イ、タ霧 を取り出して、ゆかしいほどに少しばかりお弾きになります。源中将は、盤渉調でた いそう美しく吹くのでした。頭中将は姫君に心が惹かれて、謡い出しにくそうにしてい ます。「早く」と御催促がありますので、弁少将が拍子を打ち出して、忍びやかに謡う 声が、鈴虫に紛うて聞えます。二返りばかりお謡わせになってから、お琴を中将にお廻 つまおと しになります。いかさまあの父大臣のおん爪音におさおさ劣らず、花やかで面白いので さかすき す。「御簾のうちにはものの音を聞き分ける人がおいでであろう。今宵は盃なども過さ ないようにすることだ。私のような年寄りは、酔い泣きのついでに、お腹の中にあるこ とを口走るかも知れないから」と仰せになりますので、姫君もあわれとお聞きになりま きんだち す。切っても切れないおん血すじが繋がっておいでになるからでしようか、この公達の 方々に人知れず気をお配りになって、眼にも耳にもお留めになっていらっしやるのです が、御当人たちは夢にもそんなことは思い寄りません。中でもこの頭中将は、日頃心の 限りを尽くして慕っていますので、こういう折にはなかなか包みきれないような気がす つくろ るのですが、じっと、体よく取り繕「て、琴などもめったに打ち解けてあの手この手を 弾いたりはしません。 ふたかえ ひょうし げんのちゅうじよう ばんしきじよう 344
分 野 を引き上げて奥へおはいりになりますと、丈の低い儿帳を引き寄せてある蔭から、お袖 のロがちらとこばれて見えますので、あ、、あそこにこそあのおん方がおいでになるの だと思いますと、胸がどきどき鳴るようで、たまらない心地がして、急に中将はあらぬ 方へ眼を外らします。大臣は鏡などを御覧になって、そうっと、「中将の朝の姿は綺麗 としは 人の親の心は闇にですね。年端も行かぬわりには立派なように見えるのも、『心の闇』というものでしよう あらねども子を思ふ 道に惑ひぬるかなか」とおっしやるのでしたが、御自分のお顔は、いつまでも若く美しいものと思ってい 〔後撰集〕 らっしやるのだと見えます。そしてたいそう改まった様子をなすって、「宮にお目通り をするのは気が張ります。これといって目に立つほどの風情などお見えにならないお方 ですが、奥深いところがおありになるので、こちらも心を使わなければなりません。お っとりとした、女らしいお方なのだけれども、どことなくきりつとしていらっしやるの ですね」と仰せになってお出ましになりますと、中将がまだ物思いに沈んでいて、すぐ には気づかずにいらっしやるらしいけはいなのを、感じの鋭いお方のおん眼には何と御 覧になったのでしようか、また引き返していらしって、女君に、「昨日の風の騒ぎに紛 れて、中将はあなたを見たのではありますまいか。あの戸が開いていましたからね」と おっしゃいますので、顔を赧らめて、「どうしてそのようなことがございましよう。渡 殿の方には人の音もいたしませなんだものを」と申されます。「でも、どうもおかしいー あか たけ 35 7
あはれ、そこよして、殿上人などが数多参「て、笛の音などを美しく吹いているのが聞えます。内の大殿 や、雪は降りつつ とうのちゅうじよう けざん 〔催馬楽「梅枝」〕 の頭中将、弁少将なども、見参ばかりで退出しようとしますのを、お引き留めになり ル、「賢木」四〇〇頁 参照 まして、おん琴どもをお取り寄せになります。宮のお前に琵琶、大臣に箏のおんことを ラ、かねて自分の心を 執えている梅の花の参らせ、頭中将は、和琴を仰せつか 0 て、花やかに奏でますのが、たいそう優美にひび あたりで、この鶯の きます。宰相中将は横笛をお吹きになります。季節に叶「た双調の曲を、雲井に通るば 声 ( 弁少将の「梅が 枝」を謡う声 ) を聞ゝ カりに吹き立てるのでした。弁少将が拍子を取って、「梅が枝」を謡い出した面白さ。 いては、一層心が恍 いんふたぎ たかさご 惚としてあこがれま 幼少の折、韻塞の席で「高砂」を謡ったのはこの君なのです。宮も大臣もところどころ す。