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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第21巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第21巻

八時頃に、わあッと云ふ鬨の聲がして大勢の繰り込んで來る足おとが聞える。米屋町の方は何と云っても おとなしい商人のことであるから、命知らずの連中を相手にしたら損だと云ふ料簡で、賣られた喧嘩を買 はうとはしない。鬨の馨が聞えると、それッと云って何處の家でも慌て、表の大戸を締め、からっきし意 気地がなく、小さくなって息を殺してゐる。魚河岸連は總勢何人ぐらゐだったか、多分一一三十人が三々五 々寄り集ってゐたのだったらう、米屋町通りを所狹しと伸し歩いて、彼方此方の家々の戸を亂暴に叩いた 外から惡罵を浴びせたりするけれども、誰も相手にならないので、「やい、出て來い ! 」とか何とか 散々威張りちらした揚句引き上げて行く。さう云ふことが幾日かの間、幾晩も幾晩もっゞいたことがあっ た。子供は勿論ちゞみ上って奥に引っ込んでゐたのだったが、或る晩、私が父と一緖に伯父の、商店へ遊 びに來てゐる時に、その連中が町を襲って來たことがあった。いつもなら奥へ逃げ込むところを、恐いも の見たさが半分と、子供には危害を加へまいと思ふづうづうしさが半分とで、私が大戸の蔭に潜んで戸外 の騒ぎを聞いてゐると、丁稚の一人が何か小聲で相手になったのが耳に這人ったらしく、突然潜り戸を押 えら し破って黒い鯉ロの合羽を着た一人の壯漢が、鮪や鰹を鰓で引っ掛けて持ち上げる時に使ふ手鉤を提げて、 土間へ躍り込んで來た。手代どもがアタフタして震へてゐると、父が奥から飛んで出て、「へ こいつが何を申しましたかお気に觸りまして申譯がございません、やい、やい、早くお詑びを申さねえ この通り、この通りでございます、私共はお手 か」と、えらい劍幕で奉公人どもを叱り、「へい 」と、びったり疊に兩手をついて平詑ま 向ひなど致す積りはございません、どうか御勘辨なすって りに詑まりつゞけた。壯漢が凄みを利かして立ち去ったあとで、「飛んでもねえ、あんな向う見ずの奴等 てかぎ 458

2. 谷崎潤一郎全集 第21巻

。その人の眼に感ずる色は、普通の「紅い」と云ふ色とは違ふものであるかも知れない。しかしさう云 ふ場合にそれを言葉で現はさうとすれば、兎に角「紅」に一番近いのでありますから、矢張その人は「紅 い」と云ふでありませう。つまり「紅い」と云ふ言葉があるために、その入のほんたうの感覺とは違った ものが傳へられる。言葉がなければ傳へられないだけのことでありますが、あるために害をすることがあ る。これは後に詳しく説く機會がありますから、今はこれ以上申しませんが、返す \ も言語は萬能なも のでないこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならないのでありま 次に、言語を口で話す代りに、文字で示したものが文章であります。少數の人を相手にする時はロで話し たら間に合ひますが、多數を相手にする時は一々話すのが面倒であります。又、ロで云ふ言葉はその場限 りで消えてしまふのでありますから、長く傳へることが出來ない。そこで言語を文章の形にして、大勢の 人に讀んで貰ひ、又は後まで殘すと云ふ必要が生じた譯であります。ですから言語と文章とはもと / ( \ 同 じものでありまして、「言語」と云ふ中に「文章」を含めることもあります。嚴密に云へば、「ロで話され る言葉」と「文字で書かれる言葉」と云ふ風に區別した方がよいかも知れません。が、同じ言葉でも既に 文字で書かれる以上は、ロで話されるものとは自然違って來ない筈はありません。小説家の佐藤春夫氏は 本「文章はロでしゃべる通りに書け」と云ふ主義を主張したことがありましたが、假りにしゃべる通りを書 章 いたとしましても、文字に記したものを眼で讀むのと、それが話されるのを直接に聞くのとは、感じ方に こわね 違ひがあります。ロで話される場合には、その人の聲音とか、言葉と言葉の間とか、眼つき、顏つき、身 あか

