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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第23巻
457件見つかりました。

1. 谷崎潤一郎全集 第23巻

に南木さんに手紙を上げたところ、「習ふなら外にはありませぬ」と云って、全然私と同じ考で、矢張此の 人を推擧して來られたのには、内心自分の眼が高かったのに一寸私も得意を感じた。 前には來てくれなかったお師匠さんが、病身の上に、もうその時は大分年を取ってをられたのに、毎月十 日づ、も阪神間まで出稽古に來ることを承知されたのは、仲に立って下さった南木さんの顏もあったのだ らうが、一つには、山村舞の正しい傳統が日にノ \ 世間から忘れられて行き、時勢に取り殘されて行きさ うな形勢を見て、多少心境の變化を來たしてをられたのではなかったゞらうか。さう云へば、還暦の祝に は是非南の演舞場を借りて花々しい催しをするのだと云って樂しみにしてをられたし、そのうちに機會を 見て、東京へも進出したいやうに云ってをられた。そんな野心もあって、今迄のやうな引っ込み思案では 駄目と悟って、積極的に弟子を取らうと云ふ考になってをられたのであらうか、お師匠さんとしては、隨 分よく勉弭して來て下さった。殊に去年は、暫く中止になってゐた十日會を、住吉の今の私の宅で五月に 催すことになり、それへ義妹が「雪」を出すと云ふので、晩春から初夏へかけての暑い日ざかりに、毎日 せっせと通って來られた。今にして思へば、あの會の前後の無理が、い くらかお師匠さんの壽命をちゞめ たやうな氣がしてならない。あの當時にも、ときん \ 持病の腎臓病が惡くなられて、稽古を休まれたり、 むくんだ靑い顏をして、出て來られたりしたことがあった。「自分の體は舞で保ってゐるのだ、 毎日弟子 たちに稽古をつけるのが運動になって、どうにか達者でゐられるのだ」と、いつも御當人が云ってをられ るのを聞く度に、腎臟病には體を動かすのが一番よくないことなのだから、どうだかなあと、私は内心さ う思ひ / \ したが、 あのあとで持病が再發して、とう / ( 、秋にあ、云ふことになられてしまった。病床で 176

2. 谷崎潤一郎全集 第23巻

大正十年十一月號「演藝畫報」 この「十五夜物語」を書いたのは、もう今から六七年も以前になりませうか、發表したのは中央公論でし た。が、私としてはあまり會心の作だとは云ひ兼ねます。なぜかと云へば、まるで暑い夏の日ざかりに寢 ころんで書いたやうなものですから。發表當時も、世評はい、方ではなかったやうに記憶してゐます。と ころが、後にい、と云ふ人があったので、ついもう一度讀みかへしては見ましたけれど、やつばりわれ乍 ら感心できかねました。 この脚本のモティフは、云ふまでもなく第二幕目の後半、印ち夫婦情死を遂げる二人の心持の上に在るの です。お互に愛し劬はり合はうといふ想ひはあっても、女にはもうそれだけの気力がない、たゞ妙にから だが疲れて懶い、われでわが身を怎う動かすこともできぬほど、極端に爛れ切った女の心持に、男の心も 軈て曳きこまれてくる。そして二人がほんたうに愛し合ひ、劬り合って永遠に生きようとするには、死の ほかに術がない と、かう云ったやうなところを狙ったに過ぎません。しかし、第一幕で名主の歸る あたりまでは、自分としてもなだらかに描けてゐるとも思ひますが、その以降ーーー、殊に最後の二人が會 話は、あまりに抽象的で、ごちやごちゃと一遍に書きこんだやうに思ふのです。 「十五夜物語」について