「あくがる」は 心が上の空になる意御一緒にお謡いにな「たりしまして、ことごとしいおん催しではないながら、風雅な夜 いつまでか野辺に 心のあくがれん花し一の御遊なのです。宮は大臣にお盃をおさしなされて、 散らずば千代も経ぬ 「鶯の声にやいとどあくがれん べし〔古今集〕 力、今年の春は、色も こころしめつる花のあたりに 香もお袖にしみつい てしまうほど、花咲 『千代も経ぬべし』」と仰せになりますので、 く私の宿を始終訪れ て下さいまし 色も香もうつるばかりにこの春は 鶯が塒を造ってい る梅の枝も撓むくら はな咲く宿を離れずもあらなん たえ 枝 いに、あなたの妙な る笛をこの夜半にもと、頭中将にお廻しになりますと、受けて宰相中将にさします。 梅っともっと吹き通し て下さい うぐひすの塒の枝もなびくまで たわ あまた ねぐら カオ そうじよう そう おおいとの よる 471
ういう人たちの志の深さ浅さを見たいものだなどと、つれづれのあまりに内心願ってい たのでしたが、ようよう望みが叶う心地がしたことです」などと、ひそひそと仰せられ せんざい ます。お前には騒々しい前栽などをお植えにならず、唐なでしこや大和撫子の、美しい そろ ませがき 色合いをしているのを揃えて、笆垣を風流に結うてあるのですが、それが咲き乱れてい 玉鬘に会えない気るタばえの有様は、たとえようもなく見えます。皆立ち寄って心のままに折り取りもで 持をなでしこに託し たたす ていう きないのを残念に思いながら佇んでいます。「嗜みのある人たちですね。心づかいなど 、右近衛中将、柏木もとりどりに見事なものです。右の中将はまして少し落ち着いたところがあって、奥床 のこと しさも勝っています。どうですか、あのお方からたよりがありますか。あまりはしたな くお扱いなさいますな」などと仰せられます。こういう立派な公達の中でも、中将の君 うちのおとど は、すぐれて美しくみやびやかでいらっしゃいます。「内大臣がこの中将をお嫌いにな るとは本意ないことです。御一族が純な血統をお保ちなされて、栄えかがやいていらっ しやるのに、王族の血が交り込んでは見苦しいというのだろうか」とおっしゃいますと、 ホ、我家はとばり帳を「『大君来ませ』と中した人もおりましたことでございますから」と申されます。「いや、 も垂れたるを、大君 ちぎ 来ませ聟にせん、御その御肴だの何たのともてなされることを望むのではありません。ただ幼い同士契り合 夏肴に何よけん云々 〔催馬楽「我家」〕「大った胸の思いが解けないなりに、長の年月仲を隔てておおきになるお仕向けが恨めしい 常君」は王族の意 のです。まだ身分が低いので、世間の手前重みが足りないと思し召すなら、知らぬ顔を - 一、これはタ霧 わいへん みさかな まさ カオ から やまとなでしこ うら 319
幸 行 ますが、この中将がたいそう優しく、不思議なくらいにまで親切にして、心を遣ってく れますのを見ますにつけて、いろいろと思いが残りまして、ついこんな風に長びいてい ふる るのでございます」と、ただ泣きに泣いて、お声がわなわな打ち顫えていますのもおか しいのですが、それもごもっとものことなので、大層哀れなのでした。 昔や今のさまざまのおん物語を取り集めてお話しになりまして、そのついでに、「内 大臣は、毎日しげしげとお越しでございましよ、つが、こ、ついう折にお目にかかることが できましたら、どんなに嬉しゅうございましよう。ぜひお聞かせ申したいことがござい ますのに、何かの機会がありませんと、対面も叶いませんので、気になっているのでご ざいますが」と仰せられます。「公の用事が忙しいのか、親身の情愛が深くないのか、 それほど見舞いにも来てくれません。その話と仰せられますのはいかようのことでござ いましよう。中将が恨んでおられたことなどもございましたので、初めのいきさつは知 りませんけれども、 いまさら仲を引き裂くようにしますにつけて、『いったん浮名の立 ったものが取り返せるものでもないし、かえって馬鹿々々しいことのように、 世間の人 も言っていますのに』などと申したこともございましたが、昔からこうと言い出しまし たら後へ引かない性分のお人なので、不本意に存じているのです」と、この中将の縁談 のおんことと思「てお「しゃいますので、大臣はお笑いになりまして、「今さら仕方の しんみ つか 377
