以上は大體記憶に存してゐる點だけを擧げたのであって、まだ此の外にも神經を尖らしたら際限がなから う、ただ一つ、芝居ではとても出來ない所でいいと思ったのは、喧嘩の際に硫酸の雫が一滴二滴床にこぼ れて、花蓆が燒ける大映しである。あれは大變凄みがあって効果を助けた。映畫としては當り前だが感心 したのは此れだけであった。それからセットは芝居の時よりよく出來てゐた。惡いと云ふ人もあったけれ ど、私はさうは田 5 はなかった 此の映畫はジャネット役の俳優が病気になって、ところどころ替へ玉を使った爲めに尚更變になったと云 ふことも、勿論酌量しなければならない。此の點では私は大いに監督の立ち場に同情してゐる。しかし以 上に指摘したところは替へ玉と關係のない場面で、いかに同情して見ても默ってゐられなかったのである。 めったに他人の作品の惡ロなどを發表したことのない私が、これほどに云ふのはよく / \ の事だと思って 大し、。 公物も 見せてはならない。然るに夫婦の後ろの方にジャネットの屍骸が映ってゐる。無神經とも何とも云ひやう がない。此れで私の可哀さうな「本牧夜話」はとう / \ 完全に蹈み躪られ、すっかり止めを刺されてしま 1 〇
洋食の話 のが多い。少しキタナイ喩へだが、まるでゲロのやうにまづまづしいのがある。神戸でさへも横濱よりは 劣ってゐる。だから上方の人たちは洋食の味を知らないらしい。そのくせ洋食を食ふのが好きで、あのゲ ロのやうな料理を平気でムシャムシャたべるのにはビックリさせられる。 京極の近所に村瀨と云ふ牛肉屋がある。二階と三階ですき燒を食はせ、一階の奥でビフテキを食はせる。 そのビフテキが旨いと云ふ評判なのでたべに行ったが、肉はいい肉を使ってゐながら、出來上ったものは まるでビフテキとは違ったものだった。 ついでながら、此の村瀨のすき燒はなかなかうまい。そして驚くほど安い。女中やボーイが京都に似合は 一度私が五十錢銀貨を置いて出たら、 ずハキハキして、気が利いてゐて、而もティップは絶對に取らない。 跡を追っかけて返しに來た。あれであのビフテキを止めてくれたら尚いい店だと私は思ふ。 〇 上方では、上等のビフテキを註文すると肉の上へ生卵をのせて來る。つまりビフテキそれ自身には變りが なく卵がつくだけ上等なのである。さう云へばライスカレ 1 にも卵をのせて來る。 月見そば、月見芋と云ふのはあるが、月見ビフテキと月見ライスカレーには閉ロする。 〇 京都の人は誰もあまり評判しないが、ミヤコ・ホテルの洋食だけは、上方では圖拔けてうまい。殊にビフ 165
ょに加わりました。ターキ 1 からクラムペリ 1 まで御持参で、自分で料理をしての。ハ ーティです。それぞ れにプレゼントまで用意してありました。万事非常に社交的なムードなので、そういうことの少いわれわ れにはよい勉強になります。豊富な話題とかウィットにとんだ会話とか、人をそらさぬちょっとしたエチ ケットとか、さらにその上に常に自分の。ノ 1 ソナリティのあるムードをちゃんと持っていなくてはなりま せん。イエスとノオもはっきりしていなくてはなりません。外人は一刻一刻を全力をあげてたのしんでい る風です。 さまざまな女性のファッションも美しいし面白いので、スラックス姿のお好きな伯父様のことですから、 ごらんになったらさぞかしおたのしみだろうと思います。また新しい女性の描写が湧き出るのではないか と田 5 います。 外人の男性達は、皆実に実にマメで、私のように女一人でいて未成年でないことは確実ですから、ものす ションをかけて来ます。但しどこまでが女性に対するエチケットでどこからが本心なのか、そこ のところが外国語ではむずかしいです。ちょっと廊下で出会っても「ハロー ・ビ「一 1 ティフル」とか「今 日ハマタ一段トキレイダ」とか「貴女ノ顔ヲミルタメニマッテイタ」とか「ドンナニ貴女トキスガシタ 雪イ」とか、さまざまな言葉をなげかけます。ただしひき下る時にはさっとひくのですが。何がほしいとか、 ビ 1 ルをのむかとか、椅子をはこんだりスキ 1 を持ったり、雪をはらったり、そういうことはいうまでも 萬ありません。 千 この手紙は今朝から書きはじめて、今十二時真夜中まで少しずつ書きました。伯父様に少しでもこの楽し 485
