一月六日靜岡縣熱海市仲田八〇五電話熱海二七四三より東 四五八 京都文京區關ロ台町七一一ノ一一竹田あゆ子殿端書 ( 速達 ) 六十とせに七つ加へて七くさの なづなの粥を祝ふ春かな 壬辰新春 潤一郎 來ル八日惡天候ならざる限り上京東京ステ 1 ションホテルに一泊 ( 電丸ノ内二五一一及び二五一五 ) 同日 午後四時半頃家族同伴にて來訪あるべし、小生未着ならば二階のロビ 1 で待っていらっしゃい、入口は丸 の内の方の乘車ロと降車ロの中間にホテル玄關あり、宿は誰にも知らすべからず 一月十二日靜岡縣熱海市仲田八〇五電話熱海二七 四五九 四三より東京都杉並區井荻一一ノ一一五濱本浩宛端書 十日附御芳書拜見仕候月末御來訪御待ち申上候小生廿三、四兩日は上京不在に相成候ニ付その前か後に願 昭和二十七年 壬辰 一九五一一 566
拜啓 今囘ハ御多忙中態 ~ 御人洛被下候處格別の御もてなしも出來ず失禮仕候しかし久しぶりに御元気な御様子 に接し何より安心仕候次に昨日御賴みするのを忘れましたが金子參拾萬圓程御電送被下度 ( 三菱銀行上京 區出町支店小生當座 ) 勝手ながら至急御願申上候 五月四日 嶋中鵬二様 侍史 五月二十五日京都市左京區下鴨泉川町五番地 ( 電上一八四四 ) 五 0 三 より東京都文京區林町七〇サイデンステッカー宛封書 ( 速達 ) 廿二日附御手紙拜見いたしました 蓼喰ふ虫の飜譯が御完成になりました由お骨折まことに有難く存じます あなたの御譯しになった英文の味が私に分りますかどうか覺つかなく存じますが兎も角も一往讀ませて戴 けれバ幸甚であります尚又私ハ目下ちょっと忙しい仕事をしてをりますので御譯文を全部通讀しますまで 暫くの間コッピ 1 を手もとにお預け置き下さるやうお願ひ申ますもし京都へ御いでになるおついでがあり 五 0 ニ 五月四日京都市左京區下鴨泉川町五番地 ( 電上一八四四 ) より東 京都千代田區丸ビル五階中央公論就方嶋中鵬ニ宛封書 ( 速達 ) 谷崎生 598
前略 菅さんの裝釘が出來ましたから別便でお送りしますそれの校正は私の方へ送らずに菅さんに宛て、送って 下さい なほ月と狂言師の原稿を早く送っていたゞきたくそれを待ってゐます 先逹黄蜂社の寺田なる人が細雪の再掲載を貴社が承諾せられた旨通知して來ましたが本嘗に許可をせられ たのでせうか實は私としては斷りたかったのですが一寸斷り い事情があったので貴社の方へ廻した のですすでに一遍許可せられたものなら仕方がありませんが今後あまり許さないで下さい 私は一度熱海へ行ってそれから年末に上京します多分二十日から二十五日の間になるでせう 〔以下自筆〕それからこれは宮本さんに御傳言下さい、年末「細雪」縮刷版印税の中より三十萬圓程御都合願 度、尤もこれは小生上京後、今月廿四五日頃東京に於いて頂戴致度、京都へ御送り下さるには及びません 十二月十二日 谷崎潤一郎 嶋中鵬二様 菅畫伯の裝釘畫稿大變に面白く出來候明日發送可致候 代筆 ( 本文前半 ) 十二月十一一日京都市左京區下鴨泉川町五番地 ( 電上一 三九四 八四四 ) より東京驛前丸ビル五階中央公論社方嶋中鵬ニ宛封書 ( 速達 ) 侍史 526