3. 谷崎潤一郎全集 第21巻

イ餘りはっきりさせようとせぬこと 及び ロ意味のつながりに間隙を置くこと であります。 イ餘りはっきりさせようとせぬこと と申しますのは、今日は何事も科學的に、正確に述べることが流行る、文學に於いても寫實主義だの心理 描寫だのと申しまして、見たことや思ったことを、根掘り葉掘り、精細に、刻明に、事實の通りに寫すこ とが喜ばれる、けれどもこれは、われ / \ の傳統から云へば上品な趣味ではないのでありまして、多くの 場合、描寫は或る程度を越えぬ方が、禮節に合するのであります。尤も、果たして事實の通りを寫し出す ことが出來るものならば、それも結構でありますけれども、言語や文章はたゞ物事を暗示するだけの働き しかないのでありますから、効果の點から見ましても言葉を節約する方が賢明であることは、既に數囘申 し上げた通りであります。 一體、われくは、生な現實をそのまゝ語ることを卑しむ風があり、言語とそれが表現する事柄との間に 薄紙一と重の隔たりがあるのを、品がよいと感ずる國民なのであります。ですから昔の入達は、明白に云 へば云へることでも、わざと遠廻しに匂はせるやうな云ひ方をしました。さう云ふ例は古典を讀むと幾ら でも見出だせるのでありますが、王朝時代の物語などには、時や、所や、主要人物の名前などを、はっき り明示してゐない場合が珍しくありません。たとへば伊勢物語でありますが、あの中にある挿話は、孰れ 224

4. 谷崎潤一郎全集 第21巻

1 三卩 私は折角汽車の中で讀むつもりで重い思ひをして持ち込んだものが面白くないと、腹も立っし退屈もする ので、なるべく一度讀んだものでもう一度讀まうと思ってゐたもの、つまり内容が分ってゐるものを持ち 込むやうにしてゐるのだが、此の間京都から乘った時は、ちゃうど屆いたばかりの露伴全集第十一卷と、 矢張露伴の岩波文庫本の「連環記」を鞄に人れて來た。そして文庫本の方が手で支へるのに樂なところか ら、その方を先に讀んだのであったが、此の一册の中に收めてあるもの、 連環記、鵞鳥、雪たたき、 幻談の四篇は、今度もなか / \ 面白く讀めたので、持って來てよいことをしたと思った。しかし今度讀ん で見ると、前に讀んだ時とは感じ方がいくらか違ふ。「連環記」が一番すぐれてゐることは豫想してゐた 通りであったが、「雪たたき」は豫想に反してそんなでもなく、そんなでもないと思ってゐた「幻談」が 案外よかった。「連環記」はそのひろがりに於いて、その高さに於いて、實に露伴らしいものであり、露 ゅうこん 伴でなければ書けないものであるが、「幻談」の露伴は、いつものやうな近づき難い、雄渾で巨大な露伴 でなしに、いかにも江戸の通人らしい市井人の露伴が出てゐて、甚だ親しみ易いのである。これは「幻 春談」と云ふ題の示す如く 一種の妖怪談ではあるが、怪談のところは至極あっさりと片付けられてゐて、 むしろそれよりも、幕末頃の釣客や船頭の莱風、言葉づかひ、生活ぶり、大川筋や品川邊の海の氣分、な 393

5. 谷崎潤一郎全集 第21巻

ている私の心がお分りでしようか」と言ってやったり、「ほのかにも軒端の荻をむすばずば」の歌を丈の 高い荻に結いつけて「こ「そり持「て行け」と言ってやったり、もしあやまって、彼女の夫の少将が見つ けて私であったことを悟ったとしても、まさか許してくれるであろうと言ったりしている。亭主に知れて も此方の地位が地位であるから大したことはあるまいとたかをくくっている「己惚のお心こそ、何とも申 しあげようもありません」と作者は書いているが、まことにその通りである。 こういう恋のいたずらは若い時分には誰にもありがちのことであるし、まして源氏のような貴族の青年で あってみれば仕方のないことであるから、それだけならば深く咎めるにも及ばないかも知れないが、源氏 の場合は当時別に大切な人を心に思っていた筈である。同じ「帚木」の巻に、源氏が隣りの部屋から源氏 の噂をする人々の話し声を洩れ聞くところで、「君は恋しいお方のことばかりが心にかかっていらっしゃ るので、まずどきりとして、かような折に人がその噂を言い出したりするのを、ひょっと自分が聞きつけ でもしたら : : 」という一節がある。藤壷と源氏との関係はいつごろからかはっきりしないが、ここに いう恋しいお方とは藤壷を指しているのであろう。そういうお方のことばかりが心に懸っているという一 方で、空蝉や軒端の荻やタ顔などに手を出すというのからして理解しかねるが、それはまあ許すとしても、 ほんの偶然のめぐり合わせでゆくりなく縁を結んだ女どもを捉えて、「年頃思いつづけていました」とか、 ロ「死 " ぬほど焦れていた」とかいうようなお上手を言うのは許し難い。いかに時代が違うからとい「て、藤 壷のような重大な女性を恋しながら、ふとした出来心で興味を持「ただけに過ぎない通りすがりの女に向 って、いとも簡単にあなたを思いつづけていたとか、死ぬほど焦れていたとか、言う気になれるものであ をぎ うぬぼれ 515

