0 調子について 調子は、所謂文章の音樂的要素でありますから、これこそは何よりも感覺の問題に屬するのでありまして、 言葉を以て説明するのに甚だ困難を覺えるのであります。つまり、文章道に於いて、最も人に敎へ難いも の、その人の天性に依るところの多いものは、調子であらうと思はれます。 昔から、文章は入格の現はれであると云はれてをりますが、啻に人格ばかりではない、實はその人の體質、 おのづか 生理妝態、と云ったやうなものまでが、自ら行文の間に流露するのでありまして、而もそれらの現はれる のが、調子であります。されば文章に於ける調子は、その人の精神の流動であり、血管のリズムであると も云へるのでありまして、分けても體質との關係は、餘程密接であるに違ひない。恰も聲とか皮膚の色と かゞ、直ちにその入の生理状態を想像させるやうに、何かそれに似たものが兩者の間に潜んでゐるらしく 考へられる。で、誰でも文章を作る以上、自分で意識してゐるとゐないとに論なく、自然とその人の體質 に應じた調子が備はって來るのでありまして、生れつき熱情的な人は情熱の籠った調子を帶び、冷靜な人 は冷靜な調子が出る。又呼吸器の弱い人は、何處となく息の績かない所が窺はれ、消化器病のある人は、 血色のすぐれない、冴えない顏色を反映する。その他、なだらかな調子を好む人、ゴッ / \ した調子を好 む人等は、恐らくそれる \ 體質的にさうなる約東があるのでありますから、調子と云ふものは、後天的に 敎へても左程効果があらうとも思はれません。もし或る人が自分の文章の調子を變へようと欲するなら、 むしろ心の持ち方とか、體質とか、云ふ方面から改めてか、るべきであります。ですが、さう云ってしま 170
す。第百四十頁に示した「印興詩人」の一節を見ましても、矢張さう云ふ感じがしますが、「阿部一族」 や「高瀨舟」や「山椒大夫」や「雁」などと云ふ小説をお讀みになれば、一脣此のことがはっきりするで ありませう。 これで調子の分類は大略終ったのでありますが、心づいた點を今少し補足いたしますと、「一」の流麗な 調子の變態として、 四飄逸な調子 と云ふものがあります。これは南方熊楠氏の隨筆や三宅雪嶺氏の論文の文章が最もそれに近も 、。小詭家で は適當な例を思ひ出せませんが、武者小路實篤氏の或る時期のもの、佐藤春夫氏の「小妖精傳」の如きも のが、や、その趣を備へてゐるかと信じます。 此の調子は流麗調の變化したものではありますけれども、その名の如く飄々として捕へどころのないもの でありますから、技巧の上からは説明のしゃうがありません。兎に角、これを書くには一切の物慾があっ てはいけない。名文を書いてやらうなどと云ふ、野心のあることが何よりも宜しくない。又、世道人心を 益しようとか、社會の害惡を除かうとか、さう云ふ一切の娑婆ッ莱を絶たなければならない。要するに、 張り詰めたり、カみ返ったり、意気込んだりすることは禁物でありまして、何等の氣魄もなしに、横着に やりッ放しに、仙人のやうな心持で書くのである。ですから此れは、教へて教へられるものではありませ ん。その心境にさへ達すれば、どんな書き方をしましても自ら此の調子が出るのでありますから、さうな りたければ、禪の修行でもされるのが近道でありませう。 おのづか 182
唯、これこそ本當に東洋人の持ち味でありまして、西洋の文豪でさう云ふ風格を備へてゐるものは、殆ど 一人もないと申して差支へありますまい 又、「二」の簡潔な調子の一變化として、 五ゴッくした調子 のものがあります。これは、不用意に讀むと惡文だと云ふ感じを受ける。事實、惡文と云ってもよいので ありますが、本來の惡文と異るところは、それを作る入が流麗な調子や簡潔な調子を殊更に避けて、わざ とゴッ / \ と歩きにくい凸凹道のやうな文章を作る。ですから此の人は、音調の美が分らないのではない。 彼はそれを理解する感覺を持ってゐるのですが、或る目的があって故意に讀みづらいやうに書く。と云ふ のは、あまり流暢にすら / 、と書くと、讀者はその調子に釣られて一莱に讀んでしまひ、一語々々に深く 意を留めない恐れがある。輕舟に乘ってなだらかな溪流を馳せ下るやうなもので、馳せ下ることそれ自身 が一つの快感ではありますけれども、兩岸の景色、山や、森や、立ち樹や、丘陵や、村落や、田園等はど んな姿をしてゐたか。