「少年世界」第八卷第一號 「少年世界」第八卷第三號 「學友會雜誌」第三十七號 「少年世界」第八卷第八號 「學友會雜誌」第三十八號 「學友會雜誌」第四十一號 「學友會雜誌」第四十一一號 「學友會雜誌」第四十三號 「學友會雜誌」第四十四號 「學友會雜誌」第四十五號 「校友會雜誌」第百六十四號 「校友會雜誌」第百六十五號 「校友會雜誌」第百六十七號 「校友會雜誌」第百六十八號 九六 一 0 五 にヨ O ノし一し」こ区
補遺 汽車の窓から 上方舞大會について 双葉會趣意書 奥村冨久子さんについて 座右において用の足せる一册本の辭書 リン一アイ こんどの機會に 「校友會雜誌」第百七十號 「校友會雜誌」第百七十一號 「校友會雜誌」第百七十一一號 「校友會雜誌」第百七十三號 「學友會雜誌」第五十一號 一五五 一五九
= 下期 , 少ロⅢ 狆の葬式 うろおばえ 死火山 初期文章 「學生倶樂部」第二號 「學生倶樂部」第三號 「學友會雜誌」第三十五號 「學友會雜誌」第三十六號 目次
昭和三十八年四月「日本近代文學館設立の趣意」 私が小山内薫氏や和辻哲郎氏等と同人雜誌「新思潮」 ( 第二次 ) を創刊したのは、明治四十三年九月であ った。「白樺」や「三田文學」などの同人雜誌が出はじめたのもその年であった。私たちの「新思潮」は 翌年の三月號までで終ったが、程なく久米正雄氏・柳川隆之介 ( 芥川龍之介 ) 氏・豐島與志雄氏。山本有 三氏等の第三次「新思潮」が刊行された。 今ではその頃の雜誌を探してもなか / ( \ 手に入らないと聞いてゐるが、それもその筈、やがて五十年昔の ことになる。發行部數がすくなかったし、五十年の間には大震災や戦爭があったりしたので、めったに古 書店あたりにも出なくなったものらしい。ずっと新しい時代になってからの「中央公論」や「改造」のや こんな状態では、今のう うな雜誌でさへ、完全に保管されてゐないので、簡單に見出すことが出來ない。 ちに是非近代文學館を作っておく必要がある。國家のためにも、文化を大切に保存する意味からも、近代 文學館設立の意義は小さくない。 ℃いと思ふ。 明治のはじめから數へると數年後には百年になる。こんどの機會にこの計畫が完成できると、 こんどの機會に 168
牧童 第一年級甲組谷崎潤一郎 牧笛聲中春日斜。青山一半人紅霞。行問歸何處。笑掵梅花溪上家。 「學友會雜誌」第三十六號 〔文苑〕 トコロガマタ大變ガヲコリ シマイマシタ 〔批評欄〕 笑谷評、笹沼氏ノ鐘鬼ノ圖ハ劔ヲ左ノ手持ティル 東京府立 「學友會雜誌」 ( 第一中學校 ) 第三十五號 〔文苑〕 マシタスレ ( 朝鮮ノ王ガクレタ三ッノ寶ノ内玉ガ嵐ノ時ノサワギデ海へ落チテ 明治三十四年十二月 ( 推定 ) 明治三十四年十月 ( 未完 )
一ニ四 ( 補遺二七 ) 御手紙拜誦いたしました、 此の前の御手紙に全部大阪辯は困るとの御注文があり今度は又題名を換へよとの御注文に接しました、第 一の御注文は偶然御希望に添ふやうな作品でしたから何等差支ありませんでしたが書き出してから斯く 度よ干渉を受けることは一寸當惑いたします、しかし勿論御希望に添へるだけは努めますが、だんノ \ 考 へて見ますのに、「お栂」はどうも題名をかへたくないのみならず、今度の雜誌には矢張り少し高級すぎ 地味すぎて不向きと思はれます、「蓼くふ蟲」程度のものでい、との御話でしたからそのつもりで居まし たけれども共後の様子ではもう少し通俗でなければ今度の雜誌には向かないやうです、何しろ長いものだ けに不向きとなると貴下の方も損ならば小生も骨折がひがありません、依って今囘は代りに短篇よみきり ( 四十枚前後 ) のものを勿論一般向きにして書きますから右不惡御了承を願ひます、すでに書き出して居 生ロ授し妻に筆記させますが りますから二十九日中には脱稿出來ると思ひます、急ぐためにところる、小 しかし詰まらないものではないつもりです、 猶今後雜誌が出た上でよく程度を見定め面白い長篇を書かして頂く事を望みます、 ( 今度の原稿が屆きま したら「お栂」は一と先づ御返送願ひます、たとひあれを書くにしてもあの書き方では不適當と思ひま す ) 以上 五月廿七日朝 昭和七年五月一一十七日 ( 封筒一一十七日朝 ) 兵庫縣武庫郡魚崎町横屋西田 五五四より東京市牛込區矢來町三新潮社方中根駒十郎宛封書 ( 御直披 ) 潤一郎 754
