源氏物語 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第21巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第21巻

源氏物語の現代語譯について

2. 谷崎潤一郎全集 第21巻

文章讀本 見弴、久保田万太郎、宇野浩二等の諸家は前者に屬し、夏目漱石、志賀直哉、菊池寬、直木三十五等の諸 家は後者に屬します。尤も、和文のうちにも大鏡や、神皇正統記や、折焚く柴の記のやうな簡潔雄健な系 統がありますので、これを朦朧派と明晰派と云ふ風に申してもよいし、だら / \ 派とテキ。ハキ派とも申せ ませうし、或は又、流麗派と質實派、女性派と男生派、赭派と理性派、など、、 いろ / ( \ に呼べるので ありまして、一番手ッ取り早く申せば、源氏物語派と、非源氏物語派になるのであります。で、これは感 覺の相違と云ふよりは、何かもう少し體質的な原因が潜んでゐさうに思はれますが、兎に角、文藝の道に 精進してゐる人々でも、調べてみると、大概幾分かは孰方かに偏ってをります。斯く申す私なども、酒は 辛口を好みますが、文章は口、先づ源氏物語派の方でありまして、若い時分には漢文風な書き方にも興 味を感じましたもの、、だん / \ 年を取って自分の本質をはっきり自覺するに從ひ、次第に偏り方が極端 になって行くのを、如何とも爲し難いのであります。 斯樣に申しましても、感受性は出來るだけ廣く、深く、公平であるに越したことはありませんから、強ひ て偏ることは戒めなければなりませんが、しかし皆さんも、多く讀み、多く作って行くうちに、自然自分 の傾向に気付かれる折があるかも知れません。さうして、さう云ふ場合には、成るべく自分の性に合った 文體を選び、その方面で上達を期するやうにされるのが得策であります。 149

3. 谷崎潤一郎全集 第21巻

東京をおもふ 春琴抄後語 文章讀本 私の貧乏物語 大阪の藝人 半袖ものがたり 厠のいろ / 、 旅のいろ / \ 源氏物語の現代語譯について 所謂痴呆の藝術について 目夬 二七一 一天三 一一九五 七七 一一四七

4. 谷崎潤一郎全集 第21巻

から、この調子の文章に於いては東洋的な寡言と簡潔とが「一」の文體よりも更に大いに要求される譯で ありまして、旁よ孰れの場合にも西洋流のおしゃべりは禁物であります。志賀氏の作品に徴しましても、 その物を見る感覺には近代入の纎細さがあり、西洋思想の影響があることは否めませんが、その書き方は 東洋的でありまして、漢文の持っ堅さと、厚みと、充實味とを、ロ語體に移したと云ってもよいのであり ます。 三冷靜な調子 文章の調子に現はれる作者の莱質を大別しますと、源氏物語派印ち流麗派、非源氏物語派印ち簡潔派とな るのでありまして、細別すればまだ幾つにも派生しますけれども、要するに此の二つのを出でないと思ひ ます。が、尚此の外に考へれば冷靜な調子と云ふものがあります。 これは、云ひ換へれば調子のない文章であります。大概な人の書く文章には、流麗なもの、簡潔なもの、 その他善かれ惡しかれ、何かしら言葉の流れが感じられますが、時には流れの停まってゐる文章を書く人 がある。さう云ふものは、形態の上では「一」に近かったり、「二」に近かったり、まち / ( 、であります から、初心の者には一寸分りかねませうけれども、よく讀んでみると、全然流露感のないことが分る。ち ゃうど繪に畫いた溪川の如きもので、流れる形はしてゐるけれども、その形のま、で停まってゐる。しか し流露感がないからと云って必ずしも惡文とは限りません。流れの停滯した名文と云ふものもあります。 さうして、その最も傑れたものになると、淵に湛 ~ られた淸洌な水がじっと一箇所に澱んだま、、鏡のや うな靜かな面に萬象の姿をあり / \ と映してゐる如く、書いてあることが一目瞭然としてゐるので、讀者 180

