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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第22巻
299件見つかりました。

1. 谷崎潤一郎全集 第22巻

者がこの小説を意圖した所以もこ、にある。私もこ、まで引っ張って來られて「成る程」と頷き、感心し、 唸ったのであるが、中書島附近の水鄕の描寫が今少し精密であったら一脣よかったのではないか、少し結 末を急ぎ過ぎたきらひはないか、と云ふ莱がする。昔私はあの邊の風光を非常に愛してゐた。この小説の おぐらのいけ 出來事は大正の末期であるが、私が最初にあの邊の風光に惹かれたのはまだ巨椋池が埋められてゐない頃 であった。その後、ちゃうどこの物語の時代にも伏見の寺田屋で遊んだ記憶があり、今でもなっかしい思 ひ出になってゐる。 字治の水は深い。早瀬のように流れが早い。馴れた船頭でなければ、渡りきれないということを子供心 . 〔」さい一しい / ' 刀 、ま、玉枝の眼にうつる流れは、海のように青々と深味をましてせまってくるように 思われる。舟べりに水しぶきがたって、舟は竿をつくたびに左右にかしぐ。無ロな性格らしい老船頭は、 竿を力いつばい川底につき出しては舟をすすめてゆくが、ふり向きもしない。 「どないしたンや。痛いのんかいな。痛いのんかいな」 むと船頭の聲がする。玉枝は遠くにそれをきいた。この時、川波にゆれた舟が大きくかたむき、はずみに、 を 下腹の胎兒がぐるりと一回轉して下降する気がした。 ・ : 玉枝は舟板に手をつかえ、紫いろの深まっ 人てゆく川面がせり上ってくるのを瞶めたまま気を失った。 竹 前 越 「気イついたか。よかった、よかった」 523

2. 谷崎潤一郎全集 第22巻

の似てゐる者は顏も似てゐるとは限らない。戦爭中の或る日、東京から熱海 ~ 歸る汽車の中で、私は吉右 衞門の聲によく似た男に出會ったことがある。おや、吉右衙門が乘ってゐるのかな、と思って振り返って 見ると、卅臺の國民服を着た男が二三人連れで乘ってゐて、大聲で話し合ってゐる。その一人の聲が、顏 はちっとも似てゐないのだが、聲が吉右衞門にそっくりなのである。それも地聲が似てゐるのでなく、舞 臺の播磨屋のセリフの聲そのま、で、笑ふ聲までが似てゐる。こんなに、をかしいくらゐ似てゐるのだか ら、私以外にも誰か一入ぐらゐ氣がっきさうなものだのに、瞞員の列車の中で皆殺気立ってゐる時なので、 誰一人気がっかない。事に依ると當人は意識してゐて、わざと聲色を使ってゐるのかとも思ったが、どう もさうでもないらしい。あんなによく似た聲も珍しいと思ったので、今でもときみ \ その人の聲を思ひ出 すことがある。ところで、昔私は「大阪及び大阪人」と云ふ隨筆の中で、大阪人の特徴は聲にある、と書 いたことがあるが、亡くなった先々代の春團治や曾我廼家五郎のやうな整、あのドスの利いた浪花節聲は、 大阪人でなければ出せない。聲が妙に地這ひをして、陰に籠って、いつまでも耳の底に響いて聞える。男 えうてう だけかと思ったら、窈窕たる美人でもあ、云ふ聲を出す人が大阪にはま、ある。と、かう云ふと、大阪の 悪口を云ってゐるやうに聞えるが、私の好きな肉聲も大阪の女の人に多い。大阪人と京都人とは似てゐる ゃうで甚しく違ふことは萬入の認めるところであるが、分けても聲の味はひに於いて著しい相違がある。 談大阪の女の聲は艶つぼいけれども厚みがあり、芯に根強い粘っこいところがある。京都の女の聲は表面優 豆しいやうに聞えるけれども、潤ひがなくて、そっけなくて、作り聲のやうなところがあり、所謂カマトト 聲を出すので、私は嫌ひである。東京の女の聲も、テキ。ハキして、ゴマカシがなくて、はっきりはしてゐ 435