行幸 せられますので、女御は聞きにくくお思いになって、ものもおっしゃいません。中将の 君が、「大事になさるのには、きっとそれだけの仔細がおありになるのでしよう。いっ たい誰からお聞きになって、そういうことを出し抜けにおっしやるのですか。おしゃべ りな女房たちが聞き耳を立てておりますよ」とおっしゃいますと、「え、うるさい。残 ないしのかみ らず聞いてしまったのです。今にその方は尚侍になるのです。私がこちらへ御奉公に上 ったのも、そういうようにでもしていただけるかと思えばこそ、普通の女房でさえよう しないような勤めまでして、一生懸命働いているのです。女御殿のなされ方があんまり あき わたし です」と恨みますので、皆が笑って、「尚侍に闕ができたら、私こそさせていただきた どうよく いと思っているのに」とか「あなたが所望なさるとは胴慾な」などとおっしゃいますの で、いよいよ腹を立てて、「立派な御兄弟たちの中に、私のような下らぬ入間が交らな ければようございました。中将の君がいけないのです。おせつ力ー ゝ、こも人を引き取って おおきになって、馬鹿にしておからかいになる。これではとてもなまじっかな者はこの にら 御殿にはいられません。もう懲り懲りです」と、 いざりながら後へ退って、じっと睨ん でいらっしゃいます。憎気はありませんけれども、意地悪そうに眼尻を吊り上げている しっさく のです。中将は、そういう風に言われてみますと、全く自分の失錯であったと思います ので、黙っていらっしやるよりほかはありません。少将が、「あなたがそんなに熱、い こ こ さが 395
先が本気になるような風には仕向けません。この人ならば末長くもと、心がとまるよう さげす イ、「乙女」一七九頁な場合でも、強いて冗談にしてしま「て、やはりあの緑の袖と蔑まれたのを見直しても 参照 らう折もがなと思う一念ばかりカ 何より大切なこととして胸に宿っているのでした。 無理に附き纒って取り乱しなどすれば、その物狂おしさに免じて内大臣もお許しになり もしましようけれども、くやしい田 5 いをさせられた折ごとに、何とかして先方に非を悟 らして上げないではと、心に誓「たことが忘れられず、御本人にだけはおろそかならぬ まわ 志のありたけを見せて、周りの方には苛々したところを見せませんので、女君の兄上た つらにく ちなどは、何となく面憎く感じることがたびたびあるのでした。 うちゅうじよう 、右近衛中将の略右中将は、対の姫君のおん有様にたいそう深く思いを寄せていますのに、取次ぎ役 称。ここは柏木のこ の見子が一向あてになりませんので、こなたの中将に泣きついて来る始末でしたが、 「人の身の上のことになると、感心しませんね」と、そっけない返事をなさるのでした。 ちちおとど うちのおとと はらばら 父大臣たちのお若い頃のおん間柄によく似ているのでした。内大臣は、若君たちが腹々 に大勢いますので、その母方の身分、当人の人柄に応じて、何事も思いのままの御威勢 のことですから、それぞれ立派にお仕立てになりましたけれども、女の子は多くもおあ 气冷泉帝の弘徽殿女 りになりませんのに、女御もせつかくの御本意がお遂げになれず、姫君もああいう手違 ホ、雲井の雁。「ああ くちお いう手違い」は「乙いで人内もなさらずにいら「しゃいますので、大層口惜しくお思いなのです。それにつ ( 、玉鬘 みるこ ヾゝ、 うちのおとど 310
