江戸 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第21巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第21巻

〇 が、草創時代の江戸は、關ヶ原で勝ちを制した覇者の都であるから、殺伐な中にも活気が溢れてゐたであ らう。さうしてそこへ流れ込んで來た江州商人や伊勢商人や三河武士共も、滿洲の新天地を望んで自己の 運命を開拓しに行く昨今の人々の如く、雄心勃々たるものがあったであらう。されば彼等と東北人との混 お 京血兒である昔の江戸っ兒が、タ、ミイワシや目刺しのやうなもので我慢しながら、イキだとかオッだとか 東 負け惜しみを云ってゐた気分は分る。イキと云ふ言葉は「意気」の意味なのであらうが、彼等はあらゆる りで一向それらしいものがない、あ、さう云へばさっき通り路に山門らしいものがあったが、扨はあれだ ったのかしら、まさかあんな詰まらない所ではと、半信半疑で引っ返してみるとやつばりそれがさうだっ たと云ふ話があるが、名勝でも訷社佛閣でも、關東と關西では奈良の大佛と上野の大佛ほど違ふ。上野と 云へば、京の淸水寺に模した淸水堂と云ふものが今も山内に殘ってゐるが、あれを京都の人に見せたら何 と云ふだらう。龜井戸の天訷様の太鼓橋と大阪の住吉紳社のそれを比べてみても分る。泉岳寺なんかも、 「何だ、これが泉岳寺か」と呆れる人が多いさうだが、あの子供欺しのやうな義士の木像なども赤穗の華 岳寺にあるもの、方がずっと立派であると云ふ。で、すべてがそんなエ合に貧弱なのを見るにつけても、 昔の江戸人が何とかして江戸を將軍家のお膝元らしくしようと、急に慌て、いろ / \ なものを取り揃へた 樣が想像される。だから江戸のものは、東叡山が比叡山の、愛宕山が愛宕山の眞似であるやうに、皆間に 合せで規模が小さい

2. 谷崎潤一郎全集 第21巻

生活上の不便を、意氣を以て耐へ、征服したのだ。鯛がまづければ鮪や鰹の刺身を拵へ、蒲鉾が食へなけ ればカンモのスヂのやうなものを作り、饂飩を蕎麥に換へ、白味噌を赤味噌にして、さう云ふ器量の惡い 田舍臭いものを、無理にイキだのオッだのと云って喜んで食ったのだ。火事をさへ江戸の花と云って痛快 がった彼等は、一面に於いて京阪の文化を取り入れるのに忙しかったが、一面では征服者の誇りを以て贅 六を輕蔑した。上方見物に來た江戸っ兒が堺の妙國寺の蘇鐵を見て、「何だ蘇鐵か、蘇鐵ならちっとも珍 わさび しいこたあねえ、己あ山葵かと思った」と云ったと云ふ、それに似たやうな江戸の落語が幾種類かあって、 先年も菊五郎が芝居でやったが、さう云ふ話の中にある江戸人の自慢を聞いてみても、實質的には何一つ 京阪に優ったものがあるのではない、今の蘇鐵の件なんぞは御愛嬌だが、あんなエ合に威勢のい、口調で ポンノ \ 云って除け、如才のない上方人を遣り込めた気でゐるのである。まことに物は見やうであって、 シャコや目刺しを並べたゞけの貧弱な食膳でも、食ふ人間の莱位次第で勇ましくも哀れにも見える。昔の 江戸っ兒のイキと云ひオッと云ふ言葉の中には確かにさう云ふ気概が籠ってゐたのであらうが、それは政 治的に關東が關西を壓服してゐた時代迄のことで、私などが知ってゐる江戸趣味と云ふもの、さうして今 の東京にも變な形で殘ってゐるそれは、そんな景気のい、ものではない。幕末から明治の初期、中期、末 期へかけての江戸っ兒乃至江戸趣味は、昔の気概がない癖にその缺點はかりを受け繼いだ、ヒネクレた、 亡國的な、イヤ味なものである。私は日本橋の蠣殼町二丁目の、今もある筈の玉秀と云ふ鳥屋の近所、か き餅屋の隣りで生れたんだが、自分の兩親や祖母は勿論、家に出人りしてゐた親戚や知入の誰彼を見渡し ても、落語にあるやうな向う意気の強い江戸っ兒は一人もゐなかった。思ふにそれにはいろ / \ の原因が