り、共の一節に歌ひて日く あ、シルレルは讀まずとも友よハイネのために泣け あ、西行は知らずとも君業平を慕はずや と。諸君以て如何となす。 「校友會雜誌」 (t') 第百六十四號 新任の辭 香陵自ら香陵の風あり、天地正大の氣粹然之に鍾る。一千の健兒之に呼吸して、健全なる思潮は篤實なる 研學に伴うて、汪々として春水の東海に朝するがごときものなくんばある可からず。而して共顯れて文字 となりしもの實に吾か校友會雜誌とす。號を重ぬるに百六十四、思想交換、趣味涵養の機關として、校 風の發展に多大の貢獻をなしつ、以て今日に至る。 生等不省の身を以て諸君の選に當り委員の任に就く、菲才重任に堪へ難きを想へば冷汗背に洽きを覺ゅ、 たゞ夙夜黽勉以て諸君の附托を察うせさらん事を期せむのみ。今や吾が校の思潮は新に共の中心の人格に 見出して、漫溂たる躍動、漸く好望を呈し來る。諸君願くは堅實なる自信と眞摯なる表白とを以て共の鏘 々の響を誌上に傳へよ。耿々一片の至誠あり、汲々研鑚の結果ならば、心内箇中の大文章を披瀝するに、 明治四十年二月 110
十月九日 ( 表書九日夜、消印十日 ) ( 消印武藏靑梅 ) より神奈川縣橘樹郡高津村一一子大貫雪之助宛端書 再び武北の秋を慕うて高尾より青梅にいたる。日向和田玉川上流に沿へる萬年屋の二階にて此の書妝認め 候。 秋気爽にして淸影骨に徹す。快極りなし。明日は入間川より去年の道程を經て大宮より歸京のはづ。 ばろ / \ と燒栗かぢる片隅の嫗あハれなり夜の川蒸気。 十二月五日 ( 消印東京 ) より訷奈川縣 八 橘樹郡高津村一一子大貫雪之助宛端書 長よ御無沙汰御免被下度候寒氣烈敷處御兩親様始皆 ~ 樣御無事に候哉伺上候さて去年春ごろ發行の第一中 學よ友會雜誌印ち小生の增鏡の論文掲載しあるもの貴兄御手許にこれあり候哉右雜誌少よ入用につき御處 持ならバ御送被下度明日午前圖書館にて受取りても宜敷候右御面到ながら賴上候 明治四十二年 己酉 一九〇九 178
土屋計左右様 御返事有りかたく拜誦しました アラビアンナイトお立てかへ御購人下され候由御手數をかけ何とも恐縮あっく御禮申します。 さて右の書籍は本月二十七八日頃までに雜誌「改造」社の社員上村淸敏なる人が北京を經て貴地へ參り小 生の名刺持參貴下を訪問することと存じますから、右上村氏に御托しを願ひます。あの本は實は淫本です が、中に挿繪はないでせうし、アラビアンナイと云へば子供も讀む本ですから視關の方も大丈夫と存じま すが、猶一應挿繪の有無を御調べ被下度、宮崎氏にも御相談願ひます。無事に。ハッスしさうなものなら却 年て變に隱さない方がい 、と存じます。そこは宜しく御考慮を願ひます。 正印形はまだ屆きませんが、既に發送濟みでせうか、これも飯嶋氏へ御督促を願ひます。 大 小生の原稿は「上海交游記」と題し、雜誌「女性」五月號六月號へ二囘に分ち連載されます。五月號の原 見るつもりだ。 以上要用まで 四月五日 精二殿 四月十五日日本兵庫縣武庫郡本山村北畑より支那上海 九江路三井銀行支店方土屋計左右宛封書 ( 御直披 ) 潤一郎 237
文苑欄投書家に告ぐ 我が文苑欄に寄稿せんとする美文、韻文作家に呉れ呉れも注意したきは、既に前號に於いて同僚岸氏の告 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 白せし如く、「校友會誌は飽く迄も校友會誌」にして純文藝を主とするものにあらざる事是也。印ち共文 章は文學上の標準に照らさる、と同時に、風教上の繩墨に依って測量さる、ものたることを忘るべからず。 如何に巧妙の筆致、奇警の着眼ありとも、共の内容が校風と背馳し、或は之を蠧毒する懼あるものは斷じ て掲載する能はざる也。吾人デカタンの何たるを知らず、自然主義の意義を詳にせざるも作物を鑑賞する に爾く肓目ならざるべきを信ず。而も校友會の文藝部委員として撰擇する以上、眞に已むを得ざるものあ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。諸君にして若し自由の天地に雄飛せんと欲せば何ぞ必しも之を藐たる一校友會誌に求むるの愚を爲さ んや。近時往々不健全なる思想を包含する作物に接することなきにあらず、聊一言して以て諸君に圖る所 以也。 ( 以上たにさき ) 「校友會雜誌」第百七十一號 〔批評〕ーー前號批評 0 0 0 0 0 0 0 文苑ーーー滿韓歴游詩並叙。ーー谷山初七郎先生 素より兎や角と吾人が批評すべき限にあらねど、久し振にて豪壯なる漢詩に接したるは甚愉快とする所。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 明治四十年十二月 136