年 九 十 和拜啓 先般御約束申上候短册二葉唯今別便に托し候ニ付御手數恐入候へ共此の寫眞と共にいせ子に御渡し被下度 拜復 十月六日附御芳書拜見仕候先般ハ折角御光來被下候處生憎外出中にて拜眉の機を逸し誠に殘念に存じ候愚 妹いせ子事日頃何かと御厄介に相成候事と存じ候何卒今後共宜敷御指導の程御願申上候私も老來甚だ病弱 に相成候へ共どうやら少康を保ち居候ニ付その旨彼女へ御傳聲被下候はゞ幸甚に存じ候 猶御出發までに短册二葉相した、め東京の御旅館まで御屆け申上候ニ付御手數恐人候へ共彼女へ御渡し被 下候ゃう御願申上候短册の歌ハ先年天子樣の御前にて文化勳章を賜し時のものと御申傳へ被下度候 猶よ御主人様へも宜敷御芳聲願上候 十月八日 羽瀨記代子様 侍史 五一四 十月八日京都市左京區下鴨泉川町五番地 ( 電上一八四四 ) より東京都文京區龍岡町五龍岡旅館方羽瀨記代子宛封書 十月十五日京都市左京區下鴨泉川町五番地より東京都文 京區龍岡町五龍岡旅館内羽瀨記代宛封書 ( 書留速達 ) 谷崎潤一郎 607
拜啓 家内今日上京の豫定なりしところ急に來客あり已むを得ず明三日に日歸りにて上京辰野氏を訪問すること になりました、多分いでゆで參ると思ひますが今夜中に電話か電報にて時間御知らせ致しますから新橋驛 年 八 まで自動車お廻しおき被下度毎度勝手ながら御願申上げます 十 和歸洛は五日のハトと決定、切符も人手いたしました 昭 次に京都留守宅より電報參り金子二〇萬圓嶋中氏より送金と云って參りました、先日京都へは三〇萬圓御 前略 荷風先生の御揮毫たしかに拜受いたしました。早速お書きいたゞきまして、色よと貴下様にも御盡力いた ゞきましたこと、厚く御禮申し上げます荷風先生にも早速御禮状差し出しますが、何卒貴下様よりも御禮 草よ 言上遊ばして下さいますやう、まづは右とりあへず御禮まで 十月二日熱海市上天神町山王ホテル別莊六一號より東京 四八八 驛前丸ビル五階中央公論社方嶋中鵬一一宛封書 ( 速達 ) きみちゃん ( 同封の大藏會案内状附解説および同プログラム略 ) 代筆九月二十一日京都市左京區下鴨泉川町五番地電話上一八四四 四八七 番より東京都千代田區丸ノ内丸ビル五階中央公論社嶋中鵬ニ宛端書 潤一郎 587
拜復 十二日附詳細なる御書面京都宅に於いて拜見、御忙しいところをまことに難有う存じましたいづれ來月中 旬頃までにハ熱海へ歸りますのでその上にてよく考へ御願ひすることに致します實ハもっと高價なものと 存じてをりましたところ思ひ外の安いので驚いてをります 先ハ取りあへず御禮まで 早よ 十月十六日 谷崎潤一郎 瀧井孝作様 侍史 十一月十三日靜岡縣熱海市伊豆山鳴澤一一三五番地電話熱海二 五五四 九七〇番より東京都文京區久堅町七四後藤末雄宛端書 ( 速達 ) 急用が出來て一寸京都から一昨夜こちらへ歸って來ましたが十八日のハトで又京都へ歸ります、京都着は 十八日の午後八時過になります十九日は一日あいてゐますから十八日夜九時過か十九日朝宿からデンワし て下さい京都の旅館を知らせて下さい小生京都宅のデンワが變りましたの〇八四四です 五五三 十月十六日京都市左京區下鴨泉川町五番地 ( 電上一八四 四 ) より東京都下八王寺市子安町九二三瀧井孝作宛封書 634
拜復 先般ハ御手紙難有拜見仕候流寒にて半月ほど臥床そのあと花見客殺到いたし候て毎日落着かずこ、ろにか 、りながら御無沙汰おゆるし被下度候錢氏はまだ東京に居られ候哉一日も早く入洛新綠の嵐峽を御覽なさ れ候ゃうおす、め被下度小生よりも招待状を發すべきの處住所を失念仕候ちょっと御知らせ下され候ハ 幸甚に存候汽車もいくらか緩和されたる樣子ニ付そのうち小生も上京拜芝可仕候 五月三日 年 十 和土屋計左右様 昭 封入の二千圓ハ御恩借の四千圓の一部に候御査收被下度候殘額もそのうち御送申上候 昭和二十二年 五月三日京都市左京區南禪寺下河原町五十二番地より東京 都芝區新橋一丁目第一ホテル方土屋計左右宛封書 ( 書留 ) 丁亥 一九四七 谷崎生 7 477
