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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第22巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第22巻

聲を擧げた地である。明治十九年七月二十四日、それは記録的に暑い年であったと當時の古老は云ってゐ たが、その夏の盛りに土藏の中の座敷で私は生れた。私の父母は事情があって谷崎家の本家、祖父久右衞 門方に同居してゐたので、そこの土藏は久右衞門事谷崎活版所の藏座敷であった。私の一家は私が五歳に なる時までそこに同居して暮らしてゐた。夕方になると、私は奥の間から活版所の帳場へ出て來て、「丁 稚たちを相手に遊んだり、窓の鐵格子に掴まって往來の人通りを眺めたりする。格子の幅は五歳の時の私 の顏がやう / \ 這入るか這人らないくらゐであったと思ふ。私は格子の冷たい鐵の棒に頬を押しつけて、 かきもちゃ 活版所の眞向うにある今淸と云ふ牛肉屋の二階を見上げる。今淸の西隣から缺餅屋の向う側の横町へかけ て、東側一帶に楊弓店が並んでゐた。人々が『矢場々々』と云ってゐたそれらの店には、遊戯用の小さな 的や楊弓が型ばかりに置いてあったが、實際は後世の十二階下や玉の井のやうな性質のものだったので、 中ガラスの障子の奥から女たちが通行の男に聲をかけたり、男たちが障子の中を覗いて行ったりするさま はすかひ は、活版所の窓から斜交に見えた。」 ( 幼少時代 ) とあるのは、こ、から向う側の家並を見た光景であるカ もちろん今は矢場も今淸も何もない。缺餅屋は震災の頃までゐたさうであるが、それから神田の方へ移っ たと聞いてゐる。今もある玉ひでは、私の家から東へ一二軒目の所にあって、おいしいかしわ屋だったの で、喰べに行ったことはないが、始終取り寄せて喰べた。この活版所の建物は叔父二代目久右衞門から伯 と父久兵衞の有に移り、久兵衞の死後塚越と云ふ人の物になって、震災の時までは昔の姿で殘ってゐた。今 るはそこに板圍ひがしてあって、中の様子はよく分らないが、假營業所塚越商事株式會社と云ふ標札が打っ てある。兎にも角にも生れた地點がそれとはっきり指摘出來る形で殘ってゐることで、私は滿足しなけれ ゃなみ 417

2. 谷崎潤一郎全集 第22巻

が一日止まってもそれが氣になる。全體己は昔からこんなに癇癖が強かったらうか ? 「刺靑」や「麒鱗」 を書いた時分には隨分苦しい思ひをして、今より幾脣倍もの貧窮に堪 ~ た。己はさう思って時々自分を責 めることがある。自分がこんな贅澤になったのは自分の心に弛みが出來たのちゃないだらうか ? と。し かし、成る程あの時代は苦しかったが、今の己だって隨分苦しい。あの時分よりは内面的にも外面的にも 生活の幅が大きくなったゞけ餘計方々に苦しみの種を作って居る。つまり苦しみが殖えただけそれだけ物 質慾も殖えたのだと云へる。物質慾の殖えることは精禪慾の殖えるのと共に人間としての進歩であり、且 結局は共れに打ち克つにしても、始めから其れ 生活内容を豐富にも複雜にもする所以であるから、 のみならず今の がないよりはい、、事だと思ふ。だから己は今の己をあの時分の己より惡いとは思はない。 己は、藝術的野心に於いてもあの時分とは比較にならない。質から云ひ量から云っても、己はもう、「刺 : 要するに、今度のやうに少し落ち着いて長篇を書かうとすると、 靑」や「麒鱗」では滿足しない。 己はつくづく現在の日本の家に住んで居ては駄目だと思ふ。廣い家でなくても壁の厚い、床のシッカリし のある部屋の中央にデスクを据ゑ、 た、隣家は愚か隣室の話聲も洩れて來ない、相當にゆっくりしたユトリ 柔かなスプリングの附いた椅子に腰かけ、煖房の設備を充分に整へ、周圍に本箱を置いて、一年でも二年 でも其處にぢっと引籠れるやうな気持ちのする場所が欲しいと思ふ。獨身の場合ならば知らぬこと、己の ゃうに妻や、子供や、妹や、弟や、こんな多勢の家族では、一と間だけでもさう云ふ部屋がなければなら ない。今のやうな借家住居では四十貫目の本箱を一つ置いてもネダが狂ひさうなので、是非座右に備 ~ て 置くべき參考書をさへ一と通り揃へることが出來ない。現在われわれが住んで居る日本の家は、家ではな