通った後で考へてみると、應接に暇がなかったために何も記憶に殘ってゐない。七 五調の文章の如きは最も此の弊に墮したものでありまして、馬琴の小説などがさうでありますが、あれを 讀むと、調子ばかりで内容は室疎に思はれる。されば近松門左衞門は淨瑠璃作家でありながら、七五調は 本あまりなだらかに過ぎるから避けた方がよいと云ふことを、「難波土産」の中で述べてをります。簡潔派 章の作家はかう云ふ理由で流麗派の文章を嫌ふのでありますが、ゴッ / \ 派の作家は、簡潔派の文章でもな 3 ほ流暢に過ぎると思ふのであります。なるほど、流暢派に比べれば、簡潔派の書き方はさうすら / \ とは でこぼこみち
が常であります。 そこで、感覺を研くのにはどうすればよいかと云ふと、 出來るだけ多くのものを、繰り返して讀むこと が第一であります。次に 實際に自分で作ってみること が第二であります。 右の第一の條件は、敢て文章に限ったことではありません。總べて感覺と云ふものは、何度も繰り返して 感じるうちに鋧敏になるのであります。たとへば三味線を彈くのには、三つの糸の調子を整へる、一の糸 の音と、二の糸の音と、三の糸の音とが調和するやうに糸を張ることが必要でありまして、生來聽覺の鏡 い人は、敎はらずとも出來るのでありますが、大抵の初心者には、それが出來ない。 つまり調子が合って ゐるかゐないかゞ聽き分けられない。そこで習ひ始めの時分は、師匠に調子を合はせて貰って彈くのであ りますが、だん / \ 三味線の音を聞き馴れるうちに、音の高低とか調和とか云ふことが分って來て、一年 ぐらゐ立っと、自分で調子を合はすことが出來るやうになる。と云ふのは、毎日々々同じ糸の音色を繰り のであります。 返して聞くために、音に對する感覺が知らず識らず鏡敏になる 耳が肥えて來る 本ですから師匠も、さう云ふ風にして弟子が自然と會得する時期が來るまでは、默って調子を合はせてやる 章だけで、理論めいたことは云ひません。云っても何の役にも立たず、却って邪魔になることを知ってゐる からです。昔からよく、舞や三味線の稽古をするには大人になってからでは遲い、十歳未滿、四つか五つ 143
から、この調子の文章に於いては東洋的な寡言と簡潔とが「一」の文體よりも更に大いに要求される譯で ありまして、旁よ孰れの場合にも西洋流のおしゃべりは禁物であります。志賀氏の作品に徴しましても、 その物を見る感覺には近代入の纎細さがあり、西洋思想の影響があることは否めませんが、その書き方は 東洋的でありまして、漢文の持っ堅さと、厚みと、充實味とを、ロ語體に移したと云ってもよいのであり ます。 三冷靜な調子 文章の調子に現はれる作者の莱質を大別しますと、源氏物語派印ち流麗派、非源氏物語派印ち簡潔派とな るのでありまして、細別すればまだ幾つにも派生しますけれども、要するに此の二つのを出でないと思ひ ます。が、尚此の外に考へれば冷靜な調子と云ふものがあります。 これは、云ひ換へれば調子のない文章であります。大概な人の書く文章には、流麗なもの、簡潔なもの、 その他善かれ惡しかれ、何かしら言葉の流れが感じられますが、時には流れの停まってゐる文章を書く人 がある。さう云ふものは、形態の上では「一」に近かったり、「二」に近かったり、まち / ( 、であります から、初心の者には一寸分りかねませうけれども、よく讀んでみると、全然流露感のないことが分る。ち ゃうど繪に畫いた溪川の如きもので、流れる形はしてゐるけれども、その形のま、で停まってゐる。しか し流露感がないからと云って必ずしも惡文とは限りません。流れの停滯した名文と云ふものもあります。 さうして、その最も傑れたものになると、淵に湛 ~ られた淸洌な水がじっと一箇所に澱んだま、、鏡のや うな靜かな面に萬象の姿をあり / \ と映してゐる如く、書いてあることが一目瞭然としてゐるので、讀者 180
