昔 - みる会図書館


検索対象: 谷崎潤一郎全集 第26巻
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1. 谷崎潤一郎全集 第26巻

イ、自分は今こそかよ 身こそかく注連のほかなれそのかみの うに内裏の外にいる が、あの当時の心持 こころのうちを忘れしもせず は決して忘れていな おそ い。「注連のほか」とばかりあります。御返事を申されませんのも長れ多いので、苦しくお思いになりなが は「宮城の外」とい う意を、神に縁のあら、昔のおん簪の端を少し折って、 る語を持って来て現 しめの内は昔にあらぬここちして わしたもの。「その かみ」は「神」にか 神代のことも今ぞこひしき けてある はなだいろから 「賢木」三六二頁 とお書きなされて、縹色の唐の紙に包んで参らせられます。おん使いへの禄などは、た 頭注ロ参照 、禁中の有様は、朱いそう趣のあるものを下し置かれます。院の帝は御覧遊ばして、限りもなくあわれに思 雀院御在位の昔とは す「かり変「てしまし召して、昔の御代を取り返したいお気持におなりなさるのでした。大臣のなさりよう らたような心地がし まして、神に仕えてを、ひどいとお田 5 いにもなりましたでしよう。これも過去のおん報いかも知れません。 おおきさい おりました当時のこ とも、今とな「ては院のおん絵は、大后の宮から伝わって、今の弘徽殿の方にも多く参っていたことでし ないしのかん 赤しゅ、つございま よう。尚侍の君も、こういう御趣味は人にすぐれていらっしゃいますので、いろいろと す。「神代」はその 上の代、すなわち昔 お凝りなされてお集めになります。さてその日取りが定まりますと、にわかのようです をもさす 、昔源氏を須磨 ~ 左けれども、風流めかした、ちょ「としたしつらいをしまして、左と右のおん絵どもを御 へ 遷させたりした報い 三いばんどころ ま桐壷帝の弘徽殿女披露になります。台盤所に仮のお座所を設け、北と南にそれぞれ分れて伺候します。殿 御、朱雀院の生母。 こうろうでんすのこ 今の弘徽殿女御の伯上人は後涼殿の簀子に、めいめい贔負々々の方へ心を寄せつつ伺候します。左は紫檀の イ かんし し ましどころ ひいきひいき むく

2. 谷崎潤一郎全集 第26巻

イ、「春鶯囀の曲は昔昔の花の宴の御遊を偲び給うて、「またとああいう催しが見られるであろうか」と仰せ の通りでございます が、人々が集「て楽になりますので、大臣はその頃のことをしみじみとお思いつづけになります。舞が終る しく遊び合った花の さかずき 蔭は、あの当時 ( 「花時分に、大臣が院にお盃をお献じになります。 宴」一一八六頁参照 ) とは様子が変「てし鶯のさへづる春はむかしにて まいました」で、桐 むつれし花のかげぞかはれる 壷帝崩御の意を含め てある。「鴬のさへ 院のうえ、 づる春」は「春鶯囀」 に因んでいう 九重を霞へだつるすみかにも 戸、自分は位を退いて 禁中とは霞を遠く隔 春とっげ来るうぐひすの声 てた院に住んでいる そちのみや きんじよう けれども、自分の御帥宮と申し上げましたのが、今は兵部卿でいら「しゃいまして、今上にお盃をお献じ 所でも春鴬囀の曲が 奏でられて、春の来になります。 たことを知らせてい る。「霞」は春のも いにしへを吹き伝へたる笛竹に ので「へだっ」の縁 さへづる鳥の音さへかはらぬ 「昔の聖代の音を 上手にお執りなしなされたお嗜みのめでたさ。お上もお盃をお取り遊ばして、 そのまま吹き伝えて いるさまざまな笛の うぐひすの昔を恋ひて囀るは 曲の中で、春鶯囀の いにしえ 曲も古に変らぬ調べ 木づたふ花の色やあせたる をひびかしておりま す」で、「今上の御と仰せになりますおん有様も、この上なく奥ゆかしくていらっしゃいます。これは表向 1 三ロ し さへづ 192