ヒ日 一三ロ 昭和三十七年十月『池崎忠孝』 ( 池崎忠孝追悼録刊行會 ) 赤木桁平君と私との交際はいっ頃から始ったのであったか、今はっきりした記憶がない。私と芥川君との 交際は芥川君が「羅生門」を發表した前後であるから、桁平君との交際もその時分のことであったらう。 とすると、大正年間であったことは確かである。しかし最初に芥川君を知り、少し後れて桁平君を知った ので、或は芥川君が小石川原町十五番地にあった私の家へ桁平君を引っ張って來たのが最初ではなかった かと思ふ。桁平君の本名が「池崎忠孝」であることは、當時一般には知られてゐなかった。われ / ( 、は皆 「アカギケタヘイ」と呼んでゐた。近頃は「アカギカウヘイ」と呼ぶ人の方が多いやうであるが、當時は 「ケタヘイ」と呼ぶ人の方が多かった。それにしても「赤木桁平」と云ふ雅號は頗る奇拔のやうであるカ この號を思ひついたのは何に由來するのであらうか。一度當人に尋ねて見ようと思ひながら、遂にその機 會を逸した。尤も他の友人逹は皆知ってゐて、私だけが知らないのかも知れない。 〇 文藝評論家としての桁平君の書いたもので、最も有名なのは「遊蕩文學撲減論」ではなからうか。これは 野崎詣り ( 池崎忠孝囘想 ) 473
といふのであった。長田君もそのま、歸ってきて、岡村君にあってその話をした。岡村君は法律上禁止す はっ るほどの物でないと云ふのでは思ひ切りが惡いし、それならば何も止める必要はない。禁止するのなら明 きり 瞭表向きにやって貰った方がい、といふ意見であった。 その翌日、私は長田君に會ってその話を訊き、私も岡村君の意見に賛成して、とにかく、もう一度賴んで みて、いけないのなら表向禁止して貰ふ考へで又保安部長を訪ねて行った。 「私には禁止する權限はない。警視總監に持って行かなければならない。併し、私の諫告に應じなければ その手績をする。」 と、その時はキツ。ハリした態度で云った。 で、此方も、今日一日中に決定して欲しいといふと、部長は私達の見てゐる前で、否認の意見をつけて總 監に提出するやうに給仕に命じた。 結局、われ / \ としては表沙汰になるのを確かめに行ったやうなものであった。上演禁止の理由は改めて 一體有耶無耶 市村座の方へ行くたらうが、大概以上のことで分ってゐる。禁止するなら禁止するでい にしておいて諫告するなどといふことは卑怯である。その上、下から出て泣言をいったりするなぞは不愴 快なことこの上もない。私達の檢閲係に要求したいのは是とか否とかの二つの内の一つの返事である。幾 度も幾度も足を運び時間をつぶし、書いたものは飴細工のやうに切りちぎられ、その後で禁止されるので は非常に苦痛である。彼方も忙しいのだらうが責任のある返事を早く聞かせて貰ひたいと思ふ。 140
こ「内のおやぢなんかもちっと餘所へ出て浮気でもしてくれると : からお絹が光子にいふ臺詞冫 「男ッて者は年を取ると猶しつッこくなるんだよ、」といふ臺詞もいけないといふ。「男ッて者は・ などはこれだけなら差支へないが、前後をみるといけなくなるといふのである。その他五六ヶ所さういふ 所があったけれども結局彼方の主張を訊いて、劇の効果を薄めることにして妥協したのである。しかし、 こんなことをいったら、われ / \ は日常普通の會話も出來なくなる。世の中はそんなことをした所で決し てよくはなるものではない。 いよ / \ 最後の次郎が八重子に手紙を渡す所で、少年少女に對して、附文をする少年とそれを受取る少女 を見せるのはよくないといふ林警部の意見であった。私は、この芝居は子供に見せる爲の芝居ではなし、 又淺草あたりでやるのではないといふと、あの場面があるために見にくる少年少女があるかも知れないか らだといふのである。しかし、私にいはせれば、この脚本はもう雜誌に發表してあるものである。もしそ んな少年少女があるとすれば、劇場へ來るより雜誌を見れば、もっと容易くそれが分ることになる。たと へ、その爲にあの芝居を見に來る少年が一人や二人あったとしたところでそれが何だ。あまりに形式に囚 はれ過ぎた話ではないかといひたくなる。 で、つまり、その條以下、お絹と光子とが八重子の手紙を讀み上げる所が全部許されないことになった。 私は見物が扨はさうかと分る程度に効果を薄めて妥協して貰びたいと思った。林警部は「書き直します か。」といった。こ、で、 ゝかげんにして いつもの劇場側なら、何んとかいって書き直すことにして、 胡麻化すのかも知れないが、私は押し返して訊いた。 さて 138