6. 谷崎潤一郎全集 第21巻

振、手眞似などが這人って來ますが、文章にはさう云ふ要素がない代りに、文字の使び方やその他いろ / \ な方法でそれを補ひ得る長所があります。なほ又ロで話す方は、その場で感動させることを主眼とし ますが、文章の方はなるたけその感銘が長く記憶されるやうに書きます從って、ロでしゃべる術と文章 を綴る術とは、それる \ 別の才能に屬するのでありまして、話の上手な人が必ず文章が巧いと云ふ譯には 行きません。 0 實用的な文章と藝術的な文章 私は、文章に實用的と藝術的との區別はないと思ひます。文章の要は何かと云へば、自分の心の中にある こと、自分の云ひたいと思ふことを、出來るだけその通りに、且明瞭に傳へることにあるのでありまして、 手紙を書くにも小説を書くにも、別段それ以外の書きゃうはありません。昔は「華を去り實に就く」のが 文章の本旨だとされたことがありますが、それはどう云ふことかと云へば、餘計な飾り莱を除いて實際に 必要な言葉だけで書く、と云ふことであります。さうしてみれば、最も實用的なものが、最もすぐれた文 章であります。 明治時代には、實用に遠い美文體と云ふ一種の文體がありまして、競ってむづかしい漢語を連ね、語調の よい、綺麗な文字を使って、景を叙したり情を述べたりすることが流行りました。蠍にこんな文章があり ますが、これを一つ讀んで御覽なさい。 南朝の年號延元三年八月九日より、吉野の主上御不豫の御事ありけるが、次第に重らせ給ふ。醫王善逝の誓約も、

7. 谷崎潤一郎全集 第21巻

であります。 思ふに、「文章はロでしゃべる通りに書け」と云った佐藤春夫氏の言葉は、これらの長所に気づいた絈 でありませうが、それにも自ら程度のあることで、實際にしゃべる通りを書いたら、不必要な重複や、粗 野な用語や、語脈の混亂や、その他いろ / \ の無駄や不都合の多いことは、議會の速記録等を讀みまして も明瞭であります。しかし私は、講義體や兵語體の不自由さを考へますと、何とかして會話體の自由な云 ひ方を、今少し現代文に適用する道はないかと思ふのであります。而も此の文體は、一般の文章には用ひ られてをりませんが、私信、印ち書簡文には往々見かけるのでありまして、女學生同士の手紙などには、 最も多いやうであります。又、講談や落語の筆記には、當然用ひられてをります。ですから、さう云ふも のを參考にして、追び / \ 應用の範圍と方法とを研究し、小説は勿論、論文や感想文などにも使ってみる ことは、あながち無益な試みではないでありませう。 今日、われ / \ は音讀の習慣を失ってしまひましたけれども、しかし全然整と云ふものを想像しないで讀 むことは出來ない。人々は心の中で聲を出し、さうしてその聲を心の耳に聽きながら讀むのであることは、 既に第百九頁に於いて述べた通りでありますが、然らば男女孰れの聲を想像しながら讀むかと申しますと、 女子の讀者は知らず、われく男子が讀みます時は、男子の聲 ( 多くの場合自分の聲 ) を想像するのであ りまして、それを書いた人の性の如何を問はないのであります。が、もし總べての文章に作者の性が現は れたとしましたならば如何でありませう。定めしわれくは、男の書いたものは男の聲、女の書いたもの は女の聲を聽きながら讀むのではありますまいか。それを考へましただけでも、會話體を應用すると云ふ おのづか 194

8. 谷崎潤一郎全集 第21巻

いことが云 ~ るやうになってをります。たと ~ ばわれ / \ は、テンスや格の規則などを、ロ語では守って をりませんけれども、文章語では守るやうにしてゐる。ですから、今日の所謂ロ語文も實際のロ語の通り には書かれてゐない、 さうしてその違ひは何處にあるかと云 ~ ば、文章語の方は西洋語の飜譯文に似たも あひのこ の、日本語と西洋語の混血兒のやうなものになってをり、實際のロ語の方は、これも段々西洋臭くなりつ 、ありますが、まだ本來の日本語の特色を多分に帶びてゐる、と云ふ點にあると思ひます。前に私が文法 に囚はれることを戒め、又ロでしゃべる通りに書く會話體の試みを奬めてをりますのは、これらの事情を 考 ~ るからでありまして、最早今日では昔の和文や和漢混交文は用を爲しませんけれども、しかしそれら の古典文が持ってゐる優雅の精神、おほまかな味ひ、床しみのある云ひ方を、今少しロ語文の中 ~ 取り入 れるやうにして、文章の品位を高めることは、その心がけさ ~ ありましたら、決して實行出來ないことで はないのであります。 最後に、現實をばかして書くこと、、描寫に虚飾を施すこと、は、混同され易いと思びますから、これは 大いに注意しなければなりません。申す迄もなく、正直と云ふこと、素朴と云ふことは、文章道に於いて も貴ばれるのでありまして、實際に遠い綺麗な言葉や美しい文字を連ねさ ~ したら上品であると考 ~ るの は、間違ひであります。博學を衒ってむづかしい漢語を使ふよりは、飾り気のない俗語を以て現はした方 が、品のよい場合がある。それに今日は簡便を主とする時勢でありますから、昔の通りの作法や禮儀を守 ったのでは滑稽になります。品と云ふものは、匠まずして自然に現はれるべきもので、變に上品振った様 子が眼につくやうでは、本嘗でありません。ですから、控 ~ 目にすると申しましてもその程あひを知るこ 226