5. 谷崎潤一郎全集 第21巻

とについても、種々有益なる助言や注意をして下さった。博士自身も、大にこの仕事の意義を認められ、 全く非常な身の人れ方で、こんなにまで親切に見て頂けよ 多大の聲援を惜しまないといってをられたが、 うとは豫期してゐなかった所であり、私に取っては百萬の味方を得たにも等しい。三年以來、私は終始變 らざる興味と熱意とを持ってこの仕事に携はってゐられるのも、博士の鞭撻に負ふる所尠少ならざるのを 感ずるのである。 博士は大體「湖月抄」をテキストにせよといふお話であったし、私自身も「湖月抄」に依って源氏を知っ たわけであるから、専らそれに基いて譯すことにし、古い註釋書では「岷江人楚」を最も多く參考にした。 、、、、現代人が現代文に譯す上に、何といっても一ばん參考になるものは明治以後に出版されたロ語譯であ るから、與謝野晶子氏のもの、吉澤博士校閲の宮田和一郎氏譯のもの、全譯王朝文學叢書の中に收めてあ る全七卷のもの、窪田空穗氏譯のもの、樂浪書院發行の源氏物語總釋、島津久基氏の源氏物語講話等、既 に完成されたものは素より、目下績々出版されつつあるものも、出るに隨って座右に置くやうにしてゐる。 ウェーレーのものなども、非常に誤譯が多いのでさういふ點では餘り助けにならないが、然し文學的の飜 譯としては相當に優れてゐ、奮發心を起させるので、刺戟を受けるために時々讀む。飜譯の方針は、前に もいったやうに文學的に譯すこと、原文を離れて、飜譯それ自身を文學として讀むことが出來るやうにし、 それを主眼 而もそれから受ける感興が、昔の人が原文を讀んで受けた感興と同じゃうにすること、 326

6. 谷崎潤一郎全集 第21巻

を踏みしめて行くやうに、はっきり際立たせて書きます。ですからなだらかな感じはありませんが、流れ が一定の拍子を以て反復されるところに一種剛健なリズムがある。「一」が源氏物語派であり、和文調で あるとすれば、これは非源氏物語派であり、漢文調であります。さうしてそのリズムの美しさも、漢文の それと相通ずるものがあります。 幸ひにして、この調子の文章には志賀直哉氏の作品と云ふ見事なお手本がありますから、それらを繰り返 し玩味されるのが近道でありますが、氏の文章に於ける最も異常な點を申しますと、それを刷ってある活 字面が實に鮮かに見えることであります。と云っても、勿論志賀氏のものに限り特別な活字がある譯はな い。單行本でも雜誌に載るのでも普通の活字で刷ってあるのに違ひありませんが、それでゐて、何か非常 にキレイに見えます。そこの部分だけ、活字が大きく、地紙が白く、冴えみ \ と眼に這人ります。これは 不思議でありますが、なぜさう云ふ感じを起させるかと云ふと、作者の言葉の選び方、文字の篏め込み方 に愼重な注意が拂はれてゐて、一字も疎かに措かれてゐない結果であります。そのために心なき活字まで が自然とその氣魄を傳へて、恰も書家が楷書の文字を、濃い墨で、太い筆で、一點一割苟くもせずに、カ を籠めて書いたかのやうに、グッと讀者に迫るのであります。 文章も、かう云ふ域に達するのは容易でありません。大概な入の書いたものは、印刷物にしてみても活字 本が宙にふはついてゐて、直きに動きさうに見えますが、志賀氏の使ふ文字は、活字になっても根を据ゑた 章ゃうにシッカリと、深く見えます。さればと云って、特に人目を驚かすやうな變った文字や熟語が使って あるのではありません。志賀氏は多くの作者の中でも派手な言葉やむづかしい漢字を使ふことを好まず、 177

7. 谷崎潤一郎全集 第21巻

いかにも此れは一應尤もな説でありますが、左様な疑ひを抱く人に對しては、私は下のやうな事實を擧げ てお答へしたいのであります。それは何かと申しますのに、私の友人に大藏省に動めてゐる役人がありま すが、その人から聞いた話に、毎年大藏省では日本の各地で釀造される酒を集めて品評を下し、味ひの優 劣に從って等級をつける、その採點の方法は、專門の鑑定家たちが大勢集まって一つノ—風味を試してみ た上で投票するのださうでありますが、何十種、何百種とある酒のことでありますから、隨分意見が別れ さうでありますのに、事實はさうでないと申します。各鑑定家の味覺と嗅覺とは、それらの澤山な酒の中 から最も品質の醇良な一等酒を選び出すのに、多くはびったり一致する、投票の結果を披露してみると、 甲の鑑定家が最高點を與へた酒に、乙も内も最高點を與へてゐる、決してしろうと同士のやうに、まち / \ にはならないさうであります。此の事實は何を意味するかと云ふのに、感覺の研かれてゐない人々の 間でこそ「うまい」「まづい」は一致しないやうでありますが、洗練された感覺を持つ人々の間では、さ う感じ方が違ふものではない、印ち感覺と云ふものは、一定の錬磨を經た後には、各人が同一の對象に對 して同樣に感じるやうに作られてゐる、と云ふことであります。さうして又、それ故にこそ感覺を研くこ とが必要になって來るのであります。 唯しかしながら、文章は酒や料理のやうに内容の單純なものではありませんから、人に依って多少好む所 を異にし、一方に偏ると云ふやうな事實が、専門家の間に於いても全くないことはありません。たとへば 章森鷓外は、あのやうな大文豪で、而も學者でありましたけれども、どう云ふものか源氏物語の文章にはあ まり感服してゐませんでした。その證據には、嘗て與謝野氏夫婦のロ譯源氏物語に序文を書いて、「私は 147