蓮んでゐない。要所々々で流れを堰き止めて、兩岸の景物をはっきりと旅人に印集させる。が、それでも 矢張流れそのものに快感がある。なだらかではないが、一丁、二丁の距離を置いて、ドッと奔湍が岩にぶ つかり、旅人はその水勢の爽やかなのに恍惚として、や、ともすれば陸地の觀察をおろそかにする。そこ で、もっとよく陸地を見て貰ふには全然流れの快感を與へないのが一番よいと、かうゴッ / \ 派は考へる のであります。 ですから此の派の人々は、努めてリズムを不愛想に、不愉快にします。少し進みかけたと思ふと、直ぐ彼 方へ打つかり此方へ打つかりするやうに書きます。讀者は至る所で石を踏んだり、穴ばこに落ちたり、木 の根に蹴っまづいたり、しなければならない。けれどもさうして進行を阻まれるために、その穴ばこや石 や木の根に忘れられない印象を受けます。故に此の書き方は、「三」の冷靜派のやうに調子がないのでは ありません。もと / \ 調子と云ふものに鋧敏である結果、却って調子を殺してゐるのでありますから、そ こに「ゴッ / \ した調子」と云ふ、或るブッキラボウな、味のある調子が出ます。この目的を達するため リズム、印ち音樂的要素をゴッ / \ させるばかりではない。視覺的要素、文字の使ひ方も、わざと 片假名にしてみたり、變な宛て字を篏めてみたり、 假名使ひを違へてみたりして、字面を蕪雜にすると云 ふ手段も取ります。されば一見頭の惡い人間の書いた拙劣な文章に似てゐますが、それでもそれだけの用 意があって書く惡文には、慝文の魅力とでも云ふべきものがあって、讀者を惹き着けるのであります。 右のやうに申しますと 、、かにも小刀細工を弄した、技巧的なもの、やうに思はれますが、これも實は體 わざ 質のする業でありまして、當入はそんな技巧にか、づらはってゐるのではなく、寧ろ自然に書けるのであ 184
0 文體について 文體とは、文章の形態、もしくは姿と云ふことでありますが、實を申しますと、既に私は前の「調子」の 項に於いて、略 ~ 此のことを説き盡してをります。なぜなら、調子と云ひ、文體と云ひましても、同一の ものを違った方面から眺めただけのことでありまして、實質に變りはありません。或る文章の書き方を、 言葉の流れと見て、その流露感の方から論ずれば調子と云ひますが、流れを一つの状態と見れば、それが そのま、文體となります。ですから、流麗調、簡潔調、冷靜調等を、それる、流麗體、簡潔體、冷靜體と 呼ぶことも出來ます。 しかし、物を測るにはいろ / \ な物差があります。一つの反物を裁つのにも、鯨尺に依って裁っことも出 來れば、メ 1 トル法に依って裁っことも出來る。文體を分っのにも、調子を標準にして分っことも出來ま すが、樣式を標準にして、文章體、ロ語體、或は和文體、和漢混交體、と云ふ風にも分けられる。さうし て、從來「文體」と申しましたら、この様式上の分け方を意味するのが普通でありました。 そこで、此の分け方に從ひますと、今日一般に行はれてゐる文體は、唯一種、印ちロ語體だけしかありま せん。明治の中葉頃まではロ語體に文章體を加味した俗折衷體と云ふものが、小説の文章に應用された ことがありましたけれども、現在ではそれも亡びてしまったのであります。 ですから、強ひて分類するとなれば、此のロ語體と云ふものを更に幾通りかに細別するのでありますが、 假りに私は、 186
のでありまして、技巧は末のことだからであります。假りに皆さんが、技巧を悉く會得されたとしまして も、天性此の調子に適しない人であったら、決してなだらかな流露感が文章の上に出る筈はない。字面は 1 なだらかに見えましても、小手先の摸倣に過ぎないものは、何となく全體に気が拔けてゐて、眞に生きた 血が通ってゐない。それに反して、生れつきさう云ふ體質の人は、書かうとするものが最初から一種のリ ズムを以て頭に浮かんで來ますので、技巧的には思ひの外無頓着であったり、ゴッ / \ した文字や、語呂 の惡い音を使ってあったりしましても、不思議にさう云ふ文字や音が耳につかないで、すら / 、、とした 淀みのない律動が讀者に傳はる。時には、それが、云ふべからざる生理的快感をさへ與へるのでありま 尚、現代では泉鏡花氏、里見弴氏、宇野浩二氏、佐藤春夫氏等が略よこれに近い作家かと思ひますから、 これらの諸家の作品をお讀みになれば、私の云ふ「調子」の意味が一層よくお分りになるでありませう。 兎に角、昔は文章を褒めますのに流暢・だとか流麗だとか云ふ形容詞を常套的に用ひましたくらゐで、なだ らかに讀めると云ふことを第一の條件に數へましたが、今はカッキリとした、鮮明な表現を喜びます結果、 さう云ふ書き方は流行後れの気味であります。けれども私かに思ひますのに、此れこそ最も日本文の特長 はくはこれを今少し復活させたいものであります。 を發揮した文體でありますから、願 ニ簡潔な調子 これは總べての點に於いて、「一」と正反對の特色を持つものであります。此の調子の文章を書く人は、 一語々々の印象が鮮明に浮かび上ることを欲します。從ってセンテンスの切れ目 / \ も、力強く一歩々々