9. 谷崎潤一郎全集 第21巻

半袖ものがたり の町人があれを纒って出歩いてゐる有様を見るのに、紙人、手帳、萬年筆等の必要品は大概腹卷の底に收 め、なほそのほかの細々したものは下前の胸に附いてゐるポケットに人れて、一方の手に扇子を提げなが ら、或る者は當世風のカンカン帽を冠り、或る者は絹紬張りの日傘をさして行く。その恰好は、何處か滑 稽で、みすばらしくて、氣の利いたものでないことは前にも述べた通りだけれども、實利に生きる大阪人 は、他人の思はくを顧慮するよりはたヾ此の簡易服の重寶さと、着、い地のよさを愛さうとする。さうして 一般の人々も老舖の主が半袖姿で家業にいそしんでゐるのを見ると、何となく商賣ぶりの手堅さを思って、 その人と店とを信用せずには措かないのである。 〇 ところで私が半袖といふものを自ら纒って、つくみ \ その恩惠を感謝したのは、あの魚崎の忘れられない 夏からであった。當時私は何と思ってあれを着る氣になったのであらうか。最初の妻に別れてから後、二 三年來浴衣を買ったことがなく、あるに任せて着てゐるうちに、その年の夏はもはや使用に堪 ~ るものが 一枚もなくなってしまったのに、暑熱を犯して買ひに出るのが億劫なところから、何かあるもので濟ます 工夫を案じたからであったらうか。それともまた、分けてその年は負債の利拂ひや税金の取り立てに惱ま されてゐたので、實は今いふ浴衣の金にも差支へるほどの不自由さから、大阪人のつましいやり方を見様 見眞似に學ばうとしたのか。或はほんの物好きからか。恐らくはそのいづれでもあったのであらうが、不 9 は平素不用の衣類を詰めてあるプリキ製の長持を開けて、あれかこれかと古着を引き出してみた揚句、先

10. 谷崎潤一郎全集 第21巻

ないのかと、いつもさう思ひ / \ するのである。 〇 しかし私が關西の夏を堪へ難いものに思ふ理由は外にもう一つあるのであった。それといふのは、こっち の夏は主として風が西から吹くために、西の塞がってゐる家は必ず暑いものとされ、借家でも借手がない ところから、大概の家が西の方に出口や窓を開けるのであるが、なるほどさうすれば風は自由に入る代り に、ともすると西日の脅威を受ける。が、生憎なことに私は平素日光に直射されるのを嫌ひ、冬も北向き の窓の下で仕事をしないと頭が冴えて來ないのである。のみならず私のやうな職業の者に取っては、あま り風通しのよすぎる部屋も、床の間の掛け軸が壁の砂土を落したり、原稿用紙がばた / \ めくれ上ったり して、とかく感興が亂れ易い。それゆゑ慾をいはして貰 ~ ば閑寂な僧堂の奥書院のやうな、日の目の遠い 空莱の冷たい、ひんやりとした廣間が望ましいけれども、さういふ贅澤が許されないなら、蒸し暑くとも 風通しの惡い一室に閉ぢ籠ってじっと脂汗を掻きつ、辛抱する方が、創作には都合がよいのである。され ば轉宅好きの私は、居を變へるごとに書齋に充てる部屋の方角や採光のエ合が気になったので、或る年岡 本の梅林の近くに土地を購ひ、理想通りの間取りの家を普請して、もう今度こそは落ち着ける、これで長 年の放浪生活にもおさらばを告げることが出來たと、さう思ったのも東の間、分不相應な費用を投じた報 いには自分の貧弱な收入では邸の維持が困難になり、足かけ四年後にはその土地家屋をきれいさつばりと 入手に渡して、阪神沿線の魚崎に假りの住まひを求め、再び元の佗びしい暮らしに戻ったのであったが、 274