ている私の心がお分りでしようか」と言ってやったり、「ほのかにも軒端の荻をむすばずば」の歌を丈の 高い荻に結いつけて「こ「そり持「て行け」と言ってやったり、もしあやまって、彼女の夫の少将が見つ けて私であったことを悟ったとしても、まさか許してくれるであろうと言ったりしている。亭主に知れて も此方の地位が地位であるから大したことはあるまいとたかをくくっている「己惚のお心こそ、何とも申 しあげようもありません」と作者は書いているが、まことにその通りである。 こういう恋のいたずらは若い時分には誰にもありがちのことであるし、まして源氏のような貴族の青年で あってみれば仕方のないことであるから、それだけならば深く咎めるにも及ばないかも知れないが、源氏 の場合は当時別に大切な人を心に思っていた筈である。同じ「帚木」の巻に、源氏が隣りの部屋から源氏 の噂をする人々の話し声を洩れ聞くところで、「君は恋しいお方のことばかりが心にかかっていらっしゃ るので、まずどきりとして、かような折に人がその噂を言い出したりするのを、ひょっと自分が聞きつけ でもしたら : : 」という一節がある。藤壷と源氏との関係はいつごろからかはっきりしないが、ここに いう恋しいお方とは藤壷を指しているのであろう。そういうお方のことばかりが心に懸っているという一 方で、空蝉や軒端の荻やタ顔などに手を出すというのからして理解しかねるが、それはまあ許すとしても、 ほんの偶然のめぐり合わせでゆくりなく縁を結んだ女どもを捉えて、「年頃思いつづけていました」とか、 ロ「死 " ぬほど焦れていた」とかいうようなお上手を言うのは許し難い。いかに時代が違うからとい「て、藤 壷のような重大な女性を恋しながら、ふとした出来心で興味を持「ただけに過ぎない通りすがりの女に向 って、いとも簡単にあなたを思いつづけていたとか、死ぬほど焦れていたとか、言う気になれるものであ をぎ うぬぼれ 515
にくまれロ ド大学で日本文学を教えてお 私の小説「鍵」を英語に訳して下すったハワード・ヒべットさんはハ られるが、去年の秋から御夫婦で日本に遊びに来られて今年いつばいくらいは滞在しておられるという。 「鍵」の英文はなかなかの名訳だという評判で、私は夙に氏の名を耳にしていたが、お目にかかったのは 今度が初めてであった。ところでその時のことであるが、談話がたまたま「源氏物語」に及んだ時、アメ リカの学生は一般に光源氏よりも女主人公の紫の上を愛している、光源氏はあまり好かれていないらしい とヒべットさんは言った。女性を尊重する国のことであるから、自然女の方の味方をする人が多いのかも 知れないが、 われわれ日本人はどうであろうか。日本の源氏愛読者を男女両性に区別して見ると、少くと も現代では、やはりアメリカの読者と同じような結果になるのではなかろうか。 私が初めて源氏を読んだのは中学校の四、五年生頃、まだ与謝野夫人の現代語訳も出ていなかった時分で はなかったかと思うが、それでも分らないながら「湖月抄」の注釈を頼りにして読んだ。勿論最初は終り まで通読する根気はなかった。何度か通読しようとしては中途で放擲し、ようよう兎も角も読み終えるこ ねや とが出来たのは一高時代であったと記憶する。しかし「帚木」の終りの方で、源氏が空蝉の閨に忍び込む ところは最初に読んだ時から少からず動かされた。ああいうきわどい場面を、あれまでに艶っぽく、そう して品よく描写することができるのは、たいした手腕であると思った。が、あの場面で、源氏が空蠅を口 説く言葉にこういう文句がある。 513
があまり源氏の肩を持ち過ぎているのが、物語の中に出てくる神様までが源氏に遠慮して、依怙贔屓をし ているらしいのが、ちょっと小癪にさわるのである。 それならお前は源氏物語が嫌いなのか、嫌いならなぜ現代語訳をしたのか、と、そういう質問が出そうで あるが、私はあの物語の中に出てくる源氏という人間は好きになれないし、源氏の肩ばかり持っている紫 式部には反感を抱かざるを得ないが、あの物語を全体として見て、やはりその偉大さを認めない訳には行 かない。昔からいろいろの物語があるけれども、あの物語に及ぶものはない、あの物語ばかりは読む度毎 に新しい感じがして、読む度毎に感心するという本居翁の賛辞に私も全く同感である。 昔鷦外先生は「源氏」を一種の悪文であるかのように言われたが、思うに「源氏」の文章は最も鷓外先生 の性に合わない性質のものだったのであろう。一語一語明確で、無駄がなく、ビシリビシリと象眼をはめ 込むように書いて行く鷓外先生のあの書き方は、全く「源氏」の書き方と反対であったと言える。 えこひいき 520