3. 谷崎潤一郎全集 第23巻

もなかったので、 さう云ふ寄進状が毎朝續續やって來て敎會と云ふ教會が出來たての銅貨のやうに びかびかしてゐる今のわれわれの幸輻な時代とは、前世紀は此の點で著しく違ってゐたのです。かの気の 毒な貴婦人は其の方法で良心を和げることが出來なかったので、せめて慈善的な行ひをしようと決心しま した。日ならずして彼女の門前には、ぼろばろの着物を着た、浮浪人だの、醉っ拂ひだの、僞善者だの、 ぐうたらな乞食だのの耶蘇教徒共が毎朝集まって來ましたが、それでどうやら気休めになりました。 ったかづら しかし人間のらは、壁の上に這ふ蔦蔓の葉のやうに變り易いものです。時が立つに從って、夫からは何の 音沙汰もないので、 ハアバラは母や友達が、「まあ、かうなってくれた方が結句一番よかったのさ」など と、彼女の前で云ふのを聞きながら、平気でゐられるやうになりました。彼女は自分でも成る程さうだと 思ひ始めました。たとひ心が結婚當時の昔に飛んで、その折自分の傍に立ってゐた男を想へば、未だに胸 がときめいて懷かしさが込み上げて來るとは云へ、さうしてその懷かしさは、若しあの時の男が生きて眼 の前に居てくれたら、一層強まるであらうとは云へ、あの破損した鼻っ缺けの姿を想ひ浮かべては、今も 猶身ぶるひが出るのです。彼女は若く、まだ世馴れてゐませんでした。夫が最後に歸って來た時に、やう ゃう気紛れな空想に充ちた少女時代から、大人になりかかってゐたところでした。 が、夫は再び來なかったのです。生きてさへゐたらもう一度戻って來ると云った彼の言葉を思ひ、その言 葉を守らないやうな彼ではないことを思へば、彼女はその人を死んだものと見切りをつけてしまひました。 それは彼女ばかりでなく、彼女の兩親も、さうして又もう一人の人間 あの、默默としてゐる、恐 ろしい太ッ腹の、冷靜な顏つきをした男、 彼の先祖の墓碑に彫まれた石像の如く、寂然と眠ってゐ 574

4. 谷崎潤一郎全集 第23巻

昭和三十一一年五月「中央公論」臨時增刊 私の美人好きはかなり有名で、本來客嫌ひなのであるが、美入の來訪ならいつでも歡迎するなど、書いた こともあり、そこにつけこんだ編集部の注文をつい斷りきれなくなってしまった。 かうして六人並べて見ると、皆それみ \ の道の玄入ばかりになってしまったが、わざとさうしたわけでは ない。しろうとにもなか / ( 、、美しい人もゐるらしいが、年をとって世間に出る機會が少いので、つい記憶 に殘るほどの顏にも出會はず、かういふ結果になってしまった。 映畫界では昔から好きな京マチ子、高峰秀子も人れなくては惡いやうな気もしたが、もうそろ / \ 若い所 に讓っても宜しからうと云ふ意味で遠慮した。 斷っておかなければならないが、これは飽くまで私の好きな顏であって、此の中には誰が見ても美人だと さう云っては惡 云ふ人もゐるが、全然普通の意味での美人と云ふにはあたらない人もゐるかも知れない。 いが、ヌ 1 ド・ダンサ 1 の春川ますみなど一般向きがするだらうか。私は生來猫好きで、女でも猫のやう な感じの顏が好きなのである。ますみはシモーヌ・シモンに感じが似てゐるが、日本入同士と云ふことも あり、私には此の顏の方が一層好ましい。姿も惡くないし、此の頃人気も出て來たやうだ。 私の好きな六つの顔 324

5. 谷崎潤一郎全集 第23巻

陰險な人には有りがちのことながら、今更自分が餘り酷薄に自分のためばかりを謀り過ぎたのが恐ろしく なりました。伯爵のやうな人間の胸には、切なる心遣ひょりも「いい気味だ」と思ふ感情の方が強かった でせうが、それでも彼に相當した愛が忽然として燃え上りました。彼は紐を引いて箪笥を鎖し、兩腕に彼 女を抱き締め、そっと窓際へ連れて行って、息を吹き返させるやうに有らゆる努力を盡しました。 伯爵夫人が我れに復るまでには長い時間がかかりましたが、復って見ると、彼女の感情に著しい變化が起 ってゐました。彼女は夫に取り着いて恐ろしさうに息を彈ませ、幾度も幾度もいぢらしく接吻をし、とう とう激しく泣き出しました。彼女が此の場面で泣いたことは前には嘗てなかったのです。 「あなた、あれを取り除けて下さいまし。 いでせう、あなた ! 」さう云って彼女は、哀れつぼく せがむのでした。 「お前が私を愛するなら。」 「愛します、 ほんたうに愛します。」 「さうしてあの男と、あの男の思ひ出が嫌ひになったのなら。」 「嫌ひです、 嫌ひですとも ! 」 「完全に ? 」 「想ひ出してもぞっとします ! 」と、伯爵夫人は奴隷の如く從順になって云びました。「どうして私はあ んな不量見な事をしたのか、考へると恥づかしうございます。もう此れからは二度と間違ったことはしま せん。ですからあなたもあのいやらしい像を、決して私の前へ出さないで下さるでせうね ? 」 590