大正十年三月號「新小説」 〇嘗て私は某誌に寄稿して「活動寫眞の現在と將來」を論じた折に、映畫劇に最も適當なものとして泉鏡 花氏の諸作を推擧したことがあった。私は自分が若し映畫の製作に關係するやうな時があったら、是非泉 鏡花氏のものを手がけて見たいといつもさう思って居た。然るに圖らずも其の機會が來たのであるから、 こんな喜ばしいことはないのである。で、最初の試みとして俳優の役柄や何かを考へ合はせて「葛飾砂 子」を選んだのであるが、出來不出來は別問題として、あれを選んだに就いては私は今でも間違っては居 なかったと信じて居る。のみならず私は今囘の試みに依って、泉鏡花氏の持って居るやうな藝術的境致が いかに映畫に適して居るかを、いよいよ明かに知り得たのである。 〇云ふ迄もなく映畫と小説とは全然別箇の物であるから、或る傑れた小説を完全に映畫化したからと云っ て、それが映畫としても必ず優秀な物になるとは斷言出來ない。しかし鏡花氏の場合に於ては、その多く の作品は、最初から小説にすべきではなく映畫にすべきではなかったかと思はれるほど、それほど映畫に 適して居るやうに感ぜられる。「葛飾砂子」はいろいろ不出來な箇所もあったが、少くとも私に此の事を 敎へてくれた。それだけでも意義のある仕事であった。 映畫雜感
初出未詳 此の間大村君に會ったら「君の小説も面白いけれども、本文の中に折々英語を挿入するのは目障りだと云 った人があるぜ。あれだけは止めて貰ひたい」と云ふ忠告を受けた。御説は一應も二應も御尤もであるが、 僕にして見れば、多少の理由があるのである。 僕だって、幸か不幸か日本人に生れて、日本の文學者として生きて居る以上、成る可く日本語で濟ませた 議論文を草したりする際の言語の目的は、 いとは思って居る。人と會話をしたり、手紙の文章を書いたり、 單に自分の抱いて居る思想を、明瞭に相手に傳達するにあるのだから、外國語の力を借りないでも用は足 りる。ところが藝術上の創作特に詩を作る場合になると、箇々の言語は啻に或る一定の概念を代表するに 云ふ迄もな 止まらず、共れ等が互に相關聯し、相合奏して、一種の音樂的諧調を保たなければならない。 く、詩の美しさは中に含まれた概念にあるのではなく、形式と内容とが不印不離の間に渾然と融合して居 0 0 0 0 る點にあるのだから、時とすると言語の音韻が言語の意味よりも遙かに大切な場合がある。 音韻以外に、もう一つ大切なのは文字の形態である。漢字の如き形象文字は勿論のことアルファベットや 0 0 0 0 0 0 0 0 片假名のやうな音標文字に於いても、猶且全然意味を離れて、文字の形體その者から來る快感の存在する 反古箱
諸君 わたくし 本日の露伴翁追悼講演會に、私もお招きを受けた一人なのでありますが、健康その他の事情のために出席 出來ないのを遺憾に存ずる次第であります。 おくゆき 人の値打ちは棺を蓋うて後に定まると申しますが、翁の如き奥行と間口を持っ巨人の場合、今直ちにはそ こんにち のえらさがよく分りません。われ / \ は大正十一年に亡くなった森鷓外の偉大さを、二十五年後の今日に なって漸く理解しつ、あるではありませんか。されば露伴翁の眞價が殘りなく分る迄には、數年か、數十 年か、ひょっとすると百年以上を要するのではないでせうか。 翁の颯爽たる人格、廣汎なる學殖については、わたくしのやうな者は纔かに高い山の頂を仰ぎ、深い淵の 演ほとりに臨む思ひをするのみであります。しかし翁の業績の一分野に過ぎない創作だけを取り上げて見て も、「紅露」と呼ばれて紅葉山人と双び稱された時代に始まって、翁が仕事をされた期間は實に長かった 作のであります。その紅葉山入も、森鷓外も、坪内逍遙も、翁の同輩であった人々は皆翁よりも先に死にま した。樋口一葉や、高山樗牛や、夏目漱石や、翁の後に出た人々も亦先に逝ってしまひました。本年六十 露伴翁追悼講演會に寄す ひとり わづ 昭和二十二年十月號「新文學」 357
昭和十四年十月號「文藝春秋」 私事にわたることを云ふのは寔に恐縮であるが、泉先生は文壇に於ける大先輩であるのみならず、此の春 私の娘が結婚するときに媒酌の勞を取って下すったので、さう云ふ私交上でも一方ならぬ御厄介になった。 式の當日、先生が奥さんとお二人で並んで椅子に腰かけてをられた絞服のお姿が、今の私には最も感銘の 深い、忘れられない面影として記憶されてゐる。 聞けば先生は、あのお年だったけれども、仲人をなさるのはあの時が初めてだったさうで、前からたいそ う樂しみにしてをられたとか。お願ひする方では、ほんの形式に、お名前だけを拜借するくらゐなつもり であったが、 御本人の意気ごみはなか / \ さうでなく、結納の取り交しから式の常日まで、ずゐぶん世話 を燒いて下すったし、娘のことも親身になって案じて下すった。久保田万太郎君の話だと、先生としても 奧さんとお揃ひであ、云ふ席 ~ 出られたことは、先生一代のうちであの時が最初の最後であったらうと云 ふ。あの時、來賓總代として兩家の萬歳を唱 ~ て下すった戸川秋骨先生が、あれから間もなく逝去された 先かと思ふと、今また先生の計音に接するとは、まことに人事匇忙の感が深い 泉 私が始めて先生にお目にか、ったのは、たしか明治四十四年の正月、讀賣新聞の主催で、紅葉館に都下藝 泉先生と私 333