そこで、もし歴史小説と云ふものが、史實の外へ一歩も踏み出してはいけないものであるならば、今度私 の書くものなどはその名に値ひしないことは明らかで、せい 歴史物と云へるぐらゐなところであらう。 要するに私は、なるたけ史實の奪嚴を冐さないやうにしながら、記録の不備な隙間を求めて自分の世界を 繰りひろげようと思ふのである。 234
眞僞の程はたしかでないが、かう云ふ話を聞いたことがある。 八犬傳の第一囘、里見義實が結城の城を落ちるくだりに、「馬壇、鞍懸、柳坂、煙は後に遠ざかる」と云 ふ文句があるが、そんな地名は實際に見當らないので、或る人がそれを馬琴に質したところ、いかにも左 様な地名はござらぬ、あれはたゞ語呂がよいやうにでたらめな文字を列べたのでござると、平気な顏をし て答へたと云ふ。 この話でも分るやうに、德川時代の作者たちはさう云ふ點でまことに大膽至極であった。馬琴のやうな博 學の士にして猶且然りであるとすると、淨瑠璃作者が維盛を鮨屋の聟にしたり、樋口次郎を船頭にしたり の するのは、日常茶飯事であった筈である。現代の作家たるわれ / 、が材を歴史に取る場合にも、實は此の 作くらゐ大膽さ と云ふか、呑氣さと云ふか、 を持ち合せた方がよいやうにも思ふのであるカ 母 の気の小さいわれ / 、はなか / \ 左様に勇敢にはなりきれない。かと云って鷦外漁史の澀江抽齋や伊澤蘭軒 等々の作品のやうに、綿密に史實の線に沿って行くことも、空想の翼が抑制されるので、ちょっと窮屈に 少 感ぜられる。 少將滋幹の母作者の言葉 うまで 昭和二十四年一月「毎日新聞」 233
病める薔薇序 る情操を以て貫かれた「病める薔薇」と云び、眞珠の如く淸楚に蜃氣樓の如く纎麗な「李太白」と云ひ、 巧緻にして輕快なる「西班牙犬の家」と云ひ、いづれも同君の豐富なる室想と鋧敏なる感覺との産物なら ざるはない。 今日の文壇の或る一部ーー・・ ! 否、寧ろ大部分には、空想を描いた物語を一概に「拵へ物」として排斥する 傾向がある。しかし、古往今來の詩人文學者にして、嘗て空想を驅使しなかった者があるだらうか。たと へ自然派の作家であっても、空想力に乏しくして果して眞實を表現することが出來るだらうか。若し藝術 、いかにして藝術が成り立つだらうか。予の考へをてすれば、空想 の領域から空想を除いてしまったら に生きる者のみが藝術家たり得る資格があるのである。藝術家の室想が、いかに自然を離れて居ようとも、 それが作家の頭の中に生きて動いて居る力である限り、室想も亦自然界の現象と同じく眞實の一つではな いか。空想を眞實と化し得てこそ、始めて藝術家としての生きがひがあると云ふものである。「病める薔 薇」の著者の作物が萬一「現實に立脚して居ない」といふ理由の下に批難を蒙ることがあるとすれば、予 は著者に代って以上の如く答へんとする者である。 大正七年九月 谷崎潤一郎
「お前、それを何處へ置くつもりかね ? 」 「まだ極めてはゐないんですけれど」と、伯爵夫人は云って、「何處でも構ひませんわ、あなたの御迷惑 にならないやうな所なら。」 「いや、別に迷惑と云ふことはないがね」と、彼は云ひました。 邸の裏手の方の部屋で荷が解かれると、彼等はそれを見に行きました。像は全身の姿であって、純粹なカ ルララの大理石に刻まれ、エドモンド・ウイロ 1 スの天稟の美しさを殘る隈なく表現してをり、恰も彼が 旅の門出に彼女に別れを惜しみつっ立ってゐる光景で、線と云ひ、輪郭と云ひ、几べてに於いて殆んど完 全な男性美の標本でした。誠こ こその作品は非常な忠實を以て仕上げられてゐたのです。 「正しく此れはアポロ禪だ」と、今日まで繪でも實物でもウイロ 1 スを見たことのなかったアプランドタ ワ 1 ス伯は云ひました。 ハアバラの耳へは、彼の言葉は這人りませんでした。彼女は最初の夫の前に、恰も傍に他の一人の夫が居 話るのを忘れた如く 、恍惚として立ってゐたのです。不具になったウイロ 1 スの姿は、彼女の心眼から消え てしまひました。後の慘めな姿ではなく、此の完全な形のものこそ、實に彼女が愛してゐたその人であり、 ア 若しも彼女に眞實な愛があったならば、あんな薄情な仕打ちをしないで、常にその人の中に此の形を見る の 家ことが出來た筈です。 やがてアプランドタワース卿が、「お前は此の人に偬れ惚れとしながら朝ぢゅう此處に立ってゐる気か 9 ね ? 」と、不躾に云ったので、彼女はやっと我に復りました。