3. 谷崎潤一郎全集 第22巻

面白さをも感じ得ない。印此意味に於て日本の活動寫眞の話印作者の問題では、第一に人間味のある話、 現代生活と密接な關係ある話に書き替へねばならぬ。 次に俳優であるが、是が又日本では極めて不出來である。それには先づ共俳優其物が新派舊派の劇に於け ると同様男子が女子に扮するのであって、共不自然な事は夥しい。第一活動寫眞の俳優が芝居の俳優と同 一人でよいか如何かも間題で、現に今度の「アマチュア倶樂部」の登場俳優二十五名中三人以外は几て素 人であったが、共結果では素人の方の結果が非常によくて、玄人のは所謂芝居の癖が出てどうも思はしく 此の意味に於て活動寫眞の俳優は芝居とは全く別にして、素人から養成するのがよくはないかと思 尚次に俳優に關して著しい事は、所謂共人の特質に從って篏まり役を當てねばならぬ事である。斯う云へ ば、そんな事は解りきった事の様であるが、事實さうではない。現に五十位の翁さんの役に若者が出たり、 女に男が出たりするではないか。こんな事は活動寫眞では最も排斥すべき事で、活動寫眞其物が劇の不可 能な事を示すと云ふ最大武器を捨てたと云ふべきである。要するに日本の活動寫眞の俳優は須く芝居のそ れより解放され分離して活動寫眞専門になるを要する。從って頭に鬘を被るとか、又は白粉を厚く塗る如 眞き點印芝居に於ける扮身法及化粧法から獨立する必要がある。 動次は舞臺監督であるが、是が又日本では極めて無意味である。實際現今活動寫眞の舞臺監督は芝居のそれ 本と同じく本讀みをし、獨白を爲る丈である、活動寫眞の舞臺監督としては全く無意味である。此點に於て も舞臺監督も芝居より全く獨立して、素人のそれより練習するを要する。勿論舞臺監督は原作共物をよく かつら 105

4. 谷崎潤一郎全集 第22巻

い雰囲気がお伝えできたらと思います。 京都北白月に 京都は二日つづけて雪でした。同じ雪でも信州の雪とは降る様もつもる姿もちがうのがおもしろく思われ ます。 へっとりぼたほたとおこばでもはいたみたいな足どりで降って来ます。ど 京の雪は厚化粧の女のように、。 こにつもっても、まあるく丸味づいてお釜のような形になります。一粒一粒キッと立つような鋭さはあり ーツ、ドサッと尻もちをつきます。 ません。とけておちるときも、一塊りにダダダ きよらかな処女のように、さ 山の雪は 私はバスも止るほどの大雪はみたことはないのですが 1 ッサラサラとハスキ 1 ポイスで唄って来ます。 りげなく降って来ます。時にはつよい風をともなってヒ「一 つもる速度はこっちの方がずっと早くて、みる間に尺をこします。少しの風にもサーツと音もなく、煙の ように舞い上り、再びサラサラとおちて行きます。私は雲一つない青空に雪けむりがまい上るのをみると、 啄木の次の歌をすぐ思い出します。 病のごと思郷の心わく日なり眼に青空の煙り悲しも 何の関連もないのに変だと思うのですが。だけど伯父様に、あの雪山の空の青さをみせてあげたい。山の 雪はつもっていてさえもサラサラしていて表面はかさのないやさしい感じです。陽をうけてキラキラと輝 のつかっているみたいです。モミ ティンカーベルのような妖精が く一つぶ一つぶに妖精が、 やまひ 千萬子 486