昭和二十三年 下度候 七月十六日 野村順三様 侍史 七月二十六日京都市左京區南禪寺下河原町五十二番地よ 三四六 り東京都芝區新橋一丁目第一ホテル方土屋計左右宛端書 炎暑の折柄御變も無之と存じ候月末頃より又一週間程熱海に參り候間宜敷願上候その間に一度上京御訪ね 可申上候廿六日 八月九日熱海市山王ホテル内より大阪府 三四七 池田市綾羽町二五八三西田秀生宛端書 校正並に御手紙拜見、今度の本ハ御蔭様にて立派なものが出來る事と今より樂みに致居候春陽堂へハ御申 越之趣旨に依り早速校正返送いたし候猶小生熱海にゐることハ誰にも秘密に願上候今月末に歸洛拜顏可致 候 八月十三日熱海市山王ホテルより東京都芝區 三四八 新橋一丁目第一ホテル方土屋計左右宛端書 大分秋めいて參り候熱海ハ夜氣冷涼虫の音もきこえ申候毎度恐人候へ共此の間の硯が御手許へ屆きました 谷崎潤一郎 497
侍史 八月二十八日靜岡縣熱海市伊豆山鳴澤一一三五番地電話熱海二九七〇 五三七 番より埼玉縣北足立郡與野町下落合八一一笹沼様方江藤きみ子宛端書 お手紙拜見、皆さんお元気で結構に存じます當方も無事に暮して居り升九月の演舞場へは小生へは參りま せん「無明と愛染」と云ふ戯曲は、小生の嫌ひな作なので、自分で見るのがイヤなのであります歌舞伎も 吉右衞門好みの出し物が多くて見る莱になりません、助 ( 梅幸より此の人の方有望 ) と我童の出てゐる 東横ホ 1 ルの夜の部を凉しくなってから見に行かうと思ってゐます今月も東横ホ 1 ルだけ見ました 十月七日京都市左京區下鴨泉川町五番地 ( 電上一八四四 ) 五三八 より東京都文京區駒込林町一七四三橋鐵太郎宛封書 十月三日附熱海宅宛御書面當地に於いて昨日拜見いたしました 度よ御心にかけさせられ細よとの御報告と御圖面御送り下すって有難う存じます私も十一月中旬には熱海 に歸りますのでその上で一度上京、體のエ合のよき折を見て昔の釜屋堀の附近に參り「釜長」と云ふ料亭 にも參って見たいと存じてをります又大兄にも太田氏にも機會を得て是非拜顏したいと望でをります、た ゞ老年多病のため餘程體のエ合のよい時を待たねばならずそのためにいつも躊躇いたしてをります 「幼少時代」は追よ文藝春秋社より出版いたしますので出ましたら早速御手元に一書御送り申上げます末 筆ながら御健康を祈ります 十月七日 谷崎潤一郎 624
拜啓 先日ハ竹田鮎子へ金子御屆け被下御手數難有存じ候 さて今月末の分ですが毎度御手數ながら廿六七日頃までに熱海市駿河銀行支店小生名儀當座預金へ壹百貳 拾萬圓也御拂込み置き被下度小生も大體その時分までに熱海へ參り前の持主と取引を濟ませ今度の土地家 年 五屋登記の手績を完了致す豫定になってをり候 ( 東京の銀行の副証書端書は熱海新宅宛に御送り置き被下度 和候今度の宅は熱海市仲田八〇五、電話二七四三に候 ) 東京へはその手績を終へたる後に卅一日か一日頃出かけ可申、その節ハ必ず社の方へ參上可仕候細雪追よ し被下度候〕をお誓ひ被下候ゃう切望に不堪、佛に對してもそれが何よりの供養と相成るべく候、以上無 禮の言は偏に御許し被下度候〔行末細字 = テこの手紙が原因にて來月の入洛を中止なさることなど無之ゃう 願上候それでは小生として後味が悪く困り申候〕 谷崎潤一郎 三月十九日 江藤喜美子様 小生は來ル廿七八日頃熱海に參り、卅日頃一寸上京致、もし參上出來たら可致候、そして一、旦熱海へ歸 り四月五六日頃京都へ歸りぶうさん御喜代さんの御入洛を御待ち中上候御目に懸っては最早や何も此の 話したく無之候へ共此の手紙の結果が如何相成候哉御知らせ被下候ハヾ幸甚に候 三月二十日 ( 消印二十一日 ) 京都市左京區下鴨泉川町五番地 ( 電上一 四 0 四 八四四 ) より東京驛前丸ビル五階中央公論社方宮本信太郎宛封書 535