3. 谷崎潤一郎全集 第22巻

大正五年五月號「中央公論」 ( 原題「發賣禁止に就きて」 ) 出版物を取り締るに方って、當局者が今少し親切に、且理解を持って欲しいと云ふ事は、多くの人が望ん で居る。 私は今の當局者に、直ちに理解を求めるのは聊か無理な註文のやうに思ふ。藝術家が彼等を征服せんが爲 めには、今少し長い間の眞面目な努力が必要であらうと思ふ。殊に私の書く物などは、永久に彼等と相容 れる日がないかも知れない。 たゞ親切な態度だけは、明日からでも取るやうにして貰ひたい。 もう少し作者や出版者側の利害を考へて 貰ひたい。たとへば劇場が或る脚本を上場するに方って、豫め當局の檢閲を經る事が出來るやうに、 の經營者が或る作物を掲載する際に、 禁止の恐れありと感ぜられる物は前以て當局者の内見を乞ひ、双方 の互譲相談に依って削除す可き部分を定めるやうな方法を立てるのも一つの手段かと考へる。さうすれば、 小説の爲めに外の記事までも犧牲を蒙むるやうな迷惑がなくなるであらう。 然るに今の當局者は、何故に、何處が惡いと云ふ事を摘示しないで禁止を喰はせる場合が多い。これでは 當局者に誠意の認むべきものがなく、唯折々の気紛れで官權を濫用するやうに誤解されても仕方があるま 發賣禁止に就て あた ⅲじ、 2

4. 谷崎潤一郎全集 第22巻

〇 吉井君の歌は今の所謂くろうとの歌よみ仲間には餘り評判がよくないやうだ。或は今日では歌人仲間にも 入れてゐないのかも知れない。しかし私は昔から故人の歌が好きで、ものに書いたこともあるし、可なり 熱心な吉井贔屓であった。あの人口に膾炙してゐる「かにかくに」の歌を詠んだのは隨分昔のことで、今 花 枕あの歌の碑が立ってゐる祇園の新橋に大友のおたかさんの家が建ってゐた時分、それも改築された後の家 井ではなく、伽羅の匂ひが噎せ返るやうに染み込んでゐた、柱の曲った、眞っ黒に黒光りしてゐた前の家が 3 あった時分、と云ふと、つまり明治年代になるが、その時分に詠んだ歌であったと思ふ。その時分はほん てゐた。故人の記憶では、その時私は羽織の紐に赤いリポンをしてゐたと云ふが、私にはその覺えがない。 吉井君は割に容貌が變化しなかった人で、その時分の顏つきも晩年の顏つきもさう變ってゐない。たゞ恒 川邸で會った時は、あの顏に一ばいニキビが出來てゐたが、ニキビは私も御同様であったらしい。その會 で誰がどんな歌を作ったか一つも記憶してゐないが、 一番多く詠んだのは多分恒川か松本重彦君であった らう。この松本重彦なる人は當時からなか / \ 博學で、鐵幹以下を盛に煙に卷いてゐた。後に私の阪急岡 本時代、大阪の外語の教師をしてゐて、久し振に北濱の灘萬の樓上で會合したことがあったが、その後今 日まで遂に一度も會ってゐない。生きてゐるか死んでゐるかも分らないので、今度調べてみたら神田の中 央大學の文學部教授として健在してゐるらしい。當時の出席者で今も生きてゐるのは彼と私だけになって しまった。

5. 谷崎潤一郎全集 第22巻

れの妻の話では、東京のやうに甘くせず、生醤油に漬けると云ふ。四つ五つの時分、ばあやと二人でお祝 膳のやうな可愛い小さいお膳に向っていつも「はりはり」を食べてゐたことを、今でもはっきりと思ひ出 す。 〇寶來屋の煮豆 私の家は日本橋の蠣殻町にあったが、程遠くない新葭町に寶來屋と云ふ有名な煮豆 うづら 屋があった。これは今でも存在して繁昌してゐる筈であるが、そこの鶉豆と、隱元豆と、ふき豆と、黒豆 のことがはりはりの次に思ひ出される。「ふき豆」と云ふ名稱は關西にはないと思ふが、多分「富貴豆」 そら と書くのではあるまいか。材料は蠶豆で、それを一旦乾し固めたものを柔かに煮て戻すのである。色はあ っさりした黄色つほい色をしてゐる。黒豆は關西のやうな圓いふつくらした煮方ではなく、コチコチした 皺が寄るやうに煮てある。關西の煮方の方が私は好きであるけれども、寶來屋の黒豆は東京の黒豆の中で はおいしかった。今でもあれはあの店で賣ってゐるに違ひない。 〇五色揚げ 五色揚げと云ふのは野菜の天ぶら、つまり精進揚げのことである。材料は人蔘、牛蒡、 出薩摩芋、蓮根、三葉等を使ふ。蠣殻町の近所、多分芳町か元大坂町邊に、昔五色揚げを賣る名代の店があ のった。そこのは五色揚げと云はないで「小女郎揚げ」と云って賣ってゐた。この「小女郎揚げ」も始終食 物 べべたものであるが、この店は震災頃になくなってしまったので、今のどの邊のところにあったか見嘗がっ 弋カオし 少〇鯤の酢入れ 鰓をその姿のま、、短册に切った大根と一緒に煮て、酢をちょっと加へた吸ひ物であ る。この吸ひ物は純粹に關東のもので、關西には全然見られないが、もう東京でも大概な人は知らないの 427