3. 谷崎潤一郎全集 第26巻

代も昔に劣らぬめできならぬ内々のおんことですから、多くの方々にはお流れが廻らなかったのでしようか たい御代でございま す」の意が含めてあそれとも書き漏らしたのでしようか る い、くしょ こと = 、源氏の歌も朱雀院楽所が遠くて、は「きり聞えませんので、お前におん琴どもを召します。兵部卿宮が うちのおとどわごんそう きん おおきおとど の歌も嫌味があるのびわ 琵琶、内大臣が和琴、箏のおんことは院のお前にお上げなされて、琴は例の太政大臣に で、兵部卿宮がそれ上 じようす を今上に対してとり お命じになります。そういう 上手の方々が秘術を尽くして奏で給う音色のめでたさは、 なしたのである しよう・が あまた ま「枝から枝 ~ 飛んたとえようもありません。唱歌の殿上人が数多控えていまして、「あなたふと」を謡「 で行く鶯が、昔の日 おもむき を恋い慕うて啼くのた次には「さくら人」を謡います。月がおばろにさし出でて趣のある時分に、中島のあ 、木々の花が今は かがり・び あ 色褪せて、昔のよう ここかしこに篝火をともして、御遊も終りました。夜が更けましたけれども、 に美しくないからで おおぎさい あろうか」で、入こういうついでに、大后の宮のおわします所を素通りなさいますのも心ないようなので、 人が昔ながらの春鶯 囀の曲ばかりを恋いお帰りがけにお立ち寄りになります。大臣も御一緒にお伺いなさいます。后はお喜びに 慕うて話すのは、自 分の治世が昔のような「てお待ち遊ばされ、御対面があります。ひどくお歳をお召しなされた御様子を御覧 に花やかでないから になりますにつけても、故宮のおんことが偲ばれ給うて、このように長生きをなさるお であろうか」という くちお 謙遜の言葉 ん方もおありになるものをと、口惜しく思し召されます。「こんなに歳を取りまして、 〈、盃を乾すごとに歌 を詠むわけである 今は何もかも忘れておりましたのに、もったいなくもお見舞い下されましたので、今さ 女 あなたふと、今日 の尊さ、や、古 ~ もらのように昔の御代のことが思い出されます」と、お泣きになります。「親しいおん方 乙はれ、古へもかくや ありけん、や、今日方に先立たれてしまいましてからは、春のけじめも分らないでいましたが、今日はほん うちうち チ . な ふ 193

4. 谷崎潤一郎全集 第26巻

面倒なのでそれなり黙っておしまいになりましたが、内心では、そういう風に人が推量 なさるにつけても、どうしたものかと思い乱れ給い、一方では御自分ながら、わが心の 若々しいことやけしからぬことが、お分りになるのでした。 気におかかりになりますので、たびたびお越しになりまして、見てお上げになります。 わかかえでかしわぎ 雨が降ったあとの、たいそうしっとりとしたタ方に、お前の若楓や柏木などの青々と繁 さわや わしてまたぎよし イ、四月天気和且清。り合っています空のけしきが、何となく爽かなのを見やり給うて、「和且清」とお誦じ 緑槐陰合沙堤平。 〔白氏文集〕 になりまして、まずこの姫君のおん有様の美しさがおん眼の前に浮かびますので、例の 忍びやかにお渡りになりました。と、手習いなどをして打ちくつろいでおいでになりま したのが、起き上って羞かしそうにしていらっしゃいますお顔の色合いのつやつやしさ。 体のこなしのなよやかなのに、ふとあの昔の面影が偲ばれ給うて、堪えがたさに、「初 「たち花のかをり さっき めてお目にかかりました時分は、まさかこうまで似ていらっしやるとは田 5 いませなんだ し袖」は「五月待っ 花たちばなの香をか が、不思議にただその人かと間違えそうになる折々があるのです。ほんとうにあわれな げば昔の人の袖の香 ぞする」〔古今集〕ことですね。中将などはさつばり母親の子らしいところが見えませんので、そうは似な の意で、「昔の人」 のこと。あなたを昔 いものと思っていましたが、こういう人もいらしったのですね」と仰せになって、涙ぐ 蝶の人 ( 母タ顔 ) によ ふた くだもの たちばな もてあそ そえて眺めると、全んでいらっしゃいます。箱の蓋に盛ってあるおん果物の中に、橘のあるのを弄び給うて、 胡くそっくりで、別人 とは思えません 「たち花のかをりし袖によそふれば すん 283

5. 谷崎潤一郎全集 第26巻

も、それらを一途に根なしごとだと言いきってしまうのも、事実と違うことになります。 佛の端正至極な心で説いておおきになった御教えにも、方便ということがありまして、 いろいろな説き方をしていらっしやるので、愚かな者はここかしこ違ったところがある イ、大乗方等経典の略のに、疑いを持つかも知れません。方等経の中にはそういう点が多いのですが、つまる 称、華厳法華等大乗 ぼんのう 経の総称 ところ趣意は一つで、菩提と煩悩との隔たりは、ちょうど入間のよしあしと、同じほど の相違ということになります。すべて何事も、よく言えば無駄なものはなくなってしま うのですね」と、たいそう物語の効能をお述べ立てになるのでした。「ところでそうい う昔物語の中に、私のような馬鹿正直な痴者のことを書いたものがあるでしようか。ひ どく餘所々々しくしていらっしやる話の中の姫君でも、そこなお方のようにそっけなく、 そらとぼ たくいまれ 空惚けておいでなのはありますまいに。ぜひこのことを類稀なる物語にして世に伝えた えり いものですね」と、寄っていらっしやって仰せになりますと、お顔を襟に引き人れて、 「そうでなくても、かような珍しいことが世間話にならないでおりましようか」と仰せ になりますので、「珍しいとはお思いになるのでしようか。全くまたとないおあしらい よ のような気がしますが」と、凭り添っていらっしゃいますのが、たいそう打ち解けた御 様子なのです。 「思ひあまり昔のあとをたづぬれど ロ、思案にあまって昔 の本を捜して見ます イ ほうどうきよう しれもの みおし 306

