生れ - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第22巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第22巻

は可なりはっきりした野州託 ーりを持ってゐた。故人の言葉遣ひから野州訛りが殆どきれいに拔けて尻上り の口調が目立たなくなり、生粹の東京辯とあまり變らないやうになったのは、三十台近くになってからで、 二十台にはまだ時々野州の地金を出してロの惡い私や亡くなった大塚常吉や茂木良平などにいつも冷やか されてゐた。それもその筈で、常時の偕樂園は源吾老人夫婦を始め、奉公人の多くが野州生れの人々だっ たので、家内中に野州辯が幅を利かしてゐたから、自然源ちゃんが野州訛りを帶びるのは當り前であっ ついでに記して置くが、圓地與四松君の原稿の表題に「笹沼さんの江戸兒氣質」とあるが、この江戸っ子 気質と云ふことにも私は全く賛成出來ない。源吾老人の跡を繼いで偕樂園の二代目の主人となった源ちゃ んは、追ひ / \ 世馴れて酸いも北いもみ分けるやうになり、早くから花柳界にも出人したので、いっか 東京辯をなめらかにしゃべるやうになったので、地方出の人には江戸っ子らしく聞えたかも知れないが、 生え拔きの東京人の眼からは、決して江戸っ子とは思 ~ なかった。いかにも東京らしくはあるが、長く附 硺き合ってゐるうちには、どこか東京より東北の方の生れらしい匂ひがした。「たヾ笹沼さんはなか / 、、意 の見をまげられない方であり、話がくどくなるのには閉ロした」と圓地君も云ってをり、「酒が少し人ると、 草 ・ : 雙方でいっかな自己主張をひっ なほ一居頑固になる」ともあるが、「酒屋の亭主も引張り込んで、 ぶ し込めようとせず、頑迷不靈にいがみ合った、そのくどさと云ったらないもので、酒の飮めぬ私にはやりき 仙れず、あれ程困ったことはなかった」とあるのは、いかにも眼に見えるやうで、さう云ふ時の笹沼君の變 にネチネチした、しつこい感じ、あれはサラリとした江戸人の気質にはないものである。 493

2. 谷崎潤一郎全集 第22巻

下町風が目立つやうになった。京都に家を持つやうになった關係から、京都人の前ではいくらか江戸辯を 差控へてゐたらし、 もが、私など、對談する時は私以上に明治調の東京辯になった。私は却って大阪生れの 妻の一族の影響で東京辯が怪しくなってゐたが、故人は今でも奥さんを呼ぶのに「お前さん」と云ふ語を いまどき つかってゐた。今時「お前さん」など、云ふのは東京の下町でも餘程特殊な階級の人たちだけであらうが、 私にはいかにも古風でなっかしく聞えた。この間京大の第二内科の病院で、肺癌のために呼吸困難に陷っ た時、奥さんがカづけようとして、 「もうすぐ樂になりますよ、もう少しの辛抱ですから我慢してらっしゃい」 と云ふと、故人は再起不能なことを悟ったのか、 「うそオつきやがれ」 と奧さんに云った。それが最後の言葉であったと云ふ。 〇 私は明治十九年の七月生れ、故人は同じ十九年の十月か十一月生れだったので、宴會などで同席すると、 「君の方が僕より少し兄貴だから」と云はれて、いつも私が上席にすわらせられた。故人はお母さんが九 花 忱十八歳で今なほ健在してをられるので、自分の壽命には餘程自信があったらしく、「八十までは生きるつ 井もりだ」と云ってゐた。七八年前、私と一緖に阪大で胸部のレントゲン檢査を受け、眼底を調べて貰った 5 時、どちらの檢査でも私よりは好成績で、故人の方が餘程體の出來がい、のだと、故人も思ひ、私も思っ