5. 谷崎潤一郎全集 第22巻

とはないし、出來不出來はあっても全然認めたくないと云ふものはない。世評は知らぬが、この時期以後 の作品で自分に愛着が深いのは「蓼喰ふ蟲」と「吉野葛」であらう。「蓼喰ふ蟲」は當時私の生活上に起 った一つの事件に着想を得て書き出したものだが、どういふものになると云ふことは考へず、ただ何とな くその時の氣分に任せて書いて行った。終りにはちゃんと結末がつくといふ自信が何とはなしにあったの で少しも心配はしなかったが、見取圖は全然なくて書いた。それにこの時は毎日新聞の夕刊に出たのだが、 故小出楢重君の挿繪が非常によく、これが隨分はげみになった。小出君の家は電車で私のところから一と 停留所で、毎日私が書いたあと、新聞社の人がそれを持って小出君のところへ行ってゐたが、翌日の新聞 を見るのが樂しみであった。「細雪」は好きになれるかどうか、もう少したってみないと分らない。何を 書いた時でもその時はよく書けたやうな氣がするものだから、暫くたってみないと本當によく書けたかど うか、自分では納得が行かない。たゞ「細雪」の場合は、「蓼喰ふ蟲」などの場合と違って、かう云ふふ うに書きはじめてかう云ふふうな終りにしようと計畫を立て、大體豫定どほりに行ったと云ってよいであ ら、つ。 昭和十七、十八、十九、の三年は熱海で書き、二十年になって熱海も不安になり逃げ歩くやうになってか らは岡山縣の勝山でやうやく五十枚くらゐ、平和になってからは京都と熱海で書いた。興がのってものら なくても大抵毎日六七時間きめて書いた。そして書きはじめると二十日ぐらゐはっゞけて書いた。長かっ たから何と云っても肉體的には疲れた。最後の方になって殊に疲れを感じたやうに思ふ。 366

6. 谷崎潤一郎全集 第22巻

ってあれだけの物を組み上げることは出來ない道理である。科學者の態度と云ふことはゾラ以來屡よ唱へ られたやうであるが、私に云はせれば科學者と雖も空想力なしには何の發見をも成し遂げられるものでは ない。科學上の眞理と云ふものも、共實多くは假説に基いて居るのではないか。 〇 空想と自然とは多くの場合に於いて互に矛盾し背馳して居る。從って、空想は有り得べからざるもの、自 然は有り得べきもの、空想は虚僞であり自然は眞實であると、さう云ふ風に考へて居る人が多い。が、室 想と自然とは共の眞實性に於いて、必ずしも常識で考へて居るほど甚しい相違があるのではない。空想の 世界と自然現象の世界と、どっちが先の存在であるか、それは暫く別間題としても少くとも前者は後者と 同等の眞實性を主張し得ると私は信ずる。 一體此の二つのものは、初めからそんなに本質を異にして居るものではない。自然界の現象と云ふものも 要するに我等の感覺の外には出でない。我等の感覺がなければ外部の世界は我等に取って存在しては居な いのである。室想に依って描かれた幻覺と、外界の刺戟に依って生じた感覺と、何處にどれだけの違ひが あるだらうか。たとへばに一輪の赤い花が咲いて居るとする。多くの人は共の花の色を普通の赤だと感 ずるだけである。然るに或る一人の畫家があって、その色の中に普通の赤とは異った特殊の赤を感ずると する。さうして共の赤の色を描き出すとする。 ( 此の引例は私の發明したものではない。西田博士の「自 覺に於ける直觀と反省」から借用したのであることを斷って置く。 ) その場合に、その畫家は特殊の赤を

7. 谷崎潤一郎全集 第22巻

左團次は私より六つ年上の本年六十一歳であるがまだあの年で死なうなど、はわれ / —はもとより本人も 夢にも考へてゐなかったと思ふ。何しろ若い時代からあの社會には珍しい品行方正の人で、節制家であっ たことは有名な話である。靑年時代巴里花やかなりし頃に洋行しながら浮いた遊びなどはしたことがない ので、同行の松居松葉氏を感嘆させた程であり、酒は奈良漬をたべても醉ふと云ふくらゐであり、平素の 生活がすべて規則的で食事の時間睡眠の時間等がきちんときまってゐた人である。その上強壯な肉體の持 主で、私が知れる限りに於いて晩年南座出演中に煩ったことがあった外には、あまり病気で休んだと云ふ 噂を聞いたことがない。今度も私は他の用事で上京してゐて、左團次が東劇を休んでゐると聞き、珍しい こと、は思ったけれども、最初は見舞ひに行かうと云ふ気もなかった。入院したことは廿一日に偕樂園で む 悼聞いたし、廿二日の晝に、久保田花柳の兩君にワンで會った時も大分惡いと云ふ話であったし、新聞に も重態と云ふ記事が見え出したけれども、直きによくなること、考へて、まあ滯京中に一遍見舞ひに行か 團 友うかぐらゐなつもりでゐた。そして、廿二日は行く暇がなかったので、三日の朝、どうせ面會はできまい 舊 が千疋屋の花でも持って、奥さんにでも會ひに行ってみようと床の中で思ひながら何氣なく枕頭の新聞を 舊友左團次を悼む 昭和十五年四月號「中央公論」 339