6. 谷崎潤一郎全集 第26巻

だけましたのは、長生きをしました甲斐があるように存ぜられます」と言って、泣きな あらいそ がら、「荒磯のかげにお育ちなされて、おいたわしゅう存じ上げました二葉の松も、今 は頼もしいおん行く末とお祝い申し上げておりますが、何分根ざしが賤しいためにどう 昔住み馴れていた いうことになりましようかと、かたがたそれが気になるのでございます」などと申し上 人 ( 自分のこと ) は 昔のことを忘れてしげます様子が品がありますので、昔話に、この家に親王が住まっていらしった折の有様 まって、かえってた や どたどしく感じていなどを、物語らせていらっしゃいますと、手入れを終った遣り水が訴えるような音を立 ますが、庭の清水が 宿の主人のような顔てます。 たど をして相変らずの音 すみ馴れし人はかへりて辿れども を立てています。 「かへりて」は「帰 清水ぞやどのあるじ顔なる りて」「却りて」両 方に通う。「辿る」 わざとらしくなく卑下しながら詠みますのが、みやびやかで、よいところがあるとお は「たどたどしい気 がする」「思い迷う」感じになります。 などの意 昔に変らず流れて さら井は早くのことも忘れじを いる清水よ、お前は あるじおも ふるい頃のことも忘 もとの主や面がはりせる れないでいるであろ うが、主顔をしてい感慨を催してお立ちになりますおん姿、お顔の美しさ、ただ世に類ないとばかりお拝 るのはもとの主人が 尼にな「て、面影がみ申し上げます。 変っているせいであ ろうか。「面がはり」御寺の方へおわたりになりまして、月ごとの十四日、十五日、晦日に行わせられる普 みてら っ′」もり 一 4

7. 谷崎潤一郎全集 第26巻

は感慨を催し給うことどもが多いのですけれども、一通りの御伝言しかできませんので、 せんすべがありません。女も人知れず昔のことを忘れずにいますので、往時を思い起し てあわれを覚えるのです。 往く時も帰る時も 往くと来とせきとめがたき涙をや 堰き止めがたく流れ る私の涙を見て、こ たえぬ清水と人は見るらん れがあの有名な、絶 えず流れ出ている関 心の中で詠んだだけなので、君は知り給うはずもないと思いますと、何のかいもあり の清水であると、世 間の人は思いあやまません。 ることであろう。 「清水」は昔逢坂の石山からお立ちになります折は、右衛門佐がお迎えに来ました。このほどお供もせず 関のほとりにあった に行き過ぎてしまったお詫びなどを申し上げます。昔童であった頃には、たいそう親し 清水で、世に「関の こうむ 清水」という く可愛がっておやりなされましたので、叙爵をさせていただくまで君のお蔭を蒙ってお りましたのに、あの思いがけない出来事がありました頃、世の取り沙汰を憚って常陸へ 下って行きましたので、それから後は少しお心に隔てを設けていらっしゃいましたが、 け そんなことは色にもお出しになりません。以前のようではないまでも、やはり親しい家 もいましたのも、今は河内守にな 人のうちには入れていらっしやるのでした。紀伊守と、 うこんのしようげんげかん りました。その弟の、右近将監を解官せられて須磨へお供をして行きましたのを、格 別にお取り立てなされましたので、それで始めて人々は思い当りまして、なぜちょっと せ にん わ じよしやく わらわ