3. 谷崎潤一郎全集 第22巻

これを讀んで先づ第一に感じたことは、いったいわれ 支那と最も密接な關係を持ち、東洋に 位する諸國の中ではひとり文運の盛んなることを誇ってゐる日本人、分けてもわれ / \ 文學者たちは、か う云ふものをアメリカ生れの一女宜教師の手で書かれてしまって、内心恥づかしくないであらうか、と云 ふ一事であった。勿論われ / / \ の國でも、支那に關する各方面の出版物は毎月夥しく現はれつ、ある。し かし文學的な述作と云へば、彼の國の古典の註釋か、稗史小説類の飜譯か、さうでなければへんに獵奇的 な風俗異聞を集めたやうな、猥褻が、ったものが多いのであって、現代支那を題材にした眞面目な長篇小 説などは、未だ一つも試みられてゐないのである。これはわれ / 、の國の文學的貧困さを立證するもので あるのは云ふ迄もないが、そんなことは別にしても、從來われノ \ は、彼の國の農民の莱質とか、思想と 三か、經濟力とか、生活樣式とか、家庭の状態とか、さう云ふものを知る上に參考となるやうな書物を、殆 二んど得ることが出來なかったと云ってい 而もわれ / \ は、しば / \ 支那の政治を論じ、歴史を語り、 地理を説くけれども、此の小説の中にある王龍の如き男の生涯、又その妻の阿蘭の如き婦人の性格を知ら 飜 ないでは、支那の事情を云々する資整がないことは言を俟たない。此の意味に於いて此の作品は、われ 三一口 公として、彼が貧しい百姓の息子から次第に身を起し、飢饉、洪水、戦亂等の災害と鬪ひっ、、刻苦して金 錢を蓄へ、土地を購ひ、第一、第二、第三の夫人等を次ぎ次ぎに迎へ、數人の子や孫を儲け、相嘗の不動 産を遺して死ぬ迄の一生を、地道に、素直に、平明に語ってゐるのである。 〇 わいせつ 331

4. 谷崎潤一郎全集 第22巻

放と云ふことは決して偶然でないことが分る。それは實に五十年どころではなく、悠久の時代から約東さ れた日本國の進路であって、南洋はわれ / \ の民族學的故鄕であり、われ / \ が常におぼろげに感得して ゐた有史以前の祖先の地であり、同時に又、佛印、泰、フィリッピン、マレイ、ビルマ、蘭印等々の住民 は、いっかわれ / \ の歸って來る日を待ってゐた骨肉の同胞であると云へよう。 しかしながら、われ / \ がシンガポ 1 ルの陷落を慶祝するのは、勿論これを以て大東亞解放の聖業が完成 したと爲すからではない。たゞ、シンガポ 1 ルの陷落は、疑ひもなく今囘の聖戰に大いなる段階を劃する ものであり、これに依って聖業の完成に ( ッキリした見透しが附いたと云ふ意味で祝するのである。見よ、 世界の歴史は此の日より大轉換を開始し、西カ東漸の潮の流は今より逆流するであらう。われ / \ は此の 事實を前にして衷心より帝國の萬歳を叫び、大に祝杯を擧げずには措かない。そして、又、御稜威の下、 斯くの如き輝かしい戰果を齎した皇軍の勞苦に滿腟の謝意を表し、貴い犧牲となった幾多の英靈に敬弔の 誠を捧げるのである。 て以上、私は此の機會に於いて聊か所感を述べさせて戴いた次第であるが、終りに臨み、なほ一言附け加へ 。と云ふのは外でもない、過去五十年の世代に生れ合せて皇國發展の様相を眼のあたり目撃して來た 各人間も幸疆に違ひないけれども、今から生れ出て、來るべき五十年間に於ける大帝國形成の過程を見、そ の國民の一入たる矜持と榮譽とを擔ひ得る者は、更に一居幸疆であると云はねばならない。但し、矜持と ガ 榮譽のある所には、必ずそれに相當する責任と義務が伴ふ。將來の日本人たる者は、大東亞の文化を指導 シ し輻利を增進する使命が自分達の双肩にか、ってゐることを覺悟し、宜しく島國根性を捨て、廣闊なる気 349

5. 谷崎潤一郎全集 第22巻

一度もしない、出たとこ勝負で、ぶッつけ本番でやった。あんなをかしな眞似、そんなにたびたび出來る もんちゃないわ」と云った。彼女の語るところに依ると、あの作品の時から自分の映畫に對する眼が開け たやうな気がする、自分のこれからの行き方はどう云ふ風にすればい、かと云ふことが、やうやうあの時 から分りかけて來た、と云ってゐる。 今や彼女は押しも押されもしない大女優に成長しつ、ある。今年の春ビンウ氏との間に可愛いジミ 1 ち ゃんが生れてから、彼女は一層婀娜つほくなり、ますますイキになって來た。今熱海の映畫館に「トイレ ット部長」がか、ってゐる。私はあれを明日見に行くつもりである。 京マチ子 この春京都北白川の義妹の家 ~ 泊りに行ったら、小學校三年生の孫娘のたをりが友達を二三人呼んで來て 次のやうな歌をうたって遊んでゐた。 キーシ、キシ、キシ、岸惠子 ハイアに乘るのは長谷川一夫 京都美人の京マチ子 三人揃って佐田啓二 ん 優「京都美入の京マチ子はどうかな、京マチさんはたしか大阪生れの筈だよ」 と私が云ふと、 465