6. 谷崎潤一郎全集 第23巻

へ現はれて、成るべく人眼に附くやうにするのだ。さうしてその娘とのいきさつから人に疑はれないやう にするのだ。」 ギウリオが此の父親の老友の怒りを押し鎭めるのは容易でなかった。彼は餘儀なく癇癪を起した。 「お前は己が助太力を賴みに來たと思ってゐるのか」と、彼は最後に云った、「己には己の劍があるんだー 己はお前の智慧を借りに來ただけだぞ。」 ラヌッチオは一語一語を次ぎのやうな言葉で結んオ 「お前は若いのだ。まだ傷を負ったことがないのだ。お前は公然の侮辱を受けたのだぞ。男が名譽を失へ ば女にだって馬鹿にされるぞ。」 ギウリオはどうしたら自分の心にかなふか、もっと熟考するために猶豫を求めた。ラヌッチオは彼を西班 牙の將軍を襲撃する仲間へ加へようとして、さうすれば澤山のダブル 1 ン ( 西班牙金貨 ) は云ふに及ばず、 武勳が得られると云ったけれども、その願ひにも拘はらず、ギウリオはひとり彼の小屋へ歸って行った。 シニョ 1 ル・デ・カムピレアリが彼に銃砲を放った日の前日、彼がヴルレトリ の附近から來たラヌッチオ と下士卒とを饗應したのはその小屋に於てであった。ラヌッチオは彼の保護者たりし隊長プランチフォル テが殘して行った鐵の篋を、力を籠めて打ち碎いた。ブランチフォルテは掠奪の後に直ちに品物を金に換 尼 の ~ ることを喜ばなかったので、黄金の鎖やその他の寶石を常に封じ込めて置いたのである。篋の中には二 ススクヂの金があった。 カ 「己はお前が修道院の坊主になることを忠告する」と、彼はギウリオに云った、「お前には必要な德が皆 627

7. 谷崎潤一郎全集 第23巻

それを寢間へ運ばせたのです。さうしてそれから先のことは、半分は推測なのですが、私が聞いたところ では、かう云ふ噂が傳はってゐます。 その夜、アプランドタワ 1 ス夫人が夫と共に引き籠ると、頑 5 丈な四本の樫の木の柱の附いた寢臺の足元に、前にはそこに置いてなかった背の高い黒い衣裳箪笥が立っ てゐました。しかし彼女は、なぜそんなものが置いてあるのか冫「 」こ聞、ても見ませんでした。 「私はちょっと思ひ付いたことがあるんだよ」と、明りを消してから夫は云ひました。 「さうお ? 」 「小さなお宮を建てたんだよ、まあ云って見ればお宮だが。 「小さなお宮 ? 」 「うん、われわれが等しく奪敬してゐる人のためにさ。 彼が寢臺の帳の蔭に垂れてゐる綱を引くと、簟笥の扉がゆるやかに開きました。見ると、物凄い像を容れ るために棚はすっかり取り除けてあって、像はその中に、閨房に在った時と同じゃうに立ってゐます。さ うして像の兩側に燃えてゐる蠍燭の明りは、歪み崩れた形相をまざまざと浮かび上らせました。彼女は夫 あっち にしがみ着いて微かな叫び聲を發し、蓐に顏を埋めながら哀願しました。「ああ、彼方へやって、 後生ですから彼方へやって ! 」 「いづれそのうちに、 つまりお前がほんたうに私を愛するやうになったらね」と、彼は冷やかに答 へ , ました、「お前はまだ、ほんたうに愛してはゐないだらう、 とばり え、どうだい、今お前にも見せてやる え、どうだね ? 」

8. 谷崎潤一郎全集 第23巻

領域はアプランドタワース卿のそれよりも更に廣大なものでした。此のチ = ーンの莊園の外に、もう一つ こう の莊園が程遠からぬ海岸の方に在ってコックデ 1 ンの鄕の半分を占めてゐる、それから名高いウォアポー ンやその近傍一圓に亙って、數數の教區の中によく圍はれた上地がありました。此の時バアバラはやうや っ十七になるやならずであったのです。さうしてアプランドタワース卿が彼女に云ひ寄ったと云ふ傳説の 起りは、そもそもその舞踏會が始まりなのですが、さうだとすると隨分早いことなんです。 ドレンカーヅ家の一人だと云ふことですが、 何でも或る親しい友達 が、その日の書間彼と食 事を共にしたと云はれてゐます。さうしてアプランドタワース卿は、その時客人を驚かす爲めに、自分の 心の秘密な計畫を洩らしたさうです。 「あなたは彼女を手に人れることは出來ないでせう、 請け合ひます、きっと駄目ですよ」と此の友 達は別れ際にさう云ひました、「彼女はあなたに愛情では惹き着けられません、さうかと云って立派な縁 ふんべっ 組みを求めるなどと云ふ考へは、まあそんな分別は小鳥の頭にあるくらゐしか持ってゐないでせう。」 話「今にわかりますよ」と、アプランドタワ 1 ス卿は物靜かに答 ~ ました。 しんちゅう 彼が四輪馬車に乘って國道を通って行った時、此の友達の豫言がその心中に往來したことは疑ひもありま ア せん。が、今しも彼の右手に方って消えて行くタ日の影を背景にした彼の横顏の、彫刻的な安らかな輪郭 の 家を、若しもその友達が見たならば、伯の心の冷靜が掻き亂されてゐないことを悟ったでありませう。彼 ーントン・インと呼ばれる、多くの不敵な密獵者どもが近所の森の中で仕事をする爲めの集會所にな みちばた ってゐる、さびしい路端の居酒屋までやって來ました。さうしてちょっと気を付けたら、その居酒屋の前 あた 545