ときには、自然まはりがさうだものですから、わたくしもつりこまれて、さういふ言葉を使ふのです 〇 それから自分の兩親のことについて少しお話をしますと、わたくしのところは母が家付のむすめで父が養 子に來たのでした。さうしてもとはそんなに貧乏でもなかった。けれども父が來て ( 父が相場をしてゐた ものですから ) 相場で失敗をして段々逼塞して貧困になってしまった。夫婦喧嘩は始終金のことで、くら しがうまくいかないからでもあった。そしてこんなに苦勞しなければならぬのは誰のおかげですか、と母 が云ひだすといつも父は引込んでしまった。はたらきのない代りに、非常に人のよい正直な親父だったの です。紅葉山人の作に「二人女房」といふのがありますが、あのなかに出て來る「二人女房」の親父に似 てゐるところがあった。これはあの時分 ( 明治の時代の ) 、あ、いふ階級の父親といふものを實によく現 はしてをるので、私の父なぞは大體あ、いふ性質で、あれをよむと、自分の親父を思ひだします。紅葉は 實によくあの時分のタイプを書きこなしてゐると思ひます。どうも顏付から何から、あの時分の東京人と いふものは、どこか共通のところがありました。たとへば默阿彌ー、ーーわたくしは默阿彌にあったことは ないけれども ( たしか默阿彌の死んだのは明治二十六年だったとおもふが、 ) の寫眞を見るとわたくしの お祖父さんに感じばかりでなく顏付など實によく似てゐるので、ぎよっとします。その癖、僕はお祖父さ んといふものをよく知らない、寫眞で知ってゐるだけである。お祖父さんはわたくしの三つのときに死ん だのです。けれどもお祖父さんの寫眞と默阿彌の寫眞と實によく、似てゐるのです。それから着物の着方 224
「秘密」は「中央公論」の當時の主幹故瀧田樗陰氏の依賴に依って、始めて同誌上へ掲載し、一枚一圓と 云ふその頃の新進作家としては優遇された原稿料を貰って、筆の生活の第一歩を蹈み出した記念の作品で ある。 「惡魘」と「續惡魔」とはその後つづいて「中央公論」へ載せたもので、それまで主として浪漫的な作品 ばかりを書いてゐた作者は、此の作に於てやや寫實的な試みをしたつもりである。 東京日日新聞に連載した、作者の最初の長篇新聞小説である。斷っておくが、此れは作者の一高時代の經 驗を材料にしたのではあるが、決して作者の自傳ではない。實は此れより前に「新思潮」へ載せかけた 「彷徨」と云ふ未完の長篇小説がある。「あつもの」はそれと同じ題材を、多少趣を變へて書いたので、或 る友達の戀愛事件からほんのヒントを得たと云ふだけである。 「戀を知る頃」「春の海邊」 前者は純浪漫的の、後者は純寫實的の戯曲である。此の二篇は自分でも好きな作品であるが、「春の海邊」 の方は嘗て有樂座で上演されたことがあったに拘はらず、「戀を知る頃」の方は演出の困難なのと、その 筋の干渉がきびしいのとで、未だに上演の機會がない。此の中に出て來る「おきん」と云ふ名は、當時作 者の好きな女に「おきん」と云ふ人があったので、それを用ゐた。作者はこれを書きながらも始終その女 の幻を頭に描いてゐた。が、勿論少しでもこんな事實があったのではない。 「お艶殺し」 「あつもの」 106
昭和一一十八年四月單行本『現代日本の百人』 ( 田村茂撮影 ) 人に顏を見せるのが商賣の俳優は仕方がないとして、自分の顏が世間の多くの人に知られてゐると云ふこ とは、どうも餘りよい気持のものでない。寫眞顏が實物と似てゐない人も多いさうだが、因果と私の寫眞 は實物によく似てるさうである。そこ ~ 持って來て近頃は實に頻綮に、月に幾囘となく寫される。或る時 散歩してゐたら、五十恰好の職人風の人が私の顏を見てふと立ち止まって、「失禮ですがあなたは映畫關 係か何かのお方ですか」と云ふ。「い、え、さうではありませんが、どうしてですか」と聞くと、「いや、 あなたのお顏はいろ / \ のものに出てゐますな」と云ふのである。此の人は私の名を知らないで顏だけ見 覺えてゐたものらしい。自分の顏がそんなにもポピ = ラーになってゐようとは私は全く知らなかった。滿 明 第員の電車の中などで見知らぬ人が明かに私であることを認めて、「先生此方 ~ おかけなさい」と云ってく 人れたりする時は有難いと思ふが、そんな時よりほかに、顏を知られてゐて嬉しいと思ったことは、はにか 百 のみ屋の私には殆どない。 代 現 現代日本の百人寫眞説明 267