っても大擱みに過ぎますから、先づ大體の種類を擧げ、その種類に屬する代表的な作家の名を示して、聊 か御參考に供することにします。 一流麗な調子 これは、前に申しました源氏物語派の文章がそれでありまして、すら / \ と、水の流れるやうな、何處に も凝滯するところのない調子であります。此の調子の文章を書く人は、一語々々の印象が際立っことを嫌 ひます。さうして、一つの單語から次の單語へ移るのに、そのつながりエ合を眼立たないやうに、なだら かにする。同樣に、一つのセンテンスから次のセンテンスへ移るのにも、境界をばかすやうにして、何處 で前のセンテンスが終り、何處で後のが始まるのか、けじめを分らなくするのであります。 しかし、つなぎ目の分らないセンテンスを幾つもつなげて行くことは、結局非常に長いセンテンスを書く ことになりますから、中々技巧を要するのであります。それと云ふのが、日本語には二つのセンテンスを つなぎ合せる關係代名詞と云ふものがない。從って、どうしてもセンテンスが短かくなりがちであります が、それを強ひて繋がうとすれば「て」だの「が」だのが頻出して耳障りになりますので、昔から、「て」 の字の多い文章は惡文だと云はれてをりますのは、寔にその通りであります。では如何にして繋ぎ目をば かすかと云ひますと、此の書の第百二十四頁に引用してある源氏の須磨の卷の文章、あれがその模範的な 本一例でありますから、もう一度あそこを開いて御覽なさい。あの文章は、「かの須磨は、」から始まって 章「いと本意なかるべし。」までが一つのセンテンスのやうでありますが、考へ方に依っては、その次の行の 「思し亂る、。」までを一つと見ることも出來る。なぜなら、「かの須磨は」から以下共處までが源氏の君 171
それから、此の「城の崎にて」を御覽になっても分る通り、簡潔な調子の文章は、齒切をよくし、センテ ンスとセンテンスの境界を明確にしなければなりまぜんから、なるべく「た」止めを用ひるのであります い。が、「のである」「のであった」、 が、時には引き締まった感じを出すために、現在止めを用ひるのもよ 殊に「のである」は間伸びがしますから、これは避けるやうにします。尚又、 それは三日程その儘になってゐた。それは見てゐて如何にも靜かな感じを與へた。淋しかった。・ は如何にも靜かだった。 の如く、「それは」と云ふやうな言葉を設けて、センテンスの初めを強める手段を取ります。 讀者は或は、此の場合の「それは」が英文法の主格と同じ働きをしてゐるために、かう云ふ文章を英文臭 いと感じられるかも知れませんが、作者が文法に縛られて無用な文字を置くやうな人でないことは、「淋 しかった。」の一句を以て一文を成してゐるのでも明か ( 第九十八頁參照 ) でありまして、此の「それは」 專ら調子を張る目的で用ひられた繰り返し、 はそんなことよりも、私が第百十四頁に於いて解説した如く、 印ち「た」止めの「た」と同じ役目をしてゐるものと見るべきでありませう。一體、簡潔な美しさと云ふ ものは、その反面に含蓄がなければなりません。單に短かい文章を積み重ねるだけでなく、それらのセン テンスの孰れを取っても、それが十倍にも二十倍にも伸び得る程、中味がぎっしり詰まってゐなければな 本りません。もしさうでなく、間伸びのした内容を唯ポキリ / \ 短かく切って、「た」止めのセンテンスに 章して綴ったとしますと、なるほど拍子の感じだけは出るでありませうが、さう云ふ場合にはそれが却って 文 輕薄に聞えて來ます。どっしりとした、力強い足音でなく、ビョイ / \ 跳ねてゐる足音になります。です ・ : 然しそれ 179