3. 谷崎潤一郎全集 第21巻

昔、德田秋聲老人が私に云ったことがあった、「紅葉山人が生きてゐたら、君はさぞ紅葉さんに可愛がら れたことだらうな」と。紅葉山人の亡くなったのは明治卅六年で、私の數へ年十八歳の時であるが、私が 物を書き始めたのはそれから約七年後、明治四十三年であるから、山人があんなに早死にをしなかったら、 恐らく私は山人の門を叩き、一度は弟子人りをしてゐたゞらうと思ふ。しかし私は、果して秋聲老人の云 ふやうに山人に可愛がられたかどうかは疑問である。山人も私も東京の下町ッ兒であるから、話のウマは 合ふであらうが、又お互に江戸人に共通な弱點や短所を持ってゐるので、隨分容赦なく腹の底を見透かさ れて辛辣な痛罵などを浴びせられたに違ひあるまい。それに私は山人のやうに生一本な江戸ッ兒を以て終 始する人間ではない。江戸ッ兒でありながら、多分に反江戸的なところもあるから、しまひには山人の御 機嫌を損じて破門されるか、自分の方から追ん出て行くかしたヾらうと思ふ。秋聲老人は、「僕は實は紅 葉よりも露伴を尊敬してゐたのだが、露伴が恐ろしかったので紅葉の門に這入ったのだ」と云ってゐたが、 し 同じ紅葉門下でも、その點鏡花は秋聲と全く違ふ。この人は心の底から紅葉を崇拜してゐた。紅葉の死後 をんな 壇も毎朝顏を洗って飯を食ふ前に、必ず舊師の寫眞の前に跪いて禮拜することを怠らなかった。つまり「婦 文けいづ 系圖」の中に出て來る眞砂町の先生、あのモデルが紅葉山人なのである。或る時秋聲老人が「紅葉なんて 483

4. 谷崎潤一郎全集 第21巻

瀬川か市川あたりの、筑波颪の空ッ風が吹く景色だ。そして角刈りの兄哥か何かゞ錢湯で怒鳴るのに適し た唄だ。元來端唄はほんの印興的なものであるから、聞き嚼りに覺えたのを器用で唄ひこなすところが生 命なので、師匠を取って稽古をすべきものではないのに、それがいつの間にか歌澤と云ふ嚴めしいものに なり、芝派だの寅派だのと云ふのからして馬鹿々々しいと思ったら、近頃は小唄にまで家元があると云ふ。 何の事はない、鰯の目刺しを金蒔繪の膳に載せるやうなものではないか。 たび / 、親父を引き合ひに出して恐縮であるが、私の親父が或る時「お艶ごろし」と云ふのを聞いて「江 戸っ兒が『お艶ごろし』と云ふ奴があるけえ、コロシと云ふんだ」と、さう云ったことがある。親父は又 醤油のことをムラサキだの、おかうこのことをオシンコだのと云ふのを嫌って、「ムラサキなんて云はね したち えで下地と云ひねえ、ありゃあ田舍者の云ふこッた」と、よくそんなことを気にしたものだったが、それ で思び當るのは、どうも近頃の東京人は親父時代の江戸っ兄から見ると、何かその邊が田舍臭くなってゐ るのではないか。明治時代の江戸趣味なるものは、林中の常磐津や默阿彌の世話物に依って代表される、 相當滋味のあるもので、いくら何でも今日のやうに薄ツ。へらではなかったであらう。つまり小唄が流行る ふ と云ふのは、地方人がシンコやムラサキなど、云ひたがる類で、昔の人は果してあんなのを江戸趣味の粹 お 、大きに「ありゃあ田舍者の習ふもんだ」と云ふかも知れない。總べて物事は極端 京なものと思ふかどうか 東 に長所を發達させると缺點ばかりが殘るやうになるもので、無闇にイキがったり輕快がったりした結果が、

