。又或る田舍の旅館では晩に鱧のちり鍋が驚く程多量に出て、翌日は朝から肉のスキ燒が出た。場末 や田舍だけかと思ったら、京都の街のまん中の旅館 ( ? ) などでもさう云ふ料理を食べさせられたことが あったが、日本料理とも中華料理とも洋食とも何とも分らない取合せで、つまりわれ / \ を平素配給物ば なら かり食べてゐる人種と見、こんな機會にうんと榮養を取らしてやりさ ~ すればよいのだ、と云ふやうな列 べ方で、料理の作法も何も無視した、几そ人を馬鹿にした、さもしい料理なのである。私は年齡のわりに 健啖の方であるから、出され、ば餘程まづいものでない限り、片端から平げてしまふのであるが、いつも 腹が一杯になってから、何だか下らなくいろノ \ なものを胃の腑 ~ 詰め込んだやうな氣がして淺ましくな る。そして何より腹が立つのは、その日の牛飮馬食が祟ってそれから二三日食慾が減退し、折角家人の手 ゅふげ 料理で自分の好きなものを作って貰ひ、自宅でゆっくりタ餉を樂しまうと思ってゐたことが、ふいにさせ られるのである。老人の身には榮養過多の油っこい料理は有害で、そんなものよりはよく吟味した味噌醤 油等を使って、自分の好みに適ふやうに作られた家庭料理の方が嬉しいのであり、又實際に、昨今では普 通の街の料理屋よりは自宅の材料の方が安心なので、揚げ物などは自分の家で交りけのない食用油を使っ たものでないと、うつ・かり食べられもしないのである。これを要するに私は飮み食ひの會の方も、自分の 好きな入たちだけの集りで、好きな料理が出て、自分の仕事の邪魔にならない時にだけ、出席することに したいと思ふのではあるが、實はそれさへも決してそんなに気が進んではゐないのである。 ( 昭和廿三年七月記 ) 370