ろうか。そんなことが冗談に 一も言えるとすれば、それは藤壷というものを甚しく侮辱することになる。源 氏物語の作者は光源氏をこの上もなく贔屓にして、理想的の男性に仕立て上げているつもりらし : 、、、 . し、力し」 うも源氏という男にはこういう変に如才のないところのあるのが私には気に喰わない。 源氏の君は本妻の葵の上とは性が合わなかったらしい。「何だかこちらが気が引けるくらいとりまして いるのが物足りない」と、正直のことを言っている。しかし葵の上の周囲には、中納言の君だとか中務だ とかいう「すぐれて美しい若い」女房たちが仕えているのだが、こういう女たちには平気で冗談などを言 っている。冗談だけでなく、足腰をもませたり、時にはそれ以上のことを行って、これらの女房たちを喜 ばすこともあったらしい。 六条御息所との関係はいっ頃からのことか、これも葵の上に劣らないほど因縁の深い間柄であったらしい が、「タ顔」の巻に、 みきちょう 中将という女房が、御格子を一間上げて、見送ってお上げ遊ばせという心持で御儿帳を引き上げました せんざい くさばな ので、女君 ( 六条御息所 ) は頭をもたげておもての方を御覧になります。と、前栽の草花の色とりどり たたす に咲き乱れている風情を、見過しかねて佇んでいらっしやる御様子が、全く類がありません。そのまま ろう しおんいろきぬ 廊の方へおいでになりますので、中将の君がお供します。これは紫苑色の衣の、季節にふさわしいのを うすものも 着て、羅の裳をあざやかに引き結んだ腰つきが、たおやかになまめいているのです。君は振り返って御 みこうし ひとま ひいき なかっかさ
り這人「てから話しても済むことだなどと、言わないでもいい憎まれ口を利いている。そしてこの事件が 発端となって源氏は須磨へ流される。 可笑しなことには、源氏は須磨へ流されてからも次のような歌を詠んでいる。 雲近く飛びかふたづも空に見よ われは春日のくもりなき身ぞ 八百万神もあはれと思ふらん をかせる罪のそれとなければ 「自分は春の日の日光のようにくもりのない身である」とか、「自分はこれという犯した罪もない身であ るから、八百万の神々も定めし可哀そうと思「てくれるで、あろう」とか言「ているのは、本心でそう思っ ているのか知らん ? それともこの場合、明石の人道や明石の上の手前を慮「て口を拭「ているのか知ら ん ? 前者だとすれば随分虫のいい男だし、後者だとすればしらじらしいにも程がある、と言いたくなる。 我が身の過去を振り返「て見れば、「犯せる罪のそれとなければ」などという言葉が言えたものではない 筈である。いや、そう言えば、もう人界の人ではなく、天に帰「ておられる筈の桐壷帝までが、次男坊の ロ 源氏の罪を責めないで、次男坊に勝手な真似をされた長男の朱雀院の方を、夢に現われて叱「たりされて れ 源氏の身辺について、こういう風に意地悪くあら搜しをしだしたら際限がないが、要するに作者の紫式部 やほよろづ はるび 519
潦氏の文章を護む毎に、常に幾分の困難を覺える。少くともあの文章は、私の頭にはすら / \ と這人りに くい。あれが果して名文であらうか」と云ふ意味を、婉曲に述べてゐるのであります。ところで、源氏の ゃうな國文學の聖典とも目すべき書物に對して、斯くの如き冐漬の言を爲す者は鷓外一人であるかと云ふ のに、中々さうではありません。一體、源氏と云ふ書は、古來取り分けて毀譽褒貶が喧しいのでありまし て、これと並稱されてゐる枕草紙は、大體に於いて批評が一定し、惡口を云ふ者はありませんけれども、 源氏の方は、内容も文章も共に見るに足らないとか、支離滅裂であるとか、睡気を催す書だとか云って、 露骨な惡評を下す者が昔から今に絶えないのであります。さうして、それらの人々に限って、和文趣味よ りは漢文趣味を好み、流麗な文體よりは簡潔な文體を愛する傾きがあるのであります。 蓋し、我が國の古典文學のうちでは、源氏が最も代表的なものでありますが故に、國語の長所を剩すとこ ろなく發揚してゐると同時に、その短所をも數多く備 ~ てをりますので、男性的な、テキ。 ( キした、韻の よい漢文の口調を愛する人には、あの文章が何となく齒切れの惡い、だら / \ したもの、やうに思はれ、 何事もはっきりとは云はずに、ぼんやりばかしてあるやうな表現法が、物足らなく感ぜられるのでありま せう。そこで、私は下のやうなことが云へるかと思ひます。同じ酒好きの仲間でも、甘口を好む者と、辛 口を好む者とがある、左樣に文章道に於いても、和文脈を好む人と、漢文脈を好む人とに大別される、 ちそこが源氏物語の評價の別れる所であると。此の區別は今日のロ語體の文學にも存在するのでありまし て、言文一致の文章と雖も、仔細に味してみると、和文のやさしさを傳へてゐるものと、漢文のカッチ リした味を傳 ~ てゐるものとがある。その顯著な例を擧げますならば、泉鏡花、上田敏、鈴木三重吉、里 ひゞき 148
物であるから、儒学者の言うような是非善悪の区別をもって臨むのは間違いである、物語の中の人物の善 し悪しは自ら別で、儒者心をもって測ってはいけな、、 という本居翁の説 ( よ卓見であるとは思う。しかし 5 今挙げたような上手口を叩く男は今の世にも沢山いて、どういう物指をもって測っても、感心する訳には 行かない。自分の父であり、一国の王者である人の恋人と密通しているということは、「物のあわれ」と いう眼から見れば同情できるでもあろう、まあそこまでは許せるとしても、そういうものがある一方で簡 単に別の情婦をこしらえたり、その情婦に井い言葉をかけたりするということは、どうも許せない気がす る。私はフェミニストであるから、余計そういう気がするので、これらの男女の関係が逆であったら、そ れほどにも思わないのかも知れないが、「源氏」を読んで、 この外にも朧月夜の内侍という女性がいる。この女性も源氏の腹違いの兄である人の思い者、そしてこの 兄も亦父の跡を継いで王者となった人であるが、源氏はこの女性とも不義をしている。その不義の現状を 彼女の父の右大臣に発見されるところで、作者はこんな書き方をしている。 ( 右大臣は ) ひょいと気軽にはいっていらしって、御簾をお引き上げになりながら、「昨夜はど すけ うでした。えらいお天気だったので、心配しながらつい参らずにしまいました。中将や宮の亮などはお そば 側におったことでしようね」などとおっしゃいますのが、早ロで、軽率なのを、大将の君 ( 源氏 ) はこ きわ んな際どい場合ですが、ふと左大臣と比較するお気におなりなされて、言いようもなくおかしくお感じ になります。本当に、中へすっかりおはいりなされてから仰せになったらいいでしように。 源氏贔屓の紫式部は、ここでも不義者源氏の方の味方をして、父の右大臣は軽率であるとか、中へすっか みす いつも厭な気がするのはこの点である。
「あまり突然のことですから、ふとした出来心のようにお思いになるのも道理ですが、年ごろ思いつづ つかま けていました胸のうちも聞いていただきたくて、こういう折をようようえましたのも、決して浅い縁 ではないと思って下さいまし」 ( 以下「源氏」は私の「新々訳」による ) この空蝉という女は源氏よりはずっと地位の低い或る地方官の妻で、主人は田舎に出張しており、自分だ け京都の家に来ているところへ、源氏が偶然方違えのために泊めて貰いに来ている折の出来事なのである。 源氏は前からこの空蝉という女を知っていた訳ではない。名前ぐらいは知っていたかもしれないが、夫を 田舎に置いて、自分だけ京都に来ていることも、今この家に寝ていることも、ここへ来て見て初めて知っ たに過ぎない。彼が空蝉を評して「格別すぐれているという点はないが、見苦しからずもてなしていた様 子などは、中の品とすべきであろうか」と言っているのを見ると、非常な美人というのではないらしいの だが、それでいて妙に色気のある女のように描かれているのはさすがである。源氏の年齢は当時十六、七 歳である。いかに地位の高い身だからといって、夫のある女の閨を襲って我が物にするとは乱暴であるカ それよりも「あまり突然のことですから云々年頃思いつづけていました胸のうちも聞いていただきたく つかま て」こういう折をえたのです、決して浅い縁とは思わないで下さいと言っているのはどうであろうか。 こんな言葉は女を口説く常套語であるが、高貴に育った、未だ世馴れない筈の青年の言葉として、あまり い感じを持っ訳に行かない。あの頃の青年は今の人よりませていたかもしれないが、こんな出まかせの 嘘が咄嗟の間に口から出るのでは、何となく年に似合わぬ擦れ「からしの若者という感じがする。空蝉ば かりか、空蝉と間違えて不思議な縁を結ぶことになった軒端の荻にまで、小君を使にして「死ぬほど鷦れ えにし 514