9. 谷崎潤一郎全集 第23巻

は彼女も知ってゐます、が、その他の點はどうなってゐるのかよく分らない人影が。 彼女の夫は羽 ばたきをする黒い外套を身に纒ひ、帽子を目深に被ってゐました。その様子は全く外國人のやうで、嘗て 彼女の傍にゐた若い英吉利の村民のやうではありません。彼が燈火の明りの前へ來た時に、彼女が驚かさ れたのは、殆んど恐怖をさへ感じたのは、彼が假面を着けてゐることでした。彼女は最初此れに気が付き ませんでした、 その假面の肌合ひには少しも異様なところがないのです、うつかり往來で出遭った 人なら、眞の人間の顏以外の何物でもないと思ふくらゐに。 彼は自分の思ひがけない姿かたちに、彼女がぞっと身顫ひしたのを看て取ったのに違ひなく、慌てて云ひ 私はお前がもう寢てゐ ました。「私はこんな風にしてお前の所へ來るつもりではなかったのだよ。 ると思ったのだ。よく起きてゐてくれたね、可愛いバアバラよ ! 」彼は片手で彼女を抱へました、が、接 吻しようとはしませんでした。 もろて 「おお、エドモンド ! あなたなの ? ほんたうに ? 」と、彼女は云ひました、雙手を強く握り しめながら。なぜなら彼の姿や動作は先づ間違ひなくその人のやうに思へましたし、言葉の調子も昔の調 子に似てゐましたけれども、聲の變ってゐるエ合が、別人のやうに思へたからです。 「私はこんな風に體を包んでゐるのだよ、道中の旅籠屋や往來の人の眼を避けるために」と、彼は低い聲 で云って、「ちょっと馬車を返して來るから、待ってゐておくれ。」 「あなたお一人なのですか ? 」 「ああ、私は敎師をサザムプトンへ殘して來たのだ。」 566

10. 谷崎潤一郎全集 第23巻

であった。彼はびとり胸の中で、「エレナは私が何者であるかを今に知るやうになるだらう」と云ふこと をのみ、案じつづけた。此の時代の彼の歳頃の多くの青年は、ただ戀愛に沒頭し、女を掠奪する快樂ある を知って、六ヶ月の後にその女がどうなるだらうとか、彼女が自分を何と思ふやうになるたらうとか云ふ ことは、片時も考へては見ないのである。 彼がアルバノに歸って、羅馬から買って來た美しい衣服を几べての町の人人に見せびらかした日の午後、 ギウリオは友達のスコッテイから、フアビオが馬を驅って町を去り、三リ 1 グを隔てた海岸の方の平原に ある父の所有地へ出かけて行ったことを聞いた。同日遲く、彼はシニョ 1 ル・デ・カムピレアリが二人の 僧侶を伴って、アルバノ湖の綠を蔽うてゐる鬱蒼たる樫の竝木路の方へ行くのを見た。それから十分ほど 立っと、一人の老婆が見事な果物を賣りに來たと云って、大膽にもカムビレアリの宮殿の中へ這入って行 った。老婆が最初に出遇ったのは、女主人のエレナから友達のやうに信賴されてゐる可愛い侍女のマー しろめ ッタであったが、彼女は立派な花東を受け取ると、さっと顏を、白睛までも赧くした。その花東の中には 途方もなく長い手紙が隱されてゐたのである。ギウリオは、あの砲火を受けた夜以來の彼の感情を殘すと ころなく書き綴ってゐた。が、不思議にも彼は愼しみ深く、その頃の外の青年ならば得意になって吹聽し たがるであらうやうな事柄を、敢て告白しようとはしなかった。印ち彼が數數の冒險で勇名を馳せた隊長 尼 の の息子であること、さうして彼自身も既に一度ならず戦鬪に加はり、己れの勇敢を證據立ててゐることな スぞを、一言もしなかったのである。彼は此れらの事柄が古いカムピレアリの一家に知れたらどんなことを カ 云はれるか、それが分るやうな気がした。ここで斷って置かなければならないのは、十六世紀に於いては、 629