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検索対象: 谷崎潤一郎全集 第23巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第23巻

ト・ダンスもできる器用な人 ) から轉向して狂言小舞を習ってゐた。その時分は終戦直後だったから、茂 まの千五郎さんに名を讓り、 山さん一家は暇だったのではないだらうか。嘗時は先代の千五郎さんが、い 千作と言ってをつたが、あの時は、千五郎さんが「輻の神」千作翁が「弱法師。を演じられた。その千作 翁は、あの翌年あたりに、八十五歳か六歳かで亡くなった。 今日は、千五郎さんが、「月見座頭」の中の「弱法師」を舞ってくれた。 二十三年の後は、月見をすることもなく過ぎた。 、といふのは、病氣をする前は熱海と京都を往ったり來たりしてゐたが、この頃 最近に、京都を離れたい は老年のせゐで、さう手輕にも動けなくなった。それと、京都は氣候が惡い。熱海の伊豆山は冬は暖いし、 夏も非常にすずしい。京都は寒い期間が長く、それに春が短い。氣候がよいのは花が散ってからで、せい ぜい五月一杯である。花の時分は老人にだけでなく、若い者にも寒い。秋は九、十、十一、と三ヶ月間は よいが、これでは一年の中四ヶ月、あと八ヶ月は熱海の方がよいことになる。 氣候のほかのことは、食べ物にしても、環境にしても、京都の方がよい。それと病氣の時は、東京に懇意 との醫者がゐないので、必ず年に一、二囘は、京大の前川内科で健康診斷をして貰ふ。だから假にこの住ひ の ( 二十四年に移った下鴨の家 ) を手放しても、親戚や孫もこちらにゐることだから、春と秋は京都 ~ 來た いと思ってゐる。 狂 月 317

2. 谷崎潤一郎全集 第23巻

昭和三十二年十月單行本『碧い眼の太郎冠者』 ( ドナルド・キーン著 ) ドナルド・キーンさんの名は、最近の日本趣味流行の風潮に乘って、本國のアメリカでも喧傳されてゐる らしいが、わが國での人氣もなかノ ( 、素睛らしい。それは何よりも、君が一般の日本人に喜ばれさうな、 眼につき易いいろイ \ な特色を持ってゐるからであらうと思ふ。君は大概の歐米人が東京に滯在したがる のに反して、機會ある毎に京都に遊び、京都好みの家に住み、京都風の食物を嗜み、京都流の狂言小舞を 習ひ、しば / \ 自ら立って舞ふ。時には宴席に羽織袴の姿で現はれ、祭禮の日に裃を着て行列に加はった りする。書道を學んで、手紙の遣り取りにわれ / 。 \ と變らない程度に毛筆の文字を驅使する。さう云ふこ とは、多くの日本人の好感を得る所以であり、私たちのやうな友人の眼にもほ、笑ましく映ずる。君は、 「私は西洋人としては小さくて、日本人としても大きい方ではない」と云ってゐるが、これも亦、「西洋人 はみな巨人だという先人觀」を持つ日本人に、君を親しみ易く感じさせる理由の一つである。われ / \ は、 アメリカ人と云へば皆リュウとした身なりをしてゐる者と考へがちであるが、君はその點に於いても例外 で、いつも汽車は三等に乘り、あまり。ハッとしない背廣服を着、古ばけた靴を穿き、少しも邊幅を飾らう 親近感や安心感を抱かせる。 としないので、それが一われイ、、に 碧い眼の太郎冠者序にかへて 336

3. 谷崎潤一郎全集 第23巻

京都潺湲亭に於いて 谷崎潤一郎しるす 322

4. 谷崎潤一郎全集 第23巻

名士と食物 昭和二年十二月號「婦人公論」 京都大阪の日本料理、支那料理等好きである。西洋料理は ( 日本物 ) 好まず、一般にうまきものならば何 でもよし。 名士と食物 101

5. 谷崎潤一郎全集 第23巻

なのですが、それをそのま、此處へ持って來たのです。ですから、何處も京間になってゐますが、私が住 むのは三代目で、松竹から譲り受けたものです。すっかり次汁洗ひをし、この部屋も二間續きになってゐ たのですが、隔ての唐紙を壁に變へました。 食べ物では、支那料理は近頃何うも好まなくなりました。見た所が芥溜みたいな感じがして、それが嫌や なのです。それでもシナ人と一緒に食べに行くと、大した店でなくても、なか / \ 旨い 洋食は可なり好きです。殊にビフテキの、あまり火の通らない生加減のがいいのです。昭和通りの何處か 一軒松坂肉のビフテキをくはせる洋食屋があるさうです。魚の方はレストランでは食ひたくありませ ん。日本料理の方が遙かに美味しい。食べ物は何んと云っても上方ですね。料理も菓子も旨い。東京はた だ無闇に高いだけです。 私は東京へは洋服を着て出掛けます。此頃東京ではあまり和服姿の男は見掛けないが、京都ではまだ隨分 ゐます。京都の下鴨には割りに長く住まってゐましたが、何しろ冬は底冷えしますし、夏は蒸され、一年 中ゐる時が短かいので、去年の暮れに引き拂ひました。それでも親戚がありますので、時々行って滯在す る程度にしました。 高等學校時代、私は夏目さんにはとう / — 敎へて貰ひませんでした。私は英文ではなく、英法だったので、 328