6. 谷崎潤一郎全集 第22巻

ゃうな世間の狹い一小説家の手でまとめ得べきものではない。故人の生前の事蹟について、私は大概漏れ なく聞かされてゐたつもりであったが、現に今囘「しのぶ草」に寄稿された方々の記事を讀んでも、その 大部分が今まで全く聞いたことのなかった事實である。あ、、故人はこんなこともしてゐたのか、故人の 注意はこんな方面にまで及んでゐたのかと、改めて感心したこともあるし、時には驚歎し、感激したこと もある。それにつけても、この「しのぶ草」の企ては徒爾ではなかったと信ずるのである。 以上に述べたやうな次第で、私がこの「しのぶ草」を思ひついたのは、平山巖氏の書簡に端を發したので あるから、もし平山氏が今も健在であったならば、當然この企てを嘉みし、す、んで稿を寄せられたこと は疑ひを入れないが、不幸にして君は撫山翁の死に後れること二年、今年昭和三十七年十二月二日、心臟 衰弱のため吉祚寺西町の自宅で逝去せられた。逝去される二三ヶ月前、九月十五日に笹沼氏未亡人喜代子 さんが訪ねた時は、君はまだそれほどの重態ではなく、多少健康がすぐれないと云ふ程度だったさうだが、 喜代子さんの目的は、「しのぶ草」の原稿の執筆をお願ひすることにあった。喜代子さんはその時、昔の キイダンニョ チンチンニヨシュンハアチョン 偕樂園の製法に從って娘の江藤喜美子夫人に作らせた支那料理、鷄蛋肉、淸蒸肉、春花卷の三品を持って 行ったところ、君は「よくこの家がお分りになりましたね」と云って大變な喜びやうで、今でも歌舞伎芝 居は毎月缺かさず見に行くこと、故人と共通の友人であった故南彦馬氏 ( 往年の伊達大夫後の土佐大夫の 子息 ) のことなどを話題に上せた。殊に私に取って感激に堪へないのは、枕頭の書架に私の作品の數々が、 最近の「瘋老人日記」に至るまで、一つ殘らず整然と列べてあったのを喜代子さんは見たと云ふ。小學 校で別れてから六十年あまりの間、一度も會ったことのない私を、君がそんなにも深く思ってゐて下すっ 490

7. 谷崎潤一郎全集 第22巻

昭和三十年六月號「心」 雜誌「心」も今月號を以て第八十號に達すると云ふ。ついては祝賀の意をかねて私にも何か寄稿するやう にと云ふ注文であるが、生憎私は目下文藝春秋に「幼少時代」と云ふものを毎月連載しつ、あるので、ち よっと手を拔く譯に行かない。。 こりか、ると、それを完 とうも私は融通の利かない性分で、一つの仕事ー取 成するまでは僅かな時間でも他事に頭を振り向けることが困難で、手紙一本書くことも億劫なのである。 さうかと云って、武者小路さんや安倍さんに對しても義理を缺きにく、、仕方がないので今書いてゐる 「幼少時代」に關し何か彼にか心に浮かんだことを述べて、責めを塞ぐことにする。 嘗て私は「靑春物語」と云ふものを書き、自分が始めて第二次「新思潮」に據って文壇に登場した當時の 事情、 明治四十三年頃から大正元年頃に至る間の囘想を記したことがあるが、今書いてゐるのは、 私の幼少時代から少年時代までの期間、明治二十二年頃から三十四年頃に至る間の懷舊談である。そして これは、一面に於いては自分の生ひ立ちの記であると共に、一面に於いては、現在こんなにも變り果てゝ しまった東京の、明治中葉頃に於ける下町の情景を、少しは今の若い人々に知って置いて貰ふのが目的で もある。 私の「幼少時代」について 400