6. 谷崎潤一郎全集 第22巻

たうに家が川の方に突き出てゐて、北白川の水がおたかさんの居間の下を流れてゐた。「伽羅の香のみな あぐら ぎるなかに胡座する人もなげけと秋のきたれる」と云ふのが、たしか「酒ほがひ」にあったと思ふが、故 人の歌にはさう云ふ一種豪快な響きがあるのを私は愛した。「雷すでに起らずなりぬ秋ふかく大比叡の山 しづまりたまへ」と云ふやうなのが晩年にもあったやうな気がする。歌舞伎の俳優や祇園の藝者などに求 められると、無闇矢鱈と歌を詠んで與へたので、可なり亂暴な不出來な作も多かったやうだが、出來不出 來を眼中に置かず、窮屈に歌人ぶらないところによさがあって、それが又私は好きであった。歌碑と云へ ば、私は大友の昔をなっかしむ餘り、あの歌碑を朱肉で拓本に取らせて、今の熱海の家の客座敷の襖に張 り、朝夕それを眺めて暮らしてゐる。 〇 故人はレッキとした吉井幸藏伯爵の御曹子であったに違ひないが、几そ故人ぐらゐ華族ぶらない、そして 又お坊ちゃんらしくない人間はなかった。恐らく故人自らも華族の子息であることを忘れてゐたかも知れ ない。尤も父の幸藏伯は鹿兄島生れの一代華族であったから、餘り富裕な家庭ではなかったのであらう。 子息の吉井君は東京生れであったけれども、山の手で育った筈であるのに、不思議と山の手の臭みがなく、 言葉遣ひから何から何まで生粹の下町風で、淺草生れの久保田君や日本橋生れの私など、異るところはな かった。 ( 但し、多分一時の気紛れだったのであらう、若い時に一度、年を取ったら貴族院議員になって やる、と云ってゐたことがあった ) 殊に淺草育ちの今の奥さんを貰ってからはその感化もあったのか一脣 444

7. 谷崎潤一郎全集 第22巻

食べ物に關する限り、關東は關西に完全に征服されてしまった。事實おいしい食べ物と云へば、京大阪、 殊に京都に及ぶ所はない。東京でもおいしい料理屋と云へば、今では殆ど京阪風のものばかりである。私 カおいしいまづいに なども純粹の東京生れでありながら、食べ物だけは京都流でないと気に人らない。、、ゝ、 關係なく、子供の時分に食べ馴れたものは昔を思ひ出してなっかしいので、ときみ、 \ 食べたいと思ふこと があるが、明治時代の東京の食べ物など、今では東京の何處へ行ってもめったに食べることが出來ない。 早い話が「關東だき」と云ふ言葉は東京の「おでん」が關西に傳はって「關東だき」となったものらしい が、今日では東京でも「おでん」と云はずに「關東だき」と云ったりしてゐる。東京の「おでん」は圓い あか 形の銅の銅壷が本來で、汁は黒く濁ってゐたものであったが、近頃は「關東だき」の眞似をして四角な銅 壷を使ってゐる。汁も綺麗に澄んでゐる。あれでは「おでん」の感じが出ない。それにつけても、子供の 時分に始終食べさせられたもので、折々戀ひしく思ふものを左に少しばかり思ひ出して並べてみよう。 私の一番古い記憶にある食べ物は「はりはり」である。大根の切干を細かく刻んで、味 醂と砂糖と醤油と酢を交ぜた中に漬けたものである。關西でも「はりはり」と云ふさうであるが、大阪生 幼少時代の食べ物の思ひ出 昭和三十四年十二月號「あまカラ」 426