5. 谷崎潤一郎全集 第21巻

べてしまび、鏡花は喰べる暇がない。たび / 、その手を食はされた經驗を持ってゐる鏡花は、たから豫め 警戒して、「君、これは僕が喰べるんだからそのつもりで」と、鍋の中に仕切りを置くことにしてゐるの だが、私は話に身が入ると、ついうつかりと仕切りを越えて平げてしまふ。「あツ、君それは」と、鏡花 が気がついた時分にはもう遲い。その時の鏡花は何とも云へない困った情ない顏をする。私は相濟まなく もあるが、その顏つきが又をかしくて溜らないので、時にはわざと意地惡をして喰べてしまふこともあっ た。その鳥屋でもさうであったが、芥川は鏡花が抱き胡坐をしてゐるのに眼をつけて、「抱き胡坐をする 江戸ッ兒なんてあるもんちゃないな」と云ってゐた。人も知る通り鏡花は金澤人だけれども、平素江戸ッ 兒がってゐた人である。鏡花の大作家であることについては、芥川も私も無論異存はなかったけれども、 江戸ッ兒と云ふ感じには遠い人であることにも、二人とも異論はなかった。 〇 肌合ひの相違と云ふものは仕方のないもので、東京生れの作家の中には島崎藤村を毛嫌ひする人が少くな かったやうに思ふ。私の知ってゐるのでは、荷風、芥川、辰野隆氏など皆さうである。漱石も露骨な書き 方はしてゐないが、 相當に藤村を嫌ってゐたらしいことは「春」の批評をした言葉のはし / 、に窺ふこと が出來る。最もアケスケに藤村を罵ったのは芥川で、めったにあ、云ふ惡口を書かない男が書いたのだか ら、餘程嫌ひだったに違ひない。書いたのは一度だけであるが、ロでは始終藤村をやッつけてゐて、私な ど何度聞かされたか知れない。 さう云ふ私も、芥川のやうに正面切っては書かなかったが、遠廻しにチク のゝし あぐら 486

6. 谷崎潤一郎全集 第21巻

繰り返して云ふが、私はさう云ふ東京の名物に反感と愛着との矛盾した感情を抱いてゐるので、遠く離れ わさび てゐるときは、馬鹿貝の附け燒が戀ひしくなったり柱の山葵醤油が無上にたべてみたくなったりする。さ うして今度東京 ~ 行ったら存分にたべて來ようと思ふのであるが、生憎季節外れであったり、ト / 料理屋を 覗く暇がなかったりして、いつも機會を逸してしまふ。何しろたべたい物と云ふのが、料理屋よりも小人 數な家庭の小鍋立に適したやうなものばかりであるから、遠慮のいらない友達の家にでも泊まって主人夫 婦と同じ長火鉢の前にすわり、同じ食卓を圍むのでなければ、中々望みが叶ひにくい 。然るに去年の十一 月末から十二月の下旬 ~ かけ、私は雜誌社の仕事その他の用務を帶びて暫く滯京する必要が起り、前後一一 十五六日の間、鶴見の上山草人の宅に客となった。震災後、私がこんなにも長く東京附近に留まってゐた ての上なら兎も角も、羊羹一つ碌なものがなくて、鹽煎餅が名物とはあんまり野蠻ではないか。尤もモナ 力や田舍饅頭にはいくらかうまいものがあるが、孰れにしても粗野で、貧弱で、殺風景なものばかりであ る。煎餅にしたって、今戸や草加と云ふ所は東京の場末や在方であるから、元來田舍の名物なのだ。東京 人はさう云ふ變に佗しいものを「一寸オッだ」と云って賞美するのだが、そして昔の江戸っ兒は知らず、 今の彼等は決してそれを負け惜しみのつもりで云ってゐるのではないのだが、私は實はそのオッと云ふ言 葉を聞くと、一種のうすら寒い身ぶるひを感じ、その蔭に隱されてゐる東京人の薄ッペらさを考 ~ て何と も云へず悲しくなる。