イ、タ霧 ( 、水をかけた飯 鰍のこと かじか たいそう暑い日に、東の釣殿へお出ましなされて、お凉みになります。中将の君も伺 あまたさぶろ かつらがわ あゆ 候していらっしゃいます。親しい殿上人が数多侍うて、桂川から献上した鮎、賀茂川の うちのおとどきんだち 石臥というようなものを、御前で調理して差し上げます。例の内大臣の公達が、中将の どころ おん居所を捜し求めて訪ねていらっしゃいました。「所在がなくて、眠くてたまりませ さかずぎく ひみす なんだのに、ようこそお越しなされた」と、お盃を酌み交され、氷水をお取り寄せにな すいはん って、水飯などを田 5 い思いに賑やかに興じながら食べます。風はあるのですけれども、 せみ 日がなかなか暮れないで、かっきりと晴れた空がようよう西日になる時分に、蝉の声な どもひどく暑苦しく聞えて来ますので、「全くきようの暑さには、水の上の座敷が役に 立たない。無礼は許してもらいますよ」と、横におなりになるのでした。「どうもこん な折には管絃の遊びなども興がないし、何として時を過してよいやらもてあっかってし いしぶし とこ 常夏 なっ つりどの かわ 315
ロ、柏木 内大臣の娘、弘徽 殿女御 いっそ女御のおんもとにでも奉公をさせて、それが相当だということにしてしまおうか 世間ではたいへん醜いようにけなしつけている顔だちなども、何もそんなに言われるほ どでもないのだからなどとお思いなされて、女御の君に、「あの人をお側へ差し上げま しよう。ふつつかなところなどが。 こざいましたら、年を取った女房などに仰せつけられ て、遠慮なくお仕込みになっていただきます。ただ若い人たちの笑いぐさにはなすって 下さいますな。あれはひどく軽率な女のようでございますから」と、笑いながら申され ます。「まあ、何もそのようにおっしやるほどではございますまい。中将などが世に類 ない人のように思い込んでおられましたのが、それほどでもなかったというだけなので まわ ございましよう。そんな具合にあまり周りでお騒ぎになるのがきまりが悪くて、一つに きおく ~ 気↑れがしているのかもしれません」と、たいそう気品のある様子で仰せられます。 すがすが このおん方のおん有様は、一つ一つが美しいというのではなしに、高貴で清々しいとこ ろになっかしい趣が添わっていて、やさしい梅の花が綻びかけた朝ぼらけの感じがしま して、まだおっしやり足りなそうにほほえんでいらっしゃいますのがいかにも人とは 違っているとお思いになります。「中将は、そうは言っても若年でございますから、調 べ方が足りませなんだので」などと仰せられるのでしたが、さりとは姫君もお気の毒な 言われようです。 ほころ 330
幸 行 まして中将も今日はお供の人数の方へ加わっ にも、気の利いた者はいないに違いない。 きんだち ておいでであろう」などとお驚きなされて、御子息の公達や親しい殿上入などのしかる べき方々をお上げになります。「お菓子や御酒などを差し上げて、粗相のないようにお もてなし申せ。自分も参上すべきだけれども、かえって仰々しいようになるであろうか ら」などとおっしやっていらっしゃいますと、大宮からおん文があります。「六条の大 臣がお見舞いにいらしって下さいましたが、あまり小人数で体裁も悪く、失礼でもあり ますから、わざわざお呼び申したような風にはせずに、お越しになって下さいませんか。 お会いになってお話しなさりたいこともあるらしゅうございます」と仰せになるのでし た。一体何事なのであろうか、こちらの姫君のことについて、中将が泣きついたのでも あろうか、と、お思いになるのでしたが、宮もそうお長くはなさそうであるから、たっ ひとこと てというお言葉があるのなら、それに大臣も穏かに一言お口に出してお頼みになるのな かんじん ら、否の応のというわけにも行くまい、肝腎の婿になる人が、案外熱がないようなのが 気に入らないけれども、適当な機会があったら、人のお言葉を聴き入れたという体にし て、許してしまおうかとお思いになります。宮と大臣とが示し合わしておっしやるのだ こし J わ いよいよ断りにくいようにもお感じになりますが、また一方で と御推量になりますと、 は、何の断れないことがあるものかと、依地にもなられますのは、随分けしからぬ意 みき 381