8. 谷崎潤一郎全集 第22巻

とを、豫め内々期待してゐたのに違びなかった。 その物識りの源ちゃんも、折々私たちを馬鹿にし過ぎ、知ったかぶりをし過ぎて失敗することがあった。 或る時、話のついでに絞所の講釋を始めて、 「定絞を描くべき所を白拔きにして染め上げた黒絞附があるね、あの絞附のことを何と云ふか知ってるか ね」 と、質問を發した。定絞の所を白拔きにした紋附があることぐらゐは、われ / \ も知ってゐたけれども、 それを何と云ふかなど、知ってゐよう筈がない。すると源ちゃんは、 あの白拔きの紋のことをくろもじと云ふんだ」 「ちゃあ、敎へてやらう、 さう、くろもじ ? だ、と、自分で と云った。尤も自分でも少しをかしいと思ったのか、くろもじ ? 自分に念を押すやうに云った。 「くろもじって、あの楊枝にする木のことちゃないか」 と、われ / ( 、の中の誰かゞ云った。 「さう、あれもくろもじと云ふけれども、あれとこれとは違ふんだ」 源ちゃんがさう云ってゴマカシにか、ると、傍で聞いてゐた新婚早々の喜代子夫人が口を挾んオ 「黒持ではないんでせうか」 「あっ、黒持々々、黒持と云ふんだ」 と、この時はかりは慌て、源ちゃんも云ひ直したが、くろもじと黒持のやうな失敗は珍しくなかった。 こくもち もんどころ 496

9. 谷崎潤一郎全集 第22巻

昭和三十七年十二月「毎日新聞」 この間スタンフォード大學に招かれて日本を去って行ったサイデンステッカ 1 氏が手紙を寄越して、記念 に何か色紙を書いて送ってくれと云って來た。さしあたり適當な文句が浮かばないので、取り敢へず次の 一首を、不自由な手で記して送った。 ふるさとは田舍侍にあらされて 昔の江戸のおもかげもなし 今迄にもいろ / 、の機會に述べた通り、私は東京日本橋の生れであるが、もはや今の東京を自分の故鄕と は思ってゐない。東京人に故鄕なしと云ふ言葉があるが、まことにその言の如くである。しかし故鄕はな いけれども、墳墓の地は持ってゐる。それは京都の鹿ヶ谷である。 江戸っ子の癖に京都が好きだなんてと、よく云はれるが、何と云はれても好きなものは仕方がない。亡く なった吉井勇君は日本國中を殆ど隈なく歩いてゐたらしいが、そしてこの人も東京の生れだが、最後は京 都に落ち着いて死んだ。私は吉井君のやうな旅行家ではなく、むしろ出不精の方であるから、七十六歳の 今日まで餘り遠走りをしたことはない。北は靑森までゞ北海道は知らない。南は長崎までゞ鹿兒島は知ら 京都を想ふ 478

10. 谷崎潤一郎全集 第22巻

「大變に御丈夫でいらっしゃいます。きっと御安産でございませう。」 と、産婆は云った。それでも猶且、私は子供の生れない事を信じようとした。「己のやうな人間の子供が、 達者に發育する筈はない。きっと流産するであらう。」と思って居た。自分が此れ迄に、自分の頭腦や肉 體に加へた害毒を想ひ出して、若しかすると不具な子供でも生れはしないかと恐れたりした。 それはつまり、私が甚しいエゴイストであったから 私は何故、それ程子供を嫌がったのであるか。 である。飽く迄も自分獨りを可愛がって生きて來た人間だからである。私はたゞ自分の快樂の爲めにのみ 生きて行きたかった。自分の所有して居る金錢を、自分の利益の爲めにのみ費したかった。私は此のエゴ イズムを此れまで可なり極端に實行して居た。親兄弟に對しても甚しく冷淡であった。交友と云ふものも 頗る稀であった。私が世間から秘密を喜ぶ入間であるとか、孤獨を愛する性癖があるとか云はれたのも、 實は私のエゴイズムが主たる原因をなして居るらしい。私のエゴイズムは骨肉の關係も親友の間柄も一切 無視して顧みない。それ故私は、自分と他人とに不愉快な感を與へる事を恐れて、成るべく世間へ顏出し をしないやうに努めて居たのである。 たとへ私が、他人を愛するやうに見える時でも、決して「自分」を忘れ得た事は一度もない。自己の虚榮 心を滿足させる爲めに他入を惠む事はあった。自己の歡樂を充實させる爲めに女に戀する事はあった。け てれども嘗て犧牲的に他入の利益を計った覺えは絶對になかった。 「いくら子供が嫌ひだと云っても、生れて見ればきっと可愛くなりますよ。」 父 かう云って、私を慰めてくれようとする入が澤山あった。しかし共の言葉は、一向私の慰藉にはならなか