7. 谷崎潤一郎全集 第21巻

〇 私は、歴史のことはよく知らないが、今の東京、昔の江戸と云ふもの、成り立ちを考へると、昨今の滿洲 國の新都新京のやうなものであったらうと想像する。何しろ土地は廣いけれども、見渡す限り草ばう / \ たる原ッばで、大阪や京都に負けないやうな新市街を建設することは容易でない。折角道路を作っても、 地質が柔かで、泥濘が深く、雨が降れば溝どろになり、冬になれば霜解けがする。そこへ持って來て秩父 おろし 颪の室ッ風がビュウ / \ 吹く。日本は気候温暖だとか風光明媚とか云はれるのは、瀨戸内海の沿岸、大阪 西部日本に比べると財力も文化も劣ってゐるのだ。さうして東京はその貧しい東北のたった一つの大都會 あづま えびす なのだ。斯く東京を「東北地方に屬するもの」として見る時、昔は「鳥が啼く東」と云った夷が住んでゐ た荒蕪の土地が權現様の御入府に依って政治的に、と云ふのはつまり人爲的に、繁華な町にさせられたも のであると見る時、始めて今戸の煎餅や千住の鮒の雀燒や淺草海苔やタ、ミイワシが名物であると云ふ理 由が分る。震災前の東京市は市でなくて村だと云はれたが、震災後の今も、或る意味に於いて田舍なのだ。 米澤や會津や秋田や仙臺の延長なのだ。私は嘗て東北に遊んで、モヤシのヌタや、鰰の味咐漬や、ナメコ の三杯酢に舌鼓を打ったことがあり、今でも折々たべてみたくなるけれども、あの地酒のまづさを想ひ、 それらの食物の東北らしい淋しい色合ひを想ふと、背筋が寒くなって來て、再び彼の地へ行ってみようと 云ふ氣にはなれない。が、東京の所謂「オッなもの」を並べた食膳の色彩も、それと幾ばくの差があるか と云ひたい。

8. 谷崎潤一郎全集 第21巻

あるであらう。江戸にも追ひイ、固有の文化が形成され、草創時代のやうな殖民地氣分でなくなった代り には、化政度の爛熟期を經て次第に世紀末的に、廢頽的になり、 旗本の次男が劍術は下手だが三味線や端 唄は上手と云ふやうな世相を現出した。そこへ維新の變動が起り、三百年の太平に馴れて遊惰安逸を貪っ てゐた江戸人は、政治的、經濟的、軍事的に、上方に破れて關ヶ原の仇を取られた。されば維新後の東北 は兎角繼兒扱ひを受け、さまみ \ の施設が關西より後れてゐるが、東京人と雖も気分に於いては東北人と 同じ敗者であるから、意気が揚がらないのも尤もである。ちゃうどやかされて育った大家のお坊っちゃ んがジリ / \ と身代を傾けて落魄したやうに、彼等は概して見え坊の癖に意志が弱い。常識の圓滿と趣味 の纎細を自負してゐるカ ゞ、はにかみ屋で、人の前ではロが利けない。酒落は巧いが世渡りは拙く、正直で はあるが勇氣や執着力がない。五月の鯉の吹き流しとか宵越しの錢は持たねえとか云っても、殖民地時代 にはさう云ふ闊達さも必要だったであらうが、昔の江戸っ兒の意気地がなくなっては、それは寧ろ救ふべ 敗北者の位置に追はれて零落 からざる缺點である。だから維新以後の社會に處しても、東京人は日に / \ の一路を辿りつ、ある。最早や今日に於いては長閥だとか薩閥だとか云ふものがある譯ではなく、關ヶ原 の恨みも鳥羽伏見會津の恨みも帳消しにされ、總べての日本人が立身の機會を均等に與へられてゐるのだ が、東京の下町の人間で偉い政治家や實業家や軍人になった者を殆んど聞かない。荒木前陸相や鳩山元文 相は東京生れださうであるが、彼等が純粹の東京人であるとしたなら誠に稀有の出世であって、私共のや 京うな下町の人間で、あゝ云ふ花々しい働きをしてゐる者は一人もない。本所生れの芥川龍之介は、「われ / \ は気が弱いから駄目ですな」と、よくさう云った、「里見君は横濱生れだと云ふが、あれは薩摩入の っ 0