8. 谷崎潤一郎全集 第22巻

二茂になるわたくしは、小學校の生徒の時に翁の「對髑髏」を護んで甚しく感動した記憶があるのであり ますが、それより二十年の後にも猶、わたくしは小學生の時と同様の興奮と感激とを以て翁の「運命」を 讀んだのであります。 翁の文學上の著作は純東洋的であって、「小説」とか「隨筆」とか云ふやうなせ、こましい枠の中 ~ 篏め 込むべきものではなく、寧ろ枠から食み出てゐるものに傑作が多いやうであります。今やわれ / \ は、あ らゆる文化の面に於いて競って西洋的にならんとしつ、ありますが、私はそれにも拘らず、他日必ず、世 間が驚異の眼を以て、翁の業績を改めて顧る日が來るであらうことを信じて疑はないのであります。 ( 朗讀原稿 ) 35S

9. 谷崎潤一郎全集 第22巻

近ごろやかましいこの問題についてどっちに味方するか、何か意見はないかといふ質問であるが、自分の 趣味からいふのと、公平なる道徳上の問題として考へるのと自ら別である。 對全體カフェ 1 といふものは僕は妙に嫌ひである。何故嫌ひかといふと飮食を主にするところのやうで、そ の實飮食は二の次で女と遊ぶところのやうで、さうかといって女がいつも自分のそばに侍ってゐてくれる 茶といふのではない。僕はさういふどっちつかずなあいまいな組織は厭だ。このごろはどうか知らないが、 對僕の知ってゐた時代のカフ = ーはさうであった。だから女と遊ぶのではなくて女を張りに行くところだっ フた。僕はさういふ淺ましい、さもしい、しみったれな遊びは嫌ひ / カフェー對お茶屋・女給對藝者 昭和四年八月「大阪朝日新聞」 257

10. 谷崎潤一郎全集 第22巻

違って、日本人にも共通な感情の流露があるのだから、悲しい所は悲しく感ぜられ、勇ましい所は勇まし く感ぜられるのである。李陵碑など、云ふ戯曲の悲壯な味はひは、私にも可なりよく分ったやうな莱がし 辻さんの話に依ると、目下の梅蘭芳は二三年前ほどの人気はない。容貌も頬がこけたので以前ほど美しく はないし、聲もいくらか惡くなったのださうな。梅と同型の女形で、彼の後輩である尚小雲の方が前途有 望で、將來梅と匹敵すべき名優になるだらうと云ふ。私は尚小雲の孝義節を見たが、どうも梅蘭芳ほどは 感心しなかった。梅蘭芳は聲ばかりでなく、表情があり動作があるのだから、我々の如き素入には理解さ れ易い點もあるのだらう。此の意味に於いて、梅蘭芳と共に一對の夫婦を演ずる立役の王鳳卿が、今度日 本へ來なかったことは、いかにも殘念である。や、幸四郎に似た趣があって、カッチリと引き締まった、 何となく支那の古英雄の如き颯爽とした風貌と態度と肉聲とを持った王鳳卿が來たならば、或は梅よりも 評判になったかも知れない。 京の廣德樓で見た時よりも劣 帝劇で私の見たのは御碑亭であったが、王鳳卿が一枚缺けてゐた爲めに、北、 ってゐた事は爭はれない。それから柳生春に扮した俳優も、北京でやった役者の方が上手であったやうに 記思ふ。王有道と柳生春とが、試驗官の前で話をする時の臺辭の云ひ渡しゃ抑揚が、馬鹿に好かったのだけ る 觀れど、此の間はそれほどでもなかった。御碑亭の雨宿りの場の梅蘭芳の出來榮えも北京の時の方が優れて ゐた。廣德樓の舞臺では、御碑亭の側に楊柳の立ち木を据ゑて、それがいかにも雨の情景を添 ~ てゐたの に、どう云ふ譯か帝劇では柳を置かなかった。孟月華は御碑亭の上手の柱のほとりにうづくまり、柳生春 こ 0