8. 谷崎潤一郎全集 第26巻

らいに蓬が繁っているようだが」と仰せになりますと、「かくかくの次第で、仰せの通 りでございます。ようよう人のいるところを捜し出して参りました。侍従の伯母の少将 と申しました年寄りが、聞き覚えのある声をいたしておりました」と、様子を申し上げ ます。ても気の毒な、こういう草深い中に、どんな気持で過しておいでになるであろう、 それに今日まで訪ねて上げなかったとはと、御自分の薄情さをお悟りになります。「ど うしようかね。こういう風な忍び歩きもできないであろうし、こんな機会でなかったら、 立ち寄るわけにも行かないであろう。昔とお変りがないと聞くと、なるほどさもありそ うなお人柄なのだが」と、そうは仰せになりながら、ちょ「とはおはいりになれないで、 なおためらっておいでになります。まず面白いおん消息でも差し上げてみたくお思いに イ、「いかでかはたづ ね来つらむ蓬生の人 なるのですけれども、あのお口下手の癖までが今も昔の通りであったら、お使いの者が も通はぬわが宿の 道」〔高光集〕を踏待ちくたびれるのも可哀そうなので、それも思いとどまられます。惟光も、「とてもお まえた歌。道も分ら ないほど深い蓬の生踏み分けになれないくらい蓬の露が深うございます。少し払わせられましてから、おは い茂った宿ではある が、昔に変らぬ女主いりになりましたら」と申し上げますので、 人の真心を尋ねて、 自分こそ訪れて上げ 尋ねても我こそ訪はめみちもなく 生 よう。「もと」は「蓬 の下」と、「旧時の ふかき蓬のもとのこころを 蓬心」と両方にきかし と独りごとを仰せになって、やはり御車をお下りになりますので、お先の露を馬の鞭で てある ひと みくるま むち

9. 谷崎潤一郎全集 第26巻

イ、「須磨」四三三、 四三四頁参照 に田 5 いますのは、女君の贔負眼というものでしようか。 げかん あの解官せられた蔵人も、再び任に復しました。靱負尉になりまして、今年叙爵を賜 わりました。昔と違った、晴れ晴れとした心持で、御佩刀を取りにお側近くへ参ります。 ふと御簾の内に知った人かげを見つけまして、「来し方のことを忘れたわけではござい ませんが、失礼と存じて差し控えておりました。あの浦風が思い出されます暁の寝ざめ てづる にも、おたよりを申し上げる手蔓さえござりませなんだので」と、気を持たせながら言 しまがく 六八頁頭注ハ、ニ いますと、「雲の八重たっこの山里の寂しさは、あの島隠れにも劣りませんので、『松も 参照 ( 、誰をかも知る人に昔の』と思っていたことでございましたが、忘れぬ人がいらしって下さいましたとは、 せん高砂の松も昔の こっちもまんざらではなか 友ならなくに〔古今ほんに頼もしゅう」などと言います。えゝ、とんでもない、 集〕 ったのだが、と、少し興ざめて、「いずれまた出直しまして」と、取り澄ましてお供の 列に加わって行きます。君は御車へ、たいそうゆったりと、重々しく歩いていらっしゃ るのでしたが、前駆の者がやかましく先を払って行く御車の尻に、頭中将と兵衛督とを お乗せになります。「こんな軽々しい隠れ家を見つけられたとは残念な」とひどく辛が っていらっしゃいます。「昨夜の月夜にお供に参れませなんだのを、口惜しく存じまし けさ て、今朝は霧のたちこめる中をお伺いしたのでございます。山の錦はまだ早うございま こたカガり すが、野辺の秋草がちょうど見頃ではございませんか。某の朝臣は小鷹狩に夢中になっ くらんど ひいきめ ゅげいのじよう みはかし なにがし ひょうえのかみ

10. 谷崎潤一郎全集 第26巻

す。昔の人たちがいくらか残「ていてくれましたので、あの時分のことを語り合いまし て、たまらない思いをいたしました」などと申し上げます。「もうよい、何も御存じな いお人がおいでだから」とお隠しになりますので、「まあ、面倒な。私は眠うございま すから、聞く気などありはいたしませんのに」と、上はお袖でお耳をお塞ぎになります。 「器量などは、あの昔のタ顔に劣らないかね」などと仰せになりますと、「とても母君の ようにはと存じていたのでございましたが、ずっとお美しくおなりなされました」と申 し上げますので、「それは面白い。誰ぐらいだと思うか。ここにおいでになるお人とは」 と仰せになりますと、「まさかそれほどまでのことは」と申し上げますので、「そのロぶ りでは内心得意なのであろうな。私に似てさえいてくれれば安心なのだが」と、わざと 父親めいたことを仰せられます。 そんな話がありましてからは、右近をひとり離れた所へお呼びになりまして、「では その人をこのあたりへお移し申そうではないか。年頃何かの折ごとに思い出しては、行 くえを知れなくしたことを残念が「ていたのに、嬉しくもありかを聞き出しながら、今 ちちおとど 日までお訪ねしないというのも甲斐ないことだ。父大臣には何もお知らせすることはな きんだち い。たくさんな公達がおありにな 0 て、大事にされていら「しやるのに、今まで捨てて おかれた方がにわかに引き取られても、かえ「て肩身の狭い思いをするばかりであろう。 ふさ 231