9. 谷崎潤一郎全集 第21巻

か。たとへば古靱太夫なども、私は前にも云ふ通り淨瑠璃の巧拙は分らないながら少し齒切れがよすぎる のではあるまいか。それともそんなことを思ふのは、東京生れと云ふことを人から聞いたせゐであらうか。 たゞ、さう云ふ移住藝入の中で、かの市川箱登羅が今もキビ / \ した江戸辯を使ってをり、羽左衞門の助 六の芝居に唯一の大阪方として馳せ參じてゐたのには、何と云ふ譯もなく、微笑を禁じ得なかったのであ 270

10. 谷崎潤一郎全集 第21巻

ビウ / \ と紙暦や砂塵を吹き飛ばして通る。夕方、訪れる知人の家が分らないで、そんな家並みの間を ウロイ、する時、路上で子供が鼻をす、りながら遊んでゐたりするのを見ると、實に悲しい。何の因果で 此の人達はこんな所へやって來るのだらう。東京々々と云ふが、農村でも田舍の小都會でも、こんな町よ りはまだ落ち着きがあるではないか。彼等の故鄕の家屋敷の方が、煤けてゐても寒暑を凌ぐには足りるで あらうし、爐邊の居心地も惡くはあるまいに、こんな場末の生活の何處がよくってと思ひ、彼等もそれは 分ってゐながら生きて行くために是非なく東京 ~ 集まるのだとすれば、それは政治が惡いのだと云ふ風に も思ふ。が、德川氏の初期に於ける江戸の下町も、多分あんな風なカサ / ( \ した、みじめなものだったに 違ひない。そして關西から移住した上方人は、武士も町人も秩父颪や筑波颪に齒を喰ひしばり、魚や野菜 のまづいのに苦い顏をしたことであらう。吉原の廓言葉が山出し女の訛りを胡麻化すためであったことを 思 ~ ば、遊女なども京大阪のそれに比べて肌觸りが粗く、立居振舞もふつ、かで、熱河や新京のカフェー 女の感じがしたであらうから、たま / 、、、憂さを睛らしに行っても、うた、望鄕の念に駈られたであらう。 春は花見、秋は紅葉と云ふけれども、嵐山や嵯峨や高尾や栂尾を知ってゐる者には、雜木林と草ッ原と平 几な丘陵の連績の外に、心を慰める眺めもない。私なんぞが小學校時代に秋の遠足と云ふと瀧の川へ出か けたものだが、 あんなちつほけな庭みたいな所が紅葉の名所だったんだから驚く。その外には目黒の不動、 ごコーよ 堀切の菖蒲、木下川、臥龍梅の梅、柴又の帝釋天、龜井戸の藤、團子坂の菊、池上、堀の内のお祖師様、 そんなのが四季の行樂の地であるとは、まあ情ないではないか。大阪の人が成田の不動様々々々と云ふか ら山深き靈域にある大した伽藍なんだらうと思って、成田驛で下車してドン / 、、行くと、田圃や畑ばっか