者は、再び源氏になってをります。が、何でさう云ふ區別がつくか、一つが源氏の動作であり、一つが從 者の動作であることが、何處で分るかと申しますと、敬語の動詞もしくは助動詞の使ひ方で分るのであり ます。御覽の通り、源氏の方には「ねられ給はぬ」と云ひ、「のたまふ」と云ひ、「おばす」と云ふ風に敬 語が使ってありますが、從者の方はたゞ「伏す」となってをります。 尚、前掲の賴山陽の書簡を見ますと、二通共、「足下」とか「小生」とか云ふやうな一人稱乃至二人稱代 名詞が一つも使ってありません。それでゐて自他の區別が明瞭になってをりますのは、先方のことを云ふ 時は「お聞も被」下」、「御暮し被 / 成」、「被ニ仰下こ、「被 / 遣」、「爲レ持被 / 下」と云ふやうな敬語を使ひ、自 分のことを云ふ時は簡單に「候」と云ふか、或は一脣丁寧に、「申候」、「拜借仕度」、「仕候」と云ふやうに まかりあり あらせら 云ってゐるからであります。その他、昔の候文では自分のことは「罷在」と云ひ、先方のことは「被 / 爲レ 在」「御入なされ」「御出遊ばされ」「御座あらせられ」などと云ひます。斯くの如く、他人の動作を敬ふ 意味の動詞助動詞の外に、自分の動作を卑下する意味の動詞助動詞迄もあると云ふことは、一見甚だ煩は しい差別のやうでありますが、實はいろ / ( \ な重要ならざる言葉を省き得る便宜があり、引いては文章の 構成の上にも非常に重寶な場合があることを、忘れてはなりません。と申しますのは、敬語の動詞や助動 詞がある時は、それらを受ける主格は略した方がよい、否、略すための敬語であると考へるのが至當であ りまして、禮儀の上から申しましても、奪敬してゐる人の名前や代名詞などは、輕々しく口にすべきでは ありません。長れ多いたとへのやうでありますが、「行幸」と云ひ、「行啓」と云ふやうな言葉は、元來主 格たるべき御方の御名を口にするのが勿體ないところから起ったものだとも、思へます。そこで、敬語の おんいり 234
これが西洋の詩でありましたならば、「牀前月光ヲ看ル」者は作者自身なのでありますから、當然「私は」 と云ふ代名詞が置かれるでありませう。又、「牀」や、「頭」や、「故鄕」と云ふ語の上にも、「私の」と云 ふやうな斷り書きが附くでありませう。それから、「看ル」、「疑フ」、「望ム」、「思フ」等の動詞は、恐ら く過去の形を取るでありませう。すると此の詩は、或る晩或る一人の人の見たことや感じたことに限られ てしまって、到底これだけの魅力を持っことは出來ないのであります。尤も此れは韻文でありますが、散 文に於いても、東洋の古典にはかう云ふ書き方が多いことは、既に皆さんも數囘の引用文に依って御承知 でありませう。あの雨月物語の冐頭を見ましても、「あふ坂の關守にゆるされてより」から「行くノ ( 、讃 あま 岐の眞尾坂の林と云ふにしばらくをとゞむ」まで、東は象潟の蜑が苫屋から西は須磨明石を經て四國に 至る道中が書いてありますが、此の長い旅行をした人間が誰であるかは記してない。又、「仁安三年の秋」 とは斷ってありますけれども、動詞は現在止め、云はゞ不定法のやうになってゐて、過去の形を取ってゐ ない。そのためにこれを讀む者は、主人公の西行法師と共に名所古蹟を經めぐり、國々の歌枕を訪ね歩い てゐるやうな感じを與へられるのであります。かう云ふ手法は、現代のロ語文にも應用の餘地があるので ありまして、少くとも、主格や所有格や目的格の名詞代名詞を省いた方がよい場合は、非常に多いのであ ります。殊に私小説などでは、「私」が主人公であることは讀んで行くうちに自然と分るのでありますか ら、さう「私」と云ふ言葉を澤山使ふには及ばない。その他小説の文章は一般にさう云ふ手心を加へた方 が魅力を生ずるのでありまして、今の作家では里見弴氏が屡よ此の手法を用ひてをりますから、試みに氏 の作品集を調べて御覽なさい。ちゃうど雨月や源氏のやうな書き出しを以て始まってゐる作品が、少から 240