8. 谷崎潤一郎全集 第22巻

~ 、いろいろの副詞或は副詞句を添加しなければならない。「ガラスのやうに光る」とか、「ぎらぎらと輝 く」とか、或は「光りが搖ぎ瞬めく」とか云ったなら、どうやら意味の通ぜぬ事はない。けれども要する に「光る」とか「輝く」とか云ふ文字を使はずに濟ますことは殆んど出來ない。短い文章の中に、同一 の文字、若しくは言語が、たびたび重複すると云ふ事は、多くの場合、文章の美しさを傷ける結果にな もカ斯くの如く大ざっぱな荒つぼい日本の言葉では、 たとへ美しさを傷けても、意味の通ずる場合は、 : 、、 どうしても詩や小説の中に出て來るデリケエトな感じを傳へることが出來ない場合が往々ある。そんな際 、僕は適當な漢語があれば共れを用ゐるが、漢語にも適當な言葉がなければ、英語を使った方が、寧ろ むづかしい漢語よりも今の讀者には分るだらうと思って居る。 ウィリアム、ゼ、コンカラアの時代に、多數の佛蘭西語が英語に輸入せられた事は、人の知る所である。 この輸入の爲めに、英語はどれほど語彙の豊富を來たしたか分らない。今の日本語の中にも、昔支那から 渡って來た漢語が隨分含まれて居るだらう。古い漢語を復活すると同時に英語を借用すると云ふことは、 却って貧弱なる日本語を潤澤ならしむる所以ではないかとさへ僕は思って居る。若しも將來、漢字が廢さ れて口 1 マ字の普及する時代が來るとしたら、猶更その必要はあると思ふ。今のやうな國語の状態では、 好い飜譯の出ないのも當然である。

9. 谷崎潤一郎全集 第22巻

昭和三十三年八月號「月刊前進座」 「法成寺物語」は大正四年六月、私の數へ年三十歳の時に中央公論に發表した戯曲で、今からざっと四十 四年前の古いものである。私はその年の正月に「お艶殺し」を書き、六月にこの戯曲を書いた。左様にこ の二つはまことに幼稚な作品で、齒が浮くやうな気がするのであるが、それでも「法成寺物語」の方は 「お艶殺し」ほどいやではない。私はあれが發表された當時、小山内さんと杢さん ( 木下杢太郎氏 ) に褒 めて貰ったことを記憶してゐるが、今から見ると甚だ未熟な作品ながら、さすがにこの二人の故人が認め てくれただけのものを、この戯曲は持ってゐると、今もひそかに信じてゐる次第である。 戯曲と云ふもの、書き方を殆ど理解してゐなかった私は、全くレ 1 ゼドラマを書くやうなでこの戯曲を 書いた。だからこれが實演の舞台にかけられる日が來ることを豫想だもしてゐなかったのであるが、それ 冂から六年後、大正十年の十月に、猿之助の春秋座が第一囘の旗擧げに菊池寬氏の「父歸る」と共にこれを 物取り上げて新富座で上演した。當時歐洲から歸朝して幾ばくもなかった新進気鋧の猿之助は、私のこの冗 成長な戯曲のセリフを、一字一句も原文に違はず忠實に演出したので、私は大いに感銘したが、遺憾ながら 舞台効果はあまり上らず、「父歸る」の素睛らしい成功に比べて、「法成寺物語」を問題にする者は一入も 1 = ロ 「法成寺物語」囘顧 423

10. 谷崎潤一郎全集 第22巻

昭和十五年三月號「圖書」 正直に云って、晩年の鏡花先生は時代に取り殘されたと云ふ感がないではなかった。先生の如く過去に極 めて輝かしい業績を成し遂げた入は、いかなる場合にも心の何處かに晏如たるものがあるから、あまり淋 しさうにはしてをられなかったけれども、老後の先生が久しく文壇の主流から置き去りにされてゐたこと は否むべくもない。が、その人が既に故人となった今、その著作には新たに歴史的な意義と、古典的な光 彩とが加はったと見るべきである。そしてわれ / \ は今一度、近松や西鶴の作品を讀むのと同じ觀點から、 此の、明治大正昭和の三代に亙って生きた偉大な作家の、獨得な世界を窺って見る必要がある。 自分は今「獨得」と云ふ言葉を使ったが、事實先生ほど、人に異なる「獨得」な世界に遊んだ作家は少い。 傑れた藝術家がいづれも顯著なる個性の持主であることは云ふまでもないが、でも先生ほど、はっきり他 い。たとへば漱石、鷓外、紅葉等の諸 と區別される世界を創造した作家は、文學史上稀であると云ってよ 作家も、それる、、互に區別される獨得な境地を持ってはゐるが、それらの作家の相互の違ひ方よりも、鏡 花とそれらの作家との違ひ方の方が大きい。紅葉と鏡花とは師弟の間柄であるけれども、此の二作家の住 する世界は似てゐるやうで甚だ似てゐない。鏡花よりは、寧ろ紫式部とかシュニツツレルとかの方が、ず 純粹に「日本的」な「鏡花世界」 336