8. 谷崎潤一郎全集 第21巻

があまり源氏の肩を持ち過ぎているのが、物語の中に出てくる神様までが源氏に遠慮して、依怙贔屓をし ているらしいのが、ちょっと小癪にさわるのである。 それならお前は源氏物語が嫌いなのか、嫌いならなぜ現代語訳をしたのか、と、そういう質問が出そうで あるが、私はあの物語の中に出てくる源氏という人間は好きになれないし、源氏の肩ばかり持っている紫 式部には反感を抱かざるを得ないが、あの物語を全体として見て、やはりその偉大さを認めない訳には行 かない。昔からいろいろの物語があるけれども、あの物語に及ぶものはない、あの物語ばかりは読む度毎 に新しい感じがして、読む度毎に感心するという本居翁の賛辞に私も全く同感である。 昔鷦外先生は「源氏」を一種の悪文であるかのように言われたが、思うに「源氏」の文章は最も鷓外先生 の性に合わない性質のものだったのであろう。一語一語明確で、無駄がなく、ビシリビシリと象眼をはめ 込むように書いて行く鷓外先生のあの書き方は、全く「源氏」の書き方と反対であったと言える。 えこひいき 520

9. 谷崎潤一郎全集 第21巻

にくまれロ 覧になって、隅の間の勾欄の下にしばらくお引き据えになります。用心深くもてなしている体のこなし、 髪の垂れ具合などを、眼の覚めるようなと、感心して見ていらっしゃいます。 「さく花に移るてふ名はつつめども けさ 折らで過ぎうき今朝の朝顔 どうしたらよかろう」と、手をお取りになりますと、馴れたもので、すぐロ早に、 朝霧のはれまも待たぬけしきにて 花に心をとめぬとぞみる しゅじん と、わざと主入の事にして申し上げます。 という一節がある。するとこの中将という女房も、葵の上の女房たちと同じように扱われていたらしい。 「折らで過ぎうき今朝の朝顔」と源氏が言「て、彼女を勾欄に引きすえて暫く躊躇していると、女の方は 心得たもので「花に心を留めぬとぞ見る」と、朝顔を御息所のことにして上手にその場を外してしまう。 御息所の見ている前でさえ、こういう所作を演じるのである。恋人であろうが、ほんのゆきずりの女であ ろうが、誰を掴えてもこんな冗談をするのが源氏の癖である。そんな風にされて喜んでいる女房も女房な ら、御息所も御息所である。 〇 「源氏物語」は勧善懲悪を目的にして書いたものではない、物のあわれということを主にして書いた読み すみま こうらんもと くちばや からだ 517

10. 谷崎潤一郎全集 第21巻

にくまれロ ド大学で日本文学を教えてお 私の小説「鍵」を英語に訳して下すったハワード・ヒべットさんはハ られるが、去年の秋から御夫婦で日本に遊びに来られて今年いつばいくらいは滞在しておられるという。 「鍵」の英文はなかなかの名訳だという評判で、私は夙に氏の名を耳にしていたが、お目にかかったのは 今度が初めてであった。ところでその時のことであるが、談話がたまたま「源氏物語」に及んだ時、アメ リカの学生は一般に光源氏よりも女主人公の紫の上を愛している、光源氏はあまり好かれていないらしい とヒべットさんは言った。女性を尊重する国のことであるから、自然女の方の味方をする人が多いのかも 知れないが、 われわれ日本人はどうであろうか。日本の源氏愛読者を男女両性に区別して見ると、少くと も現代では、やはりアメリカの読者と同じような結果になるのではなかろうか。 私が初めて源氏を読んだのは中学校の四、五年生頃、まだ与謝野夫人の現代語訳も出ていなかった時分で はなかったかと思うが、それでも分らないながら「湖月抄」の注釈を頼りにして読んだ。勿論最初は終り まで通読する根気はなかった。何度か通読しようとしては中途で放擲し、ようよう兎も角も読み終えるこ ねや とが出来たのは一高時代であったと記憶する。しかし「帚木」の終りの方で、源氏が空蝉の閨に忍び込む ところは最初に読んだ時から少からず動かされた。ああいうきわどい場面を、あれまでに艶っぽく、そう して品よく描写することができるのは、たいした手腕であると思った。が、あの場面で、源氏が空蠅を口 説く言葉にこういう文句がある。 513