ウヰンダミ 1 ャ夫人まあ ! ほんたうにー ア 1 丿ン夫人え、、 ( 間 ) 奥さん、あなたはお亡くなりになったお母様をお慕ひ遊ばして、それで、さう 言ふ名前をおつけなさいましたのね。私ウヰンダミ 1 ャさんから伺ひましたわ。 ウヰンダミーヤ夫人私達はみんな理想と言ふものを持って暮らして居るのですわ。少くとも理想を持っ て居るのが當り前でございますわ。さうして私の理想は母親なのでございます。 ア 1 リン夫入理想といふものは危險な物でございますわ。理想よりも現實の方がようございます。現實 はつらいものですけれど、それでも理想よりは增しでございますわ。 ウヰンダミーヤ夫人 ( 握手しながら ) もし自分の理想を失へば私はすべてのものを失って了ひますわ。 ア 1 丿ン夫人すべてのものを ? ウヰンダミ 1 ャ夫人え、。 ( 間 ) ア 1 丿ン夫人あなたのお父様は、時々あなたにお母様の事をお話しになりまして ? ウヰンダミ 1 ャ夫人 い、え。それを話すのが、父には非常に苦痛でございましたの。父は母親が、私の 人生れる二三ヶ月後になくなりました時の様子を、話してくれた事がございました。父は話をしながら、 夫 ャ 眼に一杯涙を滯めて居りました。さうして、もうどうぞ母の名前を言ってくれるなと中しました。私の 父は 私の父は實際失戀の爲めに死んだのでございますわ。父の一生はほんたうに荒んだ一生でご ざいましたわ。 1 丿ン夫人 ( 立上る ) では、もうこれで失禮いたしますわ。 ウヰンダミ ア 513
冒險的な試み 昭和一一十七年十一月「昭和文學全集」 ( 角川書店 ) 内容見本 戰後の出版社である角川書店が、此の度改造社の「現代日本文學全集」の顰みに傚って「昭和文學全集」 の刊行を企て、私のところ ~ 共の目録を送って來た。昔圓本の濫觴と云はれたあの企畫は實は故山本實彦 社長と私の發案であったが、今囘の企てを聞いて昭和と云ふ年が何時の間にか四半世紀を過ぎたことに感 慨の念を禁じ得ない。私は昭和の文學を此の邊で振返って見ようと云ふ冒險的な試みを壯とし、此の企て の成功を期待する。 冒險的な試み 261
たとび佛門に人っても恐らくたゞの坊さんで終ることはあるまい。今に再び文學的活動を始めるのではな いかと思ったりした。 然るに、たしか一昨年の夏、實に一別以來久し振に東京の偕樂園で會った時には、君は意外にも一廉の易 學者になってゐた。佐藤春夫の細君の話では、「今さんの易はなかなかよく中るので、信者も相嘗に多い」 と云ふ。してみれば、君は此の方面の學問に於いて研鑚を積んだばかりでなく、それを實際に活用する機 鋒に於いても、すぐれたものがあるのであらう。君がいつ、どう云ふ動機から、その持ち前の好學の精神 を易に傾倒するに至ったのか、予はその邊のいきさつを知らないけれども、蓋し君の今の造詣は、恐らく 雌伏十年の間にあらゆる世路の辛酸を甞め、幾度か生死の關門に出人しつ、纔かに贏ち得た成果なのでは ないか。予は君に問うてみた譯ではないが、實は私かに左様に想像し、解釋してゐる。 予は全くの門外漢であるから、此の「易學史」のやうな專門的の書物に序文などを書く資格はないのだが、 今囘君の多年の研究の結品たる著作が上梓されるに方り、一つには君の懇請もだし難く、一つには二十年 來の友人として君の大成を喜ぶの餘り、聊か過去に於ける君との因綠を述べて序文に換へることにした。 序若し夫れ此の書の内容を學問的に檢討し、批評し紹介するのには、他に適任者がゐるであらう。たゞ、今 學は總べての東洋の古典が新しく見直されようとしてゐるのであるから、此の書は著作者自身に取ってその 生涯の一時期を劃する記念塔であるのみならず、世間一般に取っても頗る時機を得た、有意義な出版であ 183