6. 谷崎潤一郎全集 第23巻

昭和三十一年十二月號「婦人公論」 「月と狂言師」を書いたのは、昭和二十三年だったと思ふ。これは僕の戦後の作品の、一番最初に發表し たものである。 僕は戰爭中作州の勝山にゐて、ここで終戦を迎へた。阪神間の魚崎に家があったので、戦爭がすめばそこ へ歸るつもりでゐたが、終戰の年の八月六日か七日頃、阪紳間の空襲で、僕の家は燒夷彈の直撃を受けて、 あっといふ間に燒けてしまった。そこで歸る家がないまゝ、勝山に終戰の翌年の夏までゐ、その間にも時 々、阪訷間に家を探しに出て來てゐたが、燒け野原の土地では不安だったので、燒けない京都を選ぶこと 京都に出て暫く間借りをして家を探し、最初に家を持ったのは南禪寺下河原町で、二十一年の暮であ 月見は、二十二年の秋にも、平安訷宮の中のちょっとした建物で 普通は、日が暮れてからは入れな いのだがー・・ーー催したが、 生憎曇ってゐて月が出てくれなかった。そんな譯で二十三年には、「月と狂言 師」にあるやうに、上田邸の招きに應じた。この一家は皆狂言が好きで、奥さんはバレエ ( アクロバッ 「月と狂言師」のこと 316

7. 谷崎潤一郎全集 第23巻

めゆき」でなく「ささめゆき」と濁らずに讀んでいただきたいと思ふ。 私はいつでも執筆中は樂しいのであるが、「細雪」を書いてゐる長い期間、ずっと樂しかった。若かった ころは、まだ考へのまとまらないうちに、。 ふつつけに書いたりしたので、書き出してから困ったことがよ くあったけれども、「細雪」は、ほとんど終りまで考〈がまとまって、こまかくプランを書いてから執筆 した。長い物語だから、登場人物の年齡なども、すっかり書いておいたのである。 「細雪」執筆中、書き方に迷ったり、書けなくて苦しんだりすることはなかった。ただ下卷のところで、 もう一つ綠談が出て、それが破談になる話を、書きたいと思ってゐた。それは最初から計畫の中に入って ゐたのであるが、あまり下卷が長くなるし、綠談の破れるといふ似たやうな話がさう幾つも重なっては讀 者が飽きるのぢゃないかと思ったりしたから省いてしまった。その話を書いてゐたら、百枚以上も長くな ったらう。やめてよかったのだと今は思ってゐる。 私は花見が好きで、殊に京都の花は、毎年必ず見てゐる。「細雪」にも花見のくだりがあるが、京都の花 といへば、今は枯れてしまったが、祇園の圓山の櫻、平安神宮のあたりの櫻が好きである。大體四月の十 日から十五、六日までが盛りであるが、櫻は年によって早く咲いたり、 遲れたりする。十日前に咲いてし まふこともあるので、すぐ近くの南禪寺に住んでゐてさ ~ 、つい花盛りを逸してしまふことがある。時機 を逃がして見損ったときは、御室へいって八重櫻を見て樂しむことにしてゐる。 238

8. 谷崎潤一郎全集 第23巻

この中で杉田弘子、淡路惠子、若尾文子にはまだ會ったことがないが、實際に會って見れば、映畫やテレ ビで見てゐるのとは感じが違ふかも知れない。 有馬稻子はわざ / 、來てくれたことがあるので知ってゐるが、あとで家内があのくらゐ肌の綺麗な人は少 いと感心してゐた。かういふことは會って見なければわからない。「つゆのあとさき」の若い奧さん ( 淸 岡の妻鶴子 ) になったのを見てその演技にも感心した。 若尾文子の「朱雀門」は失望した。此の人にはあ、いふ頭や服裝は似合はないと思った。 杉田弘子は普通の意味でも美人であるが、私は此の顏を見てゐると、小説の材料のやうなものがいろ / \ と雲の如く思び浮んで來る。たゞ此の顏を見るためにのみ映畫を見に行くことがある。聞けば此の人は無 ロださうであるが、あの顏は餘りしゃべったり笑ったりしない方が一層美しく見える顏である。 ハイカラな顏と云ふ點では淡路惠子が一番である。 藝者は祇園の子花一人だが、私はもと / \ 東京の藝者は好きでないし、殆んど知りもしない。美人と云ふ ことになれば、新橋あたりの方が祇園よりずっと澤山ゐるに違ひないし、その點では京都はとても及ばな 顏いと思ふが、私は京都の藝者の中ではやはり子花を推す。此の人は舞妓の時分は大して綺麗でもなかった 9 が、最近めつきり美しくなった。先代羽左衞門に似てゐると、よく人に云はれるさうである。 ( 談 ) 325

9. 谷崎潤一郎全集 第23巻

同君は昔から實にマメな人で、いろ / \ ・なことを書き溜めてゐるので、そのうち纒めて出版したらとかね る、、思ってゐたところ、今囘中央公論社より「谷崎と私」と題して上梓されることになった。同君の書か れたものは一と通り讀んだつもりではゐるカ 僕の若い頃のことなどもちょっと出て來る、 政界人にしては趣味が廣く文才が豊かで、その上視野が世界的に廣いのであるから、書かれたものが一本 となれば必ず興味あること、思ふ。 昭和二十八年三月 ヾゝ、 京都潺湲亭に於いて 谷崎潤一郎しるす 266

10. 谷崎潤一郎全集 第23巻

景 大正五年八月號「文章世界」 小生は海よりも山よりも、地方の都會の情景風俗を最も好み候。東北にては秋田、關西にては大阪の道頓 堀附近、未だに忘れ難く候。 奈良、京都は、莊嚴なる過去文明の記念物を有するが故に、やはり捨てがたく存候。就中、宇治の平等院 の建築には、一種のニクスタシイを感じ申候。 人気は東北最もよろし。關西は腹の立つ事ども甚多し。 一人一景 ( 旅の印象 )